第7話

 翌週、伸久は話した通りいち子を里帰りさせると、音吉と二人でかつてそうしていたように店を開け、夜は残り物を肴に酒を飲みのんびりと寝て過ごした。


 不思議なもので、静かな夜を過ごす自由を楽しみながら、そのくせ何か欠けているような物足りなさを感じるのを否定できない。それは気持ちの問題ではなく、肉体の欠損のようで、あの柔らかな乳房のありどころを知らぬうちに探している自分がいる。伸久はいつから自分はこんなにあさましくなったのだろうと自嘲気味に笑った。


 卓袱台の上にはわけぎのヌタ、こんにゃくを胡麻油で炒りつけてから甘辛く味をいれたもの、糠漬けが小皿にそれぞれ盛ってあり、小さな猪口を使うのが面倒で蕎麦猪口に冷酒を注ぎながらだらだらと飲んでいた。


 いい加減酔いがまわってくると片付けもそこそこにその場でごろ寝してしまう気やすさが、心良かった。


 今頃いち子は里帰りで、両親と和やかに過ごしていることだろう。そう考えると一層に安堵と共に寂寞せきばくを感じる。いち子からは電話ひとつなかった。


 店はその間も当たり前に暖簾を出し、客を迎えていた。


 客に問われれば伸久はいち子を里帰りさせていることを説明し、朗らかに「一人寝の気楽さを楽しんでますわ」と客達を笑わせた。


 それは本当のことであり、半分は嘘だったかもしれない。


 いち子が里帰りして三日目にもなると、噂を聞きつけた近隣の老妓がふらりとやってきては「若い嫁さんに愛想尽かされたんか」と冗談半分に笑いつつも、いらぬ詮索をするようになっていた。


 無論、伸久はそんなこと歯牙にもかけないのだが、あの、最初に「若い女房に食いつくされる」かのように密やかに釘を刺していった老妓だけは夕方になって三味線を手にふらりと立ち寄って、腰掛けで軽い食事をしつつ、伸久に「浮かない顔してるやないか」と労るように、見透かすように微笑んだ。


 一瞬戸惑い、ためらい、けれど老残とでも言いたくなるような老妓の唇の皺に京紅が汚れたように塗られているのを見るうちに、なぜだろうか、この女が何もかもを見通しているようで伸久はつい何か言いたいような気持ちになった。


「若い若いいうて、そら確かに若いことは若いんですけども……」


「なんや」


「時々、何もかも見透かされているような気になるんですわ。しっかりしてるせいもあるんやろうけども……。男女のことて言うたら大袈裟かもしれませんけど……。全部承知してるような感じがあるんで、情けないけどこっちが手綱とられてるような」


「それがまた若さの得とちがうやろか」


「若さの得?」


「若いいうことは、それだけ元気やいうことや。のぶさんの手綱引けるだけの気力も体力もあるいうことやろ」


「……それやったら若ければ誰でもそうやいうことになりますでしょう」


「ふん?」


「そうやなくて。いち子は普通の若い娘とは違うような気がします。他の若い娘さんとは違う。まるで動じへん。恥じらいがないいうんとは違うんです。まるで初めてやないみたいな……」


「やめとき」


 老妓は突然ぴしゃっと話をぶった切った。


 手にしていた湯呑を置くと柔和な顔が打って変わって厳しい目になり、じいっと伸久を見つめながら、


「疑いをかけたらキリがない。のぶさんが何を言おうとしてるんかは、分かった。でも、それは言うたらあかん。言うてしまうと、おしまいや。のぶさんは若い嫁さんが思いがけなく手練手管あるいうのんでびっくりしてる。ただそれだけのことや。わけありみたいに思うたら、あかん。才能や。ええか、男と女のこというのも天性の才というのがある。あんたとこの嫁さんはそれなんや」


 と、ずばり言ってのけた。


 伸久は俄かに赤くなり、老妓に頭を下げた。


「いらんこと言うてしもうて」


「惚れてるんやな」


「……そういうことになりますやろか」


「だって、そうやろう」


 妙な弱音を吐いたようで、伸久は急に恥ずかしくなり老妓に酒をつけた。


 猪口へ酌をすると老妓は訳知り顔に頷いて飲み干した。


「若くて可愛らしいて、よう働く。夜の勤めも並み以上。それのなにが不満なんやろうか。そこだけ聞いてたらのぶさんが惚気のろけてるだけにしか聞こえへんわ」


「面目次第もありません」


 伸久はもっともだと思い、苦笑いに紛らせて頭を掻いた。


 老妓が帰ると入れ違いにおつかいに出した音吉が戻ってきた。


 音吉は買い物の包みを片づけながら「桃が安かったんで、買うてきました」と言いながら、伸久に指示を仰ぐように視線を向けた。


 伸久は難しい顔で右手を口元にあてた格好で考え込んでいた。


 天性の才だからこそ恐ろしいのだ。老妓は無論そのことも承知で伸久をいさめたのだろう。けれども、伸久にしてみれば溺れていく自分が怖くて、このような気持ちをただ恋情と言ってしまうのもどうにも当て嵌まらないように思えて、理性と欲望の間を彷徨うような心もとなさを味わっていた。


 伸久は疑いを振り払うように、頭を振った。


「音吉、今晩店が終わったらちょっと付き合わへんか」


「今晩? どちらへ……」


「ちょっと勉強にな。ええ店があるて聞いたんや」


 伸久は調理台にのせられた桃を手にとった。甘い芳香。手の中におさまる果実の危うげな柔らかさ。みっしりとした産毛に覆われているのにそっと鼻先を近づけてみる。濃密な匂いだ。


「音吉、鍋に湯を沸かしてくれ。それから別に、砂糖をな、水と同割にして……」


「はい」


肉桂にっき丁子ちょうじもいれて沸かしてくれ」


「なにするんですか」


「果物を煮るいうんを前に聞いたことあってな。でも桃みたいに柔らかいのは煮たらぐずぐずになってしまうから、加減して、砂糖水を吸わせるんや。冷やして食後に出したら、女のお客さんは喜ばはるやろ」


「西洋料理ですか」


「そうや。水菓子をそのままお出しするんやったら、もっとええ品やないとあかん。安くても手を加えて美味しなるんなら、そっちにも価値ある」


 言われる通りに音吉は鍋に湯を沸かし始めた。


「桃は湯剥きする」


「はい」


 伸久は仕事の指示を出しながら、頭の中に老妓の忠告が渦を巻く。大きな鍋の中でもぽこぽこと湯が湧きあがって渦を巻こうとしていた。

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