第6話
いち子が来て一月ほど。その働きはさすがと言うべきで、そつがなく、滑り出しはまずまず順調だった。
お茶屋への使いもそつなくこなし、近隣の評判もまずまずであるのはやはり料亭に奉公した経験があるが故であった。
ご丁寧にいち子の評価というようなものを、風呂屋の帰りにちょっと出くわした芸妓が、世間話に織り交ぜては耳打ちすることに伸久自身も慣れつつあった。
女達は伸久に流し目を送りながらもどこかでいち子の若さに敗北を喫したように感じるのか、こきおろすよりも持ち上げる方が自分にとって得策であると感じるのか、ともあれ「若いお嫁さんを貰て、のぶさんは幸せや」とか「寝不足なんと違うか」と唇の端で笑った。
夫婦の事については、夜、店を閉めて後片付けをし、音吉を返して、
いち子の肉体には新鮮な魅力があった。全体に肉質が柔らかく、押せばそのまま押し返してくるような弾力を伴い、それでいてしっとりとこちらへ吸いつくような感触だった。
特に惹かれるのは電灯を消した後の微かな余韻と窓にうつる街灯の中でも、まだ濡れて光るような黒目だった。それはまるで猫の目のようで、伸久を迎え入れる時にきらりと閃く。こちらをじいっと見入ってくる時など、本当に猫のようで、大きな瞳の奥には底の知れないものが横たわっており、長い睫毛を瞬いて、伸久の動きを見守っていた。
「私、のぶさんとこないするん好きやわ」
「……朝も早いし、疲れてるんと違うんか」
「全然。のぶさんは疲れてるん? もう眠たい?」
「いや……」
「ほんなら……」
そう言っていち子の手が浴衣の胸に差しこまれる。裾を割ってひやりとする足を絡める。いち子の唇は、奇妙に熱を持って、熱い。
事をなし終えたその夜、伸久はいち子に里帰りについて水を向けた。
というのも、その日福峰が店にやってきていつもの気のいい笑いを浮かべつつ、新婚の所帯の切り回しや店の様子などを尋ねて行ったからだった。
誰にも聞かれるのと同じように伸久は答え、福峰もまた誰もがそう言うように「あんじょういってるようでよかったな」と言った。
福峰は酒蔵の旦那にしては、鷹揚な中にも職人の気分を持っていて、尚且つ「商売」というものを非常に近代的に捉えているふしがあり、暇をみつけては料理屋、問屋へ挨拶へ出向き、大阪でも同じく
そんな店巡りの中で間隙をついて福峰は伸久の店へやってきて、「店開け前にすまんな」と詫びつつ、腰掛けにどっかと腰をおろして伸久がいれた麦湯を飲んだ。
福峰はほっと息を入れると、
「なあのぶさん。いち子さんは若い割にはしっかりしたお嫁さんやて、ここいらで評判なんやてな」
と言って笑った。
「噂やなんてどこでどこで聞いてきはるんですか」
「花隈や福原の芸妓からなあ。よう働くて。けど、実際問題なあ、いち子さんを休みもなくずうっとやなんてかわいそうなんと違うか」
「休みもなくやなんて……」
「里帰り、さしたったんか?」
「いや、まだ……」
「そんなことやと思うた。のぶさんが商売熱心なんは結構やけど、嫁さんにもちょっとは骨休めさしたったらどうやねん。向こうの親御さんはどない思てはるかしらんけども、こきつかわれてるて心配せえへんやろか。ぼちぼち一月になるやろう?」
福峰は近頃は動きやすさからか洋服で来ることが多く、その尻ポケットからハンケチを出して額の汗を拭った。
なるほど言われてみるとそれもそうだと伸久は思った。嫁いですぐに働かせて、実家へ挨拶にも帰さないのではひどい亭主だと思われても仕方がない。いち子は別段実家を案じたり、帰りたそうな気振りもないが、そうは言っても若いだけにまだ母親には甘えたい気分もあるのではないか。
福峰の湯呑茶碗に麦湯を注ぎ足し、伸久は「ほんまにその通りですわ。気が利きませんでお恥ずかしい」と素直に認めた。
「男なんてのはそんなもんやろ。ここには姑がおらんから、尚のこと気がまわらん。いや、これはなあ、ほんま言うたら僕が言い出したことちゃうねん」
「じゃあ、誰が」
「いち子さんが奉公しとった料亭の旦那さん」
「ええっ」
伸久は咄嗟に大きな声を出し、慌てて口を押さえた。
白茶けた夕暮れ前の光は思いがけなく強く地面に照りつけて、まだ舗装されない路地裏の土を焼いている。埃がたつので夕暮れ時には必ず水を打つよう音吉ないしはいち子に命じているのだが、その二人は福峰の来る少し前に頼んだ買い物で連れだってへ出かけていた。
伸久の靴下や客に出す茶菓、果物、いち子の婦人雑誌……。どれも新開地商店街を市電の通りを越えて北へ、または南へ歩けばいくらでも品物は揃う。
時に寄席や映画館の看板に眺め入ってみたり、写真館の飾り窓に額にいれてかけられた女優の写真などを見たりと、この町の「おつかい」は誘惑が多い。しかし伸久は音吉のような見習いを叱りつけて寄り道ひとつ許さないような教え方はしておらず、むしろそのような時間を持つことの中に学びや気づきがあると信じていた。
無論、いち子と音吉が二人そぞろ歩くことについて何の疑問も感じてはいなかった。
年齢からいうと伸久よりも音吉の方がいち子には丁度いい年周りだ。そう考えた時に初めて我知らず苦く笑っただけだった。年齢を意識させられるのは他者と己を比較する場合だけだ。それも相手が自分より若い時、伸久は得も言われぬ気持になる。
「奉公先へも挨拶へ寄せんとなあ」
福峰がちらっと上目づかいに伸久を盗み見た。
伸久はその気配から「男というのはほんまに気がきかんもんで」と頭を下げた。
「来週あたりでしたら、何日か帰してもええんです。いや、返す方がこっちも気楽かも分かりません」
「差し出口やったかなあ」
「いえ、そんなことは」
伸久はおもむろにガラスの小鉢を取り出すと、冷やしておいたまくわうりを盛りつけて福峰に出した。白い果肉からは甘い芳香がしており、わずかな量でありながら強く匂って二人の間を流れて行った。
「うん、うまい」
福峰は一切れ口にいれると甘みに目を細めた。
「ちょっと待って下さい」
伸久は続けて食べ進めようとする福峰を制して、新生姜を甘味の勝った調味酢に漬けたものをひらりと一枚、まくわうりの上にのせた。
「こないしてもちょっとオツやと思うんで」
「ははあ、なるほど。味が締まってええな」
ほんのりとした桜色に新生姜が美しく映える。
「ほな、まあ、いち子さんと音やんによろしく言うといて」
福峰はまくわうりを食べ終えると、急ぎ足に帰って行った。
入れ替わりに音吉といち子が戻ってきて、店開けの時刻となった。伸久は包丁を握りながらいち子にどう話したものか思案していた。
音吉を帰し、夜食をしたため、風呂へ行き。同じくいち子もごとごとと家の用事を片づけてから終い湯へ行っている間に伸久は浴衣の前をはだけて扇風機の風をいれつつ、冷や酒を飲んだ。
風呂から戻ったいち子は湯飲み茶碗に直接酒を注いで飲んでいる伸久を見ると「えらいお待たせしてしもうて」と慌てたように詫びて、濡れた手拭いでさっと首筋を拭ってから伸久のそばへ寄って酌をしようとした。
「いや、もう十分飲んだ」
と伸久はいち子を制した。
いち子の手が伸久の膝に置かれると、あの黒目がちの猫のような瞳がじっと伸久を覗き込んでいた。
伸久は酔ってもいないのに何か惑わされるような軽いめまいを感じ、片腕を伸ばしていち子を胸に搔いこんだ。
シャボンの匂いのするいち子を裸にして畳に延べると、伸久は初めて自分が何をそんなに思案していたかをはっきり理解した。自分は、自分で思う以上に、いち子の不在を寂しく思うのだ。即ち、疲れを覚えつつもまるで溺れるようにいち子の肉体と、粘膜の交換と交接を欲している。「帰したくない」というのが自分の本音なのだ。
いち子は底が知れない。きびきびとよく働くし、朗らかでそつがない。近隣の評判もいい。朝、丹年に雑巾がけをする姿などその真面目さにこちらが恐縮してしまうほどだ。なのに、夜はまるで違う。年齢以上に落ち着いて、まるで動じない。伸久が何をしようとも。抗うということもなく、ただ従う。それが伸久を虜にすると同時に心に考えたくもない暗い影を落とすのだ。伸久はそういう自分の心持に、自分自身でも戸惑っていた。そんな風に考える自分を卑しく思い、情けなくもあり、それでいて何やらいじらしくも思える。知らぬうちに自分は「若さ」というものに存外振り回され、劣等感を感じているのかもしれなかった。
「いち子、こっちへ来てからいっぺんも里帰りしてへんな」
「何を急に……」
「福峰さんに……。いや、正確には、いち子が奉公してた店の旦那さんからな……ご注進があったらしいのを福峰さんが忠告してくれてなあ。気が利かんくて申し訳ないことをした。どうやろう。あちらへ挨拶がてら実家へも帰って、いっぺん骨休めしたら」
「お店は」
「音吉がいてる。これまでも二人でしてたんや。なんの心配もない」
「……」
「気にせんでええねんで。あちらの旦那さんや女将さんは俺がこき使うてると思うてはるんやな。きっと心配しとってなんや」
伸久はいち子を体の下に組み敷いたまま、交接さえもそのままのなりで囁いた。
するといち子はふっと小さく笑ったかと思うと腰をぐんと突き動かして伸久を揺すぶった。伸久は大きな快楽のうねりを感じ一度だけ低く呻いて「なんや急に」と息を漏らした。
「こないなことばかりしてると思われてるんやわ」
「……こないなこと」
「二人でこないなことばかりしてると思われてるから、心配されるんやわ」
「……」
「のぶさん、私、帰らんでもええの」
「なんで」
「……なんで、て……」
「店のことならほんまに、気にせんでええんやで。ユーハイムで菓子でも買うて帰ったらええんや」
「……」
いち子は両腕を伸久の首に巻きつけ、強く抱きつく格好になると耳元で囁いた。
「里帰りよりも、こないしてる方がええねんけど」
風呂に行ったところだというのに、二人の体は汗と体液とで濡れていた。
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