第5話
翌朝、伸久はいち子を朝風呂に行かせて自分はゆっくりと朝寝を楽しんでいた。
戻ってきた湯あがりの顔は化粧っけもなくつるりとしたゆで卵のようで、いち子を年齢よりも幾分若く見せた。特に額の清々しい広さはどこか子供じみていて、昨晩の
いち子は婚姻の初夜だということにまるで臆することなく、怯えるでもなく、伸久のすべてを受け入れた。むしろ積極的に。そしてけろりとした顔で「痛いことなくてよかった」と感想を述べた。
階下の小上がりを食卓にしてパンとバタと、半熟玉子と紅茶という至極簡単な食事をする間、伸久はいち子をじっと眺めていた。
お行儀の点からいうとどうだろうと思わないでもないが、大きな口を開けてパンに齧りつき、美味しいと目を見開いて喜び、ほとんど一心不乱といってよいほどの旺盛な食欲でたいらげていく。
伸久自らが丁寧にいれた紅茶の薫り高い味わいに感激し、幾度も伸久と紅茶を見比べ「私、こない上手にお紅茶いれられへん」と困った顔をした。
「入れ方さえ覚えたらどうということはない」
「はあ……」
もののついでと伸久はこの家での生活について説明しておくことにした。
朝は勤め人とは違うので遅めに起き出すこと。仕入れはほんの近間の東山の市場へ行くが、それも毎日と決まっているわけではないこと。仕込みも商売の様子を見ながら行うこと。夕方に店を開け、客が引けて、片づけをすませると時には零時近くなる日もあること……。
「朝、音吉が来て仕入から掃除から、もちろん仕込みもしてもらう。せやから昼の賄いは俺か音吉が用意する。夜も同じや。せやからいち子は朝飯を任せるよって、頼むわ」
「のぶさんは朝はパンの方がええのですか」
「そういうわけやない。ただ、神戸にはうまいパン屋があるからな」
「店のことはだんだん覚えてくれたらええ。常連の客にも紹介するからそのつもりでな。まあ、料亭に奉公してたんやから、分かるやろけども」
「そうかて神戸は大阪と
「まあ大阪とは多少違うかもしれんな」
伸久も大阪に勤めた経験があるので分かるのだが、神戸の人間はこせこせしたところがなく、暮らしぶりも落ち着いている。外国人も多いので町も物も華やかだ。
しかし新開地は映画館や劇場が軒を連ねているだけあって相当に賑やかだし、花街も目と鼻の先なので「上品」だけというわけにはいかず、やはり柄の悪い所もあれば、粋筋のお師匠さんが集まっている古風な界隈もある。その雰囲気に早く慣れて貰わなければここで商売していくことは難しい。
だんだん覚えればいいとは言ったものの、伸久の希望としては一日も早く嫁いできたこの家の商売にしっかりとついてきてもらわなければならなかった。
といってもその日を含めて伸久たちが有馬へ行って、戻るまで、その間の留守は音吉が預かり、本当の生活が始まるのはその後のことだった。
伸久は有馬でものんびり湯につかってくつろぎ、新婚旅行というものを楽しんだが、その一方であの夜福峰に託した音吉のことが気になっていた。
果たしてあの生真面目で純朴な青年が遊郭にあがって、老練な酒蔵の旦那の手引きで
誰しも初めてというものは、ある。伸久にもあった。妻帯が遅かったことから何かと噂されてはいたが、伸久が女を知ったのは実のところ音吉同様にまだ見習いの修業中のことだった。
相手は同じ店に勤めに来ていた年増の仲居で、夫を早くに亡くしたとかで独り身だった。それまでも時々は口をきくぐらいなことはあったが、特別な感情があったわけではなく、恐らくはたまたま「そういうこと」になっただけに過ぎなかった。
宴席の片付けに手間取って夜半まで仕事をしていたのを手伝ってくれ、終った後にちょっと一杯飲もうかと屋台の酒を奢ってもらったのがそのまま……。どちらが誘ったのでもなく、まったく自然な流れでそうなった。別段酔っていたわけではなく、そこに山があるから登るのだとでも言えばいいのか。男と女がいればそうなるのが自然だとでも言うべきなのか。
伸久は女の家に連れて行かれ、引き続き卓袱台を挟んで酒を飲み、気がつけば女の手は伸久のシャツのボタンを外しにかかり、伸久の手は女の着物の
関係は幾度か続いたが、女に後家の口が持ち込まれたことからそのまま幕切れとなった。
自分と違って音吉は純朴な青年だから、困惑と緊張は想像がつく。もしや不首尾に終わったかもしれない。しかしそれを当人に尋ねることは憚られる。
伸久は福峰の来店を秘かに待っていた。仲人としていち子との間を取り持ったのだから、福峰が新世帯の様子を覗きにくるのは直だろう。伸久はそう考えていた。
その日、音吉はいつも通りに店へやって来ると二階への梯子段の上り口から身を乗り出すようにして、伸久夫婦に大きな声で「おはようございます」と声をかけた。
常ならば迷わず二階へあがってきてその日の仕事の指図を仰ぐのだが、いち子が来たことで遠慮しているのだろう。卓袱台で新聞を広げていた伸久は「おーう」と階下へ一声張った。
いち子は布団を畳んだ後、窓を開け放ち階下へ降りて行った。
「おはようございます」
いち子の朗らかな声が聞こえてきた。伸久は両腕を高々とあげて伸びをすると、おもむろに立ちあがった。
音吉は流しに目をやると、自分がするといういち子を遮って皿を洗い始めた。
「音吉さん、うちの事は私がやりますから」
いち子は流しに駆け寄って洗いかけの皿を奪おうとした。が、音吉も負けじと
「僕は旦那さんにお
「そうかて、音吉さん忙しいやろし」
「こんぐらいなこと、ええんです」
「けど……。私、後から来たんやし。奉公してたお店でも、食事の後の片付けや皿洗いは新入りや見習いの仕事やったから」
二人のやり取りを梯子段から見ていると、伸久はふと「若いなあ」とほろ苦い気持ちになった。
すらりとして背の高い音吉の、無駄のない体躯にたくましい二の腕が露わになって、水桶から皿を掬いあげる指先までもが固くしなって若々しい。その同じ水桶から濡れた皿を奪うように引き上げるいち子も、また。
紺地に白く
「僕はお店の掃除をこれからしますよって、奥さんは二階をお願いしたいんです」
「奥さんやなんて」
「えっ、でも、奥さんとしか呼びようがないんですが」
「……」
「今日は忙しなると思いますし」
「なんで」
「えっ」
「なんで今日は忙しなるん」
「……」
今度は音吉が黙ってしまう番だった。
そこまで聞いて伸久は梯子段を降り切って声をかけた。
「音吉の言う通りや」
「……」
「今日はいち子見たさにお客が多いやろと思う。音吉、予約は間違いのないよう聞いておいてくれ」
「はい」
「いち子はまず家のことを片づけてくれ。それから、店の方を手伝ってもらうから」
店の主人らしく伸久が言うと、二人もまた奉公人然として声を揃えて「はい」と気持ちよく返事をした。
伸久はズボンに白シャツ、足元は下駄履きといった格好で壁にかけてあったハンチングを被り、
「市場へ行ってくる」
と一言、勝手口からさっさと出て行った。
音吉の言う通りだった。二人が結婚式の後にここへ戻って夜を過ごしたことも、翌日から有馬へ行ったことも近隣の者たちは知っている。誰に何を言われずとも、それは伸久が一番分かっていた。初夜の翌朝にいち子を朝風呂へ行かせたのがすでに披露目の手始めでもあった。その為、伸久は近い方の風呂ではなく、わざわざ電車通りを越えて新開地の劇場と商店街を歩かせるよう湊川温泉へ行くように仕向けたのだから。
立ち並ぶ馴染みの商店主、その女房、カフェ―の女給に映画館の切符きり、置屋、口入れ屋の女将連。誰もが見慣れぬ娘が朝風呂へ行くのを目撃し、口々に噂しただろう。あれが「ささくら」にきた若い嫁だ、と。
伸久には一計があった。あの若さと朗らかさを見れば、まずは「可愛らしい嫁をもらった」ぐらいなことは言われるだろう。少なくとも「えらいご面相や」との中傷は受けない。その程度になら伸久はいち子の容貌に太鼓判を押せる自信があった。
なにより一夜を共にして分かったのだ。なかなかに腹の据わった女である、と。男でも女でも裸になればその本質が分かるものだ。裸では気性や心根を隠すことは難しいもの。ましてや体を合わせれば一層に。いち子はああ見えて逞しく、案外図太い女だ。
電車通りを渡って東山市場へゆるゆると坂を上がっていくうちに、伸久はふと笑いがこみ上げてくるのを感じていた。
いち子を図太いと感じるのは、思った以上に健やかで貪欲な女としての機能を体感したが故だった。初めての交接に怯えるでなし、痛がるでなし、すんなり受け止めた上でさらに伸久を飲み込もうとするようなしたたかさがあった。
あれは無意識のなせる技なのか。女の本能とでも言うべきなのか。微かに見合い前にお茶屋の老妓が聞かせた言葉が脳裏をよぎる。よっぽどうまいこと仕込まんと、食い荒らされることになる、か。上手いこと言うたもんや。
伸久が市場へ来ると、馴染みの魚屋が早速に声をかけてきた。
「のぶさん、今日は早いな」
「おはようさん。ちょっと休んでしもたからな。今日は早めに支度せんと……」
「ああ、そうそう。のぶさん、改めましてご結婚おめでとうございます」
「やあ、これはどうも」
「聞いたでえ。えらい若い嫁さんなんやて」
「まあ、ちょっとな」
「はあ、羨ましいわ。若くて可愛らし嫁さんやなんてなあ」
伸久は魚屋の言葉を曖昧な微笑みで聞き流す。
「店も手伝うてくれるんやてな」
「ああ、大阪の料理屋で働いてたからな」
「そりゃあ安心や。のぶさん、今日はうちからの祝儀や。まけとくで」
「ほんなら……」
伸久は腕組みをしながら、届いたばかりの昼網のトロ箱を順に見てまわる。
この辺りでは明石の昼網はもとより、垂水や林崎、長田あたりの小さな漁港の魚も朝のうちに届く。常に高価な鯛や平目というわけではなく、といって
選んだ魚の配達を頼み、八百屋、肉屋と順番に見てまわる。その度に伸久はあちこちの店から結婚の寿ぎを受け、それと同時に「ささくらにきた若い嫁さん」の話をさせられた。
仕入れの段取りをつけてしまうと、伸久はこの調子では当分店の方も「若い嫁さん」景気がありそうだと気を引き締め、いつもそうするように帰り道にサンライズという店にコーヒーを飲みに入った。
濃い緑の
伸久はこうした静かな時間が好きだった。目では新聞の文字を拾いながらも、頭の中では今日の献立とその仕込みの段取りが渦巻いていた。
小鰺はずいぶんと小さかったので、あれは南蛮漬にしよう。この前ドイツ人のパン屋から教わった
そのように思いを巡らせていると「のぶさん」と声をかける者があり、伸久は顔をあげた。そこには店の近くのお茶屋の女将が朝稽古の帰りでもあるのか舞扇をいれた細長い巾着を手にして立っていた。
「ああ、これはどうも」
伸久が腰を浮かしかけたのを女将は手のひらで制し、
「えらいのんびりしてるねんなあ」
「今、仕入に行ってきたとこですねん」
「お店は今日から?」
「ええ。そない休んどられへん。家内も店に慣れて貰わんならんし。ああ、そうそう。また改めてお伺いするかと思いますけど、家内、いち子いいますねん。慣れるまで時間もかかるやろうし、なにせ神戸は初めてやて言うし、どうぞよろしくお願いします」
「まあ、ご丁寧にどうも。いち子さんいうんやね。のぶさん、今晩はお店は忙しいやろうか」
「さあ……」
「ちょうどええとこで会うた。今晩なあ、うちとこ旦那さん来はるねん。どうせ遅うなるのん分かってるけど、何もないわけにはいかんから、お店の手が空いたら簡単でええからちょっとお料理をな……。届けて貰えんやろうか」
「はあはあ、分かりました。旦那さんは
「よう覚えてるねんなあ」
「ほんなら、ちょっと見つくろってお届けします」
女将は年増とはいえども容色衰えぬ妖艶な笑みを浮かべて、小腰を屈めた。
新開地界隈では大きな料亭でも小店でも、気軽にこのような求めに応じる。これまでは音吉に配達させていたが、これからはそれはいち子の仕事になるだろう。
町内の地図でも書いておいた方がいいかもしれない。伸久は新聞を畳んで棚に戻した。
店に戻るといち子は音吉が鰹節をかいたり、糠床を混ぜたりとこまごまとした仕事をする中、小上がりの卓を丁寧に拭き、畳を空拭きするなどして店の中を掃除していた。
二人は伸久を見るや「おかえりなさい」と声を揃えた。ふと見ると、腰掛けの席の長い一枚板の上に小さなコップを置いて、ツユクサの青い花が水に挿してあるのに心づいた。
葉をつけたまま無造作に挿してあるそれはどこか清廉で、どこにでも生えているような野草ではあるものの伸久の目にはとても新鮮で、尚且つ美しく見えた。
伸久の視線に気がついたいち子は、顔色を窺うように、
「お店になんのお花も活けてへんかったから……。何かないかと思て、間に合わせたんやけど……。あかんかったでしょうか」
と恐る恐る尋ねた。
「そうか、花か。どうも男だけではそないなことまで気が回らんかった」
「ちゃんとしたお花を買うてきましょか」
「いや、ええ。これで、ええ」
「けど」
「控え目で可憐や。お客さんらにはこういう方が新鮮に見えるやろ。なあ、音吉」
伸久が同意を求めると、音吉は湯気のあがっている鍋から昆布を引き上げつつ、
「ほんまに。僕も思いつかんかったですわ。ツユクサなんてその辺に生えてるけど、こうして見たら可愛らしいもんでびっくりしました。奥さんはやっぱり大きな料亭にいてはったから、目のつけどころが違いはるんですね」
と感心した口調で答えた。
「そんなこと……」
いち子は照れたように笑って片手を頬にあてた。
伸久はシャツの腕をまくり、白い前掛けをすると「さてと……」と呟いて、自分の仕事を始めた。音吉がそれにつき従うように脇に控え、緊張した面持ちで伸久の指示を待つ。その様子を見ながら、いち子は自分にできそうな事を見つけては手を動かしていた。
夕刻、界隈の料理屋が暖簾を出し始めると「ささくら」も同じように商いの始まりだった。
映画や芝居の帰りといった人々はもとより、これから歓楽街新開地を愉しもうという人々がこぞってそれぞれの気に入りの店なり、洋食屋を目指す。「ささくら」は今晩はすでに予約で席が埋まろうとしていた。
小上がりには常連の呉服屋の主人とその妻、
電話での応対を音吉は一つずつ受けながら、受話機を置くたびにいち子に席の配置や、人物を説明した。いち子は熱心にそれを聞き、何度も頷く。
伸久は思わぬ形で音吉の頼もしい仕事ぶりを見たと思い、いつの間にこんなに成長したのかと秘かに関心していた。
音吉が初めに奉公にやって来たのは、あれは小学校を出てすぐのことだからまだほんの子供だった。右も左も分からぬどころか、口のきき方もままならず、客からも叱られることの多かったので、正直なところ伸久は面倒なことだと思う時もあったのだが、素直で真面目なだけあって、今こうしていっぱしに「先輩風」を吹かせているのがなんだかおかしくもあり、嬉しくもあった。
料理人の白いうわっぱりを着て、紺色の帆前掛けをした姿で音吉は伸久を振り向いた。
「福峰さんが来週あたりお伺いしたいて仰っておいででした」
「なんや、今の電話福峰さんか」
「はあ、旦那さんに代わりますて言うたんですけど、今から忙しい時分やからええて仰って」
小さな重箱に青柳のヌタや紅白の
「福峰さんにはこないだお世話になったやろう。お礼はちゃんと言うたんか」
「えっ……。はあ、ええ、まあ」
音吉は不意に水を向けられてびっくりして、頬をさっと赤くした。
「……福峰さん、なんか言うてはりました?」
「なんか、て、なんや。俺は会うてへんから知らんよ」
「……あ、そうか……」
「なんや。なんかあったんか」
「いえ、なんでも……」
「この間はえらい御馳走なったんやろう?」
にやりと笑ってみせると、音吉はますます赤くなって目をそらした。
「どないしたん?」
いち子が不思議そうに音吉の顔を覗き込む。伸久は低く笑い声を漏らした。
「なあ、どないしたん?」
いち子がもう一度尋ねた時、表の格子戸がからからと小気味よい軽い音をたてて開き、元町商店街の呉服屋の主人が顔を出した。
「いらっしゃいませ」
三人は反射的に明るく声を張った。
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