第4話

 話が決まってしまうと後のことはなんの滞りもなく、引き続き福峰の音頭でどんどん進んでいった。


 式は店からもほど近い湊川神社で。披露は聚楽館しゅうらくかん近くの料亭八雲と決まり、伸久側は両親や兄、その妻、親類、京都で修業していた頃の料亭の主人夫妻、いち子側は両親と親類、奉公先の主人夫婦などが並ぶことになり、媒酌は当然福峰がすることになった。


 式までの間にすることと言えば、住まいの支度ぐらいなことで、これは音吉がいやに気にして店の二階の伸久の寝起きする部屋を掃除しにあがってきては、古い浴衣だの欠けた湯呑などを率先して片付けていった。挙句、畳替え、障子の張り替えとあたかも年の瀬といった調子で、同じ並びの置屋や蕎麦屋の者達が「音やんにお嫁さんがくるみたいな慌てぶりやないか」とからかっては笑った。


 部屋が片付き綺麗になると、いち子の嫁入り道具が順に運び込まれ始めた。


 箪笥や鏡台、座布団、夜具。商い屋の二階で狭いということは申し渡しておいたので、道具はどれもこぢんまりと控えめだった。見ては悪いかとも思ったが、ちらと覗いた箪笥の引き出しにも季節の普段着とわずかな訪問着などが入っているだけで、洋服も夏のアッパッパが少しあるだけだった。


 一人娘の支度にしては倹しいようにも思ったが、福峰に言わせると「商売人に嫁ぐんやから、手元に緩みがあった方がええんやろうし、現金で持たされてくるんと違うか。どのみち着るもんなんか、店の様子が分からんと揃えられへんやろう」とのことだった。


 伸久はなるほどと思い、そうまできちんと「料理屋の女房」になるのだと考えて支度をしているのかと感心した。


 式は暑い盛りを避けて六月の始めと決まった。


 新婚旅行は熱海へでもと思ったが、いち子が「お店を長く休むのはよくないから、近くでいい」と福峰を通じて申し入れたことから、有馬へ二泊するだけになった。


 そういった言葉もいつの間にか近隣へ漏れ聞こえるらしく、いや、それは恐らく福峰をはじめ音吉なども聞かれるままにあちこちで喋っているだろうから噂になっているのだろうが、何から何まで思慮深い娘だと、いち子は嫁いでくる前から評判になりつつあった。


 しかし伸久はそのことが少し心配だった。前評判が良すぎても、実際に見るとあらを探したくなるものだ。ことに界隈の女たちは。


 女たちだけではない。客商売なのだから、誰にも気に入られなければならない。伸久は何かと気をまわす音吉を仕事の合間に呼び入れると、年若いいち子が嫁いでくるにあたり相談といっては大袈裟だが「女将」の仕事を教えるよう頼むことにした。


 立場から言うとそれはおかしなことなのだが、いち子が慣れるまでの間、音吉にいち子の相談役になるようにと話した。


 店のこと、客のこと、伸久の料理のこと、仕事の諸々細かしいことまで、主筋の妻君だからと腰が引けることはない。この店ではいわば音吉の方が先輩格にあたるのだから、年が上だとかいうことも気にせずいち子が女将としてやっていけるよう面倒をみてほしいと言うと、音吉は、


「大阪の有名な料亭で奉公してはったんなら、僕が教えなあかんようなことは何もないと思いますが」


 と上目づかいにこちらを窺った。


 伸久は卓の上の湯呑を引き寄せ、香ばしいほうじ茶を一口啜ると、静かに、低い声でまるで内緒の話をするように言った。


「心配なんは、ここらの口うるさい女どもや。噂が好きで、お節介で口やかましい。皮肉屋で根性悪が多い。分かるやろ。いち子は若い。さぞ粗を探すことやろう。粗があるのは当然のことや。けど、それを方々で言われるんじゃあ商売としては困る」


「はあ」


「松の家、花の家、蓬莱……あそこらへんのお茶屋の姐さん達には気をつけんとあかん。口入れ屋の朝日屋の婆さんも要注意やな。相生座のそばのスター写真館、あそこの親父もお喋りでかなわん」


 言い募るのを黙って聞いていた音吉が、不意に小さく笑いを漏らした。


「なんや、おかしいか」


「いや、ずいぶん心配されるんやなあと思て」


「……」


「こう言うたらなんですけど、今、噂されてるんは旦那さんの方ですねんで」


「なんやて」


「この間湊川温泉行って言われましてん。お前とこの大将もついに年貢を納めて、これから若い嫁さん相手に体が勝負やて」


 最後は言いながら音吉は顔を赤らめ「すみません、いらんこと言うて……」と詫びた。


 伸久は苦笑いしながら「ええ、ええ。言われてもしょあないことや。実際若い嫁さんがくるんやからな」とまたほうじ茶を啜った。


「ともかく、音吉、いち子がきたらよろしゅう頼むわ。まずは客の顔を覚えて貰わんならんしな」


「はあ」


「それから」


「はあ」


「今度風呂行ってそない言われたら、こない言うたらええ。笹倉の主人は料理人やから、体やのうて腕で勝負するて」


 伸久は声を出して笑って見せた。音吉は困った顔でもじもじするばかりだった。


 式の日。伸久は家で紋付に身を包み、音吉はこれは借物の背広を着込んで湊川神社へ向かった。歩いて行けるほんの近間ちかまとはいえ、近隣の商店を縫って行くので、誰もが二人を見るや「おめでとう」と声をかけ、置屋やお茶屋の「おかあさん」と呼ばれる女将たちは祝儀袋を差し出し、さすが慣れた調子で一声張って「笹倉の旦那さん、おめでとうございます」「お喜び申し上げます」と一礼をした。


 伸久はそのいちいちに丁寧に礼を述べ、近隣への披露目といってはなんだが挨拶は後ほどまた改めてとこれもあらかじめ用意の口上をすらすら述べた。


 そんな調子なものだから、十分もあれば行けるはずの神社までその倍の時間がかかっていた。


 音吉は預かった祝儀袋を背広の内ポケットにいれ、胸を押さえるように確かめつつ、


「こないなるのん分かってはったんですか」


 と尋ねた。


「……まあな」


 今朝、音吉はいやに早く支度をし家を出る伸久に「まだ早いんと違いますか」と幾度も尋ねたことを思い返していた。


 そうして初めて、伸久が若い嫁を迎えるにあたっての気苦労が分かったような気がした。「こういうこと」を心配しているのだな、と。姑に仕える苦労のない分、いち子は数多の目に晒され、値踏みされることになる。音吉はいち子を気の毒に思った。


 神社での式は型通り、宴席の料理も平凡なもので伸久にはこれといった感慨は浮かばなかった。ただ、白無垢に白すぎるような化粧のいち子の神妙な面持ちだけは印象深く、陰ででそっと「大丈夫か」と尋ねたくなるほどだった。


 宴席では式とは違った化粧に変え、衣装も黒に千羽鶴を飛ばせたもので、すすめられる酒のせいもあってか上気して赤みのさした頬が美しかった。


 福峰はもちろん、世話になった京都の料亭の主人夫妻はこぞっていち子の美しさを褒め、いち子の側の客達は伸久の男ぶりを褒めた。


 そんな中、伸久は音吉をそっと傍らに呼ぶと、


「今晩は福峰さんらはまだまだ飲みに行かはるやろう」

 と耳打ちした。


「はあ」


「お前も一緒に連れて行ってくれはるそうや」


「えっ」


 意外な申し出に音吉は驚いて声をあげ、慌てて自ら口を押さえた。


「心配せんでも黙ってついて行ったらええ」


「けど……」


「ええな。言われる通りに、ついて行ったらええんや。福峰さんもめでたい席やから付き合えて言わはる」


 そう言うと伸久は困惑する音吉にふっと笑って見せ、袂にいれていた祝儀袋を取り出し、音吉の手に握らせた。


「こ、こんなことして頂いては……」


 音吉は祝儀袋の中身が存外に多いと感じると、伸久の手にそれを押し戻そうとした。慣れない酒のせいか顔を赤くしており、額にはうっすらと汗が滲んでいた。


「何かと世話かけたんやから、それぐらいは受け取って貰わんと。どうせ、休み明けには盛大働いて貰うことになるんやから」


 再び押し返した祝儀袋をポケットにしまわせると、伸久は改まった調子で傍らのいち子を省みた。


「有馬から戻ったら改めてきちんと紹介するけども。音吉や。俺はこいつを一人前の料理人にするまで面倒みるって親ごさんにも約束してる。いち子にしたらほんまは使用人いう立場になるけども、見習いの朋輩と思て勉強さしてもらうようにな」


 いち子は伸久の言葉を聞くと、その大きな目で音吉を見つめ、三つ指をつくと深々と頭を下げた。


「どうぞよろしくご指導ください」


「そんな……奥さんに、そんなこと……」


 音吉は焦るばかりでへどもどし、それ以上まとまった言葉を発することはできなかった。


 他方、伸久は福峰がこちらの様子を窺いつつ、目配せするのに心づき、軽く頷いて返した。


 元々、宴席の後に福峰から「音吉を連れて、福原へ行く」旨を申し入れられていた。伸久は内心では音吉の不首尾を心配していた。


 戸惑う音吉を微笑ましく思うと共に、今夜を境に音吉も「変わる」のだと思うと何やら愉快な、少しばかりの意地の悪い笑いがこみ上げてきた。


 福原へ行く。それは即ち遊郭へ行くということ。伸久の手筈で女を知ることになるとは音吉は夢にも思わないだろう。


 ちらといち子を見ると、音吉を相手ににこにこ笑って暮らし向きのことや近所の様子を聞いている。いち子も今夜を境に「変わる」ことになるのだろうか。伸久は手にした杯を一息に飲み干して大きな息をついた。


 朝早くから忙しく、多少の緊張もあって疲労を感じていた。


「疲れたやろう」


 いち子に尋ねたが、いち子は「いいえ、大丈夫」と答えるだけで後は黙っていた。伸久はいち子の横顔に残るあどけないような頬の線を見つめていた。


 宴席が終わると二人はほんの近間であるし、歩いて家へと帰った。いち子にとっては初めての「ささくら」だった。


 うちに着くと近所の商い屋のほとんどが店を閉めており、街灯の下で通りはくたびれた空気を漂わせていた。微かに風に乗ってカフェ―のレコードが聴こえる。


 常は勝手口を利用するところを、その日は店の表玄関を開けていち子を招じいれた。


 電灯をつけてから伸久は「これが、うちの店や」と言った。いち子はぐるりと頭を巡らせ、小上がりに置かれた卓や、よく拭きこんだ腰掛けを眺め小さく頷いた。


「狭い分、お客さんに目が行き届く。丁寧な仕事ができる。そういう店にしたいと思てな」


 伸久は電灯を消すとそのまま二階へ階段を上がって行った。いち子も静かにそれに従い、草履を上り口に据えた下駄箱へしまった。


 狭い階段の踏み板を一足上がるごとにいち子の着物の衣ずれが聞こえる。


 伸久は二階の一部屋を居間として使い、もう一部屋を寝部屋にしていることを告げた。


「お茶でもいれよか」


 今の時分はもう使っていない長火鉢の灰をならした上に、お湯を沸かすぐらいのことはすぐにできるようにと電熱器を置いてあり、そこに鉄瓶が置いてあるのを伸久は取り上げた。


「食事の支度は一階の、店の物を使うことになる。慣れへんうちは不便やろうけども……」


「私がやります」


 自らお茶の支度をしようとする伸久を、いち子は軽く押しとどめた。


「いや、ええ。それより、着物が汚れてはいかんやろうから、着替えてきたらええ。いち子の箪笥はそっちの部屋に置いてある」


「でも……」


「なんかいるもんがあったら、言うてくれ。俺にはいち子みたいに若い娘のことは分からんから」


「……」


 冗談めかしたように伸久は言ったが、それは半分は本当のことで、実際これからこの夜をどのようにいち子を導くのか思案していた。


 嫁いでくるのに男女のことを何も知らないとは考えにくく、何かしら言い含められているだろうとは思うのだが、これまでこう言ってはなんだが玄人のような女しか相手にしたことのない伸久には若い生娘など戸惑うばかりだった。


 鉄瓶の湯がたぎり、急須に茶葉をいれて支度をする間、襖を立てた隣の部屋からは箪笥の環を鳴らす音や、ごとごとと物音がしている。


 お茶をいれ、伸久が一服している間もいち子は隣の部屋でごそごそしていた。伸久も足袋を脱いで脚を投げ出すとほっと息をついた。


 そうして伸久がお茶を飲んでしまう頃になってようやく襖が細く開いた。


「お茶、ちょっとぬるうなってしもたで」


 伸久が振り向くと、そこには髪を半分壊し、着物を紺地の浴衣に着替えたいち子がきちんと正座していた。


「のぶさん、どうぞ……」


 いち子は静かに半身をよけて見せた。いち子の着物はきちんと畳みつけてあり、鏡台に髪の物や化粧品が控え目に並んでいた。


 伸久の咽喉仏が驚きと緊張でごくりと上下に大きく動いた。花橘はなたちばなを描いた浴衣の後ろには、いち子が自ら延べた布団があった。


 いち子は敷居際にその細い指を揃えると、


「どうぞ、末永くよろしくお願い申し上げます」


 と消え入るような小さな声で言った。


 伸久は湯呑を卓袱台に置くとすっくと立ち上がり、袴の紐を解いた。袴はするりと畳の上に滑り落ちた。大股に敷居を跨ぐとずかずかと布団の上に乗り、わざとのように荒い動作で腰をおろした。


 するといち子が立ちあがって居間の電気を消しに行こうとした。


「そのままで」


 伸久が低く、しかしはっきりといち子の動きを制した。


「え」


 戸惑ったようにいち子は伸久を見つめた。伸久は、静かな調子で命じた。


「そこの電気は点けたままで。襖も開けておいてくれ」


「……」


 いち子は無言で伸久の目の中から、その意図を探ろうとした。伸久は手を伸ばすとまだなんとなく所在無げないち子の手首を捉え、ぐいと引き寄せた。


 いち子は小さく声をあげて、伸久の傍らに膝をつく格好で座りこんだ。


「よう見せてくれ」


 伸久は言いながらいち子を体ごと自分に引きつけておいて、額がくっつくほど顔を寄せながら目を、首を、逸らさせぬように捕まえてやや胸高に締めた伊達締めに手をかけた。


 解きつつ、片腕を背中にまわせばいち子の思いがけなく肉の厚い体の量感を測ることができ、さらに深く掻き抱けば胸の丸みも重さも自分の胸に感じることができた。


 伸久は内心で、鰯のような女かと思いきや、脂ののったブリみたいな体だと驚きを感じていた。細く、清潔に、固く締まっているかと思わせておいて、実のところはたっぷりとした情感を感じさせる滑らかで肉厚な体だ、と。


 浴衣の胸を開けば白く丸々とした乳房が迫っており、伸久はまるで目新しい果実を市場で買う時のようにいち子の乳房に掌をあてがい、確かめるようにやわやわと揉みしだいた。


 それは青い果実ではなかった。十分に熟れた白桃のように指先が肉に埋もれる。伸久は何か意外なような気がして心の中で「へえ」と感嘆した。


 唇を首筋へ移動させ、深く匂いを吸い込めばいち子からは今日の宴席で振舞われた酒のような吟醸香がした。甘い果実のような鮮烈さと、ともすればかもされた腐敗する寸前の芳香。


 肩から浴衣を滑らせて、いち子を布団へ押し倒した。覆いもなく裸で横たえられるのが恥ずかしいのか、それとも怖いのかいち子は何か訴えるような目で伸久を見つめていた。


 何か言葉をかけてやるべきなのか。安心させるような、恐怖を和らげるような優しい言葉を。そう思った時だった。いち子の手が伸久の腰にまわされたかと思うと、後ろで結んでいた帯を解きにかかった。


 それは見事な手捌きだった。結び目を解いたかと思うと、衣擦れの音も大胆にしゃっしゃっと帯をほどいていく。


 伸久はいち子に接吻をした。帯の次に腰紐をあっさりと解いてしまうといち子の両手は伸久の着物をするりと脱がせてしまった。


 互いの裸の胸が触れあうとその重みのせいかいち子は溜息を漏らした。


 腰は十分にくびれ、それに反して尻はあくまでも大きく手足はすんなりと伸びて伸久の体に巻きつけられた。その動きの自然さは、どうだ。


「……のぶさん」


 いち子の両腕が伸久の首にほとんどしがみつく格好で巻きついた。鼻先が擦れるような近さでいち子は、


「どないしたらええですか。どうして欲しいですか」


 と囁いた。


 咄嗟にいち子の顔を見ようとしたが、それは叶わなかった。すべすべした肌が体を擦るのが背筋がぞうっとするような気持ちよさで、次第に頬にすっぱいものを食べた時のような窪みが浮かぶのを感じていた。


 どうして欲しいかだって? それではいち子はどうしてほしいのか? 果たしてそれは猥褻を極める事柄だろうか。それとも清らかな夫婦の営みだろうか。


 問う術もなくいち子の唇が伸久の首筋に触れた。ひとつだけ思いついたことがあったので、伸久は言った。


「隣近所に聞こえてしまうから、大きな声は出さんようにな」


 一瞬、虚をつかれたような顔をしたがいち子はすぐに気を取り直したように。ふふと口角をきゅっと引き上げて微笑んだ。


「けど、きっと声出てしまう」


「そんならこうしてよう」


 伸久はいち子の口を自分の唇で封じた。


 つけっぱなしにした隣室の電灯は、閉じた瞼に長い睫毛が影を落とすのには充分だったし、いち子の体を隈なく検分するのにも十分な量の明りだった。大きく開かれたいち子の脚が影絵のようにカーテンに映し出されていた。

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