第3話

 伸久が見合いをするという話はどこをどうしてそうなったのか分からないが、あっという間に界隈の者に知れ渡り、やってくる客達までもが「見合い写真」を見たがった。


 その度に伸久は「こういうもんは見せびらかすもんとちゃいますんで」と断り、「そもそもうまくいくとも限らんのですし」と言い添えた。


 ことに、お茶屋の芸妓たちは、面白半分に「減るもんやなし」と半分は笑いにまぎらせ、冗談にしながら、しつこく食い下がった。


 伸久は女達が見合い相手に「純粋な」興味を持っているとは思わなかった。女達は伸久の相手が若く美しいという噂を聞きつけ、まだ見ぬ相手に少なからず嫉妬しているのだ。それは伸久が女にもてるということの、ある種の証明でもあった。


 お座敷に出る前に食事に立ち寄る芸妓たちは浴衣掛けで、ゆったりとくつろげた襟もとから突き出た首の皺で年の程が分かる。


 張りつめた肌の若い女なら朗らかに接しつつも甘えるような声を出す。


「若い人なんでしょう? お嫁さんにならはる人」


「まだ決まったわけやない」


「その人が来はったら、私、仲良うして、映画に一緒に行きたいわ」


「なんでそんな」


「だって年が近い人少ないねんもん。のぶさんは一緒に行こう言うても、いっつもなんかかんか理由つけて断るし」


 そう言ってぷっと拗ねる横顔の頬の輪郭には幼さが残っていた。


 さも仲良くしたいような口ぶりで、その実、腹に一物ありといったところだろうか。微笑む口元とはうらはらに目の奥が笑っていないのを伸久は見逃さなかった。


 若さゆえの単純な嫉妬。かわいいものだと伸久は笑って適当にあしらう。


 他方、白粉が皺に無残にも埋まってしまうような年増ともなるとしつこさも一入ひとしおで、見合い相手を値踏みせんと欲するのに、「商家の引き回しの大変さ」「商売の難しさ」「女将の仕事」などあれこれ親切ごかしで上げ募り、挙句の果てには、年増の豊富な経験だと言わんばかりに、


「あんまり若い娘さんいうんも考えもんかも知れんで。こっちは先に年老いて行くんやしね」


「そらまあそうですな」


「若い娘さんの相手するのも、大変なことやで。うちらの商売なんか若いというだけで重宝されるけど、実際のところ男はんも年いけばいつまでも若さに対抗できるはずもない」


「耳の痛いお話や」


「せやから。せやから、若い娘さんを娶るなんてのは、よっぽどうまいことあっちの方も仕込まんと、最後は食い荒らされるなんてことにもなりかねんの」


 ずいぶんと赤裸々なことを言うなと伸久は思ったが、年の功というのもあるだろうといつものおっとり調子で、


「自信ありませんわ」


 と頭をかいて見せた。


 年増はほうと息をついて「へえ、そう。けど、顔には自信ありて書いたあるわ」と皮肉ともとれない調子で言う。


 見合い相手の若さについて人はあれこれと言うけれど、若さにどれほどの価値があるのか伸久には分らなかった。


 この町は花街がある為、「若さ」というもの対してあからさまな値段がつき「価値」が計れてしまうのだけれど、こちらの見合いは所詮は素人のこと。伸久は相手の年齢など問題にしていないし、損とも得とも考えてはいなかった。


 伸久が気になるのは相手の娘と果たして「食べること」に関して互いに添うことができるかどうかだった。


 食べることはそのまま「生きること」を意味する。伸久は料理人として旨いものを作ることを生業としているが、「旨い」なんていうのは当たり前の気配り、熱いものは熱く、冷たいものは冷たく……というぐらいなことで、なにも特別な食材を食べようということではないと考えていた。


 日々の飯が上手く炊けて、旬のもので惣菜をこしらえ、「食べる」ということに丁寧に向き合うことができるかどうか。でなければ、いくら若くとも美しくとも、生涯を共にすることなどできない。食べることに向き合う気持ちが一致していれば、あとはどうでもよかった。


 周辺のうるさい噂や差し出口を聞き流している間にも、見合いに向けた段取りは進んでいき、福峰の音頭でオリエンタルホテルのグリルで一席設けることになった。


 伸久はそんなところへ出張って行くことに一瞬面食らったが、福峰からそのぐらいなことはしないと自分が間に入るにあたり面目が立たないと、ともすれば腰が引けそうになる伸久を制した。


 と同時に福峰は「オリエンタルのグリルもたまには勉強になるやろ」と言いもした。


 オリエンタルホテルはその重厚な建築はもとより、ホテル内の本式フランス料理のレストランも有名で、阪神間の主だった富裕層からは絶大な支持を受けていたし、何よりも各式の点からいって神戸で一番といっても過言ではなく、なるほど福峰の見栄なのだろうと伸久は理解した。


 しかして見合いの日。伸久はゆっくり朝寝をし、午後からおもむろに支度をして新開地から市電に乗り栄町を目指した。


 めったに着ることのない紺背広に身を包み、市電の窓からぼんやりと楠公前や元町六丁目あたりの賑わいを眺めた。


 頭の中は見合い相手のことよりも、オリエンタルのグリルで供される料理の方に関心が向いており、内心で伸久は「勉強になる」とわざわざ言い添えた福峰の言葉が結果的に見合い相手から気を逸らすことになるだろうと苦笑いをしていた。


 実際のところ、伸久は料理に気が向けば他のことはどうでもよくなる性質で、この期に及んでもまだ心のどこかで妻帯することに消極的だった。


 果たして自分は家庭を持ち、それを顧みながら料理の道を進むことができるだろうか? 商売と家庭を両立させるのは可能なのか? と。


 日が良いのかオリエンタルホテルのロビーは同じように見合いと思しき取り合わせが幾組も見られた。伸久はその中からすぐに福峰を見つけだし、まっすぐに歩み寄って「本日は何かとお世話いただきまして」と尋常な挨拶をした。


 福峰はいつもの着流しではなく、これも改まった背広姿で帽子をとって「おお、来たか」と鷹揚に頷いた。


「先方ももうぼつぼつ来はるやろ」


「向こうはどなたと来られるんですか。やっぱり母親ですか」


「ふん。そう聞いてるけど」


 それでは見合い相手の娘より母親の方が自分と年が近いだろうと伸久は考えた。場合によってはそちらが相手であってもおかしくない。伸久の口元に微かな笑いが滲んだ。


「なに笑てるねん」


 すかさず福峰が言う。


「いや、今日は何が食べれるんやろなと思て」


「なんやそれ。呆れるわ」


「けど勉強になるやろ言うたん福峰さんですから」


「それはそうやけども」


 ロビーにいた見合い組のいずれもが食堂へ案内されていく。伸久はそっと腕に嵌めた時計を見た。それと同時に福峰が「あ、来はったわ」と呟くと入口付近へ向けて片手をあげた。


 伸久の視線はそれに従って入口へ向けられ、あたりを彷徨った。あれだ。見合い写真同様に髪にうねりを立てて顔周りに沿わせ、清々しい額を見せている、あの黒眼の大きな娘。それが宮本いち子との初対面だった。


 いち子は古代紫の明石縮あかしちぢみを着て、なんの臆することもなくこちらへまっすぐに歩みを進めてきた。その足は白足袋に固く鼻緒がかかっていていかにも気性の良さそうな印象を与えていた。しっかりとした足取りと、固い鼻緒。清潔な半襟の細く出したのも清廉だった。


 一緒にやって来た母親は娘とは似ておらず一重瞼に薄い唇の日本的な容貌をしており、小紋に羽織といった格好で、髪は低い位置にまとめ、福峰と話す間中一歩後ろへ控える娘にそっと視線を投げてはその顔色を窺っていた。


 一通りの挨拶をすませると福峰が「それでは」と一同を促し、食堂へはボーイに案内をさせた。


 白いテーブルクロスのかかった卓の上に銀色に光るナイフやフォークが並び豪勢なシャンデリアの下できらりと閃いていた。


 いち子が器用にナイフを使うのに対して母親は食べにくそうにしているのが対照的で、伸久は娘のハイカラさをそのまま「若さ」だと思い、眺めた。


 福峰が座を温めるようにいち子の奉公先である料亭の話題へ水を向けると、いち子は臆することもなくすらすらと答えた。若い料理人見習いが多いこと、ベテランの仲居たちのこと、女将に仕える女子衆がいて、自分はその仕事もすれば料亭のお運びも雑用もなんでもするのだということ。


 とりわけ、主人夫婦の意向もあり三度の食事は可能な限り奉公人揃って食べることになっていて、中でもありがたいのは「仮にも料理屋にいて飯がまずいなどということはあってはならない」という主人の言葉を守って贅沢ではないにせよ、質素な中にも工夫をこらした美味いものが膳に並ぶのが嬉しくてならないことなど、時に笑いながらよく喋った。


 伸久はその賄いのことが気になり、白葡萄酒のグラスを傾けつつ、いち子に尋ねた。


「例えば、どんなおかずがでるんですか」


 いち子は「そうですねえ」と思案顔になり、でもすぐに、


「旦那さんは走りの野菜と旬のものでは味わいが違うからと言うて、折にふれては試させてくれはるんです。この間は新じゃがの小さいのを皮つきのまま丸ごと揚げて、塩で食べるんと、甘辛くするのと二つ…。お魚は青魚が多いですけど、若い見習いさん達が工夫して、相談しながらおかずを作らはるんです。そないした方が若い人の勉強になるて旦那さんが言わはって。あと、時々はお肉も。洋食も時々は」


「美味そうやな」


「けど、一番大事なんは熱いものは熱く、冷たいものは冷たくという事なんやそうで、旦那さんが段取り良うせんと美味しいもんもまずなるてずっと調理場で見張ってはるんで、みんなお膳に着くまでえらい大騒ぎで」


 いち子はそう言うとおかしそうにくすくすと声を立てて笑った。


 その様子に伸久は調理場が目に浮かぶようで、「旦那さんの言う通りや。けど、それはせわしないな」と一緒になって笑った。


 伸久は、目の前で朗らかに談笑しながら、美味そうに料理をたいらげていくいち子に我ながら明確な好意を感じていた。


 この娘や。これならば。美味いものを食うということ。そして、美味く食うということ。伸久が求める女房に欠かせないもの。


「白葡萄酒が好きなんですか」


 自然な調子でグラスを重ねていたいち子に伸久は尋ねた。すると傍らの母親が慌てたように口をはさんだ。


「普段はそんなお酒飲むようなこと、めったとないんです。今日はなんやこの子舞い上がってしもてるみたいで。女だてらに恥ずかしいことで……」


 と弁解するように手を振りながら言った。


 福峰は母親のその言葉を受けて、こちらはさすがに酒蔵の人間であるからして、


「酒は飲まんよりは、飲めた方がええんですよ。仰山飲むんは良うないけど。なにより酒があると食事が美味しなる。気持ちも明るうなる。女やからなんてことはもうありませんで。神戸でも大阪でも、近頃はバーにだって女性がおりますやろ。酒を飲むというのも一つの文化なんですわ。いち子さんは日本酒飲まはらへんのやろか?」


 と庇うでもなく、笑いかけた。


 母親は恐縮していたが、いち子は素直に「時々は。旦那さんが料理に合わせるお酒のこともお話してくださってて。お相伴にあずかることもあるんです」と答えた。


「へえ。それにはうちの酒も入ってるんやろか」


「それはもちろん……。女将さんが気に入ってはって。お燗の加減を見るのによくお手伝いするんですけど……。見ただけで分かるわけやないし、加減するんは難しいです。前はよくぐらぐら沸かしてしもたりして、えらい怒られました」


「大胆なお燗番やなあ」


 皆がどっと笑ったところで、肉の皿が運ばれてきた。いち子は「わあ」と歓声を漏らし、母親が「これっ」とたしなめる場面もあり、またそれぞれが朗らかに笑った。


 血の滴るビフテキにナイフを入れながら、伸久は思い切って尋ねた。


「僕のところは新開地の小さな料理屋にすぎませんから、口の肥えたいち子さんが満足するようなもの食べさせられるか心もとないんですが……」


「……」


「見習を一人雇うてますが、奥向きのことだけでなく、店の仕事もしてもらうことになるでしょう。若い人には苦労やと思います」


 福峰は驚いたのかぐふっと咽喉を詰まらせたような音をさせ、慌てて水の入ったグラスに口をつけた。


「のぶさん、そんなこと今……」


「今やから言うんです。お母さんもおってやし、聞いてもうた方がええでしょう。ご心配おかけしたくない」


「……」


 いち子の母親は目を丸くして伸久を見つめたが、真面目らしい様子にこくりと頷いて先を促した。


「年も離れておりますし。このお話は僕には過ぎたものやと思うてます。間に入ってくださった福峰さんの手前もありますが、なんでもそちらで思うことあれば直接お尋ね頂きたい。僕のことはもうお調べになっているとは思いますが」


 伸久が話す間中、いち子はナイフを動かす手を止めてじっと伸久の顔に視線を注いでいた。


「ご丁寧に、こちらの心持ちまでご心配頂きまして恐縮ですわ。いち子は一人娘ですが、縁あって奉公へ出しておりました。この娘は恥ずかしながら、食い意地が張っているように思います。料理屋へ嫁ぐというのも当人には幸せかもしれません。ただ、お店の切り回しが務まるかどうか……」


 母親の視線がちらといち子に向けられた。


 一同が俄かにしんと静まり返った。


 伸久の店の商いの様子、暮らし向きは福峰からも聞いているのだろう。母子はこちらのことをそう不安に思っているようではないのに伸久はほっと溜息をついた。月給取りに嫁ぐのではない。商い家にというのは、浮き沈みのあることなのだ。それを承知とあればもはや伸久から言うべきことは何もなかった。


 福峰は背広の隠しからハンケチを出すと、汗を拭きながら大きく息を吐き出した。


「はあ、なんや、どないなこと言いだすんか思て冷や汗出てしもたわ。けど、そないして真っ向に話してくれるんやったら仲人口きくこともないなあ」


「いやいや、福峰さんがおってやからこそ、僕は正直に言いましてんで。僕がおかしな事言うても福峰さんが庇ってくれますやろ」


「なんやて」


 二人の掛け合いに母子は声を揃えて笑った。


 そういったわけで見合いは首尾よくいったと言って間違いはなく、後日に福峰が正式に返事を持ってやって来たのだが、伸久は「はあ、そうですか」といういつも通りののらりくらりとした調子に戻っていて、喜色ばんだ福峰をがっかりさせた。

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