第2話
そんな呑気らしい暮らしに終りがきたのは、小僧として働いていた音吉が、背も伸びて青年の顔つきになろうとする頃だった。
伸久は相変わらずの独り身であった。
音吉は皿洗いや掃除といった雑用だけでなく、伸久から手ほどきを受け、簡単な煮炊きならできるようになっていた。
伸久は長田で細工師をする音吉の親とも話し合い、本人も気が向いているようであるし、音吉を料理人として育てることに決めて、包丁の研ぎ方はもちろんのこと、出汁の引き方、味付けのコツ、肉や魚、野菜の扱いについても、自分の仕事のすべてを惜しみなく指導していた。
料理人には秘伝だの、秘中の秘などがありそうなものだし、また実際にそういったことを大切にする者もいるだろうが、伸久はそういう性質の料理人ではなかった。
若い者が料理ひとつでどうでも身が立つようにと考えるのは、自身もまた音吉同様に小学校を出てすぐに働きに出て独立するまでに至ったことも理由の一つだった。
その年の春は寒の戻りが幾度もあり、桜の散った後にも暖かいのやら寒いのやらはっきりしない日が繰り返され、そのせいで伸久は珍しいことに風邪をひき、店を休む日が幾日かあった。
家から通ってきている音吉が心配して用足しにきたり、粥を作ったりと世話をしてくれたわけだが、そのことを後日聞いたある酒蔵の旦那から「見合い」の話が持ち込まれたのだった。
文字どおり「忘れたころに」やってきた話であったが、今回ばかりはいつもと事情が違っていた。
風邪もすっかり治り、いつも通りに店を開けていたところ、午後を過ぎて福峰という酒蔵の大旦那が自らやってきて、こう言った。
「のぶさん、風邪ひいとったんやてなあ」
「はあ。今年は寒の戻りが何回もあって、油断してしもて」
「それはのぶさんももう若ないいうことやで」
「そういうことになりますかなあ」
自分の酒蔵から神戸まで、他人の土地を踏まずに来ることができるとまで言われる地所持ちにしては福峰は嫌味のない、丸顔の戎顔で、ひとまずは伸久の体調を気遣ってくれた。
若筍煮に添える木の芽を掌でぱんと叩いてから盛りつけて出すと福峰は、
「ああ、もうこないな季節がきたんやなあ」
と箸をとった。
そして
「のぶさん、病気して一人では不便やったんと違うんか」
と続けた。
「病気やなんて、大層な。ちょっと風邪ひいたぐらいなことで」
伸久は笑った。
「音吉もおったし、なんの不便なこともなかったですわ」
「なんや、音やんに看病させたんか」
流しであさりを洗い、桶に沈めたところで音吉が顔をあげた。
「させたやなんて。僕の方で勝手にしたことですから」
「音やんは優しいなあ」
福峰は感嘆したような声を出し、杯を干すと、またゆるゆると銚子の酒を注いで、急に改まったように話し始めた。
「けどなあ、のぶさん」
「はあ」
「それもこれも、のぶさんがいつまで独りやから起こったことと違うやろか」
伸久は「また、そういう話か」と一瞬思ったが、神妙に「はあ」と頷いた。
「今までもさんざん言われてきて、もう飽いてしもてるやろうけども」
「いえ、そんなことは」
「今回はな、ちょっと違うねん」
「と言いますと」
「のぶさんにどうかと思う娘さんがおってなあ」
「はあ」
「大阪の料理屋に奉公に出とった娘さんやねんわ」
「へえ……」
福峰の口にしたのは、大阪でも有名な料亭で、伸久は無論その店がどんなに各式が高く、料理が素晴らしいかも十分知っていた。
なるほど料理屋に奉公していたのであれば、料理屋に嫁いでくるのは都合がいい。
仕事のことに理解を示し、尚且つ手伝ってくれるのであれば尚のこと、先々もしも店を大きくしようとした時には「女将」として共に働いてもらうことになる。
伸久は福峰の意図を正しく理解した。
「それは確かに、今までおうかがいしたお話とはちょっと違いますな」
「せやろ」
福峰はにんまり笑いながら、筍を箸で摘んだ。
「いや、その料理屋の店主とは昔からの馴染みでな。その娘さんの話はよう聞いてたんや。器量も悪ないし、何よりよう働くええ娘さんなんや」
「奉公先でそない評判がええんやったら、確かな娘さんなんでしょうな」
「せやねん」
これまで伸久に持ち込まれる縁談の相手はそのほとんどが芦屋あたりに奉公している女子衆であったり、職業婦人であったりしたが、料理屋に奉公というのは初めてだった。
この時点で伸久の気持ちが動いたわけではないのだが、気になったのは、奉公に出ていて尚且つ見合い話が浮上するというのであれば、その娘はまだ年若いのではないだろうか。即ち、伸久との年の差が大きすぎて、それでは可哀そうではないかということだった。
「実はなあ、写真、もう預かってきてるねん。見てみいひんか」
「いや、ちょっと待って下さい」
福峰が傍らに置いた鞄に手を差し込みごそごそさせるのを、伸久は慌てて制した。
気がつくと音吉が興味津々といった体で近寄ってきており、わざとらしく酒の燗の様子を見たり、その辺の台を拭いてみたりして、耳はきっちりこちらを向けていた。
伸久は苦笑いしつつ、福峰に言った。
「見てから断っては失礼や」
「なんや、断ることが前提なんかいな」
「いや、そういうわけやないんです。ただ気になることがあって」
「なにが」
「その娘さん、僕とは年が離れすぎるんと違いますか」
「ああ、そのこと」
福峰は合点がいったように「なるほどなるほど」と一人で頷き、見合い写真の貼られた台紙をいよいよ取り出してカウンターに乗せた。
「それやったら心配ないねん。確かに年は離れとる。若い娘さんや。けどなあ、当人が年の離れた人がええて言うてるねんわ」
「えっ」
「奉公先で主人はもちろん、お客にもかわいがってもうてるやろ。それだけに、どうも、あんまり年若い男やと不安に思うそうなんや。年が離れてるぐらいが落ち着いてて、優しいて、ええんやと」
「それはまた……」
「なあ、のぶさん、考えてもみ。年の離れた若い嫁さんなんて、悪い話と違うで。この先こんな話そうそう出てこんわ」
「……」
「ほら、写真。見てみ」
福峰は伸久が今一度「待ってください」と制するより先に、台紙をぱっと開くと、伸久の前に突き出した。
写真館で撮ったのだろう。椅子にいくぶん斜めに腰かける格好で、その娘は上品な小紋の着物姿で写っていた。額際ですっきりとさせた髪は、恐らくは見合い写真の為にそうしたのであろうパーマネントのうねりが顔のまわりを縁取って後へまとめてあり「料理屋の奉公人」というよりも「商家のお嬢さん」然としていた。
黒目がちの大きな目と長い睫毛が印象的で、確かにこれなら器量は決して悪くはない。むしろ「良い」と言って差し支えないだろう。伸久は横で首を伸ばすようにして写真を盗み見ようとする音吉に「お前はどない思う」と台紙を差し出した。
音吉は好奇心のあまりに咄嗟に「はっ」と漏らして嬉々として写真に見入った。
福峰と伸久の視線を集めながら、音吉は見合い写真を一目みるなり、
「可愛いらしい人やないですか」
と素直な感想を述べた。
「可愛らしい、て。音やんより年上やで」
福峰が笑った。
音吉は写真を返すと「それで、どないしはるんですか」とどちらにでもなく尋ねた。
「さあて、それはのぶさん次第やな」
「音吉」
伸久は幾分咎めるような声音で音吉を制した。
「うっかりしとった。今晩、予約してくれてる今井さんに菊水饅頭のおつかいを頼まれとったんや。音吉、ちょっと買うてきてくれるか。今井さんの奥さんがお好きやそうやから、ちょっと余計めに買うといたらええ」
「は」
音吉は短く返事すると、福峰に一礼し裏口から飛び出して行った。
菊水饅頭の店まではほんの一足で、音吉がすぐに戻ってくるであろうことは予想できた伸久は、少しあらたまって福峰に向き直ると、
「大きな料理屋のお客さんに可愛がってもうてるような娘さんが、こんな小さな店のおかみさんでは気の毒なように思うんですが」
「……またあかんか」
「それに、先様も僕のことよう調べたいやろうと思います」
「……ん?」
「その上で、良いようでしたらお会いしてみても……」
「ほんまか!」
福峰はてっきり伸久が断りの口上を述べるものと思ったので、飛びあがらんばかりに驚き、続けざまに、
「そうか、そうか。いや、のぶさんがそない言うてくれるんやったら、わしの方で向こうさんにはあんじょう話ししようやないか。写真。写真はなんぞあるんかいな。最近の。そんな見合い写真みたいなもんやなくてええ。普通の。普段の。それ、貸してんか。明日にでもうちの若い者に取りに来させよ。なあに、心配せんでええで。わしがちゃあんとまとめるよってにな」
と独り決めしたかと思うと、「そうとなったら、こうしちゃおれん」と腰を浮かした。
「そんな慌てんでも……」
伸久は苦笑いしながら燗していた酒を引きあげ、福峰に勧めた。
「のぶさんも一杯やってえな。景気づけの前祝いや」
銚子から注がれる酒が
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