第13話

 丹波からまた鹿の肉が届けられるという日、伸久は福峰の酒蔵の酒を求めに酒屋へ行き、その足で元町商店街をてれてれと歩いて戻ってきた。


 途中で土産にと亀井堂の瓦せんべいを買い、洋品店や小間物屋の飾り窓を覗くうちに、たいした距離でもないのにだんだんと足が重くなっていた。


 三越を過ぎて、湊川神社までくると伸久はせっかくだからお参りをと思い、大門をくぐろうとした。


 その時、ちょうど参道を前から歩いてくる年増女が「あっ」という顔で伸久を見て足を止めた。


 はて誰であっただろう。お客の一人だろうか。伸久は商売柄あいまいな微笑みをうかべつつ、軽く会釈をした。


 女は髪を結い、紺絣の普段着でちょっとそこまで用足しに行くとでもいうような気軽ななりで伸久の会釈を目にすると少し迷うような素振りをみせたものの、掃き清められた石畳をまっすぐに歩き始めた。


 やっぱり誰だか思い出せない。伸久は伏し目にしながら通り過ぎようとした。すると、すれちがいざまに女が「ささくらの旦那さん」と呼びとめた。


「ささくらの、旦那さんでしょう? 新開地の料理屋の」


「はあ。そうです。ええと……?」


 どちらさまでしょうと目交ぜする。


 女は薄化粧であるものの、着物の襟から覗くうなじにお白粉の名残りがあるのを認めて、伸久は女が「玄人」なのを察した。


 福原の芸妓か、それとも花隈か。福峰のような客が芸妓を伴ってやってくることもあるので、伸久は記憶を手繰り寄せようと俄かに真面目な顔になった。


 それが女にも伝わったのだろう。女はふふっと笑った。


「藤乃屋の小春と申します。福峰さんからお噂はかねがね。私もいっぺん寄せていただいたことがあります」


「……ああ。いや、これはどうも……」


 なるほど、福峰の馴染みか。小春は伸久の手にしている酒瓶を目に留めると、


「福峰さんのとこの」


「ええ。今日、お越し頂けることになってまして。飲み飽きてはるか分かりませんが、せっかくやしお連れの方々にもお出ししてさしあげたいし」


「なんや珍しいもの食べはるんやて?」


「福峰さんから聞かはりましたか」


 小春は意味ありげに唇の端をきゅっと持ち上げた。


「精がつくとかなんとか……」


「はあ。鹿の肉ですわ」


「福峰さんねえ、そんなんばっかり食べはるんよ。精力やら体力やらて、すぐ言うねん」


 小春は神戸言葉を丸出しにして言った。


「そうですか。僕とこではそないでもないんですけど。まあ、鹿の肉いうんは珍しいし、蔵の人の郷里から送らせるようなんですけども、福峰さんは食道楽やから」


「ほんまに。あの人、道楽がすぎるんと違うやろか。お妾さんとまではいかへんようやけど、あちこち女の人とお付き合いあるそうで、最近はえらい若い、娘みたいな年の人とまでなんや訳あるそうで噂になってますねんで」


「……そない若い人と」


「ささくらの旦那さんはお忙しいやろうからうちらみたいなところの者の噂耳にする機会あれへんやろけど。なんでも大阪の料亭で奉公してはったとか。かわいらしい人なんやて。福峰さんには大阪よりは神戸の方が都合ええでしょ。引き抜き言うんかしら。神戸の料理屋へ住み替えさせはったんやて」


「……」


「まあ、その娘さんも若いのに度胸あるいうか、なんというか。素人の娘さんとは思われへん。なんでもない顔して、福峰さんに囲われてるようなもんですやろ」


「……僕は野暮やからそういう噂はとんと知らんで。そうですか。福峰さんも隅におけんな。精力つけたいから鹿の肉なんか」


 伸久は軽い眩暈めまいを覚えた。目の前の芸妓は依然として意味深な微笑を浮かべており、おもしろがるとでもいうのか、意地悪とでもいうのか伸久の目の中に何らかの動揺を見出そうとしているようにきらきらと輝いていた。


「まあ、福峰さんが道楽しはっても僕とこはただの料理屋ですから。意見するような立場にもありませんし、お客さんに何か物申すようなこともありません。若い娘さんの相手をせなあかんというんなら、なるほど、参考になりました。精力のつくようなもんお出しするように考えますわ」


 それ以上芸妓の口から何も聞きたくはなかった。頭の奥で、耳の奥で、割れ鐘を叩くような音が響いている。まるで火事を知らせる半鐘はんしょうのように。危険を知らせるサイレンのように。


 伸久は「また福峰さんと店にお越し下さい」と伸久は頭を下げ、参道をずんずんと突き進んでいった。


 女の含みのある言いようが何を示しているのか、伸久はすでに知っていたような気がする。いや、知っていたのだ。それは打ち消したくもあり、認めたくないものだった。

 しかし不思議と腹が立つだとか、福峰に対する怒りは感じなかった。むしろ伸久の頭いっぱいに広がったのはいち子の対する怖れであった。


 あんなに悪びれず人を欺くことがなぜできるのだろう。他の男と情を交わしても尚、伸久の女房として至極当然の顔でゆったりと添えるものだろうか。


 拝殿の前へ来ると伸久は賽銭を投げ、礼をしてから柏手を打った。何を願うでもなく、祈るでもなく、心は無であった。


 淫蕩という言葉が不意に胸をかすめる。


 ためらわず肉体をさらけだす姿も、おしげもなく与える姿も恐らくはいち子の本質そのものなのだ。


 本人はそうとは思っていないかもしれない。が、福峰は知っているのだ。そして、伸久もまた。


 湊川神社を出ると市電の通りを渡って足早に店へと急ぐ。思いがけなく時間をくってしまった。もう鹿の肉は届けられているだろうか。早く支度をしなければ。


 いち子があの血まみれの肉におののいたのは、あの塊に自分の本質を見たからだろうか。血肉を男に食わせて悦ばせることに。


 いつから?とか、なぜ?とは思わなかった。明確に裏切りだとも思わなかった。ただ男に自らを与えてよしとするいち子が恐ろしいものに思えた。これが魔性とでもいうのだろうか。


 果たしてどんな顔をしていち子を見ればいいのか。伸久は映画や芝居へ行く人で賑わう通りをひとつ逸れて、自分の店の勝手口をがらりと開けた。


「ただいま。えらい遅なってしもて」


 言いながら通り土間を入っていくと調理場の台の上に例の木桶がそのまま乗せられており、音吉といち子の姿はなかった。


 なんとなく安堵して伸久は買ってきた包みをおろすと、木桶の蓋を取った。前回同様にさらしを巻いて、新聞紙に包んだ肉が氷詰めにされていた。


 うっすらと血の匂いが漂っている。伸久は氷を捨てると肉を取り出し、包みを開いた。肉は前よりも弾力があり、つやつやと光っていた。福峰が話していた、恐らくは熟練の猟師の手による上質な肉だということはすぐに知れた。


 こんな時でも伸久は自分が料理人としての仕事を全うしたくて、心良いような緊張感を覚えた。


 精力をつけたいというのは本当だとしても、肉が美味いということもまた単純に福峰を虜にしているのだろうと思える。それに肉を食べたからといってすぐに精力が発揮されるとは思えないのだが。


 それでも福峰は食うのだろうけれど。若い女だけではなく、多くの女たちを相手にする為に。


 伸久はそんな福峰を動物じみていると思った。快楽に耽るというのではなく、むしろ肉食の獣が弱者を狩るような純粋な食欲と性欲。それを支えるのに獣の肉とはまたなんと相応しい食事だろうか。


 伸久は壁にかけてあった帆前掛に手を伸ばした。そして、はっと胴目どうもくした。二階の上り口に音吉の下駄といち子の畳表の草履が並んでいるではないか。


 ああ、ここにも肉を喰らう者がいる。伸久は一度だけ大きく息を吸うと、そのまま呼吸を止めて音を立てないようにそっと階段を上がり始めた。手にはこれから捌かんとする為の包丁が握られていた。


 明らかに人のいる気配がしており、それはただならぬ息遣いを発して空気を揺らしていた。


 伸久は女の喘ぎ声を聞き、男の低いうなり声を聞いた。それは獣の咆哮ほうこうだった。


 了


※スピンオフ短編「わざわざのわざ」が2022年8月神戸新聞文芸に入選、掲載されました。

次回「番外編」として公開します。


------------------------------------------------------------------------------------------------あとがきにかえて


 この度はつたない作品を最後までお読み頂き、誠にありがとうございました。

まだまだ多くの課題を残しながらいったん本作は終了とし、また今後新たな作品に取り組んでいきたいと思います。

 これを機会に神戸という町や「食べる」ということ、人間の心の機微と本質について関心を寄せて頂ければ幸いです。

 今後も各種文学賞への応募と併せて、カクヨムへの投稿も続けていく所存です。

 あたたかく見守って頂けますよう、応援よろしくお願い申し上げます。


 夏の終わりに。

 三村真喜子改め三村小稲

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