第36話 お父様には言わないで
妹のソフィが、王都からこの遠く離れたロンベルク辺境伯領までやって来た。
従者も連れずたった一人、ボロボロの汚れた格好で。髪の色も銀髪から黒髪に変わっていて、つい数か月前に私を送り出した姿とは全く違う姿になっている。
何かに怯えた様子のソフィは気が立っていて、ちょっとした物音にも過敏に反応する。
私が使用人の前でも「ソフィ」と呼んでしまったので、みんなソフィの正体に気付いてしまっているようだ。彼女が、使用人たちが嫌がらせをして追い出そうとしていた『ソフィ・ヴァレリー』であることに。
「ソフィ、お父様が心配していると思うわ。とりあえずここに到着したことをお父様にお知らせしておきましょう」
「……いやだ、絶対に言わないで」
「詳しい事情は知らないけれど、本当はソフィがここに嫁ぐべきだってお父様に言われたんでしょう? 王都からこんな遠いところまでの移動だもの。お父様はきっと、あなたが無事にロンベルクに到着したか心配しているはずよ」
「やめて! 知らせなくていいって言ってるの!」
金切り声を上げたソフィは、お茶が入ったままのティーカップを壁に投げつけた。近くにいた使用人が私の前に駆け寄ってソフィを睨む。
興奮しているソフィの気持ちをこれ以上逆なでしては、使用人たちにも危険が及ぶ可能性もある。
騎士団たちの怪我の治療も急務の中、ソフィが暴れ出して手を取られるわけにはいかない。まだユーリ様もカレン様も戻っていないのだ。
トラブルが起こらないようにソフィを落ち着かせなければ。
私の前に立った使用人をそっと後ろに下がるように促し、私はソフィの手を取った。
「ソフィ、落ち着いて。分かった、お父様には連絡しないから、まずはその格好をどうにかしましょう」
体と髪をきれいにして、私のドレスを貸すことにした。
それにしてもおかしい。あれだけソフィとお父様は仲が良かったのに、ロンベルクへの到着すら知らせてくれるなとは……お父様との間に何かがあったのだろうか。ソフィの髪の毛の色が変わったことと関係があるの?
元々お父様が私を嫌っていたのだって、私の髪が菫色だったからだ。確かソフィの母親のシビルは赤毛だったから……もしもこの黒髪が彼女の本当の髪の色なら、もしかしてソフィはお父様の子ではない可能性も……?
ソフィの髪を整えながら色々と考えあぐねていると、ソフィがピシャリとブラシを持った私の手をはたく。
「お姉様。何を考えているの。身なりを整えたらリカルド様に会わせてちょうだい。私、直接リカルド様に謝るから。本当は花嫁は私になるはずだったのにってちゃんと説明するわ」
「ソフィ、貴族同士の結婚というのはそう簡単にはいかないのよ。それに今は魔獣が……」
「うるさいわね!」
私の手からブラシを奪い取ったソフィが、私にそれを投げつける。
「お姉様は王都に戻っていいわよ。あとは私がちゃんとやるから。いいえ、むしろ早く戻らないとまずいんじゃないかしら。あなたのお母様、目を覚ましたわよ」
「えっ……お母様が?!」
お母様の話を聞いて驚き、床から拾い上げたブラシを再び落としてしまった。フラフラとよろけてしまった私を、ネリーが後ろから支える。
「ソフィ、それはどういうことなの? お母様は無事なの?」
「だから、早く王都に戻りなさいよ! 私はここで暮らすから!」
「ねえ、教えて! お母様は……」
「言った通りよ。早く戻りなさいよ! 二度と来ないで!」
私とソフィが言い合いになっているのを止めるように、ネリーが私の耳元で囁いた。
「奥様、魔獣のことも落ち着きましたし、あとは騎士団が全員戻るのを待つのみ。無事も確認できておりますし、ここは大丈夫です。奥様はとりあえず王都に向かう準備を致しましょう。ソフィ様のことはお任せください」
「ネリー……分かった、準備をするわ」
苛立つソフィのお世話をネリーに頼み、私は自分の部屋を出た。
今、私が王都に戻ったら……もうここには戻らないだろう。今はあんな状態だけど、ソフィを置いていくわけにはいかない。
リカルド様もいないし、ユーリ様だって迷惑だろう。
ウォルターに相談してみようか。
最後にきちんとユーリ様にお別れを伝えてからと思っていたのに。このまま去ったら、もうユーリ様にはお会いできないかもしれない。
私は、隠しておいたグレースからの手紙を取り出し、誰もいない廊下で封を開いた。
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