第8話 「またね」がありますように。
夏が過ぎて冬になった。暑さが消えて、ぬくもりが恋しくなる時期になった。
布団の中で、寒さに凍える身を抱きしめる。心身共に弱くなった俺は、弱いということを周りに見せつけるように、風邪を引いた。学校を休み、家で寝ている。まだ昼間だというのに、窓の隙間から忍び込む風が俺を冷やす。暖房を入れてもなにも温かくない。あたためてよ、ねえ。
ねえ。
布団を抱きしめ、俺は独り布団を濡らした。
半年間、ずっと謹慎させられていた。このごみ溜めで。息すらもしにくいような、あの場所で。
あの日、あの夜。
「俺は俺が好きなようにするんだ! 父さんたちに、お前らなんかに、好き勝手されてたまらねえよ!!」
「俺もお前のことなんざ知ってたまるか! クソ野郎!!」
父さんに、家族に、他人に初めて声を荒げた。
こんなことをしてしまう自分に嫌気がさしたし、すがすがしい気持ちにもなった。声を荒げて反抗したら、そうだ、コイツと同じじゃないか。やっぱり家族なんだ。血がつながっているんだ。他人を叱ることで、自分の怒りが静まるということを覚えてしまった。そうしたらコイツと同類じゃないか。もういやだ。どうしたらいい。
本能的にそう思った。なんで俺はこの夫婦とも言えぬ生物共の間に生まれなきゃいけなかったんだ。俺がこの手で生まれる先を選べたのなら、もっとまともで人間らしい人のところに生まれたかった。あんなクソ野郎の子供じゃなくて、違う生まれ方をして、違う出会い方を咲としていればよかった。なんでこんな出会いだったんだろう。咲も、俺も、生きやすい世界はどこにあるんだろう。どうすればいいんだろう。
どこ。どこ、咲。あいたいよ。
睨みつけたまま、俺は咲に想いを馳せる。自分で考えても何やってんだって思う。
「いい加減にしろっ。ふざけるんじゃない!」
パァァンッッ!!!
「!? ……いっだぁ。」
叩かれた。
何をされたかを理解したと同時に、頬にびりびりと鋭い痛みが走った。
この証拠でさえも愛おしく思えてきた。これを見ていた周りの警察官は、虐待だと言ってくれるのかな。日常的な暴力を受けていたかと聞かれたら日常的ではないけれど、極稀にされるときもあったんだよ。ねえ。警察でしょ。助けてよ、俺を。
自分の頬に手を添えるだけで痛い。針をぐさぐさと容赦なく刺されている感覚。
「お前は家に籠っていろ! 反省するんだ。」
これまでに見たことない。鬼のように目を吊り上げて、腕を組み、望んでもない再会を果たしてしまったときと同じような格好でコイツは俺に鎖を嵌めた。
俺の気持ちなんて知らずか知ってか、勝手に涙が零れ落ちた。
布団の中で、ぐるんと体の向きを変える。
違う。
俺が泣いたらいけないんだ。咲のほうがもっと、辛いのに。
止まることを知らない涙は勝手にあふれて、あふれて、もういっそのこと涙に溺れたいくらいだ。ほこりまるけの空気を、肺に取り込むことでさえも嫌だ。息ができないようにしてよ。ぐいぐいと痛いくらいに目を擦る。
だめだ。目を覚ますんだ。
咲に会うって、一緒にいるって、決めたじゃないか。
そんなにヤワな決意だったのか。
もう一度ぐいぐいと擦る。もう、痛いんだ。
全部が嫌になって、何もできな自分が嫌いで、咲のことを助けてあげられない俺が嫌いだ。自分が一番嫌いだ。
目を閉じて、声を出して泣く。止まらない。止められないんだ。水を貯めすぎたダムが耐えられなくなって、崩壊した。
「なに男が泣いちゃってんのよ。」
へっ、と間抜けな声を上げて瞼を持ち上げる。
げしっと体を蹴られる。でも、アイツみたいな強くて痛くなんかない。優しさに満ち溢れていて、痛くなんかなんにもない。
壁と向かい合っていた体をゆっくりと持ち上げる。窓は開けていたのに、分厚いカーテンを開けていないことを初めて後悔した。昼間なはずなのに、目の前にいる人が誰なのか、よく見えない。
でもこの声、この喋り方。
この人は。
「……サツキさん。」
ふわぁっと冬にしては温かい風が吹き通って、重いカーテンを動かす。
初めて会った日のように、長くのばされて自由に伸びる、ラベンダーのようなピンクの髪。髪と同じ色の切れ長の瞳。しゅっとした顔。男の俺でも惚れるような整った容姿。咲が好むような黒パーカーのフードを深くかぶっていて、黒マスク、手袋まで身に着けている。
間違いない。この人は、サツキさんだ。
「どうしてここに。」
「咲ちゃんのこと、好きなんでしょ。」
「え。」
なんでそれを。
初めて会った時同様、この人は俺と文脈を合わせるということが少々苦手らしい。
でも今はそんなこと関係ない。なんで知っているの。誰にもばれないように、見つからないように、密かに密かに育ててきた恋心。
今までの半年間、俺は咲を忘れたことがない。好きで好きで好きで好きで、たまらないんだ。
「なんでよ。」
「えぇ……。いや、一目惚れっていうか、なんというか。」
「そんなことを聞いてないのよ!」
えぇ。だって今二秒前くらいになんでっておっしゃいましたよね!? これ以外になにかあるとでも?
「そんな惚気話を聞きに、のこのこ来てやったわけじゃないのよ! あたしも暇じゃないんだから。なんっで今すぐに咲ちゃんのところに駆けつけないかって聞いてるのよ!」
どういうことか、いまいちピンとこない。
だって今も、咲はサツキさんのところにいるんじゃないの。
「サツキさんのところにいるんじゃないんですか。」
「いないわよ。仕事中よ!」
言い終わると同時に、俺の目の前に何枚もの紙をぶちまけた。
上に落ちた紙を何枚かかき集めて、じっと見る。
「これって……。」
「咲ちゃんの仕事内容。全部コピーしてやったわ。いい? よく聞きなさい。あたしたちがこんな仕事内容の情報をよく知らない相手、ましてや表向きの人間に見せつけるだなんてあっちゃいけない行為なんだからね! それに加えてアンタは警察の息子。しかも咲ちゃんを捕まえようと日々奮闘する男のよ。命売ってるような行為なの! 殺されても、なんらおかしくなんかない行為なの! アンタはこの情報を受け取った。今、あたしに。もうアンタは表の社会なんかに帰れない。戻れない。ねえ、どうしたい?」
ふるふると震える手で、サツキさんは俺の手をぎゅっと力強く握った。痛いはずなのに、何も痛くはなくて、蹴られた時と同じくらい優しくて、温かい。
もう一度、温かい風が吹き込む。カーテンをも持ち上げた風は、今度はサツキさんのフードをめくりあげる。
はっと、息をのんだ。
あの人をバカにしたような瞳は、不安でゆらゆらと、ふらふらと揺れている。放って置いたら倒れてしまいそうなほどに。
今にも泣きだしてしまいそうなほどに。
「助けに、行きたい。」
自然に出て行った言葉に驚きを隠せない。でも、それが今、俺が一番強く思ったことなんだ。
はあっと深呼吸して、もう一度口を開く。
「咲を、助けに行きたいです。」
もとからわかってたわ、とでも言いたげにようにふんっと鼻息荒く笑うと、サツキさんはマスクを取った。
「じゃあさっさと支度しなさい。そんな薄汚れたパジャマ姿で、半年ぶりに再会する愛しき人のところへなんか行きたくないでしょ。」
確かに、いわれてみればそうだ。
ぐずぐずと泣いていたせいで目の周りがひりひりと痛い。でも目の痛みも心の痛みも、さっきとは比にならないくらい落ち着いて、もうだいぶいい。熱だってもとから引いていた。学校に行きたくないだけで、嘘をついていたんだ。
ここの空気、ホコリ臭いわね、なんて毒を吐きながらも、俺からスマホを奪っていった。壊されないといいけど。
立ち上がる。ふらふらとすることもなく、しっかりと目についた服へと着替えていく。その間にサツキさんは俺のスマホを勝手に触っていた。勝手にだ。
「ナビ、設定しておいたから。今時、地図片手に走るだなんてバカげているでしょ。あとこの書類は証拠隠滅しないといけないし。内容は軽く書き込んでやったから。さっきばらまいたときに多少は中身、見たでしょ。アンタらはそういうところだけは、目ざといんだから。まったく。」
すごい。そこまで考えていてくれたんだ。ほんわかと胸のところが温かくなる。嬉しい。
ぎゅっと受けとったスマホを握りしめる。こてんと前のほうに倒した頭とスマホがくっついた。
「ありがとう、ございます。」
「いいのよ。」
ぶっきらぼうに返事をした後、ぷいっと俺と視線を切った。でもその瞳はまた俺を映した。にっ、と子供のように、サツキさんは笑った。
「男でしょ。根性見せなさい!」
ばしっと背中を叩かれて、いや押されて、同時に俺は走り出した。
家を出て、どこかもわからない土地へ走った。
とにかく俺は、咲のところへ行かないと。あのクソ野郎からもらった遺伝子にそんなことが組み込まれていたなんて。驚きだ。
今はそんな遺伝子のことなんて関係ない。考えを振り落とすようにぶんぶん頭を左右に振る。隣を通り過ぎた知らない人にすんごい目線で見られたけど、今気にしている時間なんてない。
「っはあ。」
ちょこちょこスマホのナビを確認しながら、走る、走る、走る。
久しぶりに学校以外で家を出た。体力が減っていた。辛い。息が取り込みにくい。それでも、会いたい。だから走る。
昼間はとうに終わった。夕方になった。すぐに日が暮れる。いいよ、俺は戻れなくなってもいいよ。咲とサツキさんと一緒に生き抜くよ。
神様が応援してくれているのかな。信号には一個も引っかかることなく、目的の建物についた。
ここ、だ。
スマホの中の写真と見比べる。古いプレハブ倉庫。ほんとに、漫画見たいな世界だ。
この中に咲がいるんだ。
そう思うと、ドアと壁の区別がついた。日が沈み、月が昇った夜は明るくなんかない。ぱっと見、区別がつかない程に。でもまだ明るい。これから俺は、夜に飛び込む。
バンッッッ!!
躊躇なく、音を立てて入る。
「咲!」
建物の隅々まで、俺の声が響いた。自分で言っておいてだけど、耳がキーンとした。
はっとした顔の咲が俺を見て、目を大きく開く。
「心優。」
小さく、小さく、聞き取るのが大変なくらい小さく弱々しい声で、俺の名をつぶやく。
久しぶりに見た咲は、前とはだいぶ違った。
もとから雪のように白い肌は、最早血色が悪いようにも見え、いい意味でマイペースなその動きのリズムは崩れきっている。自信満々そうで、時折不安げに揺れる瞳は、今はすっかり濁りきっている。俺が褒めた髪の毛だって、俺が触れた時と全く違う。ショートを伸ばしたような髪はボブに近くて、会議の時のサツキさんのように下のほうで小さく一つに縛っていた。
半年間会わないだけでずいぶん変わった。驚くほどに、他の誰かなのかと疑ってしまうほどに変ってしまった。
猫のように瞳を真ん丸にして、俺に向ける。
やっぱり、可愛いな。
変わってしまっても、好きだから。好きだから、可愛い。可愛いから好きなんじゃないよ。
ちゃんと伝えます。ねえ、サツキさん。俺はそれで、立派な大人の仲間入りだ。
悠長にそんなことを考えていると、咲は俺の視界から一瞬にして姿を消す。
今までの考えをかき消して、どこに行ったの、なんて律儀に考えている俺はなんとバカだったらしい。
「くそう。おい! 闇烏のヤツ、逃げたぞ!」
そんなことを叫んでいる間に追いかければいいものを。最近の警察は周りの仲間もいないと動くことさえできないらしい。
誰よりも早くこの場から立ち去ろうとする俺は、何がきっかけか、ふとさっき咲がいた場所を見たんだ。コンクリートに染みる、この小さな丸は、きっと汗なんかじゃない、って。思っちゃったんだ。
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