第3話 アースクエイク
3,アースクエイク
「シャワー。」
単語だけを発して咲は立ち上がる。
サツキさんは腰に手を当てて、怒っている素振りを見せる。
「もー。咲ちゃんったら、ここに来たらそればっかり! あたしのお店は風呂屋じゃありません!」
了承と呼んでいいか分からない返事を聞く前に、咲は奥のほうへ進んでいく。慣れた手つきでタオルと新しい服を棚から出して、俺にはどこにあるかわからない、シャワーを浴びられる奥へと進んだ。
「や、え、待って咲。えっ、えっ。」
声をかけても止まる気配はない。しばらく目で咲を追っていたものの、何をすればいいかわからなくなって目の前にいる人の表情を伺う。くったなく、ひまわりのようににこにこと笑っている。
「えっと。」
「あら、飲んでくれてかまわないのよぉ。ぬるくなっちゃうわ。」
サツキさんがくれたジュースは俺の好きなオレンジジュース。すご、この人……エスパーかなんか?
おかれているコップの周りに水滴がついている。確かに、もうぬるくなっているかもしれない。
おずおずとコップを手に取って、口に近づける。あ、お礼言ってない。口から離して、いただきます、と礼を告げる。サツキさんは笑顔を崩さない。そのまま、ジュースをなんの迷いもなく、俺はガラスのコップに口をつけた。
こくりと喉を鳴らしたあと、ずっと俺のことをサツキさんが見てくる。え、なんかやった俺?
居心地がいいなんてお世辞でも言えない空気に身震いをする。なにか会話なにか会話なにか会話……!
「サツキさんは、えっと、その、咲のお友達なんですか……?」
「あらら、いい子ねぇ。」
んん? 文脈がおかしいけど。会話として成り立ってないんだけど。
「えぇっと。」
「あたしがこんななの、何も言わないなんていい子よぉ。」
「んぇーと。」
「んふふ、かわいいわねぇ。」
「??」
頭の上にクエスチョンマークを二個くらい浮かべて、首を傾げる。ほんとにわからないことをつらつらと右から左に並べられて、ちょっと脳がおかしくなりそう。
「こっちの界隈の人間はね、みんな変わり者なのよ〜。あたしみたいなのがいっぱぁいいるの。咲ちゃんなんて、変わってなさすぎて逆に変わってるけどねぇ〜。」
「え、咲が変わってない?」
「そりゃあねぇ、表の人たちからしたら変わってるかもだけどねぇ。でもまあ、あんなにかわいくて運動もできて、どんなお仕事もすーぐに終わらせられる女の子。ずっとお仕事してるけど、初めて見たわぁ。さすがね、あたしのあ・い・ぼ・うさん♡」
結構名前も広がっているの、そう言ってサツキさんは自分用になのか、逆三角形の形をしたカクテルグラスに三種類のお酒を注いだ。べっこう飴よりも少し薄い黄色に変化したお酒。ぐっと一気飲みして、もう一度注ぐ。今度は回して混ぜながら、瞳を向けられた。
なんだ。咲とサツキさんは相棒だったんだ。
安心して、今度はスイートポテトにフォークを伸ばす。ん、おいし。
「これねぇ、アースクエイクって言って、パンチがきいていておいしいのよねぇ。これを飲むたびに昔のことを思い出すの。あなたも飲んでみるといいわぁ。」
俺には到底早い話だ。へー、と相づちを打ちながら、またジュースを口に含む。
「んぅう。」
なぜだろう。
あくびが急に止まらなくなった。
眠くて眠くて、何度も目を擦る。
するとたちまちサツキさんは、ギラギラと瞳を光らせた。
「あなた。さっきのジュース、飲んだわよね。」
のびのびと語尾を伸ばさずに話すから、さっきとのギャップに心臓が飛び跳ねる。
数秒経ってから、返事しなきゃと口を開いて、
「えっ……あ、はい。」
え、いや、だって、飲んでいいってさっき言わなかったっけ?
俺が返事に困っていると、サツキさんはさらに目を釣り上げた。険悪なムードが辺りを漂う。
「あなた今、ジュースになにか、そうね、毒でも入れられたって一瞬でも考えたかしら?」
「え、毒?」
聞き慣れない言葉に、思わず復唱してしまう。え、なんて言ったのこの人。どく、って、言った?
「率直に聞くわ。あなた、裏の人間じゃないわよね? ……なんで咲と一緒にいるの。」
最後の一言で、さっきまでの空気は、サツキさんにとって子供同士のお遊び程度だったんだと思わせられる。
少したりとも動いてはいけない雰囲気が泥のように体にまとわりつく。瞬きでさえもさせてくれない感覚。
なんで……どうして、こんな中で咲は生きているの?
「いい? 咲はね、すごいの。あんたなんかにとらわれたらダメなの。わかったら、とっとと死になさい。あの子の人生に、あんたなんかいらないの。」
シュッと首元から空気を切った音がする。嫌な汗が頬をつたう。ゆっくりと視線を動かして見てみれば、ひんやりとした感覚の正体はナイフだった。
さっきもされたっていうデジャヴ感と、咲にされたときよりも格段に強くなった殺気に力が抜ける。あ、あれ、おれ、こんなに力弱かったっけ。
「睡眠薬。さっきのジュースに仕込ませてもらったから。その間に、どうなるかわからないねぇ?」
にったりとドス黒く笑ったサツキさんはナイフを思い切り振りかぶる。
死ぬのかな。怖くはない、けど。
最後に扉が開く音がしたのを聞いたことを覚えている。少しずつ、少しずつ抜けていく力と一緒に、俺の記憶がとろりと溶けていった。
――
「サツキさん。」
「あら、咲ちゃん。」
奥から二人がいるところへ戻る。歩く衝動で、髪から雫がぽたぽたと服に落ちては染みる。
心優は机に突っ伏していて、その白い首筋にサツキさんがナイフを光らせている。
「咲ちゃんは優しくないのねぇ。こんな状況を見ても、一切動じないもの。」
心優の背中の真ん前で止まっているナイフを見て、自分もさっきしたのに、少し、心が揺らいだ気がした。それでもそんなことは察しさせない、意地でも隠し通した。
サツキさんは気持ち悪い笑顔じゃなくて、誰かに毒を盛るときのような不思議な笑顔で私の瞳を射止めた。頬はほんのりとピンク色に染まっている。この人、酒飲んだな。
どんなに信頼している相手でも、誰かとこうして一対一で話すのは緊張するのだと、いつの日か彼女は言っていた。自分のことを否定するのではないか。相手が正しいのだと思わされてしまうのではないか。
その不安をすべて打ち消してくれるのが酒なのだと、潰れる寸前まで酔った彼女は言っていた。自分の都合よく物事を忘れられる、忘れたいことを忘れさせてくれる、大切なものなのだと。
机の上には、この人が愛してやまないカクテルが一つ。
アースクエイク。何度も耳に入ってきた単語は、もう忘れることなどできない。この酒が好きなのだと、顔を合わせるたびに聞く気がする。地震にあったかのような強い衝撃がクセになってやめられないらしい。
「いい? 咲ちゃん。この世界はね、甘くないのよ。なんにも脳がないこんなのを連れていたって、なんの利益にもなんないわよ。」
そうでしょうね。私だって殺ろうと思ったわ。
ふらふらと赤ちゃんのようなおぼつかない足取りで心優から遠ざかる。そのままカウンターに向かって、ナイフを置いてからグラスの中身をぐいっと一気飲みした。
「っはぁ。」
飲んだあと特有の声をあげながら、その場にいなかった私には何回目かわからない酒を注ぎ直す。ゆらゆらと、今度は優雅に揺さぶりながら、とろりととろけた瞳で私をゆるく捕まえる。
「どうしてもこの子を助けたいならあたしを殺せばいいわ。まあ、そんなことあなたにはできないと思うけど。」
「何言ってんの。」
少しは頭が冴えてきたのだろうか。
私が口を開くと、真面目なときのサツキさんはたいてい黙っていてくれる。口をつぐんでくれるということはそういうことなのだろう、と自分の都合のいいように解釈する私も私だ。
「大事な収入源、手放すわけないでしょ。」
私もさっきのジュースを口に含んだ。手に水滴がつく。生ぬるいものが口の中に広がって何とも言えない不快感に襲われる。
「あたしが収入源?」
「そうだって。」
何回この酔っ払いに言えばわかるんだろう。この話だって、もう五本の指に収まらないくらいはしたと思うんだけど。
未だに右手の中にすっぽりと収まっていたコップを置く。とろけた飴のような、しかし固まった飴のような瞳を見つめる。当の本人は酒のことしか目に入っていないと見せつけるように、永遠とグラスを揺らす。
「ねえ、私いつも言ってるよね。……脳みそついてんだろ。考えろよ。使えるもんは全部使え。それが私のモットーだ。」
ため息混じりに私は言葉を吐く。
「あたしはモノじゃあないわよ。」
サツキさんはすっとナイフに手を伸ばす。ごつごつした手を横目で見ながら、その瞳を見、いつもとは違う言葉を紡いだ。
「ちげぇよ。サツキさんじゃない。ねえ、あんた、こいつの苗字知ってる?」
「苗字?」
握る直前で白い指がピタリと止まる。
追い打ちをかけるように、にやりと笑ってみせる。気味が悪いとでもいいたいのか、サツキさんの頬にキラリと一筋の汗が流れ落ちる。
「そいつの苗字、陽。陽心優。」
はっと息を飲む音が聞こえたあと、かちゃん、とグラス割れた音がした。
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