十二姉妹

川谷パルテノン

カロン

 もうこれは水ではないのかというほどに希釈したカルピスに想いを馳せた三万年。私は来る手紙を読まずに焼いて後悔を募らせた。近年の研究によればストレスという毒は一度蝕まれると死ぬまで寄生されるらしい。まったく恐ろしい話である。今日もあぶくの調子はいい。マルティアニマと名付けたこの泡は呼吸するのだ。時々破れてしまうがまた再生する。少なくとも私の半分くらいは生きたろうと思う。いつだか命を飼いなさいと節介な爺が宣うた。私は「マルティアニマも命ですよーだ」と軽口を叩くと、爺はマグマの如く憤った。いつまでもお元気で。朝食は固形物であればいい、肴は炙ったイカでいい的な理論。言い聞かせは大事だ。ベッドの上の赤ん坊はいつだってそうやって大きくなってきたはずである。味気ない消しゴムのような肉でも腹を満たせば三歩先では過去になる。なるべく執着せぬように、なるべく苦渋せぬように。開いた本はさっぱり読めない。知らない言語で書かれているので。これを教養と呼ぶのなら学問とはまったくご苦労さまでございます。私にとっては意味不明の本が睡眠薬になりうるといった抜け道であってそれ以上の意味はない。父母が遺した本棚は宇宙であったが生憎私は天文学者ではなかったのだ。日の暮れるまでが異常な早さで、それはきっと居眠りの功罪であったが問題はその先にある。彼女達の来訪。


 私には十一人の姉がいる。皆死んだ。死んだにも関わらず十一人はまだ居るのである。夜になるとガラス窓をわざわざ鳴らせて侵入してくる。「カロン、カロンや」と私の名を呼ぶ。ふざけるな。誰のおかげで私がこんなけったいな邸に住まわされていると思うのか。居たければ居ればいい。なら私を逃してくれ。蓄音機の針をおとす。姉達はこれがたいそう嫌いだった。

「カロンッッ やめてッ」

 口々に悲鳴。とても気分がいい。私は踊る。肩が食器棚にぶつかって陶器の割れる音がする。椅子が転がって脛が痣をつくった。こんなにも愉しいのなら毎晩だっていいだぞバカ女共め。

「カロンッ カロンッ」

 私はやめない。独りにした罰を思い知れ。かりそめの絆なんて犬も食わないさ。



 目覚めると全身に痛みがある。はしゃぎすぎたろうか。片付けは面倒だが老い先と引き換えに指を鳴らして済ませよう。マルティアニマの呼吸を確認してカーテンを開けた。朝だ。旅行にでも、そんな思いつきは三歩先で過去になる。

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十二姉妹 川谷パルテノン @pefnk

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