きっかけなんて些細なもの


 きっかけなんて、いつも些細なものだ。

 良いも悪いも、嬉しいも悲しいも、幸せも不幸せも、生きるも死ぬも。それらはみんな、不安定な精神の上に、乱雑に置かれている。ちょっとした質量の違いやバランスのとり方だけで、あちらこちらに傾いてしまう。

 だから人は簡単に死ぬ。彰が死にたいと思ったことは、特別に不思議なことでもなければ、不幸なことでもない。一型糖尿病という病を抱える紗椰の人生でさえも、些細なことでひっくり返るのかもしれない。それくらい、人生の良し悪しなんていうものはいい加減なものだ。


 彰の人生もまた、その例外ではない。何の役に立つのかもわからない胸筋をちょっと鍛えてそれを褒められただけで、ずっしりと重く地面にめり込んでいた自己肯定感とやらが簡単にプカプカと浮いてくるのだから。それは単に彰が単純な思考回路を持っているというだけではなく、人間の心が本来持ち得る性質なのだ。

 彰に対して悪意を剥き出しにした者から悪意しか感じなかったことと同じように、彰を好いていてくれる人からは好意しか感じない。他人というものは、そうやって容易く自分を揺さぶってくる存在である。


 だからこの日、多宝寺で偶然に石井と居合わせたことは、後に彰の人生を変えたかもしれないが、それもまた些細なことなのだ。



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