片時も離れない


 紗椰が治療室に運ばれてから数十分。薄暗く誰もいない待合室の椅子に座っていた彰は、看護師から声をかけられた。

 治療室に入ると、ベッドで横になった紗椰と目が合った。


 紗椰は、彰を見た。今度は、その先の何かではなく、“彰”を見ていた。


「紗椰⋯」


 彰が声を発したと同時に、紗椰の父が治療室に入ってきた。


「彰君、こんばんは。お、意識戻ってるみたいやな」


 紗椰の父は穏やかな口調でそう言ったが、その額には汗が滲んでいた。娘が重度の低血糖で倒れたのだ。何度か経験しているとはいえ、何も感じないわけはない。それでも紗椰の父は、平静を保とうとし、紗椰に、そして彰にも笑いかけてくれた。

 彰は、そんな紗椰の父に感謝の言葉を言えなかった。言葉が出なかった。足の震えを隠すことと、涙を流さないことに必死だった。


 生き別れた家族と再開した気分だった。先程まで、何度呼びかけても悪い夢から覚めなかった紗椰がこちらを見ている。その瞳には、はっきりと彰が映っている。


「彰、ごめん⋯。救急車呼んでくれたんやね。ありがとう」


「いや、俺は何も⋯。もう大丈夫なん?」


「今、ブドウ糖を静脈注射してもらって。まだ少し血糖値が低いからジュース飲むけど、とりあえず大丈夫やで」


「そうか⋯」


彰の後ろでは、紗椰の父が看護師と話しているのが聞こえた。


「後は経口摂取で大丈夫ですか?」


「はい、あと三十分くらい、ジュースを飲んで血糖値を測りながら安静にして、様子を見ましょう。問題がなければ、今日は家に帰っても大丈夫ですよ」


 「今日」という言葉を聞いて、彰は治療室の中央付近にある掛け時計を見た。ちょうど、日付が変わるところだった。

 看護師は一旦退室した。治療室には、紗椰と彰と、紗椰の父だけになった。


「お前なぁ、引っ越した後は環境が変わるから気をつけろって、あれ程言うたやろうが」


「うーん、気ぃつけてたつもりやねんけど⋯。確かに最近は血糖値は乱れやすかったなぁ。低血糖なんて何年振りやろう⋯」


「彰君、ビックリしたやろう。夜遅いのに、大変やったなぁ。紗椰はもう大丈夫やろうし、あと少ししたら俺が車で二人を家まで送るわ。真冬のこんな時間にそんな格好じゃ、風邪ひくで」


彰は自分が寝間着姿であることに気づいた。気が動転し過ぎると、こういう間抜けなことになるらしい。






 紗椰の父に乗せてもらった車の中で、紗椰はばつが悪そうに言った。


「彰、ほんまにごめんね。早速迷惑かけてしもた。大変やったやろう? 私全然覚えてなくて⋯」


「いや、俺は何もしてへんから。救急隊員の人が助けてくれたから」


「でも、救急車呼んだり、ゼリー食べさせようとしてくれたりしてたんやろ?」


そう言って、紗椰は力なく笑った。


「ありがとう」









 その言葉が、その笑顔が、彰の胸の中にある何かを抉った。自分は、何もしていない。何もできなかった。夫としての役割を、何一つ果たせなかった。

 

 この日、彰は一睡もせずに紗椰の寝顔を見続けた。眠れなかった。眠るのが怖かった。紗椰がまた、悪い夢の中へと堕ちてしまうのではないかと思った。


 紗椰は、今度はいい夢をみているようだった。数時間前までの悪い夢が嘘だったかのように、すやすやと気持ち良さそうに眠っている。普段なら、紗椰の寝顔を見ていると幸福感に溢れる。だが今夜は、己に対する失望と、紗椰を失う恐怖に心を支配されている。


 紗椰とは、片時も離れたくなかった。それは愛という感情とは、まるで違うものだった。







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