6-8 ★もういいか

 

  「屋台」

 いつの間にか兄さん寝ちゃってるね。ありゃりゃ・・

 わたしゃ独り勝手に話し込んでいたってわけだ。

 こりゃぁ参ったなァあはは・・


 差し出された膝掛けを若者の背に掛けた。

 オデンを食い残したままにうたた寝てしまうとは、よほど疲れていたのだろう。

 不快な表情など見せず付き合ってくれた心根の優しい男だと思った。終電に乗り遅れたそもそもの発端はこのわれに起因するのであるから、怒りをぶつけられて当然だ。謝る、それしかないのだ。

 それなのにこの若者は怒りもせずだった。争いごとを避ける枯淡の境地か。

 

 年老いたわが肉体の衰えを思うと、間も無く訪れる死を覚悟せねばならないとふと過った。吾が命と共に人生の終焉を迎えるその刹那に私は何を感じて何に執着するのだろうか。

 微かな寝息を立て眠り込む若者に恋する彼女は彼を見捨てやしまいと思う。

 

 もう、いっぱいもらおうか。

 そだなぁえ~と、うんそれに、昆布巻きと、こんにゃく・もらおうか

 へーい。ありがと。

 お客さん。

 今夜のお月様、綺麗な月ですがねぇ、あたしには寂しそうに視えるのですわ。

 田舎のお月様は仕合せものだよ、お星様を大勢さん連れているからネェ。

 オヤッさんは、どこ、出身なん。

 鹿児島です。

 へ~い、お粗末

 ほう、鹿児島ですか・・

 お粗末という言葉以外しゃべらぬ亭主がしゃべった、珍しいと思った。

 無口な亭主が上野で眺める月を寂しげだといい、田舎の月は賑やかで楽しげだと亭主がいう。


 おでんを頬張りながらずれたひざ掛けを直した。

 青年を見遣りながら・・

 オヤッさん。実は・・わたしネェ、

 自分自身でも気付かぬままに心の中で浮気をしていたと告白したのである。連れ添った女房のほかに、そう、別れていた女への恋慕が続いていたのだと告白をしたのである。その別れた女から煮え湯を飲まされても愛おしさが日々増していた、今もだよ、あの女が愛しいんだ、悔しいけれど、今もこころに居残る存在なんだと切り出した。


 わたしゃぁまったくもってだらしがないねぇ・・ 

 オヤジは無言で鍋のオデン種を直している。

 数年通っているが他の客の噂話など一度もしゃべらぬ口堅いオヤッさんと見込んでの告白である。信頼するに足りる男だと思ってのことだった。

 先客は既に帰っている。居残る客はわれら二人だけになっていたことも、つい告白と言う引き金を引いてしまったのだろう。ひとしきり、遠い昔に別れた女への残愛に責めさいなむこころのうちを口走っていた。


 乾いた下唇を湿らせる酒はぬるい。

 心うちの矛盾を誰にも打ち明けずにいたのは女房との生活を大切に思う心からだった。連れ添う女房に愛を捧げ、同時期にもう一人の女へと愛を隠し持つことはやはり不純だ、世間はそう評価するだろう。まして、当の女房がこころよく認めるはずがない。とすれば、俺は女房を裏切っていたのだ。それが喩え胸の内だけの浮気ごころだとしてもだ。

 冷えた酒を眺める。

 亭主は相変わらず無表情で種の調整をしている。屋台を囲うビニールシートは湯気で曇り内外の視界を遮るも、繁華街の深夜を営む音が無機質に入り込んでくる。

 お父さん、この辺りだと思うの。

 父娘が呼び合う声が聞こえた。

 つづく

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