第15話 些細なこと

 好奇心に満ちた8つの若い眼が、吉野先生に向けられていた。


 それはまるで水の中から取り出したばかりのビー玉のように、キラキラと気持ちの良い輝きを放っている。


 哀れな先生は観念したように項垂れると、オスマン帝国軍の攻撃によって燃え上がるコンスタンティノープルの挿絵が入った教科書のページを閉じた。


「あれはいつだったかな。前の学校の話です。僕が教員になって3年か4年目の事だと思う。新しく担当するクラスでの1回目の授業を思い出します。みんな良い子だったな。まあ結局、終わってしまえば大概が良い子達なんだけど」


「そんなん要らんねん」鋭く、検察官のように萌。「大事なことだけ教えてや」


「え、はい。ごめんなさい。彼女に初めて会ったのは、ようやく3回目の授業の時だったと思います。どこまでやったんだったかな。メソポタミア、いや中国だったかな…?」


「先生!」また萌。


「あっ、ごめんなさい。集中します。ええっと、我々はその時にようやく会ったんです。彼女は、2回連続で休んでいたわけですね。授業が終わった後、彼女を呼んで何処まで授業が進んだかを説明すると、彼女は興味がなさそうに頷きました。『何か質問は?』と聞くと、『何も知らないのに、質問のしようが無い』と言われました。ハハッ、面白くないですか?」


「普通」萌


「と、兎に角、初めて会った時の印象は、何処にでもいる気怠そうな女子高生という感じでした。大人を信頼していないというか、反権力というか、人生を詰まらないと感じているような。あ、貴方達のことでは無いですよ。


 兎に角、余りこちらから色々と言わない方がいいタイプの生徒だなと思ったんです。実際、彼女は授業を休みがちでした。担任の先生に聞くと、一週間の内半分も登校すれば良い方だったそうです。


 その点に関しても、私は余り注意を払いませんでした。薄情かもしれませんが、私は彼女の担任では無かったので。


 けれど思い返してみれば、彼女が私の授業に出ている時は、そこそこ声を掛けたような気がします。彼女が学校を休みがちな理由は良くは知りませんでした。知っても仕方が無かったから。


 ただ、今だから言えるのですが、彼女の歯に衣着せぬ物言いは、私の関心を惹かせるに強力過ぎました。


 彼女と話をしていると、地頭の良さがすぐに分かりました。ただの思春期の反抗じゃ無い。一つの確立した知性があるのだと知って、私は嬉しくなっていたと思います。


 最初の中間考査、彼女は授業を3分の1程しか出席していないのに、クラスで3番目の成績を取りました。『とても素晴らしい。努力したんですね』答案を返す時、思わず私は彼女を褒め称えました。彼女はまた興味なさそうに頷きました。


 今になって思うと、それが全てのきっかけだったのしょう。彼女はそれ以来、私の授業を欠席しなくなりました。最初私は、彼女に何らかの変心があって、学校そのものにキチンとくるようになったと思ったのです。


 ですが聞いてみると、彼女が必ずくるのは世界史がある日だけだということでした。私はそれを聞いて嬉しい反面、不安を覚えました」


「どうして?」幸乃が尋ねる。「女子高生に好かれたら、普通は嬉しいものでしょ?」


「それは、部分的はそうかもしれません。でもその時の私は、彼女と学校の繋がりが、自分の一人の肩に掛かっていると思ったんです。実際担任の先生から、彼女がもっと学校に来るよう説得してくれと頼まれました。


 私は数回、それとなく彼女に尋ねました。『何か学校に来れない問題があるのかい? 何でも言って欲しい。私達教員はいつでも君の力になるから』


 でもそう言うと、彼女はいつも黙り、はぐらかしてしまうのでした。小心な私はそんな彼女を観るのが嫌で、いつしかその手の話をするのをやめました。


 彼女はそれが気に入ったのか、昼休みや放課後になる度、私に会いに来ました。学校中の噂になるのは当然でしょう。あの頃は、教師と生徒両方から白眼視されていたような気がします。


 でも彼女は全く気にしていないようでした。小心者の私があの環境に耐えられたのも、彼女のおかげかもしれなかった。もしかしたら、早い段階で我々は共依存していたのかも」


「も、もしかしテ…」頬を紅潮させたレーカが尋ねた。「が、学内恋愛ですカ? 教師と生徒で?」


「周りからはそう見えたかもしれない。でも私は神仏に誓って、世間一般が邪推するようなことはしませんでした。自分で言うのも変ですが、私は教師と生徒の恋愛には反対です。


 何故なら、2人の立場は公平で無いから。教師は自分の社会的地位を利用し、まだ社会を知らない生徒は恋をしていると思い込んでいる。そういう図式が、私には苦手でした。


 正直な所、彼女と過ごす時間はとても楽しかった。1を話せば10の回答が返ってくる。彼女は時として、私の同年代よりも大人っぽく見えることもあった。でもそんな時、私は彼女の子供らしさが、私のせいで失われることを恐れました。


 私は、私自身が彼女を変えることが嫌だった。光源氏と若紫の話はご存知ですか? あれは私が考える最悪の男性像です。好きな人がいたらごめんなさい。


 それである時、彼女に言ったんです。『はっきり言って君と過ごす時間は最高に楽しい。でも君はまだ若い。その若さの捌け口は、同年代同士の関係でないと発散出来ないこともある。たまにはそうやって遊んでみたらどうだい』と。


 案の定、彼女は怒りました。それは私が初めてみた彼女の感情的な姿でした。『勝手に自分の幸せを決めないで。信じられない。どうしてそんなことを言うの。貴方もあいつらと一緒よ』彼女はそんな事を言いました。


 全くその通りでした。私は、自分が求める理想が故に、彼女を蔑ろにしたんです。本質的に、結局は私も光源氏と同じような存在であったということですね」


「それで」萌は唾を飲み込んだ。「その後、どうなったん?」


「彼女は私の許に来なくなりました。だがそれと反比例するように、学校には来るようになったんです。担任の先生はホッとしたようでした。元々頭の良い子だから、大変ではあったけど、直ぐに授業には追いつきました。


 私と彼女の噂は、いつしか私が彼女に振られたという噂に変わりました。その噂自体は滑稽で面白かった。だが、彼女に嫌われたという事実は、私を痛く傷つけました。これで良いのだという僅かばかりの理性が、後悔という感情をなんとか押さえつけているようでしたね。


 彼女とキチンと会ったのは、卒業式でした。担当するクラスもなく、変な噂のせいで会いにくる生徒もいないような私は、式典が終わるとさっさと職員室に戻りました。


 驚きましたよ。扉の前に、卒業生用の造花を胸につけた彼女が立っていたんです。『話がある』怒ったような顔で彼女は言いました。私は覚悟を決めました。辺りには我々の他には誰もいなかった。


 私はまず『卒業おめでとう。本当に良かった。自分のことの様に嬉しい』と言いました。 彼女は怒った顔のまま頷きました。


 言葉に言い表せないほどの怒りなのか、彼女は私を睨みつけ、その場に立ち尽くしていました。私は漠然と、殺されるのかなと思いました。でも幸運にも、殺されずに済みました。


 『先生』その時点で、彼女はすでに泣いているようでした。『私、やっぱり貴方が好き』彼女はようやくそれだけ言ったんです。


 泣きながら彼女は、私のする授業が本当に楽しかったこと、自分のせいで私に迷惑を掛けたこと、頑張ってみたが自分の気持ちに嘘はつけないこと。そして、最初から全てダメだとわかっているので、この願いを断っても一向に構わないこと、言いました」


「なんて返したんです?」


 少しの息継ぎの時間を突いて、それまで黙っていた飛鳥が尋ねた。その手は興奮の余り汗に濡れ、上体は机の端を大きく飛び出している。


「なんと言ったら良いか、その。言っても怒りませんか?」


「良いから早よ言え!」萌が怒鳴る。


「いや、その。私は『良いよ』と言ったんです。そこまで言うならしょうがない。『今ままで黙っていたけど、自分も貴方が好きだ』と言ったんです。彼女は目を真っ赤にしながら、驚いたように私の方を見ていました。意外だったようです。


 お互いの気持ちが分かった以上、嘘を言うのは止めようと思ったんです。私は、彼女がそれで喜ぶと思っていました。でも彼女は黙ったままです。『どうしたんだい?』自分は弱気になって、彼女に尋ねました。


『良いの?』彼女はまた怒ったような顔になって戻っていました。『本当に? 私、本気よ。同情ならやめて。自分だけが利口だと思わないで、殺そうと思えば、いつでも殺せるんだから。今度私を捨てたら、今度こそ貴方を殺す』


『絶対に殺されないよ』私は言いました。その代わり、時間を設けようと言いました。彼女は進学が決まっていたので、色んな勉強をして、色んな人で出会い、色んな物を見て、色んな事を感じた後に、それでも私でいいなら、と言うことにしたんです」


「まどろっこしいなあ。18歳になったら結婚できるんやろ?」


「生物学的にはそうです。ですが、精神はそう簡単じゃない。最も、彼女の場合は特別だったのかもしれない。恐らく、自分の気持ちが決して変わらないことを理解していたんでしょう。それか、自分以外に私と一緒になってくれる生物がいないと思ったのか」


「どういう意味ですか?」幸乃が尋ねる。


「まあ、その、なんというか。こういうことです」


 吉野先生は、自身の左手の薬指を8つの眼の前に晒して見せた。そこには小さいながら、黄金の輝きを放つ指輪がはまっている。


 その環状の装飾品は先生の給料半年分の価値があるのみならず、別離を経ても尚途切れなかった2人の激しいばかりの感情の証であった。


 4人の女子高生達は声を上げた。放課後の校舎に、勝利の歓声が響き渡る。こうして世界史の講習の時間は終わった。


 吉野先生は、全く授業が進まなかった事を残念がった。けれど、今日家に帰って妻に話すべきことが出来たので、それはそれで良いことだと思うことにした。






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