第10話 偉大な戦い

 人類が戦いを初めて以来、太陽はそれを一つ漏らさず観ていた。


 テルモピュライ、カンナエ、ワールシュタット、アルマダ、関ヶ原、アウステルリッツ、ディエンビエンフー。その他偉大な戦いを、太陽は全て見届けたのである。


 そして今日、太陽はまた1つの偉大な戦いを目にしようとしていた。それは人類史には何ら影響を与えないけども、1人の少女にとっては、宇宙の始まりよりも大きな意味を持っていた。


「サボりやがって、幸乃のヤツ」

 

 腕を伸ばしながら萌は言った。口ではそう言いつつ、萌は去年のマラソン大会で、幸乃がどんな目にあったのかをまだ鮮明に覚えていた。


 哀れな親友は、規定の3周を走り切る前に倒れ、保健室に運ばれたのだった。運ばれる前に萌が観た幸乃の顔が青ざめ、唇は微かに震えていた。


 恥ずかしくて誰にも言わなかったが、その時初めて萌は人間の死について考えた。だから内心では、自分の前で倒れられるよりは、学校をサボってくれた方が萌にとっては良かった。


「ねえ、3人で一緒に走らなイ?」


 身体を温めるために、両手を擦り合わせながらレーカが言った。寒さのせいで、鼻と耳は真っ赤になっている。


「ごめん。わたしは部活仲間とタイム競ってるから」

 

 アキレス腱を伸ばしながら飛鳥が言った。飛鳥は部活の時と同じように、ヘアバンドで髪をまとめていた。冬にも関わらず半袖半ズボンの飛鳥は、殆どが長袖長ズボンの女子生徒の中では一際目立った。


「そウ。じゃあ、萌と二人で走るワ」 

「ごめん。ウチも今日はちょっと本気だすわ」


「な、何デ? ていうか、走れるノ?」

「ちょっとは走れるよ、中学んときはバスケ部やったし。特に理由は無いけど、今日は久し振りに本気出したいんよ。ほんまごめんな」


 レーカはあからさまにがっかりすると、何事かをハンガリー語で呟いた。


「何? どういう意味?」

「主よ、なぜ眠っておられるのですか、って言ったのヨ」


「ああ、そう」萌はそう言った後、心のなかでもう一度(何? どういう意味?)と呟いた。

 

 始まりの時刻になって、学生たちはスタートラインに集まった。泣きそうになっているレーカは集団の後ろ、萌は真ん中、飛鳥は最前列だった。


 「パアン」という破裂音が鳴って、学生たちは一斉に走り出した。

 

 飛鳥達、運動部に所属している女子生徒達がそのまま先頭を突っ走り、流れを作った。萌は冷静に、先頭集団と最も数が多い中盤集団の間を維持しつつ、先頭集団の出方を伺っていた。


 「フッフッ、ハッハッ」と規則正しく呼吸をしながら、萌の頭は一つのことだけを考えていた。それは幸乃のことだった。


 1年前の苦しそうな大親友の顔を思い出すたび、萌は身体の内側が燃える様な気分になった。


 萌はその感情をうまく説明することが出来なかったが、どうすればその気持を鎮められることができるのか、何となく検討はついていた。


 (ウチのダチを苦しませやがって、絶対許さへんぞ)心のなかで萌は思わず呟いた。萌は絶対に、このマラソン大会を制覇するつもりだったのだ。


 萌は決して、この学校やこの世界を恨んではいなかったが、それでも幸乃の辛そうな顔を思い出すたび、自分の中に不思議な感情が湧き上がるのをとめることが出来なかった。


 そしてその感情を鎮めるには、自分がマラソン大会のチャンピョンになるしかない、と萌は固く信じていた。

 

 3週目に差し掛かる頃、飛鳥達先頭集団は勝負に出た。萌は必死に食い下がっていたが、如何せん、現役の運動部の方に歩があった。


 身体中の節々が悲鳴をあげ、痛みと苦しさが萌の頭を占領したが、萌はそれらを全て忘れることにして、懸命に走り続けた

 

 そして最後の直線に差し掛かった時、萌の闘志は燃え上がり、ボロボロの足は今一度元気を取り戻した。


 がむしゃらに萌が次々に先頭集団を追い抜かしていくたび、運動部の連中は信じられないようなものを観る目つきで萌を観た。

 

 異常に気付いた飛鳥が後ろを振り向くと、後ろで一つにまとめた長く美しい髪を振り乱しながら走る萌と目があった。

 

 飛鳥は慌てて前を向くと、目の前に観えるゴールテープめがけ、最後の力を振り絞った。


 だが焦ったためか、足がもつれて態勢を崩した刹那、暴走列車の様に萌が隣を駆け抜けていった。


 飛鳥は地面に落とされたゴールテープを踏みつけると、自分の目の前に立っている親友に笑いかけた。


「凄いね」

「なんか勝ってもうたわ」

 

 萌が肩で息をするたび、汗が頬を伝って落ちていった。萌は、全ての勝者がそうするように、両手を腰にあてて、太陽を見上げてた。


 足が震えて力が入らなかったので、本当は座りたかったが、それでは負けのような気がして、なんとか立っていた。

 

 それから10分程たって、顔を真赤にしたレーカが倒れ込むようにゴールした。萌と飛鳥はレーカを抱きかかえると、近くの木にもたれさせた。その木には他にも数人の女子生徒がもたれかかっている。


「わたし、死んだノ?」息も絶え絶えにレーカは言った。


「生きてるで。よく最後まで走ったな」

「あっそウ。生きてるならいいワ。死ぬよりかはマシだもノ」


 そう言うと、レーカはまた何事かをハンガリー語で呟いた。


「何? どういう意味?」

「主よ、あわれみたまえ、って言ったのよ」


 萌が「日本語で言われてもわからんわ」と言おうとした時、飛鳥が言った。


「萌がこんなに強いとは思わなかった。でも来年は絶対勝つよ」

「いや、ええわ。こんな大会二度と出えへん。来年はウチも幸乃と一緒にサボるわ」

 

 言った途端、萌の心は鳥の羽のように軽くなった。ようやく幸乃に対する仕打ちへの仕返しが済んだような気がした萌は、困惑する飛鳥を横目にニヤリと笑った。


「いい考えヨ。私も来年は休むことにすル」少し元気を取り戻したレーカが言った。


「ええなあ。せっかくやし3人で遊びにでも行くか。で、飛鳥はどうするん?」


 飛鳥は萌とレーカの顔を交互に観ると、苦笑しながら言った。


「どうしよかな。まあ、考えとくわ」


 親友の萌には、それが「OK」の意味であることが分かっていた。それから萌は、「ふうん」と小さく鼻息を吹いた。それは、何か偉大な仕事をやり遂げた人間のやる仕草のようだった。

 

 こうして太陽はまた一つ、人類の偉大な戦いを目にした。それは久し振りに最初から最後まで見るに値する戦いであり、かつここ1000年ほどでは珍しく、未来に明るい希望をもたらすものでもあった。


 それゆえ太陽は、疲れ切った萌が午後の授業を寝過ごすまでの、全てを楽しんで観ていたのだった。

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