第9話 アイ・ラブ・ユー
その日の帰り道は図ったように雨だった。しかもただの雨ではなく、スコールのように猛烈なやつである。
道路の側溝をゴボゴボと音を立てて流れる濁流を観ていると、幸乃は自分が遠く離れた南方の国にいるような気がした。
それは自分という惨めで哀れな1人の少女の心情を如実に表しており、こういう時、幸乃は不本意ながらこの世界はよく出来ていると思うのだった。
「終わった。きっと神の国の軍隊がやって来て、あたしを捕まえに来る」
幸乃は以前父親から借りて読んだ小説の一節を思い出して、言った。小説の内容は覚えていなかったが、この一節だけは覚えていた。きっと、今この瞬間のために覚えていたのだと幸乃は思った。
「アホすぎる」右隣を歩いていた萌が言った。
「だから、あんだけ勉強しろっていったのに。ウチの忠告を聞かんからや」
「忠告されてもできないのが悲しい人間のさがなんだよ。人は皆、悲しみを抱えているんだ。あんただってそうでしょ?」
「やかましい。英語で赤点とったヤツが偉そうに口答えすな」
怒った萌が自分の傘を軽く幸乃の傘にぶつけると、粒状の雫が飛び散った。幸乃は地面に落ちていく雫を、まるで自分の分身であるかのように、哀れみを持って見つめていた。
「不思議だよネ。海外の映画やドラマをしょっちゅう観ているのに、英語で欠点とるなんテ」
2人の後ろを歩くレーカが言った。本来いるはずの4人目、飛鳥は部活でいなかった。
「実際、リスニングだけは良かったんだよ。音は聞き取れるけど、文章にされると分からない」
「耳は良いのネ。まあ期末で頑張れば良いのヨ。わたしがいくらで教えてあげるかラ」
「あんまり甘くすると、付けあがるで、こいつ」
「でも幸乃が期末でも赤点を取ったら、補講で冬休み遊べなくなるのヨ」
「別にこいつがおらんでも」と言い掛けて、萌は口をつぐんだ。口では勇猛だったが、幸乃という親友が一人欠けた冬休みを想像するだけで、萌の若い眉間にシワが出来た。
「幸乃、おまえ期末は死にものぐるいで勉強せえよ」
「まかせておけ」
幸乃はまっすぐ前を見据えて言った。冬休みに遊ぶことを考えて、幸乃も俄然やる気になった。
冬が大嫌いな幸乃にとって、大親友と気晴らしが出来ないことは、死ぬことと一緒であった。
「というか、レーカって英語も得意なん?」
「得意かどうかは分からないけど、まあまあ出来るワ。あなた達と知り合う前は、勉強するぐらいしかやることなかったし」
「すごい、なんか喋ってよ」
「なんやねん、その頭の悪いお願い」萌が呆れた顔で言った。
「喋るって、何ヲ?」
「何でも、英語のかっこいいセリフが良い」
そう言われて、レーカは少し考えると、言った。
「What's in a name? That which we call a rose. By any other name would smell as sweet」
レーカは自信たっぷりと、まるで詩人のように情緒豊かに言ったので、「凄い!」と幸乃は目を輝かせて喜び、萌も「へえ」と驚いた。
「カッコいいなあ、誰のセリフ、それ?」
「誰だったかなア。多分シェイクスピアものネ。カッコいいから覚えてタ。簡単なものだし、大したことヨ」
「凄いなあ、レーカは日本語とハンガリー語と英語ができるんか。大したもんやな」
萌が感心したようにそう呟くと、レーカもまんざらではなかった。それは自分がこれまでしてきたことへの賞賛であり、自分の人生への肯定でもあったからだった。
「まあでも、あたしも英文の暗唱ぐらいなら出来るけどね」
「へエ。聞きたいワ」
胡散臭そうに萌が、楽しそうにレーカが見つめる中、幸乃はまるで自分が今国連の議場にいて、世界に向けてとても重要なメッセージを伝えなければいけないという風に、胸を張って言った。
「アイ・ラブ・ユー」
「なんやねん、それ」
「アイ・ラブ・ユー」
「もう聞いたわ」
「アイ・ラブ・ユー」
「それしか言わへんやん」半分呆れ、半分愉快そうに萌が言い、「上手ネ」と笑いながらレーカが言った。
「他に何かないんか」
「全部一緒だと思ってるでしょ? ちゃんとよく聞いてて」
幸乃はそう言うと、息を吸い込み、そして吐いた。
「アイ・ラブ・ユー」最初は若いカップルがふざけながら言うように。
「アイ・ラブ・ユー」次は、日が沈むまで外で遊んでいた子供を叱る母親が言うように。
「アイ・ラブ・ユー」今度は、戦場から帰ってきた兵士が家族に言うように。
「アイ・ラブ・ユー」そして、白髪交じりの老人が、亡き人の写真に向かって言うように。
「アイ・ラブ・ユー」最後は、目の前にいる親友に向けて言うように。
「どうだった?」
幸乃が聞くと、「違いがわからんし、おもんない」と耳を赤くした萌が言い、「素晴らしい演技力だったワ。最高ネ」と満面の笑みを浮かべたレーカが言った。
「じゃあ、今度はそっちの番」
「は? どういう意味やねん」
「あたしがいっぱいアイ・ラブ・ユーって言ったから、次はそっちが言うってこと」
「何やねん、そのルール。初めて聞いたぞ」
「そりゃあそうよ、言ってないから」
「アホアホ、ウチはそんなんせえへんで」
萌は明らかに不満そうな表情を浮かべて嫌がったが、レーカは乗り気だった。日本の田舎に似合わないコーカソイドのこの少女は、今この瞬間、この場にいるということが楽しくてたまらないのだった。
「良いよ、わたしから言おうカ」
「素晴らしい。じゃあ、レーカはハンガリー語で言ってよ。あたしハンガリー語が聞きたいな」
「良いヨ」二人の親友の顔を交互に観て、レーカは言った。
「Szeretlek」
それは自分が想像していたような愛の響きではなかったが、直ぐに自分の知らない愛の響きに幸乃は慣れた。一度知ってしまうと、なんだかそれはこの上なく美しい響きであるように思えてしまう。
「本当に? 本当にレーカはあたしたちのことをそう思ってんの?」
「私の言葉を聞いたでしョ? それが答えヨ」
そう言って、2人は笑った。そして笑った後、2人はもう1人の親友を見咎めた。
「観念しろ、ミャンマー人」
「勝手にお前らが言ってるだけやん。なんでウチまで言わなあかんねん」
「どうしたの、恥ずかしいノ?」
「恥ずいやろ。当たり前やん」
「親友に嘘つくほうが恥ずかしいんじゃなイ?」
レーカに言われて、萌は法廷で裁判長を前にした罪人のような気持ちになった。汗ばんだ襟が首に張り付き、背中を気持ちの悪い感触が伝った。
「言うけど、笑わんといてや」
萌が珍しく自身なさげにそう言うと、二人は黙って頷いた。
「 ကြိုက်တယ်」
それはまた幸乃が知らない愛の響きだった。だが僅かばかりの違和感もつかの間、それは直ぐに幸乃にとって美しい響きとなって、耳に残った。
いつも一緒に過ごす親友が、自分の全く知らない愛の響きを持っていること事実は、幸乃の鼓動を加速させた。
「どうやった?」
「最高だよ」
「最高ネ」
2人は心の底から言ったのだが、肝心の言われた側は耳を通り越して、顔全体がバラの花のように真っ赤になってしまった。
「アイ・ラブ・ユー・ソー・マッチ」とてつもなく嬉しくなった幸乃が言った。
「Én szeretlek a legjobban」この上なく嬉しくなったレーカが言った。
「အရမး ကြိုက်တယ်」やけくそで萌が言った。
3人は全く異なる言語で言ったのに、不思議なことにその響きは全く一緒なのだった。
それは言語と同じように、異なる地域と文化においても、人は結局同じことを考えることの証だったので、幸乃はこの世界に敵がいないことを知り、英語の欠点のことも忘れて有頂天だった。
降り続ける雨ですら、幸乃の気分を害することはできなかった。
「なんやねんこれ」疲れ切った表情で萌が言った。
「とにかくこれで期末もバッチリ」
幸乃が自信満々にそう言うと、「そうだね、バッチリ」とレーカもそれに賛成した。
「ハンガリー語とミャンマー語で愛してるって言われただけで何になんねん」
いつもの調子を取り戻した萌が言った。
「どうかな。期末の英語は知らないけど、あたしが生きる上では凄く役に立ったと思うな」
萌はその言葉を全く信じていなかったが、幸乃が期末の英語でなんとか赤点を回避し、素晴らしい冬休みを一緒におくれることが決まると、何となくその理由が分かる気がした。
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