第5話 灰暗色の眼(中)
幸乃はハンガリーという国を観たことも聞いたこともなかったけれど、目の前にある家が全くハンガリー風でないことだけは分かったし、なんなら、自分の家と転校生の家との間の明確な違いを見つけることもできなかった。
「ネーメト」とカタカナとアルファベットで書かれた表札の隣にあるインターホンを押そうとして、幸乃は動きを止めた。
僅かばかりの逡巡の後、心の中の萌が「早よ押せ、アホ」と言い、心の中の飛鳥が黙って頷いたので、幸乃はインターホンを押した。
家の中で何度かチャイム音が鳴った後、「はイ」という低い男の声がインターホンから聞こえてきた。
「こ、こんにちは。はじめまして、レーカさんの友達の京終といいます。学校のプリントを持ってきました。あの、今日はレーカさんがお休みだったので」
言い終わるやいなや玄関の扉が開いて、ダルマのような髭面の大男が出てきた。大男は幸乃の分からぬ言語で何かを言うと、幸乃を上から下までジッと観察した。
「レーカの、友達?」
「ええ、まあ、はい」
大男は信じられないような顔をして、少し何かを考えた後、幸乃を家に入れた。
「友達、レーカノ?」
「はい、ええ、まあ」
信じられないようなものを観る目つきで観られたので、幸乃も負けじと相手を見返した。髪の毛は栗毛で、眼は青かった。
「待っテ、ちょっと待っテ」
髭ダルマはそう言うと、玄関の左手にある階段の方を振り返り、二階に向かって外国語で何かを言った。返事がなかったので、次第にその外国語はとても大きなものになった。
幸乃が初めて聞くハンガリー語は、決して美しいものでは無かった。だが不快ではなかったし、きっと聞いているうちに自分にとって素晴らしいものになるように思われた。
「レーカの友達。待っテ、ちょっと待っテ」
転校生の父親は幸乃に笑顔を観せながら言った。それは笑っているのに泣いているようでもあり、疲れているようにも観える不思議な表情だった。
少しして、ゆっくりと階段を降りてくる足音が聞こえた。
「何しに来たノ?」足音の主は、一階の廊下に立つ幸乃に向かって冷たく言い放った。
「あの、えっとプリントを」
「あなた、何が目的なノ? そんなに私を追い詰めたいノ?」
慌てて父親が割って入り、父と娘はハンガリー語で言い争いを初めた。幸乃はただ黙って見守るしかなかった。
2人共盛んに何かを喋っていたが、しまいに娘は黙り、最後には父の声だけが残った。その声は悲痛な響きを持っていて、何かを嘆願しているように幸乃には思えた。
娘は諦めたのか、幸乃を睨みながら、こっちに来いというように顎を動かした。
「お邪魔します」幸乃が階段を登ると、父親が「どうゾ、どうゾ」と言って、またあの不思議な表情を浮かべた。
◇
転校生の部屋には必要最低限の家具しか置かれておらず、ここに来たばかりか、もしくは逆にこれからいなくなる人間の部屋のように観えた。
ベットのシーツと布団は皺くちゃで、転校生が今さっきまで寝ていたことを物語っている。よく見れば、本人の髪にも寝癖がついていた。
「で、何のよウ」部屋の真ん中で立ったまま転校生が言った。
「プリントを持ってきた」部屋の隅で立ったまま幸乃が答えた。
「嘘つキ。私に意地悪するために来たんでしョ」
「いや、ただプリントを持ってきただけ」
幸乃は鞄からプリントを出すと、転校生に差し出した。転校生はそれを受け取ると、そのまま観ずに机の上に捨てるように置いた。
その机の上に1枚の写真が置いてあることに幸乃は気付いた。それは転校生によく似た顔の、素晴らしく美しい女性の写真だった。
「済んだわネ。じゃあ帰っテ」
「いや、やっぱりもう1つ用事がある」
「やっぱり嘘つきじゃなイ。頼むから帰ってヨ。私が何したって言うのヨ」
「いや、悪いのはあたし。すぐ済むからお願い。聞いてくれたら、帰るから」
「じゃあ早く喋っテ、わたしすごく頭が痛いのヨ」
そう言って、転校生はベッドを背もたれにして床に座った。幸乃が「あたしも座っていい?」と聞くと、「ン」とだけ返答があった。
幸乃は必死に、体育の時間のことと転校生を付け回したことを謝った。転校生はベッドにもたれ、目をつむりながら幸乃の話を聞いていた。
「そう、分かったワ。わたしも悪かったし、これからはお互いに関わらないようにしましョ。楽しかったワ。じゃあ帰っテ」
確かに一瞬、転校生にそう言われて幸乃は帰ろうと思った。
転校生は本当に辛そうだったし、自分が好かれていないことは明らかだった。だがそれでも、ここで引いてはいけないと幸乃の中の何かが囁いていた。
それは幸乃の親友の萌であり、飛鳥であり、今まで読んできた本や観てきた映画の中の登場人物であり、そして神様のような気がした。
だから幸乃は踏ん張ることにした。もし駄目なら、ここで死んでもいいとさえ思った。
「いや、やっぱりもう一つ。あたし、あんたと友達になりたい」
「嘘でしョ?」ため息まじりに転校生は言った。
「あなたって、とんでもない嘘つきネ」
「あたし、どうしてもあんたと友達になりたい。それで、もし嫌ならその理由を話して。それが済んだら、こんどこそ本当に帰る。
でもそれまでは絶対にこの部屋にいる。あんたのお父さんに怒られたって、ここを動かない!」
幸乃はそう威勢よく啖呵を切ったが、頭の中でさっきの大男を思い浮かべて、正直な所、血の気が引いた。
「安心しなよ、きっとパパはあなたの味方ヨ。とんでもないヤツね、あたしも馬鹿ヨ。じゃあ、今度こそ帰ってヨ」
そう言ってから、しばらく転校生は目をつむったまま何も言わなかった。幸乃は一瞬、転校生が死んでしまったのではないかと焦ったが、口を開いたので、安堵した。
「あなた、想像できル? 子供の頃に、住み慣れた家や、仲の良い友達と引き離されて、知らない場所に連れてこられるってことヲ? 観たことも聞いたこともない場所、パパだって不安だったにちがいないワ。
子供はすぐ慣れるって言うけど、それも人それぞれヨ。上手くいく時もあるし、そうじゃない時もあるワ。私は自分では頑張った方だと思うけど、でももっといいやり方があったのかも知れなイ。まあ、全部どうでもいいのヨ。
最初は言葉だったワ。一生懸命頑張ったけど、駄目だっタ。頑張ったけど、馬鹿にされたワ。言葉の次は考え方。その次は容姿。なんで外国人なのに、金髪碧眼じゃないの? だってサ。
そばかすはペンのシミみたいだっテ。髪を引っ張られるたび、心臓も引っ張られるみたいだっタ。目の色は骨を燃やした灰のようだっテ。よく思いつくわね、そんな酷いこト。
最悪なのは、それがどこに行っても続くってこト。もう無駄ネ。この国で十数年頑張ったけど、もう無理ヨ。でも、故郷にも帰れないワ。帰ったって、向こうのこともほとんど知らないもノ。
きっと馬鹿にされるワ。私なんて一人ぼっちヨ。パパはいるけど、それでも一人ぼっちヨ。どうしたら良いノ? どうすれば救われるノ? もううんざりヨ」
幸乃は口を開けたまま黙っていた。聞きながら、今自分が何を言うべきか、何をするべきかをずっと考えていたが、結局良い考えは浮かばず、黙ることしかできなかった。
ようやく転校生の美しい灰暗色の瞳の謎を知ることができても、その理由は余りにも自分にとって辛かった。その後もずっと幸乃は黙って、灰暗色の瞳を通じて観たこの世の辛さと悲しさを聞いていた。
「分かってるワ。私が全部悪いのヨ。上手くやれない私がネ。馬鹿よ、私っテ。だってあなたみたいなヤツに、こんなこと話してるんだもノ。全部本当のことよ。だって私はあなみたいに嘘をついたりしないもの。」
「あの、ここの人達が憎い? この国のことが嫌いになった?」
ようやく幸乃は口を開いた。何をすることが正しいのか分からなかったが、ただ微かな希望をもって、縋るように幸乃は転校生に聞いた。
「憎むのは簡単ヨ。嫌いになるのもネ。あたしもずっとそうしようとしてきたもノ。でも全て嫌いになることはできないのヨ」
「それはどうして?」
「どうしてって」そこまで言って、転校生は泣き出してしまった。
「それがママの望みだからよ。この国が大好きだったママのネ。ママも馬鹿よ、私を産んだだけのことはあル。だって行ったこともないような国を愛してたんだもノ。
死んだ人の願いを律儀に守って、パパもわたしもこんな辺鄙な島に暮らしてるのヨ。だからこの国を全部嫌いになることなんてできないワ。
もしそうしたら、ママのことも嫌いになるってことだもノ。そんなことしたら、私の生きる理由がなくなるじゃなイ」
人目を憚らず、顔を覆って転校生は泣いた。幸乃はまた何もすることができず、黙って観ていることしかできなかった。
しばらくして、なんとか転校生は落ち着いたようだった。
「もう良いでしョ。満足したでしョ。これで全部よ、良い証拠ができたんじゃない?」
「証拠ってなんの?」
「私に意地悪できる証拠ヨ。だってこんなこと話したのってあなただけだもノ。別にいいワ。学校中に言いふらせば良イ。生意気な外国人だっテ。そうすれば全部パパに話して、この島を出るワ」
「島を出るって?」
「故郷に帰るのよ、ハンガリーヘ。ここと対して変わらないだろうけど、少なくとも容姿に文句を言われることはないワ」
「帰っちゃうの?」
言わなければ良いのに、口に出してしまったものだから、その響きが余りにも悲しく、幸乃は思わず泣いてしまった。
転校生にどれだけ嫌われようと構わなかったし、転校生の辛い身の上を聞いても、義憤に駆られるばかりで涙は出なかった。
だが目の前にいる存在が、自分の手の届かない所に行ってしまうことを考えると、幸乃はもう耐えることができなかった。それは死別と同じぐらい辛いことだった。
「あなたって嘘つきな上に、大馬鹿なのネ。私達の間に何もないのに、どうして泣くのヨ」
「泣くよ。あたし、あんたにどれだけ嫌われたって構わないけど、あんたがいなくなったら、泣くほど悲しいに決まってる。
確かに私達の間にはまだ何もないけど、それでもあんたはあたしの生きる理由の一つだもの。少なくともこの一週間、あたしはあんたに謝ることを生きがいにしてきたんだから」
そういって幸乃はまた泣き出した。転校生は自分の部屋で大泣きする日本人の少女に呆れて、自分が泣く理由を忘れてしまった。いつの間にか、転校生より幸乃の方が目が赤くなっている。
「よくわからないけド、悪かったワ。あなたはそんなに悪いヤツじゃないのかモ。もう少し泣いててもいいけど、気が済んだら帰っテ」
「いや帰らない」
だが涙を止めようともせず、幸乃は言った。
「やっぱりあたしはあんたと友達になる。あたしはずっとあんたのその綺麗な眼が笑ってないことが気になってたの。どうして怒ってるんだろうって。
でもやっと分かったわ。怒ってるんじゃなくて、悲しかったんだ。それと、友達を作るのが怖かったんでしょ? いつ裏切られるか分からないから。違う? あたしは絶対あんたを裏切らない。命をかけてもいい。
だからあたしと友達になって。あたしと、もう2人の親友の友達になって。そいつらもあたしと同じぐらいか、それ以上にいいヤツよ。本当だから。
もし騙してたら、あたしとそいつらを殺して、それからハンガリーに帰って。お願いよ、チャンスを頂戴。お願い」
幸乃が泣きつつ、半ば怒鳴りながらそう言うと、流石の転校生も慌ててしまった。いつの間にか、立場が逆転してしまっている。
「分かったワ。考えてみるから、だから落ち着いテ」
「はいかいいえ。お願い、はいと言って。絶対後悔はさせないから」
「分かったワ。はい、はいヨ。友達になってあげるワ。上手くやれるかわからないけド」
「絶対よ。それで、いつでも良いから学校に来て。だから絶対死なないで」
「ちょっと身体がダルいだけヨ。転校したての時はいつもこうなノ。これぐらいで死んだりしないかラ」
「きっとよ、あんたが死んだらあたしも死ぬから」
幸乃は鞄を持ち、「またね」と言って足早に部屋を出ると、階段を降りていった。
あとに残されたレーカは、しばらく呆然とし、それから部屋の中を歩き回った後、机の上に置いてる女性の写真を観た。
「驚いた。あれがママの好きだった日本人の正体よ、ちゃんと知ってた?」
写真の中の女性はただ笑うだけで、何も言わなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます