第4話 灰暗色の眼(上)

 きっと広い世界のどこかには自分以上に不幸な人間がいるのだろうけども、それでも幸乃は自分を憐れむことを止められなかった。


 夏休み明けの新学期、殆どの学生が自分こそ世界で一番不幸な人間だと思うものなのだ。


「もう一週間は休みたかったな」


 親友の萌が言うことに、幸乃は大いに賛同した。親友の首元は汗で光っていたし、外ではまだ蝉が鳴いている。


 どう考えてもまだ夏は終わっていなかった。幸乃は夏が大好きだったが、それは取り扱いを間違いない限りであった。


 即ち、冷房の聞いた部屋で読書をし、映画を観て、冷たいものを食べ、分厚い布団を被って昼寝をする。これこそが正しく、世界に冠たる夏の過ごし方だった。


 そして間違った夏の過ごし方とは、暑い中毎日学校に通い勉強することだった。


(神様の立場が苦しいのは分かります。人間を救いたくても救えないことも。でも、ほんのちょっとで良いから、残暑を乗り切るを救いをくれませんか)


 幸乃は額を流れる汗を拭いながら、心のなかで思った。神が哀れな少女の願いを聞き届けたのかどうかは、それからすぐに分かった。

 

 チャイムが鳴り、担任の吉野先生が教室に入ってきた。幸乃が先生の姿を認めた時、その視線の隅にとても明るい色が写った。


 驚いた幸乃がそちらの方に顔を向けると、1人の少女が立っていることが分かった。それは明らかに、外国人の少女だった。


「皆さんお久し振りです。夏休みはどうだったでしょうか。まだまだ暑いですが、まあ、とにかく頑張っていきましょう。


 それよりもですね、新学期からうちのクラスに転校生が1人入ってくることになりました。ええと、そうですね。じゃあ簡単に自己紹介をしてもらおうかな」


「あの、ネーメト・レーカでス。どーモ。日本語は話せまス。えっと、よろしク」


「はい、ありがとうございます。これからよろしく。レーカさんはハンガリーの出身で、小学生の頃に日本にやって来たそうです。


 外国の人と知り合いになることなんて滅多にないし、クラスメイトになることは貴重な経験になると思います。そもそも、ハンガリーというのはとてもおもしろい国で…」

 

 幸乃はただ呆然と転校生の顔を観ていた。先生の声も、蝉の声も聞こえず、世界が自分と転校生の2人だけの世界になったようだった。


 髪は見事な赤色で、目は灰暗色、頬は桃色、そして目元と鼻の辺りには微かにそばかすがあり、顔にリズムを与えている。


 それはまるで1つの極彩色の絵画のようであり、幸乃は瞬く間にそれに魅了されてしまった。


(とてつもない美がここにいる。信じられない)


 幸乃はそう心の中で呟くと、目をフクロウのように大きくして、転校生の全てを観ようとした。


「それにしても、このタイミングで転校生が来ることは非常に良いことだと思いませんか。ただ暑いだけの生活に張り合いが付きますからね。


 まだまだ暑さは続くでしょうが、頑張って乗り切りきましょう。それにしても、どうして夏休みはもうあと一週間ないんでしょうね」

 

    ◇


 転校生はすぐにクラスの人気者になった。休み時間になる度、彼女の机の周りに人だかりができた。隣のクラスや、下の階、はたまた別学年からも人がやって来る。


「お前、あの転校生と喋りたいんやろ」親友であり、人生の同伴者でもある萌が幸乃に言った。


「めっちゃ可愛いもん、お前なら直ぐに好きになると思ったわ」

「心外だよ。確かにあの子は凄く可愛いいけど、あたしは外見だけで好きになったりしないよ」


「ほんまかいな」


「ほんとだよ。そもそも外見と内面はふかーい関係にあると思うんだよ。確かに外見はその人が生まれ持ったものだけど、外見はその人の気持ち次第でいくらでも壊せるからな。


 例えば、手入れをしなければいくらでも髪はぼさぼさになるし、性格が歪んでしまえば顔の表情だって変わる。外見が美しいということは、美しく観られたいという内面が働いているということだよ。


 だから、外見は大事だし、外見を好きになるということは、内面を好きになるってことでもあると思うよ。もちろん例外は多いけど」


「偉そうに。どこでそんなこと知ってん」

「ソースはあんたと飛鳥だよ」


 耳を赤くする萌を横目に、幸乃は転校生の姿を飽きもせずに眺めた。人だかりの真ん中にいる転校生はとても楽しそうで、ひまわりのような笑顔を周りに振りまいている。


 だが幸乃は、転校生の美しい灰暗色の目が、決して笑っていないことに気がついていた。萌には言わなかったが、それが転校生に惹かれた一番の理由だったのだ。

 

    ◇


 次の日、転校生はまだまだ人気だった。全く話しかけるタイミングが見つからない幸乃に追い打ちをかけるように、萌が学校を休んだ。


 それは若い幸乃にとって、人生初の挫折と言って良かった。そんな親友を気遣ってか、偏頭痛に耐えながら萌が助け舟を出してくれた。


「今日の体育の時間、バドミントンするときに、転校生と2人組みになったらええやん。ウチおらんし」


 LINEの文面を観た時、幸乃は親友の脳みそに感謝すると共に、けちな頭痛で萌を殺さぬよう神に釘を刺した。

 

 4限の体育の時間は正念場だった。結局この日、幸乃は人生で初の挫折と、人生初の重大な決断の両方を経験しようとしていた。


 先生が号令するやいなや、幸乃はありったけの勇気を振り絞って転校生を誘った。相手は当然戸惑ったが、なんとか上手くいった。周りの視線は気になったが、気にしないことにした。


「よろしク」

「よ、よ、よろしく」


 なにはともあれ、これが2人の記念すべき初めての会話となった。何事もなく授業は進み、幸乃もだんだんと落ち着きを取り戻していった。


 他の組が試合をしているのを観ている時(一部の女子にとっては、それが体育の本番と言えた)幸乃は思い切って話した。


「レーカさんさ、あの、お願いがあるんだけど」

「なニ?」


「あのさ、ええっと。あたしと友達になってくれない?」

「いいヨ、別ニ。よろしク」


 それだけ言うと、転校生は幸乃と目も合わせず、バドミントンの試合が行われているコートの方に顔を向けた。


 幸乃がこっそり顔を覗き込むと、表情こそ楽しそうに繕ってあったものの、やはり美しい灰暗色の目は笑っていなかった。


「あの、レーカさん。あたし本気だよ。冗談じゃなくて」幸乃が笑いながらそう言うと、転校生は表情を崩さず、振り返って言った。


「わかってるヨ。友達でしョ? 何か問題?」

「いや、その。嫌なら言ってね」


「別ニ、嫌じゃないヨ」

「そうかな? だって、目が笑ってないでしょ?」


 言った瞬間、言うべきでなかったと幸乃は後悔した。


 転校生は一瞬、凍土のように冷たい表情を浮かべると、また顔を背けた。転校生はそれから何も言わなかったが、もうこれ以上何も言うなと、彼女の表情や態度が物語っていた。


 冷たい汗が背中を流れ落ち、幸乃は全てを無くしたような気がした。

 

    ◇


 翌朝、すっかり元気になった萌は、見るからに落ち込んだ哀れな親友の姿を認めた。肝心の転校生の方も、昨日まであんなに多かった人垣はなく、人が変わったように不機嫌そうだった。


「お前、昨日の晩LINE返さんかったな」

「ごめん、ほんとうにごめん」


 いつもと違い、弱々しい親友の態度に萌は面食らった。萌は幸乃と転校生の姿を交互に観ると、これ見よがしに「はあ」とため息をついた。


「どうすんねん、あきらめんの? 目の前にとてつもない美少女がいるのに?」

「良いよ、あんたと飛鳥がいれば。なんとかやっていける」


「あっそ。お前と転校生の間に何があったか知らんけど、でも何があったとしても、ちゃんとけじめはつけなあかんで。放ったらかしは駄目やろ、ちゃうか?」


 幸乃は黙って萌の顔を観ると、それから転校生の顔を観た。2人とも美美しい。美しものを観るのは人生の全てであり、それ無しでは生きていけなかった。


 幸乃が欲しいのは外見だけでなく、血肉の伴った美しさだった。それが目の前にあるというのに、自分は諦めようとしている。


 そのことが分かった幸乃はもう一度だけ、頑張ってみることにした。


「ありがとう、萌」幸乃は言った。


「あんたは私の太陽だ」


今度は萌が耳を赤くしながら言った。


「きっしょ」

 

    ◇


 それから幸乃は一週間以上も頑張り続けた。


 授業の合間や昼休み、なんとしても転校生にこの前のことを謝ろうとしたものの、幸乃が近づくことが分かると、転校生は直ぐに席を立ち、どこかへ消え去った。放課後、校門で待ち伏せをしても無駄だった。


 萌は、自分と飛鳥も協力してやると息巻いたが、幸乃はそれを断った。これは自分と転校生の間の問題であり、いくら親友といえど、他人の力を借りたくはなかったからだった。

 

 そんなある日、転校生が学校を休んだ。


「お前が追いかけすぎるから休んだんちゃうん」


 萌は冗談でそう言ったが、幸乃があからさまに気に病む様子を見せると、後悔して、自省のために自分の太ももを強く叩いた。


 幸乃はまたもや諦めてしまいそうになったが、帰りのHRで吉野先生が今度の学校行事の連絡プリントを配る時、ある考えが浮かんだ。


「先生、そのプリント、ネーメトさんの家に持っていくんですよね。私が持って行ってもいいですか?」帰りの挨拶が済むと、幸乃は先生に詰め寄った。


「まあそうですけど。そこまで急ぎのことではないし、要件だけ私が電話しておきますよ」

「先生、あたしが持って行きます。うちからそんなに遠くないし」


「え? でもネーメトさんの家は、京終さんの家と電車で4駅ぐらい離れていますよ?」


「いいんです。行かせて下さい。ごめんなさい、本当はプリントなんてどうでもいいんです。ただネーメトさんと直接会って話したいことがあって、何か理由が欲しかったんです。お願いです」


「いや、ええっと、そうですか、なるほど。そこまで言うなら持っていって貰いましょうかね。でも別に、京終さんが自分の意志で行けばいいのではないですか?」


「あの、ネーメトさんの家がどこにあるか知らないんです。あたしたち、まだそんなに仲良くないので、それで学校を理由にしようと思って、ごめんなさい」

 

 先生から転校生の住所を聞くだけで、幸乃はドッと疲れたような気がした。


「大丈夫か、ウチらも行こか?」


 萌と飛鳥が心配そうな顔で言ったが、幸乃はそれを断った。駅で2人と別れた後、幸乃は電車の椅子に深く腰掛け、覚悟を決めた。


 きっと人生には、自らの意思で選択し、切り開いていかなければならないことが時としてあるのであり、これはきっとその最初のレッスンなのだと幸乃は思った。


 そうでなければ今にも負けてしまいそうだった。

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