第4話 彼は化け物の作った虚構に小さな好意を向けている。
カラカラと空回る自転車の音が暗闇のなかを進んでいく。等間隔で並ぶ街灯に照らされた中堀涼の横顔を盗み見る。なんでもない顔で車道側を歩いてくれる心遣いが嬉しくて苦しい。
この人は、恋人だろうと、友達だろうと、通行人Aだろうと、同じように優しさを与える。街灯がやけに眩しくて視線を落とした。心臓がうるさいのは、好きな人が隣に居るからか、それとも吐いたウソがバレてしまうことが怖いからか。どちらにせよ、落ち着かないことに変わりはなくて、そっと唇を湿らせる。
「矢崎さ」
中堀涼に少し遅れて立ち止まる。振り返った私はもう光の外にいて、視線のさきの中堀涼は今も光の中にいた。見えない境界線に、息が詰まる。
「さっきの、ほんとに平気?」
まっすぐに見つめられる。いつものように咄嗟に言葉が出てしまうことはなかった。もう私は、中堀涼の前で、無防備では居られない。
「……さっきのって?」
慎重に選んだせいで、声が小さく震えた。中堀涼は問いかけたことを悔やむように一瞬視線を逸らして、それでもちゃんと私の目を見てから言葉を吐いた。そういう誠実さが、妬ましくて、眩しくて。
どうしようもなく、好きだった。
「泣いてた、から。なんかあったなら、俺、力になるから」
その目が、熱を含んで見えたのは、きっと、妄想ではなく事実で。でも、その熱は、決して私の求めているものじゃない。
「矢崎が、困ってんなら、力、貸すから」
見えないように背中で拳を握った。ごくり、と唾を飲み込む。中堀涼の目は熱をもって、私の肌を焼いていく。愛も、恋も、友情すら、私たちの間には存在しないのに。彼はどこの誰にだって、同じ熱を向けると知っているのに。太陽の熱は、私から簡単に理性を奪っていく。囁くような声が聞こえる。
ウソを吐いてしまえ。
優しさに付け込んでしまえ。
聞こえた声に唆されるまま、唇をなめた。裂けたところに唾液がしみて、ピリリと痛んだ。
「実はね、ちょっと、先生ともめちゃって」
えへへ、と女優にでもなれそうな困った感じの笑みが零れ落ちる。
「先生って、芹沢先生?」
うまく心配を煽れたのか、からからと自転車を引いて中堀涼が近づいてくる。光の中から出たって、その目の温度も輝きも変わらない。恒星は、暗闇でだって明るい。
「うん。あ、いや、でも先生は悪くないんだけど」
ウソを吐きながら。顔だけ、泣きそうに歪めながら。頭の奥が急速に冷えていく。
「先生は、たぶん、本気で心配してくれただけなんだけど」
「うん、でも、矢崎はやだったんでしょ?」
躊躇いがちに頭に中堀涼の手が触れる。振り払わずにいれば、そっと髪の間を指が通っていく。触れたところから、甘さが浸み込んでくるみたいだった。甘くて、優しくて、離れがたくて、耐え難い毒。
「だったら、それは、嫌でいいと、思うけど。心配とか、優しさとか、結構簡単に、ぼうりょくに、なるから」
ほんの一瞬、声が痛みを孕んで小さく揺れた。わざと小さく笑って中堀涼を見上げる。
「それ、経験談?」
私が笑うとつられたように中堀涼の顔にも笑みが浮かぶ。
「そ。経験談」
冗談に痛みを溶かして、上辺だけの笑みを交わし合う。くだらない傷の舐めあいなのに、笑みを引き出せたことに心臓が高鳴る。
「中堀くんの優しさは、いつも、ちゃんと届いてると思うけどな」
月のない夜の空を見上げながら、言葉を吐きだす。
「少なくとも私には、ちゃんと、優しさのまま届いたよ」
ただ、その優しさが、そのまま私の傷であっただけで。
「だから、ありがとう。中堀くん」
言葉の裏を読むことも、相手の言葉から過剰に忖度の匂いをかぎ取ることもない素直な男は、驚いたように目を見開いて固まった。その目が僅かに水分を含んで、慌てたように勢いよく両手で拭う。きゅ、と唇を噛んだ。余計なことは喋らないように。本当を隠したウソが綻んでしまわないように。この、ズルさが、彼に見抜かれてしまわないように。そっと、静かに息を潜める。
「俺の方こそ、ありがとう。矢崎」
「ううん、ぜんぜん、私なにもしてないし」
「やっぱ、矢崎、すっげーいい奴」
歯を見せて笑う表情に胸が高鳴って、告げられた言葉に心臓を突き刺された。痛みを逃がすためにそっと息を吐き出す。向けられた僅かばかりの好意は、私をすり抜けて、狡猾なウソ吐きが作った虚像に吸い込まれていく。
ただの自業自得なのに、それがひどく痛かった。まったく、ほんとうに、馬鹿げた思考だ。
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