第3話 そしてまた、許されないウソを重ねる。

「先生はどうして、私を写真部に誘ったんですか」

 芹沢先生が私と中堀涼を呼び出した理由は雑用を手伝わせるためだった。中堀涼はついさっきバイトの時間があるからと帰っていって、ちかちかと点滅する蛍光灯の下には私と芹沢先生が取り残されている。

 先生は私が順番通りに纏めたプリントの角を揃えながら、ちらりとこちらに視線を向けた。私はにこりともせずにそれを見返す。先生は何も言わずに視線を逸らして、ホチキスでプリントをとめた。

「教室一のウソ吐きと、教室一の素直なやつがおんなじ場所に居たら、面白そーだなと思ったから」

 先生はプリントを机に置いて、頬杖をつきながら答えた。やっぱり先生は、私の狡さとか醜さを、まるごと全部知っていたのだ。恐ろしさを覚えるよりも、先生の言葉の続きの方が早かった。

「なあ、矢崎。ウソを吐くことはいけないことか?」

 頬杖をついたまま、先生は真正面から私を見据える。その黒い瞳をどれだけ見つめても、問いかけの正解は見つからなくて、言葉に詰まった。先生の問いかけが難しいのは、正解じゃなく、私の答えが求められているからだってことに、初めて気が付く。気が付いても、言葉は出なかった。だって、私は中堀涼じゃない。あんな風に、自分の正解を押し付けたって誰も傷つけないような優しい人間には、成れない。

「ま、お前の答えがどっちだっていいんだけどさ」

 先生は私の答えを待たずに、言葉を重ねた。頬杖をつくのをやめて、真面目な顔で私を見据えて、先生は続ける。

「お前が、もし、ウソを吐くことが悪いことだと、ほんの少しでも思ってんなら。ウソを吐くたび、罪悪感を抱えてんなら」

 唐突に耳を塞ぎたくなった。机をひっくり返して、大きな音を立てて、先生の言葉をかき消してしまいたかった。

「お前、ウソ吐き、向いてねえよ」

 結局なんの抵抗も出来ないまま、私は先生の言葉を真正面から受け取ってしまって。先生はなんの逃げ場もくれないまま、私の心に傷を残す。

 泣き出しそうだった。

 視界が滲んでいるから、たぶんもう、体は勝手に泣いていた。中堀涼と違って、先生は傷つけたことなんかお構いなしで作業に戻る。私は何喰わぬ顔なんて出来るはずもないから、勢いよく立ち上がった。膝を机にぶつけて痛かった。睨みつけるように先生を見て、叫ぶように言葉をぶつける。

「用事、思い出したので、帰ります」

 鞄を掴んで、逃げるように走る。走っていく速度に言葉が置いていかれて、そのまま忘れられたらいいのにと思った。あまりに身勝手な思考だった。


 北校舎を出る前にトイレによって、深呼吸をして、涙を拭いて、鏡の前でにっこりと笑顔を作る。それだけで、いつもの矢崎加奈が出来上がる。笑っているだけの空気に戻れる。さっきよりずっと楽なのに、息苦しいような気がした。どうか誰にも会いませんようにと願いながら、校舎を出る。靴箱までは平和だった。静まりかえったほとんど無人の校内で、靴箱だけが無人ではなかった。

 中堀涼が立っている。

 私の顔を見て、中堀涼は驚いたらしく、上履きを落とす。床と上履きのぶつかる音が廊下の方まで響いた。

「矢崎、どうした? なんかあった? 大丈夫か?」

 その、中堀涼の、まっすぐな言葉だけで、私がトイレで必死につけた仮面は引きはがされて、波立った感情が顔を出す。

「芹沢先生になんか言われた? それともほかのやつ? 俺、出来ることある?」

 優しさが傷口に浸み込んで牙を剥く。

 中堀涼にとって私は友達以下のただの知人であるはずで。傷ついているところを見たって素通りしても、彼の日常にはなんの影響もないはずで。そんな、彼の人生の通行人Aにすら、なんの躊躇いもなく、優しさを差し出せる、その在り方が、妬ましかった。

「中堀くんには、分からないよ」

 吐き出した声には、随分と毒が滲んでいて、我ながらなんて最低な女だろうと思う。差し出した手を振り払われることなんて、きっと考えてもいないだろう中堀涼の驚いた顔を見てやろうと、悪辣な思考のままに視線をあげる。

 そこに居たのは、善意で差し出した手を振り払われたことに驚く中堀涼でも、それに怒る彼でもなかった。ただ、静かに、下手くそな顔で笑う、中堀涼が居るだけだった。手を振り払われることに、善意をお節介だと片付けられることに、慣れきってもう、傷つくことすら当たり前のような顔で笑う、中堀涼が居るだけだった。

「ごめん、また俺、いらんこと言ったな」

 頭の後ろをガリガリとその大きな手で掻いて、中堀涼は私の横をすり抜ける。

「バイトふつうに明日だったから、俺、先生のとこ戻るわ。ごめんな、矢崎」

 後ろからかけられた声は、僅かに震えていて、顔が見えなくても彼が泣きだしそうなのが分かった。言葉が口の中から飛び出しそうになって、それを抑えようと唇を噛んで、それでも溢れた言葉が廊下に落ちる。中堀涼が振り返る。

「なんで?」

 震えた声が出た。

「なんで、そんなになってもまだ、そんなもの、捨てずに居るの」

 中堀涼は目を見開いている。黒い瞳が涙で濡れていた。その一粒目が零れる前に、中堀涼は口を開く。

「矢崎は、捨てたの」

 断定にも似た疑問が返ってくる。なんと答えるか迷って、小さく頷いた。中堀涼の肩から力が抜ける。

「どうしたら、捨てれる? どうしたら、俺は、矢崎みたいに、上手に優しく出来る?」

 続けられた言葉に泣きそうになった。私が捨てたのは、優しさを振りかざす身勝手さじゃない。優しさそのものだ。ぎゅっと背中に隠して拳を強く握った。

「な、矢崎。俺に、ウソ、教えて」

 密やかに声が落とされる。まるでそれは犯罪を隠すための約束みたいに。許されない逢瀬の言い訳みたいに。甘美な響きを持って、耳を揺らした。そっと唇を舐めて、言葉を吐きだす。

「いいよ」

 太陽のような男の。

 太陽のようだと思われている男の、いちばん弱くて、可哀想な部分。

 それを知っているのが私だけであることに喜びを感じてしまうくらいには。

「私が、中堀くんに、優しいウソ、教えてあげる」

 わたしは、中堀涼に、どうしようもなく、恋をしていた。

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