第2話 彼は化け物のままで、その存在を許されている。

 芹沢先生に呼び出されたのは、写真部に勧誘された三日後だった。

 その日はちょうど、ちかちゃんがダンスの練習に行く日で放課後に遊ぶ約束がなかったから、私は教室の床を丁寧に掃いていた。ちかちゃんが居ない時は菜穂ちゃんだって、南ちゃんだって、みんな普通の顔して掃除をする。

 その現象が私にはなんだか気持ち悪くて、その気持ち悪い物の中心に居るのが自分だと思うと、全身を掻きむしりたいような気持ちになる。その全部に笑顔で蓋をして、私は芹沢先生の呼び出しにオーケイの返事をする。

「なに、加奈、写真部入ったの?」

 菜穂ちゃんの問いかけに眉を下げて答える。

「先生にしつこく誘われて断り切れなくて」

「加奈、気弱いもんねー」

 南ちゃんの言葉に曖昧に笑った。笑顔は便利だ。言葉が出て来なくたって、正解が分からなくたって、とりあえず六十点はとれる。

「掃除、あとやっとこうか? 加奈、呼び出されてんでしょ?」

「ううん、大丈夫。掃除終わってからでいいって言ってたし、二人に任せるなんて悪いし」

 南ちゃんの優しさを受け取りながら、二人に任せるのは悪いのに、楠さんに押し付けるのは平気な理由はなんだろう、と考える。どっちも変わらず悪いのに、楠さんに押し付けるときだけ、黙っている自分がやっぱり気持ち悪かった。

 楠さんは私たちの会話なんて聞こえないフリで、なんでもない顔で、一人、机を運んでいる。

「そー? ま、加奈がいいなら居てくれた方が有難いけど」

 南ちゃんはあっさり引き下がって、黒板掃除に戻った。知らず握りしめていた箒を壁に立て掛けて、菜穂ちゃんと一緒に机を運ぶ。私たちが、楠さんに謝ることはない。一人で机を運んでいるのが南ちゃんだったら、絶対、一人でやらせてごめんねって、言っただろうに。


 掃除を終えて、写真部が部室として使っている北校舎の三階を目指す。美術とか家庭科の時しか人が来ないせいか、校舎の中は埃っぽくて、静かだった。

 窓から差し込んだ西日の中を、小さな埃が舞っている。踊っているように見えて、その実ゆっくりと落ちているだけのそれを、掬い上げようと手を伸ばして、けれど結局埃は指の間をすり抜けて光の中から落ちていった。吐き出したため息には、小さく感傷が滲んだ。馬鹿みたいだ。

「あれ、矢崎?」

 ふいに呼びかけられて、心臓が跳ねた。埃と戯れているのがバレたら、絶対、笑われる。どうかバレていませんように、と祈りながら振り返る。そこに立っていたのは、埃とも、私とも違う、自由そのものみたいな男だった。

「お前も芹沢先生に写真部誘われたの?」

 自然に隣に並んで歩き出す中堀涼に曖昧に頷きながら、笑みを返す。お前も、ということは中堀涼も写真部に誘われたのだろうか。いかにも運動部に入っていそうな顔のくせに、何の部活にも入っていなかったらしい。

「俺ひとりかなーって思ってたんだけど、矢崎居るなら安心だわ」

「え、どうして?」

 うっかり、考える前に言葉が出た。中堀涼と話すときはいつもそうだ。こいつはいつの間にか私の内側に居て、勝手に私の言葉を引き出してしまう。正解を探そうとする警戒心が勝手に鈍ってしまう。

「え、あー、なんでだろ、なんか、矢崎居るとそれだけでチームとかうまくいくじゃん。すげーいろんなとこ見てて、ちゃんと上手くいくようにしてくれんじゃん? だからかな。初めて入るチームに矢崎居ると、すっげー安心すんだ、俺」

 中堀涼の言葉は心の柔らかいところをいつも突き刺すように刺激する。痛いわけでも、聞きたくないわけでもなくて、私の一部は中堀涼の言葉で確かに救われるのに、他の全部は耳を塞いで逃げ出したいと叫ぶ。

 私がそんな綺麗な生き物じゃないことを、こいつが知ったら、中堀涼は一体なんて言って、私を断罪するのだろう。その言葉が、私は怖かった。芹沢先生に、私の醜さが見透かされることよりもずっと。

「あはは、ありがと」

 震えた声は、笑っているせいだと、受け取って欲しかった。けれども、中堀涼は私の感情の揺れを正確に察知して眉を寄せる。そういう察しが良い所も嫌いだ。

「ごめん、俺、またなんか間違えた?」

 違う、と言わなければいけないのに、口を開いたら泣きそうで、何も言えなかった。

「ごめん、俺、ええと、矢崎を定義したかったとか、そういうんじゃなくて、俺はいつも、いらないこと言って、空気壊してばっかだから、矢崎がちゃんと言葉選んでんのとか、凄いよなって思ってるって事を、伝えたかった、だけで」

 傷つけるつもりはなかった、ごめん。吐き出された言葉には、本物の後悔が滲んでいて、それが余計に痛かった。素早く息を吸い込んで、目じりに滲んだ涙を拭う。頭を下げている中堀涼には、たぶん、見えていなかったはずだ。今度こそ震えないように慎重に言葉を紡ぐ。

「ごめん、違うの、中堀くんが悪いとか、中堀くんの言葉に傷ついたとかじゃなくてね」

 なるべく柔らかく聞こえるように気をつけながら言葉を選ぶ。

「ちょっと、今日、凹んでて、だから中堀君の言葉が嬉しいなーって気持ちが、溢れちゃって。私の方こそ、嬉しいってことちゃんと言葉に出来なくてごめんね」

 眉を下げて笑えば、中堀涼は安心したように笑った。人の言葉を真正面から信じられる在り方が羨ましくて、妬ましくて、眩しくて。私はそっと目を逸らした。

 それは、太陽を見つめていられないのと、よく、似ている。

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