心の病
@pinoneko
心の病
うつ病、そう診断された...
母は突然狂い始めた。
――深夜の2時。誰もが寝静まっているはずの時間。
「(うっ...なんだ?息ができない..)」
当然僕も寝ていたはずだが、急に息ができなくなって目を見開いた。
そこには寝ている僕の首を絞めて殺気を放つ母親の姿があった。
助けを呼びたいが「ハーッ」という空気が乾燥した音しか僕の口からは出ず、母の手を解こうとしたが小学校4年生の僕の力では到底敵う訳もなく、隣で寝ていた父親を叩いて助けを求めることしか出来なかった。
異変に気づいた父親は飛び起きて、状況を瞬時に把握していた。
「とうとうそんな事まで...」
そう言って父は母を突き飛ばし、僕を助けてくれた。
母は何かに取り憑かれていたのか、突き飛ばされた衝撃で我に返りハッとした顔をして僕に謝った。
「唯斗...ごめんね。本当にごめんなさい。許されないことをしてしまったわ...これからは母さんには気をつけて。本当に嫌な思いをさせてしまってごめんなさい。唯斗...許して。唯斗...ゆい..と」
「ーいと。ゆいと...唯斗!学校に行く時間だぞ!」
いつものように父親は僕の体を揺さぶり朝のお決まり毎のようにそう言って起こしてくれた。
「ん〜、あと5分だけ」
僕の方も朝のテンプレートかのような返事をして朝が始まるのだ。
「母さんはまだ寝てるのか...」
なんだか嫌な夢を見た。
しかもすごくリアルで怖かった。
実の母親に首を絞められ殺されそうになる夢。
「(...あんなに優しい母さんがそんなことをする訳が無いか)」
母親は本当に太陽みたいな人だった。
明るくて優しくて、何があっても僕の味方をしてくれて自慢の母親だ。
僕を産んで子育てのために育児休暇を取って、僕が小学校に上がったタイミングで復帰をしたが手がうまく動かなくなってしまい美容師を2年前に辞め、病院に通っているのだが、現役の頃は腕だけでなく、かなりの人格者で務めていた美容室では看板のような存在だったらしい。
美容師を辞めて数ヶ月の間、母は僕の髪の毛を切ってくれたり、僕が暇で家にいる時は遊んでくれたり、もちろん恋愛相談も母にはしていた。
だが徐々に母は体調が悪化したり、僕は習い事でサッカーをしていたりして友達も増えていき、今ではもう母親と遊ぶことは無くなっていた。
「行ってきます!」
父と母にそう告げて僕は家を出た。
今日は放課後にサッカーがあるから忙しい日だ。
なんだかいつもより眠たいし学校で寝るか。
そう決め僕は学校へ登校した。
「さようなら!」
サッカーのコーチに帰りの挨拶を済まして帰路についた。
今日のご飯はママスペだな。
ドアを開けた時にママスペの香りがしたので間違い無いだろう。
ママスペとは豚肉ともやしのみを使い母親秘伝のタレで絡めた「母親の作るすごく美味しいスペシャルなご飯」のことだ。
「ただいま〜!」
油がパチパチと音を鳴らしていて気付いていないのか、母からの返事はなかった。
父親はいつも仕事が忙しくて遅くに帰ってくるので父からの返事も当然ない。
まあいいやと吹っ切れて、子供部屋に荷物を部屋に置き、汗のベタベタから解放されるためにお風呂に入った。
お風呂を上がりお腹が空いたのでリビングに向かった。
まあリビングといっても寝室とも呼んでいて、すごく狭い団地に僕たちは住んでいる。
お風呂場と台所、それに僕の荷物を置いたり勉強をしたりする子供部屋と少し広めのリビング兼寝室がある部屋の4つの空間からなるのが僕たちの住むマンションの間取りになっている。
寂しがり屋の僕は一人で眠るのが嫌で、この寝室で父と母に挟まれながら川の字になって眠っている。
裕福では無いと知っていたがそれでも十分幸せだった。
厳しいが僕がやりたいことはなんでもさせてくれる優しい父親に愛情を持って僕を育ててくれた優しい母親。
何も望まず、それだけで十分すぎるくらいに幸せだった。
母親は具合が悪いのか、ママスペはテーブルの真ん中に置いているが白米をよそってはくれなかった。
たまに母親が具合が悪くて黙り込んでしまうことが多々あったのであまり気にすることなく、よっと腰をあげて炊飯器を開けた。
その中に入っていたのはあまりに気持ち悪く、持っていた空っぽのお茶碗を落としてしまった。
白米は確かにある。
いや、白いものが白米だというのなら米はあるといったほうが正しいだろう。
中には米と一緒に小さな虫が何匹も入っていて白色の部分より黒色の部分の方が面積が大きかった。
「どうしたの?母さんのお茶碗にもご飯を入れてくれる?」
「か、母さん?ご飯の中に虫が入ってるんだけど..」
すると母は僕が持っていたしゃもじを奪い取り、落ちている僕のお茶碗を拾い自分のお茶碗にその異物入りの米をよそった。
母は自分のお茶碗にも僕と同じ量のご飯を入れると、颯爽に席に着きその異物を口に運んだ。
僕は見ているだけで食欲が消え、吐きそうになった。
「何してるの母さん!?」
僕は自分のお茶碗をテーブルに置き、母親のお茶碗を取り上げようとした。
「やめてよ!!」
母親の口から聞いたこともない大きな声でそう言われ僕は顔を殴られてしまった。
顔を抑えている僕は抵抗する間もなく母親は追い討ちをかけてママスペの取り分け皿で僕の体を何度も殴った。
ピタッと母親の殴っていた手が止まり、母親はこう言った。
「ほら、食べなさい。せっかく作ったんだから」
僕は恐怖に屈していた。
同時に混乱もしていた。
今の状況がさっぱり分からなかった。
母親が握っている血がついた受け皿を見て唯一分かったのは、今出されているご飯を食べなければまた殴られてしまうということだけだ。
僕はお箸を手に取り、虫の入ったご飯を口に運んだ。
プチプチと米を噛んでいる時には聞こえる筈のない音が口から聞こえ、飲み込もうとしたが体が受け付ける訳もなく僕は嘔吐してしまった。
母親は受け皿を置き、手の平を僕の頭においた。
吐いてしまったけどちゃんと口に運んだ僕を母はいつものように頑張ったねと言って頭を撫でてくれるのだろうか。
いつも味方をしてくれてあんなに優しかった母だ。
これはきっと何かの間違い、あるいは事情があったのだと自己解決をした。
何があったのか母親に聞こうと頭を上げると、母は僕を蔑んだ目で見ていた。
僕はその場から逃げようとしたが、髪の毛を掴まれて引き摺り回された。
ーガチャン。
「ただいま〜」
父が帰ってきた。
母は父の声を聞き、僕の髪を引っ張っていた手を離し、父に襲いかかった。
若い頃に柔道をしていた父親に力で勝てる訳もなく母親はすぐに取り押さえられた。
父はボロボロの僕に気づいて母に怒鳴った。
「夜のことを忘れたのか!?お前は母親失格だ!」
父親が怒鳴ったことで母は正気を取り戻したのか僕を見て涙を流した。
後に救急車が2台きて僕と母は別々の車に乗せられた。
隣に住んでいたお世話になっているお婆さんが母と一緒に乗り、父は僕の乗っている車に乗った。
搬送中僕は気を失ってしまい目を覚ました頃にはもう次の日の朝になっていた。
目を覚ますと病院にいた。
人の気配がして首を倒すと父親が椅子に座って寝ていた。
「唯斗!」
視界の外から声がして逆側に首を倒すと父の母、つまりは僕の祖母に当たる人と祖父がいた。
その声で目を覚ました父が僕の方に駆け寄ってきた。
「唯斗...ごめんな。守ってやれなくて。怖い思いをしただろう。目を覚ましてくれて本当によかった」
昨日のことは覚えている。
白米に混ざった虫の音も味も、母の蔑んだ目も。
「虫が...虫が...」
思い出すと慌てて僕は反射的に口を洗浄しようと、置いてあった水を大量に喉に流した。
むせて水を溢しながらも必死に水を口に運んでいる僕を見て周りの人は誰も止めず、僕の気が済むまで水を飲ませてくれた。
少し落ち着いた僕を見て父は僕の手を握り、じっと目を見つめた。
「唯斗。母さんのことで話さければいけないことがあるんだ。聞いてくれるか?」
母さんは『うつ病』という精神病を患っていた。
うつ病は精神を蝕み、情緒が不安定になって突然怒ったり泣いてしまったりして病んでしまうという病気だ。
母は美容師として働いていた時に過度のストレスでこの病気にかかってしまい、手が動かなくなったり、精神を病んで職場の人に椅子を投げたりハサミを突き立ててクビになってしまったことを聞いた。
精神安定剤を処方されて、美容師から離れたことで症状は軽くなったと病院の先生含め、父も思っていたのだが最近になってまた症状が悪化したとのことだった。
今まで家族には手を出すことはなかったのだが昨日、母が僕の首を寝ているときに絞めていたところを発見し、心配になっていつもより早く家に帰ってきたらしい。
帰ってきたときに僕に母のことを話そうと思っていたらしいのだが、父が帰宅したときにはもう手遅れで今に至り、母は精神病院で監禁されていることを説明してくれた。
「唯斗。これからは母さんとは暮らすことができなくなる。息子に手を出した母親として当然の報いだ。もっと早く唯斗に説明していれば唯斗を傷つけることはなかったのかもしれないと思うと本当にすまなかった」
「母さんは病気でああなってしまったんだ。勝手だと分かっているが、どうか昔の母さんまで嫌いにならないであげてほしい...」
うつ病について何も知らない僕は、今の状況を受け入れられる訳はなく、僕は父のお願いに返事をすることはできなかった。
あの悪夢のような出来事から一年が経過し、僕は母親のトラウマを抱えながらもなんとか学校に通って何もなかったように同級生に接していた。
いつも土日の学校がない日の昼ごはんは父にもらっているお金でコンビニに行き済ましているのだが、今日は祖父と祖母がご飯を食べるために、少し離れたショッピングモールに連れて行ってくれた。
「お家で食べないの?」
僕は意地悪だった。
家から連れ出された理由を知っていたからだ。
母が退院をした。
母の引っ越しを手配できるほどのお金の余裕も家にはなく、母の方のもう一人の祖母の家に行くことが決まり、荷物を取りに家に戻ってくるのだ。
昨日祖父と父が電話で話しているのを聞いていて、意地悪な質問を祖父と祖母に投げかけたのだ。
祖父と祖母は不意を突かれた質問をされたはずなのに可愛い顔をして、「じいちゃんと出かけたくないのか…?」とうるうるした眼差しでこちらを見つめてきたので仕方なく祖父たちの作戦に乗ってやることにした。
ショッピングモールで開催されていた特設の子供しか入れないキッズコーナーがあり、遊んでおいでと言われたが、もうこんな物が楽しいと思えない歳だった。それでも祖父が可愛いものを見る目で僕を見てきたのではあっと小さく溜息を吐き、仕方なくキッズコーナーに入った。
適当に遊んでいるかと思い、一人で電車のようなものを作っていると一人の女の子が僕のそばにやってきた。
じーと僕の顔を眺めてこう言った。
「作るの上手だね!一緒に遊ぼ!!」
なんだか馬鹿馬鹿しくなりその場を立ち去ろうとした時、男子の集団が僕の方に寄ってこう言った。
「おい!そいつに関わると危険だから俺たちと遊ぼうぜ!」
そいつとはこの女の子のことを言っているんだろうか?
集団の中の一人が続けてこういった。
「母親がいないんだぜそいつ!父親と母親がいて普通なのに、そいつが悪いやつだから母親がきっと逃げたんだよ!」
僕は女の子の方を見ると、その子は必死に唇を噛んで堪えていた。
「違うもん。お母さんいるもん。病気で参観に来ないだけだもん」
「うるせー、お前が嫌いで逃げたんだよ!」
集団の1人が女の子の腕を強く引っ張り、今にも手を出しそうな雰囲気を感じとった僕は咄嗟に身体が動き、掴んでいた手を上から掴み返した。
「おい。母親が側にいないからなんだ。お前らは甘えてるだけだろ。母親に頼れない分こいつはお前らよりも苦労して頑張ってる。お前らが馬鹿にしていいことじゃないんだよ!!!」
ついカッとなって言ってしまった。
面倒だとは思ったが自分自身に重なってしまったのだろう。
それとも母親の血が僕にも通っているからなのだろうか。
「なんだこいつ?こいつもやばくね?も、もう行こうぜ」
その集団は彼女同様、僕のことも気持ち悪がって去っていった。
「あ、あの...ありがとう。あの子達同級生で...」
僕と同い年くらいだろう。
母親が病気を患って、苦労をする子どもの気持ちは痛いほど分かる。
どんな病気かは分からないが、この子も辛い経験をしたのだろう。
「母親がいなくて寂しいか?」
僕は聞きたくなってしまった。
あまり首を突っ込まない方が良いことは分かっていたが、聞かずにはいられなかったのだろう。
「寂しいよ」
「平気なの?」
「今はまだお母さんに会えるから。体調が悪くなれば次は入院だって言っていたけど...」
「そっか。会えるならまだ幸せだね」
彼女はまだ会えるなら幸せじゃないか。彼女は僕とは違う。あんな経験は僕だけで十分だ。同じ境遇の仲間を見つけて舞い上がってしまった。
「ううん。本当は辛いよ。病気で弱っているお母さんを見続けるのはすごく辛いよ。でもお母さんもなりたくて病気になった訳じゃないから...」
今の状況を悟られたかのような言葉に、返事が詰まってしまった。
彼女は僕よりもずっと強いんだ。
あのことから一年、どこかでは分かっていた。
また幸せな家族に戻るために僕が少し大人になれば良いんだってことくらい。
でも怖くて仕方がなかった。
クラスメイトと交わした夢の話、先生に言われたテスト範囲、忘れてはいけない記憶ばかり薄くなるのに、忘れてしまいたいあの時の出来事だけは鮮明に覚えているんだ。
体が震えて止まらなくなった。
虫の音や味を思い出して吐きそうになり口を押さえた。
そのときに僕よりも小さい手が僕の口を押さえていた手を取り、両手を握った。
「人から生まれてしまった傷は人の手でしか癒せない。あなたも辛い事があったんだね。それでも私を助けてくれた。かっこよかったよ」
彼女の言葉で正気に戻り、震えが止まった。
「こちらです!!」
係の人が異変に気づいて祖父と祖母を呼んできてくれたのだろう。
「唯斗!」
「もう大丈夫。わしらが側にいるからな。さあ帰ろう」
そう言われ僕はキッズコーナーから出されたのだが彼女が気になって後ろを振り返ったが彼女はもういなかった。
その日の晩。
父と晩御飯を一緒に食べている時、僕は今日会った女の子に言われた言葉と、父が僕に分からないように押さえている落ち込んだ表情にとても引っかかて、中々お箸を進めることが出来なかった。
親は子供に良いことがあった、嫌なことがあったなどの変化に気づくと言われているがそれは子供の方も同じだ。
箸が進んでいない僕に気づき、それを心配した父は「何かあったのか?」と、心配を表すお決まりの言葉で声をかけてくれた。
その質問に対して僕は「父さんこそ何かあったの?」とテンプレートとは言えない質問の返し方をした。
父は顔色を変えずに「父さんはいつも通りだぞ。唯斗はお箸が進んでいないじゃないか。どうした?」と同じ質問を返されたので僕は、「母さんと一緒に暮らしてもいいよ。病気が良くなった。だから退院したんでしょ」と思い切った返答をした。
父は不意をつかれたのか、驚いた顔をしていた。
昨日の夜、目が覚めて、台所で父の話し声に気づいて近くに行き、祖父との電話の話を聞いてしまったと続けて伝えた。
「唯斗。母さんは唯斗に手を出した。そんな母さんを唯斗がいるところに連れて行けないよ。唯斗も怖いだろう?」
「ううん。母さんはなりたくて病気になった訳じゃない。確かにあの時はすごく怖かった。死んでしまうんだって本当に思った。でも、母さんが我に返った時は僕よりも苦しい顔をしていた。傷つけてしまった人の顔じゃなかった。それに...」
そうだそれだけではない。
僕は昨日、父の話す声色に気づいた。
いつものような明るいものではなく寂しさを代弁するかのようなと声をしていたのだ。
でも気づいたことは声だけではなく父の気持ちだった。
父は母さんのことを愛している。
病気になってしまったけど愛している。
またあの頃のようにみんなで一緒に暮らしたいと思っている。
声に出していないけど父の本心が見えてしまったのだ。
僕が我慢をすれば父の願いは叶う。
夢だったと思えばそれで全てがうまく行き、僕たちの家族には幸せな世界が訪れるのだ。
「それに、、僕ももう一度信じようと思うんだ。だから大丈夫だよ。明日にでも一緒に暮らそう。また3人で頑張っていこうよ」
父は泣いていた。
「唯斗,,,唯斗は無理に大人なフリをしなくてもいいんだよ」
「大人なんかじゃないよ。僕はまだ父さんと母さんの子供だよ」
翌日。
ピンポーンと、母がチャイムを鳴らした。
自分の家で鍵は持っていたはずなのにチャイムを鳴らした母は、どこか余所余所しく感じた。
父が鍵を開けにいこうと席を立ち、右を向くとインターホンのモニター越しに母の痩せこけた顔が映っている。
パチパチと聞きたくない音が口から聞こえたと思ったら、次は異臭が口を覆った。
目の前の水を一気に飲み干し深呼吸をした。
僕は正面を向いて硬直したが、間も無くして足音が2つ僕の右側にやってきた。
恐る恐る右に顔を動かした。
母は僕を見るなり、その場で土下座をして、僕に謝罪をした。
「唯斗。本当にごめんなさい。あの時は母さんどうかしていた...。ずっと謝りたかった。唯斗を傷つけてしまって本当にごめんなさい」
「唯斗。母さんにもう一度チャンスを与えてくれて本当にありがとう」
あんなに怖い思いをした。
謝られてすぐに元通りなんてことはできないが、母の謝罪でもう一度一から作っていこうと感じた。
「うん。病気が良くなってよかったね。頑張ったね。お帰りなさい」
そう言って母を許し、病気のせいだからと遠回しに言って母を迎えた。
母が家に帰ってきてから、2ヶ月が経った。
「今日はサッカーがあるから帰りが遅くなる!父さんもちゃんと寝るときは寝ないとだよ」
「ありがとう。気をつけてな〜」
「うん。分かった。今日はママスペを作っておくから。気をつけてね」
父はなんだか最近仕事が忙しく夜中まで報告書を制作しているらしく、目にクマができてしまっていつも眠たそうだ。
母とは会話もできるようにはなっていて、最初は母との距離は空いていたがなんとか父の介入もあり、家族をできるところまでは状態が戻ったのだ。
僕は一度目の母との事件の後もサッカーを頑張って練習していて、サッカーも上達してコーチからも一目置いてもらえていた。
サッカーができるという理由だけで僕の周りには人が集まって、友達からの遊びの誘いも殺到し、学校では人気者だった。
「ただいま〜」
今ではもう昔のようにサッカーを頑張って、自宅のドア付近に着くとママスペの匂いがして少し疲れた声色でただいまと言える昔と同じ幸せを感じていた。
「おかえりなさい。ママスペあっためなおすから先にお風呂に入ってきなさい」
そう言われ、お風呂に入り汗を流してから食卓についた。
ーパリン!
「母さん?何か落としちゃった?大丈夫?」
台所から皿が割れた音がして心配になって母がいる台所に走った。
「....」
母は青ざめていたが割れて床に散らばった僕のお茶碗ではなく、自分の手を見ていた。
母の手が異常なほどに震えていた。
その光景を見て僕の心臓がドクンとなり、口が空いた。
母が患っているうつ病の症状だというのは直感でわかった。
「母さん...」
「来ないで」
「でも、手が。それにお茶碗も掃除しないと」
そう言って割れたお茶碗を掃除しようと母に近寄った。
「来ないで!!!」
聞いたことのある母の大きな声にビクッとして足が止まった。
「父さんに電話をして。私はやっぱりダメみたい」
「そんな...今まで頑張ってきたのに。父に電話をしたら母さんとまた暮らせなくなっちゃうよ」
母さんは涙を溢して、不安と恐怖が入り混じった顔をして僕の方を見た。
「唯斗。なら、お薬を取ってくれる?とりあえずはそれで落ち着くはずだから」
僕は急いで母の鞄から薬ケースを取り出し、母に渡した。
昔、父が母を抑えて飲ませていた薬の量の3倍ほどの数を母は取り出し口に放り投げた。
「唯斗。聞いて欲しいことがあるの」
お茶碗を片付けてしばらくすると母は落ち着いて僕に話をした。
「病気は完全に治ったわけではないの。ただ病院での治療のおかげもあって、少しの間までは症状がでたことはなかったの。それで良くなったという言い方をされたのだけれど、うつ病が悪化するストレスの原因が消えてそうなっているとお医者さんから言われたわ。最近、唯斗が知らないだけで何度か手が震えてしまったり父さんと言い合いになったりしていたの」
そんな話はもちろん知らないし気づかなかった。
「...母さん。僕と離れてから少しの間って、いつの事?」
僕がそう質問をすると母は口を閉じた。
それだけでもう答えになってしまっていた。
あの日からだ。
母が家に戻ってきて家族としてまた暮らし始めたあの日からだ。
僕は母が戻ってきてからは自分の部屋で寝ていて、父と母の寝ている寝室で何かがあったのだろう。
”いつ”が重要なのではなく”誰が”というのが母のうつ病を悪化してしまった原因だというのは容易にわかってしまった。
僕が生まれるまで母は父と一緒に暮らしていて、その時にうつ病ではなかったんじゃないのか?
僕が生まれてからうつ病が発症し徐々に悪化していったんじゃないのか?
そしてあの地獄のような1日があった日以来、母は病院で生活をしていて症状は悪化しなかった。
でも、母が家に戻ってきてから症状は悪化してしまった。
消去法で辿れば母のうつ病を悪化させてしまう原因は一人しか残っていなかった。
それもさっき口に含んだ薬の量からして、かなり重症化させてしまうのだろう。
何度か母は僕を襲いにやってきていたのかもしれない。
父の目のクマ、あれはそんな母を止めるために夜に見張っていて眠れていなかったんじゃなかったとしたら?
「...僕のせいか」
「唯斗!違う!あなたは何にも悪くない。ごめんね、母さんが弱くて」
無口な時間が経過し、30分経ったくらいで父が仕事を終えて家に帰ってきた。
母は父に今日のことを話し、父は母にこう告げた。
「みき。病院の先生が言っていたことは覚えているか?」
と尋ねて母はコクンと頷いてこう答えた。
「明日には入院をしてきます」
その後母はしばらく泣いていた。
薬の副作用で眠気が伴った母を布団に横にさせてから父がご飯を温め直してくれた。
「心配するな。薬の大量摂取と副作用で母さんは朝まで目を覚まさないだろう。唯斗、唯斗は何も悪くないからな。どうか気にしないでくれ」
それは無理があるだろうと声に出てしまいそうになったが心で沈めた。
「唯斗が小学生に上がったと同時に母さんは美容師に復帰をした。そこまでは唯斗にも話したことがあるだろう。復帰をしてから腕が衰えてしまい母さんは思うように美容師としての仕事ができなくなってしまった。お客さんにも酷いことを言われたそうだ。それから母はストレスが蓄積されていってうつ病という精神病を患ったんだ」
「でも、それって僕を産んでしまったからな訳で結局僕が原因じゃないか」
「唯斗。違う。母さんは本当に唯斗を大切にしていて愛していた。それに嘘はない。母さんはストレスを家族に発散せず一人で溜め込んでしまったんだ。
それに気づけなかった俺の責任でもある。母さんは本当に優しい人だったんだ。でもこの世界は優しい人に何故か厳しく、優しくない人が余りにも多い」
確かに母は本当に優しかった。でもそれが嘘ではないのかと思えてしまうくらい母にされたことは怖かった。
「唯斗。母さんは実ははっきりとした記憶がない。うつ病の症状でカッとなってしまう時の記憶だけが何故か抜けているんだ」
「母とは違う人格が生まれてしまってその人格が唯斗を狙って存在を消そうと狙っているのかもしれないとお医者さんは言っていた」
「退院をして一緒に暮らしても良いが、俺がしっかり管理する。そしてうつ病が悪化してしまったら再度入院をして、うつ病が治るまで治療をし、治るまで会わせられないという条件付きでこの家に戻ってきたんだ。母に唯斗が一緒に暮らしたいと言っていると伝えると最後のチャンスくれたのだと涙を流して言っていたよ」
僕は母がこうなってしまったのは自分の責任だと遠回しに知らされ、自分が受けた傷も自分のせいだと思うと自分の中に抱いている憎しみ、悲しみ、そして期待は誰にぶつければ良いのかわからなくなってしまった。
生まれてきただけで、母がこうなってしまったのなら僕がいなければ父と母はまだ仲が良かったのだろうかと思うと急に居心地が悪くなってしまった。
「ごちそうさま。僕はもういいから父さんは今日はちゃんと寝なよ。母さんは副作用で目を覚まさないんだし、最後の日くらい母さんと一緒に寝てあげなよ」
そう言って僕は自分の部屋で眠りについた。
『人生は山あり谷あり』誰かが作ったこんな言葉は結局はだれかが作った物で、僕には当てはまらなかった。
これほど報われないことがあったのだから、大逆転とまではいかなくとも少なからず良い事が起きて少しは生きる活力にもなるうることがあるだろうと安直にそんな事を考えながら眠りについた。だが結局は言葉だけで効果などは表に出ず、これでもかと神様ですら僕の存在を否定するように追い討ちをかけてくるものなのだ。
次に目を覚ませばそこは絶望が待っている。
そのことを知っていれば僕は、僕は生まれてきたくなんかなかった。
「(...唯斗。こんなことしかできないけれどごめんなさい。強く生きて)」
ー翌日。
「(朝か。自然に目が覚めると誰かに起こされるより目覚めの気分が良くて大好きだ。今は何時だろう?)」
いつもは父か母が僕を起こしにくるが自然と目が覚めた。
父はあれから一人で何か考え事をしていたんだろうか。
疲れてぐっすり寝れているかなあ。
僕は体を起こして時間を確認するために首だけを左に曲げて時計を確認しようとした。
「...!!!」
びっくりした。
母が僕の部屋にいた。
起こしに来てくれていたのか?
「おはよう。ずっと立ってないで起こしてくれたら良かったのに。....え??」
立って?
母はいる。確かにいる。
でも足が地面に着いてはいなかった。
僕は下からゆっくり母をなぞるように目線を上に運んだ。
そこには、僕が今日の放課後のサッカー用に昨晩、部屋に置いておいたタオルで首を吊った母がいた。
「母さん!?なに....何をしてるんだよ!!」
僕はすぐに立ち上がって母さんの首に巻かれているタオルを解こうとした、が背が足らず届かない。
ジャンプをしても、母のお腹あたりを手のひらで撫でることしかできなかった。
「なんで。どうしてこんな...」
どうしようもない状況に、ただただ泣くことしかできなかった。
母を救えない自分の情けなさや実の母親が目の前で首を吊っている喪失感というのも、もちろんあった。
だが、それだけでなく、僕の部屋にきてわざわざ首を吊ってトラウマを残そうとしたのだと母を疑い本当に憎くて仕方がなかった。
「そこまでして僕が憎かったのか。トラウマを与えて、そんなに僕が嫌いだったのかよ」
このまま母が死んでしまえば僕は生まれても良かった存在になれるのではないかと思った。
僕はそれでも目の前で人が首を吊っている現実が怖くなって、走って父を叩き起こした。
「ん。どうした?うっかり寝てしまったのか」
おはようとは言わず僕にそう言った父は、僕の泣きじゃくってぐちゃぐちゃになっている顔を見て父は何かを察し、体をすぐに起こした。
「どうした!?母さんが暴れたのか!?」
「違..う。僕の...部屋で母...さんが。母...さんが」
涙のせいでうまく喋れない。
だが父はそれだけで僕の部屋で何かあったのだろうとすぐに僕の部屋に走った。
「唯斗!!!!!!!!!」
僕もその場で少しうずくまって泣いていたが、少ししてから父が大声で僕を呼んだ。
僕は体を再度起こして母さんの真っ白な顔を見るのが怖かったが自分の部屋に戻った。
「唯斗!!!電話を取ってきてくれ!まだ息がある。今ならまだ助かるんだよ!!だから早く!!」
母さんはまだ生きていた。
もう窒息してしまい意識はないように見えたが父が母を降ろしてなんとか少し息を吹き返したのだろう。
僕は急いで電話を取り父に渡した。
父は電話を受け取り、救急車に電話をし、近くの総合病院からほんの10分くらいで救急車が到着し、父と母を運んで行った。
救急車を呼んだ後に、父は祖父に電話をし、自分は母と行かなければならないから僕を頼むと電話で話していたので、母が運ばれた30分後に祖父と祖母が家にきて放心状態になっている僕を見つけると優しく抱きしめてくれた。
「唯斗..唯斗...」
祖父と祖母は何度も僕の名前を呼んだ。
放心状態で精神が崩れてしまった僕は返事ができず、祖父たちがくるまでに枯れてしまったが、顎にまだ残っている涙だけが僕が生きている証だった。
その夜。
病院から帰ってきた父は僕にこう言った。
「唯斗。じいちゃんから唯斗の状態は聞いている。この家にいると唯斗は今日のことを思い出してどんどん精神が蝕まれてしまう。一緒に家を出て爺ちゃんたちの家に引っ越そう」
僕は返事をせず、ぼんやりしたままで父親はそんなん僕を見て祖父たちと同じように優しく抱きしめてくれたが、祖父たちとは違って何度もごめんなと謝っていた。
二日後に僕は父親に連れられ三階建ての祖父の家に引っ越しをして、「ここで寝るといい」と祖父は一番上の部屋に僕を案内し返事をしない僕を見かねて一人にしてやろうと思ったのか静かに階段を降りていった。
話が全然頭に入っていなかった僕は、今日からここが自分の部屋だと言われてもよく分からず目の前にある布団の方に行き、横になった。
真夜中に目を覚まし、下に降りて水を飲みトイレを済ましてまた上に上がった。
久しぶりにぐっすり眠れて少し落ち着いたがすぐに母親が首を吊っていて何もできず泣くしかできなかった自分を思い出し、枯れていたはずの涙が溢れた。
そんなに僕の存在が嫌だったのか。
僕が一体何をしたと言うんだ。
ただ普通に生まれてきただけじゃないか。
なのに育児を理由に母はおかしくなってしまい、働けないのを当てつけにされたのだ。
挙げ句の果てに僕に嫌がらせができないと思い、最後の日を逃さず自分の命と引き換えにしてまで僕の部屋で僕にトラウマを植えつけに来たのだ。
病気だから、記憶がないから、何をしても良いのか?
本当に記憶がないのかも、うつ病によって現れた本性が本当にあったのかもわからないじゃないか。
あの人は今も生きていて、僕に一生消えない傷をつけた。
全部あの人の思う通りになったんだ。
最初から愛情なんて貰ってもいないんじゃないか?
なんで僕だけこんな思いをしなければいけないんだ。
父も僕が生まれてこなければこんなことにはならなかったと心のどかでは思っている筈だ。
僕はあの人のお腹から生まれてきたのに、なんであの人に殺されなければならないんだ。
なら最初から子供なんて作るなよ。
何も知らず生まれてきた僕が馬鹿みたいじゃないか…。
そんなことを考えていると今までの人生が全て嘘だったんだと思い、僕の中で何かが壊れてしまった。
学校にもサッカーにも母が首を吊った日から通っていない。
この日を境に僕からは笑顔が消えてしまい、不登校になり、大好きなサッカーも大好きな学校も友達も全てを手放したのだ。
いや、取り上げられてしまったのだ。
ーーあれから約2年後。
カウンセリングに通い、僕は中学の入学式に参加できるほどに精神は回復したが、小学生が同じだった人たちは髪が伸びきり、明るさを失った僕を見て声をかけてはくれたが何があったのかを聞く人は一人もいなかった。
回復はしたが微々たるもので、母親を思い出すと首を吊っている母が脳内に現れてフラッシュバックを起こし、首が締まる感覚に陥ってしまう。
そんな状態でも、このままではいけないと思い、中学の入学式に出席したのだ。
けど、中学生活は散々で、何かが壊れてしまった僕は非行集団と連むようになって非行に走り、タバコを吸ったり、夜な夜なバイクを盗んだり、学校のガラスを割ったりと誰かに迷惑をかけることに快楽を覚えた。
先生も僕の過去を聞いているのか、僕の行動には見て見ぬ振りをし、怒ることはしなかった。
ただ、僕のことなど知らない外部の人間は僕たちを見て、「親の教育が悪い」または「親の顔が見てみたい」と後ろ指を立てて言っていた。
父に悪さをしろと教育された覚えもないし、親に僕の人生は狂わされたのだと思っている僕にはどれも、僕の中の良心には響かなかった。
友達なら大丈夫なのだが、少しでも信頼を置いて恋愛関係に発展しそうだと思うと、母の一件でその信頼した女性に対して嫌悪感を抱くようになり、青春と言えるようなことは全くなかった。
中学3年生になり、こんなことを続けてもどうしようもない虚無感に襲われた僕は非行を馬鹿馬鹿しく感じた。
父に塾に通いたいと言ったときは父がすごく喜んでくれて、塾に通っていた塾長が高校生の時通っていた『芦間高校』という総合学科の高校を受験することを決め、思ったより勉強が熱心だった僕は無事に芦間高校に合格した。
中学の3年生までの勉強を取り戻すのにも苦労したが、芦間高校は偏差値が少し高めで中学3年生の間はほとんどの時間を勉強に費やした。
それだけ努力をして手に入れた合格で合格発表の時に自分の受験番号が掲示板にあったときは少しくらい涙を流すものだと思っていたが、何も感じず、涙の一粒も出なかった。
祖父の家に引越した当初は毎日のように涙を流していて、お笑いのテレビを見ても気づけば自分の意識の殻に篭ってしまい涙を流してしまうくらいだったが、心が壊れ切ってしまい、いつしか涙は流れなくなってしまった。
それ以降どれだけ感動する映画を見ても、中学の卒業式の式中に思い出を振り返ったりと、自分を客観ししても、涙は流れなかった。
ーー今日からは高校生か。
入学式と少しクラスでホームルームをして今日は終わりだが、新生活に胸を躍らせたりと、普通の人のような感情を抱けたりするものなのかと思ったが、世の中に冷め切ってしまい機械のような手捌きで新しい制服を着た。
入学式なので父はスーツを着て、僕の準備を待ってくれていた。
初めてのネクタイに苦戦する僕を見て、父は嬉しそうな表情を浮かべて僕のネクタイを直した。
だが、ネクタイが首を締め付けるほど呼吸が荒くなる。
「やめて!!!!」
父の手をネクタイから振り払い、僕はその場で崩れ落ちた。
首が閉まる感覚によって母の事がフラッシュバックしてしまったのだ。
「はあ...はあ...父さんごめん」
まだダメなのか。
まだ母は僕を解放してくれないのか。
ネクタイを結ぶ行為は初めてでこんなに首に対し、コンプレックスのようなものを抱いているとは考えていなかった。
これから毎日制服を着るたびに、こんな苦しみを味わい続けろというのか?
父は腰を下ろして息を荒げて下を向いている僕の肩を優しく掴み、体を真っ直ぐに戻しネクタイを再度結んでくれた。
「できたぞ」
さっきはあんなに苦しかったのに今回は苦しみもフラッシュバックも起きず、僕は鏡で自分の格好を確認した。
ネクタイは結んであったが首からを少し遠くゆるゆるの状態だった。
「唯斗。無理なものは無理だと諦めて、出来る事から始めれば良いんだよ。そうやって少しずつ克服していけば良い。唯斗にはまだまだ時間があるんだから。高校入学おめでとう」
機械のような僕でも少し涙腺が緩んでしまうのがなぜか嬉しかった。
父は中学の時に非行に走っても僕を怒らなかった。
学校の大人と同じで父も僕を可哀想なやつだと思っていて好きにさせているのだと勝手に思い込んでいたが、父は僕が僕自身でこの傷を克服できると信じていて、何も言わず見守ってきてくれたのだと感じると、先程の首が閉まって感じた恐怖は消えていて僕は父に差し出された手を取り立ち上がった。
「聞きたかったんだけど、父さんは母さんとあれから会ったりしたの?」
父はなんと言っていいのか困った顔をしていたが正直に話をしてくれた。
「あるよ。何度か定期的に話をしに行っている。唯斗がどうしているのかばかり聞いてくるから唯斗の話もしているよ」
母さんは母さんなりに反省をしているのだろうか。
それを聞いても僕は、母さんから受けた傷が少しも癒えることはなかった。
「実は母さんの入院している病院は少し特殊でな。鬱の重症化を抑えるために入院から約五年は面会場でしか会うことができないんだ」
面会場?
僕にしたみたいに襲い掛かったりする可能性があるからってことなのか?
「五年って...」
「びっくりするだろう、そんな病院がこの世の中にはあって、それを必要とする母さんみたいな人もいる。」
僕は母の心配をしたのでは無かったが、そのことを嫌味ったらしく父に訂正する気も起きなかった。
「五年って今年だよね?」
「ああ、今年だよ。今年からは病院の許可も下りて、ガラスケース越しではなく、病室までお見舞いに行けることになったんだ」
僕が居なくても全然病気は良くなっていないじゃないか...。
父さんが僕の話なんかするからだろうと苛立ちを覚えたが、それは言ってしまってはいけない気がした。
だが、父さんが僕のことを気にかけて母さんと会うことを辞めているのでは?と思っていたから少し安心をした。
それでもモヤモヤした気持ちを抑えられず、父に”良かったね”と言うと、僕の心情に気が付いたのか、とても困った表情をしていた。
そうして、僕が我慢をすればこの二人は幸せになれるんだと、再確認をした。
「それでは新入生の皆さんは前に立っている担任の先生と一緒に教室に戻り、各自ホームルームを始めてください」
今はというと、学生名物である校長先生の長い挨拶が終わり、各々が教室に移動するところだ。
ーガララ。
トイレに立ち寄り教室に戻ると、ほとんんどの学生がもう席についていた。
教室の扉を開けると、一気に視線が僕に集まった。
僕は緊張をあまりしないタイプで、その視線を受けても、まあ新しい学校ならどんな奴と同じクラスなのだろうと凝視するのは当然のことだろうと思い、教室に入った。
「遅いぞ〜。えっとお前は...」
なんだかやる気のなさそうな担任の先生が名簿を見ていた。
「立切です」
「あぁ〜。立切ね。立切は一番後ろの2つ空いている机の左側だ。立切が来たからあとは小林か」
言われた通りに席についたが僕の左の席だけが空いていた。
ーーガララ。
「すいません!ちょっとトイレに行っていて遅くなりましたー!!」
先程僕が当てられた視線と同じものが彼女にも当てられた。
父に「まずは友達を作るために隣の席の人と仲良くなりなさい」と言われていて、僕も高校生活がぼっちだというのは嫌だし、学校を休んだ時のノートを写させてもらうために友達がいた方が過ごしやすいというのは思っていたので、僕も隣の席であろう彼女のことを知ろうと努力をした。
身長は女子の中では高い方でなんだか楽観的な考えをしていていそうだな。
今時の女の子というのが第一印象だ。
「お前が一番最後だ。そこの空いている席に早く座れ。ホームルームを終わらせて俺は早く家に帰りたい」
ここで周りの視線に気づいた彼女は恥ずかしかったのか、少し顔を赤くして黙って僕の隣の席に目掛けて歩き出した。
ーードン!
「いたた....」
新しい学校で隣の席の人が気になる気持ちはぼくも同じだが、隣の席である僕の顔をじーと見つめながら歩いていたので彼女は自分の机に足をぶつけてしまったのだ。
「おい小林。。早く席につけ」
先生は悪目立ちをしてホームルームを伸ばしている厄介者を見る目で彼女を睨み、重たい言葉で彼女に釘を刺していた。
彼女もその視線を察知して殺されるというような表情と恥ずかしさを浮かべながら席に着いた。
「これからよろしくね。僕は立切唯斗」
僕は先生に聞こえないように小さい声で彼女に挨拶をした。
「あ...私は小林りこ。よろしくね」
彼女は机にぶつかったのが恥ずかしかったのか、僕の顔を見ず、下を向いて挨拶を返してくれた。
ホームルームでは生徒の自己紹介をしたり、明日からの授業の時間割を配り、持ち物の説明をして終わりを迎えた。
「はい、それじゃあ明日からもよろしくな〜。俺はこの担任の丸山。もうこれ以上の挨拶とかしねえから各自解散だ」
帰った帰った、と手で生徒を追い払い、生徒からはこいつで担任は大丈夫なのかとみんながポカーンとしていたが、先生はその空気にもろともせず誰よりも先に教室から出て行ってしまった。
シーンとしてしまった空気の中だが僕は、熱血で暑苦しい先生よりは僕は自由に過ごせるだろうし、むしろ歓迎だ。
ゾロゾロと帰っていく中、僕も荷物をまとめ席を立ち上がった。
「あの...立切君」
隣の席の小林さんに名前を呼ばれ、ん?と彼女の方に体を向けた。
「これからよろしくね!!また明日!」
小林さんは淀みのない笑顔で僕に、また明日と挨拶をしてくれた。
「うん。よろしくね。小林さん。また明日!」
そう挨拶をして僕は教室から立ち去った。
「ただいま〜。」
昼過ぎだったが入学式というのもあって父は仕事を休んで祖父たちと一緒に家にいた。
「おかえり!!唯斗、学校どうだった?」
父は少し心配した顔で僕に尋ねてきた。
「んー。父さんの言う通り隣の席の人には声をかけられたかな」
「そっか!よかったよかった。頑張れよ高校生」
僕は祖父たちと一緒にお昼ご飯を食べて、自分の部屋に上がった。
ーその日の晩。
お風呂にも入ったしあとは寝るだけか。
明日からもう授業が始まり、偏差値を少し無理したから着いて行くために授業もしっかり頑張らないとな。
友達を作るためにもっといろんな会話もしていかなければならない。
まあ実際に本音を言うと、そこまで友達が必要かと言われると必要ではなく、不要だ。
誰かに裏切られて心が壊れてしまったのだ。
簡単に人を信用なんかできるわけがないだろう。
誰も信用せず、期待せず過ごすと決めたその結果が中学生活だったのだ。
青春ごっこをするチャンスならいくらでも転がっていただろう。
でも僕はそこに身を置かず、誰も本物の仲間とは思わず、大人が少し憎かったり、悪いことをしているのがかっこいいと思っている連中がいたりして互いに距離を縮めようとしない非行集団の方がまだ居心地が良かったのだ。
誰かを仲の良い人だと認識してしまえば裏切られることもなく、期待することもないからだ。
ひねくれているのは自分でもよくわかっているが、裏切られたと感じることへの恐怖は僕が一番よくわかっていた。
だから高校では、学校を円満にやり過ごすためだと割り切って上辺の関係を築き上げさえすれば良いのだ。
学業以外には関与せず、バツが悪くなれば新しい上辺の友達を作り直し、また築き上げる。
そうやって繰り返していけばいつかは卒業を迎えるだろう。
そんなことを考えながら僕は眠りについた。
ー翌朝。
今日から授業か。
ついていけるかなあ。
高校生からは自分で起きれるようにと父に言われ、昨晩設定していた目覚まし時計によって朝を迎えた。
昨日のことを思い出しながら苦しくならないところまでネクタイを締め、「行ってきます!」と祖父たちに声をかけ、家を出た。
「立切君、おはよう!」
教室で席に着いていると遅刻ギリギリで入室してきた小林さんが挨拶をしてくれた。
「おはよう小林さん。今日から授業頑張ろうね」
僕も軽くおはようだけで終わらせず挨拶を返した。
授業が始まり、しばらくすると隣の席の小林さんがなんだか白々しくカバンを漁っているのに気がついた。
机の上を見て僕はすぐに彼女が何をしているのかがわかった。
「小林さん。これ使って。消しゴムは付属の上のやつ使っていいから」
僕は小さい声で小林さんに声をかけ、シャーペンを一本手渡した。
「ありがとう。なくて困っていたんだ。体育で使う体操服を忘れないように気をつけてたら、他の気が緩んじゃって、筆箱忘れちゃったみたい..」
えへへっと恥ずかしそうに笑う小林さんを見て、僕も口角を少し上げてニコッと笑いかえし、ノートの続きを書き始めた。
授業が終わると小林さんが再度、ペンのお礼を言ってきてくれた。
「今日一日使ってていいからね」
「ありがとう〜!!本当に助かるよ。でさ、ちょっとお願いがあるんだけど...」
どうしたのだろう。赤ペンか?それとも消しゴムか?
「図々しいのはわかっているんだけど、今日部活の見学に行く予定だから放課後も借りちゃダメかな?放課後何か使う予定ある?」
ほう。
文学部に入るのか?
まあ何部の見学に行くにせよペンがなければ、いつ何か記入しなければならない状況になったらどうしようと、落ち着きはしないだろう。
「ううん。今日はなんの用事もないし帰るだけだから使ってていいよ」
予備のペンを失ったくらいで大したことはないし、断る理由もないのでなんの気もなくそう言った。
「あと、マイネームとか持ってたりしないかな...。体操服のゼッケンに名前を書くのを忘れていて...」
午後の授業の体育で使う体操服のことだろう。
あまりの図々しさと不思議さになんだか笑いが込み上げてきて、笑いながらマイネームを取り出し小林さんに渡した。
あれ?
今笑った?
自分の顔を軽く触ったが、その時には笑顔は消えていてた。
小林さんはというと、マイネームでゆっくり丁寧に自分の名前を書いているが、だんだん字が小さくなっていた。
彼女は天然で抜けているのだろうなと思いながら見ていると何故か寂しい気持ちになった。
側から見れば青春の一片なのかな。
これが僕が中学を入学してからは捨ててしまったモノか。
小林さんがマイネームを返してくれると、始まりのチャイムが鳴り、先生が授業を始めた。
だが、授業が始まっても集中できず、自暴自棄になっていた中学の頃の自分を思い出しては嫌になり、小刻みに震える自分の手を抑えた。
午前の授業も無事終わり、昼休みを迎えた僕は、弁当を机に広げた。
「立切〜。ご飯一緒に食べようぜ!」
えっと、こいつは確か小林さんの前の席の世古てつやだったよな。
なんでいきなり僕に話をかけてきたんだ?
周りを見渡すと距離はあるもののほとんどの生徒が席が近い同級生と手探りのような会話をしながらご飯を一緒に食べている風景が広がっていた。
小林さんも席が近い高田レナと言う女の子と仲が良さそうに会話をしていた。
なるほど。
みんなと同様にこいつも周りの空気に取り込まれて席が近い僕に話をかけてくれたのか。
「わかった。一緒に食べよう」
待ってましたと言わんばかりに椅子を後ろに向けてお弁当を片手に話をしだした。
「唯斗でいいか?」
「え?あ、ああ。なんでもいいよ」
「そっか!じゃあ唯斗で!俺のことはてつやって呼んで!」
「わかった。てつや...」
にししと無邪気な笑顔を僕の方に向けて、てつやはあっさりと下の名前で呼び合う事に喜んだ様子だった。
てつやはきっと中学時代もこんな感じで表裏がなく、顔もかっこよく性格からくる子の明るさで周りからも人気者だったんだろうなと感じた。
僕は母との一件がなければてつやみたいな人生を歩めたのだろうか。
壊れてしまう前の僕にどことなく雰囲気が似ていたというのもあり、話をかけてくれて少しは嬉しかったが、変わってしまった今の変わり果てた自分が昔の自分に見られている気がして心は少し曇ってしまった。
「唯斗は部活とか入るのか?」
僕が部活か。
小学生の時に途中まではサッカーをしていたがそれからサッカーを辞め、中学では帰宅部だったし高校も帰宅部かな。
部活に入れば友達が出来やすいと聞くが、1人に慣れていた僕は部活に入る理由もないしな。
「今は入るつもりはないかな〜。てつやは入るの?」
「ああ!サッカー部に入るつもり!部活見学も昨日行ったしな。何も入りたいところがないんだったら一緒にやらねえ?」
よりによってサッカー部か。
てつやが表で僕が裏のような感じかな?
本当にてつやとは気があってしまうようだ。
「サッカーは好きだけど今は学校生活に慣れたいから部活のことは保留で考えておくよ」
ただ拒絶してしまうのは少し気が引けたので検討すると言ってなあなあにし部活には入らない作戦でいくことにした。
これならてつやも拒絶されたと感じることもなくまた、これ以上突き止められることがなく部活の話を強制終了させることができるのだ。
「立切君ってサッカーしてたの〜?」
僕たちの話を聞いていたのか、小林さんが割って話に入ってきた。
「え、なんで?」
この状況でされるこの質問に少し焦りはしたが、小林さんも何処かやってしまったというような表情をしていた。
「あ、いや。サッカー好きだって言ってたから、してたのかなって思っただけだけど?」
「あー、そうだね。小学生の時はしてたかな。それでも何年も前だし...」
嘘で塗り替えてしまえばこんな状況はいくらでも切り抜くことができたが思わず事実を述べてしまい、やらかしたと言う気持ちになった。
「え!唯斗サッカーしてたんだ!!ならサッカー部入ろうよ!!とりあえず体験だけでも...」
ほらきた。
当然の反応だ。
サッカー経験者なら是が非でも部活に入部してほしいと思うのは至極当然のことだ。
服もないし、放課後に予定があるからといってやり過ごそう。
そう思い、口を開こうとした瞬間に小林さんがまたもや割って話に入り、開いた口を閉じてしまった。
「立切君、今日予定がないって言ってたしちょうど良かったね!」
僕は小林さんを危険人物認定した。
僕の邪魔をしたいなら対抗などいくらでもしてやるのだが、彼女の眼差しは純粋そのものだった。
純粋というのが一番手強く、一番扱いにくく、一番予想ができないという偏見が彼女を危険意識してしまったのだ。
「いや、でも今日は服もないし...」
これしかないと捻り出した返答だったが、それは矛盾で覆されてしまうことは発言し終わった後に気がついた。
「立切君。今日は体育で使う体操服があるよね!!」
そう、体操服だ。
先程の小林さんとのマイネームのやりとりを思い出し、僕は気がついていて、小林さんはそれを見逃さなかった。
午後の授業が終わり静かに席を立ち帰宅を試みたが、小林さんとてつやに笑顔で囲まれてしまい、渋々てつやと更衣室に向かった。
「いや〜、唯斗と同じ部活だなんて嬉しいな。これからも改めてよろしくな!」
もうてつやの頭の中では僕はサッカー部に入部している事になっているのだろう。
「てつや。今日は体験でまだ入部するとは言っていないぞ」
てつやは鼻歌を歌い僕の発言を全く聞いていない様子だった。
はあ、とため息をついてサッカー部が活動しているグラウンドに向かった。
グラウンドには練習着ではなく体操服をきて、体験を受けにきたであろう生徒が先に何人もいた。
僕たちがグラウンドに入ると、頃合いを見てサッカー部の部長らしき人が部員に集合をかけ、僕たちも混じった自己紹介が始まった。
「〇〇中出身の駒沢です!中学はサッカー部でポジションはMFでした!」
先輩たちも経験者が来てくれて嬉しいのか、「おぉ〜」と言いながら拍手をしていた。
その後も自己紹介は続き、隣のてつやが終わり僕の番が来た。
「▲▲中出身の立切です。今日は体験を受けに来ただけで小学校はサッカーをしていましたが、中学では帰宅部でした。よろしくお願いします」
あくまで体験だけにきたという雰囲気を出した。
小学生の頃でブランクがあったため先輩たちも「おぉ〜」とはいうが少し微妙な反応だった。
「じゃあ次は女の子が続くが、マネージャー希望かな?」
「はい!××中出身の小林です!マネージャー志望で今日は体験に来ました!よろしくお願いします!!」
「私は○○中出身の妹尾です!マネージャー志望です!よろしくお願いします!」
そういえば練習着をきた先輩たちの中に体操服を着た女子が混ざっている。
体験にきた一年とそれを見ている先輩たちとは向かい合っている形になっているのでおそらく先輩のマネージャーの人だろう。
高校ではマネージャーという枠があるのか。
そっとマネージャー志望の自己紹介をした僕の左側を覗くと、4人ほど同学年っぽい女子が僕の横に並んでいるのが見えた。
高校ではマネージャーという枠があるのか......って、うん?
小林さん?
何してるんだこの人。
授業の時は真っ直ぐのストレートだが髪を結んでいて全く気が付かなかった。
マネージャー志望の4人の自己紹介が終わり、拍手をしている音の中に「かわいいな〜」と先輩がぼやいているのが聞こえたが、浮かれた部員に「サッカー部は部活内恋愛禁止だぞ」と叱っていて部員は大人しく黙った。
僕は部長の話に聞く耳を立てず、小林さんに何してるの?と目で訴えた。
僕の視線に気がついた小林さんは、してやったと言わんばかりにニヤぁと笑みを浮かべながら僕に言った。
「部活の体験に行くって言ったじゃない。それだよそれ」
小林こいつ、完全に仕組みやがった。
てつやがサッカー部に行くことを知っていて、てつやが僕にサッカー部の話を振ったのを見計らい僕たちの話に割って入ってきたんだ。
放課後が空いていることを確認するためにシャーペンで探りを入れやがったんだ。
「言っておくけど、違うよ?お昼にサッカー部のマネージャーとして体験に行くことを決めたから」
僕が悪魔を見る目で小林さんを睨んでいると、小林さんは僕の推理を訂正をした。
「そ、そうだよな。小林さんってちょっとバカっぽいし、そこまで計算できるように見えないからそうじゃないかとは思ったんだよ」
...っいた!!!!
うんうんと一人で小林さんに対しての考えを改めていると、その発言を聞いた小林さんは僕の足を思いっきり踏んづけた。
「踏んでるよ!?」
天然が爆発して足がよろけたのかと思い小林さんの方を見ると、小林さんは右手の人差し指で目の下を引っ張り、べーっとベロを出して僕の方を見ていた。
やはり純粋で天然な人は何を考えているのかがわからず怖い。
中学の頃、母のこともあり裏の心理を読み取ることに敏感になっていた僕は、クラスで話す男女が何を意図して話をしているのかが容易にわかるようになった。
例えば、仲が良さそうに話す女の子たちの中でも対立があり、上辺で話をしているなと感じたり、男同士で話す会話の中でも、こいつは〇〇さんがが好きなのか引き出そうとしているんだろうなと感じたり、遊びに誘ってもらおうと無駄に会話を頑張っているが相手は誘う気すらないのだろうなと読み取ることもできた。
父もその1人だが、カウンセリングの人や中学の先生、それに事情は知らずも何かを汲み取った中学の同級生までもが、僕を可哀想なやつだと心で思い、気を遣って優しくしているのだと、どんな言葉や行動にもその心理が裏にあることは感じてとれた。
挙句の果てには初対面の人も何か危ない雰囲気を感じとって僕に近づく事を避ける人までもいた。
それが僕は許せなかった。
確かに側から見れば可哀想なやつなのかもしれないが僕は今までと変わらず、母との事件が起こる前のような態度で皆に接して欲しかった。
どこにいても可哀想なやつだというレッテルを貼られ、人生が終わってしまった者の最後の安らぎのような態度が僕は嫌いで、負け組だと後ろ指を刺され続けたこの世界に冷めてしまった。
小林さんやてつやのようにそんな感情を裏に持たず、僕に接してくれる人は事件後初めてで、ついこんな僕が普通に戻れて普通の人生を歩めてしまうのではないかと期待を抱かせる。
それに縋り付いて裏切られてしまえば、僕の最後の希望とも言える裏表がなく僕を対等に扱い、存在意義を見出してくれるような光が消えてしまい、本当に僕が壊れてしまうのが怖いのだ。
正直な話、過去に僕も母と同じことをして、この世界から消えてしまおうと思うことが何度もあった。
それでも僕が消えなかったのは最後の光があると心に言い聞かせて戦ってきたからだ。
その光に縋ればもしかすると僕は報われてしまうのかもしれない。
だが縋らず遠目でその光を眺めていれば、報われなくとも消えることはない。
誰も信用せず、どこかに身をおくことをせず、負け組だと自分でも認めてしまえば、この世にはかろうじていられるのだ。
正直死ぬ勇気なんてないのだ。
でもその光に縋って裏切られて光が消えてしまえば多分僕は、簡単に勇気を出すことができてしまうと心でわかっていたから、蓋をして眺めていくことを選ぶだろう。
でも僕は唯一見た光に近づきそうになってしまう。
だから僕は小林さんが怖い。
光に救われる為に今まで生きてきたのに、その光を初めて見つけた僕は、それに近づいていいのかすらも分からずに彷徨う事になるだろう…。
体験が終わり、着替えを済ませ更衣室からてつやと歩いていた。
「いや〜、疲れたな。てか唯斗サッカーめちゃくちゃ上手じゃん!!これはサッカー部で決まりだな」
自分でも驚いていた。
サッカーをやめて何年も月日は経ったが体は覚えていたのだ。
どうせついていけずしんどいだけだろうと思っていたが楽しさすら芽生えてしまい、体が喜んでいるのが感じられた。
てつやには悪いが、光を消したくない。
高校生に上がり、光を実際に見られただけでも嬉しかった。
今じゃなくてもまだ長い人生を生きる中で幾度となくそんなチャンスは現れるだろう。
別に今じゃなくても良いのだ。
そう思い、立ち止まった。
「てつや、サッカーは本当に楽しかった。でも部活には入れない。本当ごめんな」
言ってしまった。
光が目の前でチカチカしているのに僕は逃げて、目を閉じて見て見ぬふりをしてしまった。
また殻に籠って光を閉ざしてしまったのだ。
本当に自分が情けない。
目の前でぶら下がっている母を下ろすこともできず泣き叫んでいたあの頃のように誰かに助けを求め、自分は立ち止まるだけ。
そうして何もできなかったのを何かのせいにして自分を守りに入る。
本当に何にも成長をしていない自分が嫌になり、拳を力強く握りしめた。
そんな昔と今を比べていたせいで、僕を憎み、じわじわと僕を殺そうとしたがそれが叶わず命を犠牲にしてまで僕の心をじわじわと蝕む、あの母の顔がフラッシュバックした。
フラッシュバックにより過呼吸になっている僕の背中を誰かが押した。
現実の僕だけでなく、その衝撃でフラッシュバックしているあの時の僕までも前に踏み出してしまい母の顔に近づいた。
「大丈夫。よく見て。あなたは知らないことだらけなのだから」
誰の声だ?
てつやの前で息を荒げている僕に誰かが言っているのか、フラッシュバックで見ているあの時の僕に誰かが言っているのかはわからないが言われるままに母の顔を見た。
ツーー。
母の閉じた目から涙が溢れていた。
僕を殺せなかった悔しさのあまりに涙を流していたのか?
でも、初めてあの時の母の真っ白な顔をまじまじと見たが何故か過呼吸は止まっていた。
「大丈夫?」
その声でふっと現実の世界に戻された。
後ろを振り返るとそこには小林さんがいた。
「唯斗?大丈夫か?」
目の前にはてつやがいた。
2人にはとんでもない状態を見せてしまった。
いきなり過呼吸を起こしたらそりゃあ心配にもなるし、こいつ大丈夫か?と思われても仕方がない。
「世古君。立切君は久しぶりにサッカーして疲れちゃったんだよ〜」
サッカー疲れってレベルではなかったと思うが、小林さんが天然なお陰でなんとかそういうふうに話を持っていけそうだ。
「そっか。ごめんな唯斗。無理して体験に連れてきちゃったみたいで」
てつやも僕が頭のおかしいやつだと全く思っていないのか、サッカー疲れと信じて心配してくれた。
「そうだよ。だからこれからはゆっくり立切君のペースでサッカー頑張ろうね!」
そうか、小林さんにはまだサッカー部に入らないときっぱり言っていなかった。
「小林さん。僕はサッカー部に入らないんだよ」
さっきみたいなことが起きないように何も考えず小林さんにもそう伝えた。
「ん?もう入部届出してきちゃったよ?」
ん?入部届?小林さんはサッカー部に入部することにしたという意味だよな?
「え、あ....小林さんはマネージャーすることにしたんだ」
「あ、うん!立切君のもついでに出しといた!」
はい?
この人は何を言っているんだろうか。
「入部届だよね?小林さんのは大丈夫だとしても僕のは本人じゃないから承認されなかったんじゃないの?」
入部届を委託書も無しに代理提出なんて、幾ら高校生でもそんなに甘いわけがないだろう。
「いや、担任の先生適当だしハンコ押してたよ!あの人サッカー部の顧問だからそのまま持っていっちゃたし」
甘かった。めちゃくちゃ甘いやつがいた。
あの先生顧問だったのか。
てことは僕は今日からサッカー部になったのか?
「えっと...てつや。その...よろしく。あと小林さんも...」
「よろしく!頑張ろうね!立切君!!」
全ての元凶は小林さんだが、本人があまりにも喜ぶので僕もまあいいかという表情を浮かべていた。
てつやはそんな僕を見て、それでいいの?と言わんばかりにポカーンと口を開けていた。
サッカー部に入部をして、約2ヶ月が経過した。
学校にも皆が馴染みだし、誰が誰と仲がいいか、誰が男子から人気があって誰が女子から人気があるかまで浮き彫りになる時期だ。
てつやも僕もクラスでは人気があり、てつやは明るく性格が良いからという理由で頷けるのだが、僕はネクタイを崩していて中学時代の名残が残っているのかヤンチャそうだからという人間性もないクソみたいな偏見のせいだった。
しかし原因はこれだけでなく部活にもあった。
僕たちの通っている学校では運動部と文学部に男子としての価値に差があるようで、運動部の中でもサッカー部とバトミントン部の間には埋められない差があり、野球部が存在しないこの高校では、サッカー部とバスケ部がクラスでのカーストというのを象徴していた。
俗にいう陽キャと陰キャというのに価値を見出しているのだろう。
僕はネガティブで陰キャだが偏見とサッカー部というポジションだけで生かされていると思うとこの状況を、僕が嫌気をさした過去の状況と重なって本当に馬鹿馬鹿しく感じた。
こういう奴らが人を簡単に裏切って、傷をつけるのだろう。
「世古君!立切君!一緒にいい?」
午前の授業が終わり、お昼ご飯を食堂で食べていると益田が僕たちの食べているテーブルに食堂で買ったうどんを置き、そのままご飯をだべだした。
益田さあや、こいつはクラスが同じで他クラスからも人気がある日向側の女子だ。
こういうことが何度もあり、何かと僕たちの間に割って入ってくるのだ。
対外の検討はついていて、周りからも噂されていることもある。
こいつが僕かてつやのどちらかに好意を寄せていて近寄ってきているのだ。
だがこの場合は二択でもなんでもなく僕からすれば一択だった。
僕はこいつと何か恋愛に発展するエピソードもなく、僕かてつやなら100対0でてつやの方に軍杯が上がると思っているからだ。
てつやはクラスではリーダー的なポジションで男子と女子の意見をまとめる重役に位置している。
僕はというといつも仏頂面で意見などを出すようなタイプではなく女子との会話も小林さんと彼女と仲が良くいつも一緒にいて小林さんと同じ中学出身の高田れなという女の子だけだ。
完全に僕が日陰でてつやが日向側だった。
そんなてつやならモテて当然だし、僕の知らないところで益田と会話などを交わし好意を持たれたという感じだろう。
本当ならトイレにでも行くと言って二人の時間を作ってやるのが、友達としてできることなのだが、それはできなかった。
「2人ってほんと小林さんと仲良いよね。男子ってああいう女の子が本当に好きだよね」
これだ。
こいつは確かに容姿は恵まれているが裏に隠している性根は良いと言えるものではないと気づいていた。
貶していると悟られにくいような言い回していつもごまかしているが、何かと小林のことを話に持ち出して彼女を蹴落とす発言をしている。
てつやに一番近い女子というのは部活の仲間でもある小林さんが必然的に上がってきており、クラスではてつやを狙う女子の奴らから煙たがられていて空気のような扱いをされているのだ。
誰も立候補しない学級委員長に、益田を含めた多くの女子が小林さんの名前をあげて推薦して益田の人気を勝ち取りたい男子は彼女に賛同し、クラスのほとんどが小林さんの名前を挙げるといういじめのような出来事が起きたり、昼休みになるとてつやに群がって後ろの席の小林さんの机を彼女に押したり椅子を奪ったりもしていた。
彼女の友達の高田は流石にブチギレていたが小林さんが必死に止めていた。
そんな幼稚な行動が馬鹿馬鹿しく感じた僕は、学級委員長の件の時にてつやを推薦し、これによっててつやと親しくなるチャンスだと感じた女子が立候補に名をあげたことで回避し、教室で彼女に危害が出ないように弁当を作ることをやめて、てつやを食堂に誘導させることで回避に成功した。
「いつも言っているだろう、部活仲間だからな。それだけだ」
そう益田に言うと彼女は小さな声でこう呟いた。
「部活仲間ね〜」
てつやには行くぞと首で伝え、食べた食器を返却してつやと一緒に食堂をでた。
「てつや、お前小林さんが好きか?」
教室に向かい、階段を上がっている時に僕はてつやに思い切ったことを質問してみた。
「当たり前だろ、部活仲間だからな!!」
ああ、こいつは本当に疎いんだよな。
「言っておくが、恋愛の方の意味だぞ」
てつやにそう訂正するとてつやは立ち止まってこう答えた。
「驚いた。唯斗から恋バナをされるなんて思っていなかったよ。でも大丈夫、小林さんに恋愛感情は抱いていないよ。安心しろよ」
てつやは振り返って僕の顔を見てにゃぁと悪戯な顔をしていた。
「そっか。ならよかった。そう言えば小林さん今日誕生日らしいぞ」
良かったのだろう、ここでてつやが恋愛感情を抱いていれば小林さんを庇い切るのは難しくなるからだ。
てつやが小林さんに好意を抱いていれば周りはそれに怒りを覚え、その矛先はきっと小林さんに向けられるだろう。
だがてつやのこの悪戯顔は認めることができない。
僕が好きだからこんなことを聞いたのだと思っているのだろう。
好きな人なんて出来たこともない僕にとって恋愛というのはわかる筈もないし、僕はこれ以上小林さんともてつやとの関係にも踏み込むことができない。
部活の体験の時、踏み込むことを選択できず、一度てつやに断りを入れて逃げてしまった僕に、選び直すチャンスをくれたのは結果的に小林さんだった。
光に縋ってしまった僕はてつやと小林さんとの関係を消さないように守り抜くのが使命なのだ。
彼女は恐らく自分がなぜ女子から憎まれ口を叩かれているのかわかっていないだろう。
もしかすると疎ましく思われていることすら気づいていないのかもしれない。
だが、それでいいんだ。
憎まれていたと気づかなければ人は傷つくことなどないのだから。
「てつやが思っている意味で聞いたんじゃないよ。ちょっと踏み込んだだけ」
そう言っててつやを追い越し僕は、階段を登った。
「あ、おかえり立切君!最近食堂に行ってるね!」
「ただいま小林さん。弁当を作るのが面倒になってね。それより学校にケーキなんか持ってきたの?」
彼女の机には小さいショートケーキが置いてあった。
「キキが誕生日だから私が持ってきたのよ。今日も部活だから放課後はお祝いできないからね。それよりあんたら部活一緒なのに知らなかったの?」
高田が僕とてつやを睨みつけてそう言った。
「れな!言ってないから知らなくて当然だよ!」
小林さんは他にも関係のない文句を言ってきた高田の口を押さえて、ごめんと言う顔をして僕たちを見ていた。
ーーーキンコンカンコーン。
今日は平和に授業が終わり、気がつけば部活の時間になっていた。
「れな、また明日ね!!」
手を振って小林さんが高田にバイバイとしながら見送った。
「ねえねえ小林さん。ちょっと放課後時間ある?」
授業が終わり帰宅していく生徒の中、益田はタイミングを見計らったのか、小林さんの方に近寄りそういった。
当然僕もてつやもそのことを聞いていたが、てつやは小林さんが今クラスでどう扱われているかに気づいていない。
一致団結した女子がこういうことをするときは恐ろしく狡猾になり、それを好きな男子に知られるなどそんな失態は犯さないのだ。
益田が小林さんの事を話に出しても、益田が小林さんと仲良くなりたくて彼女のことを聞いていると思っているのだ。
てつやは本当にいい奴だが、いい奴なだけあって人の真理の裏に気づかないのだ。
まあそういうところがてつやや小林さんの良いところだと思っている。
「え、私?うーん。わかった!世古君、部活に遅れるって連絡しといてくれる?」
流石に彼女に直接的な危害は加えないだろう。
こいつらは本当に狡猾で、学級委員長の件もあくまで彼女を褒めた上での推薦という形をとって小林さんやてつやには気づかせなかった。
彼女を席で攻撃した時も、たくさんの生徒がてつやの周りに集まり、密度の問題で机を押してしまったというような形をとり、小林さんに仕方のない事だと思わせたり、生徒の壁を作って、他の生徒からもバレないように嫌がらせをしたのだ。
そんなコソコソした奴らだったこそ、放課後だからと言っても先生の目や他の生徒の目もあり危害を与えにくいだろう。
「そっか!わかった!じゃあ唯斗先行こうぜ!」
僕は小林さんをじっと見つめた。
「日直で黒板消さないといけないから消すまで待ってくれ」
僕はそう言って黒板を消すと、てつやと教室を出て、更衣室に向かった。
「益田さんどうしたの?」
小林さんは何も疑う事なく彼女が何か困っているのだと本気で思っていてそう尋ねた。
「あのさ、小林さんってあの2人のどっちかが好きなの?」
「え?どうしたの急に?」
「あんたさ〜、クラスでも人気のあるあの2人と仲が良いからって私たちのこと見下してるでしょ」
急に本性を表した益田を見て、彼女は何が怒っているのかわからないという状況だった。
「そんなことないよ!!それに私は部活が同じなんだよ!?」
益田はこの発言を聞いて舌打ちをした。
「その部活が同じだからっていうのがマウントとって私たちを見下してるって意味なんだよ」
「部活やめてくれる?別にマネージャーなんていてもいなくても一緒じゃない?そしたらあんたとの関わりはなくなるわよね?」
益田の狙いは彼女に部活を辞めさせることが目的だった。
「ごめんなさい益田さん。それだけはできない。益田さんの気分を害したことなら謝るから、もう部活に行ってもいいかな?」
小林さんは男子と女子の両方から人気がある益田から妬まれ口を言われている理由がわからずこの場を去ることだけを考えた。
ーガララ。
「さあやお待たせ〜」
彼女は取り巻きを呼んでいて、その援軍が彼女を取り囲んだ。
「こいつが言ってた女の子?」
「めちゃくちゃブスじゃん」
「お前みたいなのがさあやに敵う訳ないんだよブス」
益田の仲間しかいない教室に、外にまで監視の目を置いていて益田という人間は本当に狡猾だった。
「ねえねえ、小林さん。最後にもう一度聞くけど部活はやめてくれるよね?じゃないとこの後何しちゃうか分からないよ〜。」
彼女に選択の余地はなかった。
「う....」
彼女がうんと言ってしまう瞬間に廊下を見張っていた益田の仲間が声を上げた。
「さあや、やばい!」
ーガララ。
「小林さん、大丈夫か?」
僕は益田の取り巻きを押して教室に入った。
言い逃れの無いような状況を理解した彼女たちはただただ固まっていた。
小林さんは怖かったのか、手が震えていた。
「なんで...。更衣室に入ったのを確認したら教室に来なさいって言ったわよね!?」
益田は声を荒げて仲間に罵倒した。
益田は頭を必死に回転しこの場をくぐり抜けようとした。
「違うの立切君!私たちは小林さんと仲良くなりたくて、彼女と話をしていただけなの!本当よ。ねえ小林さん?」
彼女たちの視線が一気に小林さんに向けられた。
その目を見てここで違うといえば後日にひどいことが起こることは天然の彼女でも察することができただろう。
「そうなの。心配かけちゃってごめんね、立切君。体調が悪くて俯いていただけなの。今日は部活休んでもう帰るよ...」
彼女は俯いてそう答えた。
俯いている小林さん、満点だと言わんばかりの芝居じみた益田たちの表情。
僕はそんな状況を見て、はあ、とため息をこぼして小林さんにこう言った。
「小林さん。嘘なんか上手にならなくていんだよ。ほら、部活一緒に行こ」
「今日はいけないよ。」
「無理だよ、だって顧問に小林さん今日からマネージャーじゃなくて選手になるそうですって言っちゃったもん」
その場にいる全員がキョトンとした顔をしていた。
「え?そんなの勝手に決まるわけないじゃない。私サッカーのルールも知らないし、そもそも本人の承認なしにそんなこと了承されるわけないじゃない」
彼女は初めて僕を馬鹿を見る目で見た。
「いや、顧問の先生適当だし、わかったって言ってたぞ。それに新しい入部届を出せって言われたからそれもその場で書いて渡しといた」
彼女たちは皆、えぇーーーっという表情をしていたが担任の先生が顧問だと益田に言うと彼女はこの話を信じていた。
「今ならグラウンドにいるし、入部届返してもらえるだろうから嫌なら自分で頼みにいきな」
もちろん嘘だ。
そんなことを勝手に決めてしまうほど僕も頭がおかしくなっていない。
まあ小林さんは同じようなことを僕にしたのだからお返しと言った感じでされたと思い信じるだろう。
天然は騙せても、他の奴らにはこんな嘘バレて当然だが、それくらいに担任が適当だと思い込んでいるおかげで、こいつらは信じてしまったのだ。
「立切君って意外に自分勝手なのね。小林さん。私たちはここで一緒に帰るのを待っているから先にあの適当な先生から入部届を返してもらいなさい」
彼女もとりあえずこの場から逃げ出したいと思っていたのか彼女はうんと返事をして教室から立ち去った。
「立切君はそろそろ部活に戻らないといけないんじゃないの?小林さんは少し話した後しっかり帰しておくからもう大丈夫だよ」
大丈夫?
大丈夫ではない。
ここからがお仕置きの時間の始まりで、小林さんにこんな僕を見せたくないからこの場を一時的に立ち去らせるためにあんな嘘をついたのだから。
心配するなら自分の心配をした方がいいとも知らずに。
「益田。お前いつまでしらを切るつもりだ?てつやのことを狙っているのはわかっているが小林さんを蹴落としても意味がないことくらいわかっているだろう」
「それに俺がてつやに嘘でもいいからこのことを言えばお前の願いは永遠に叶わない」
小林さんやてつやが使えない技を僕は平気でできる。
それが原因で僕がこれから生きずらくなってしまっても構わない。
もう十分にそんな窮屈な環境には慣れているし、こんな姑息な奴らに小林さんという光を消させやしない。
これは小林さんのためでなく僕自身のためなのだ。
「証拠もないのに変な言いがかりはやめてくれるかな?」
彼女もてつやに知られたくないという自己防衛が働いているのだろう。
「そうよ!あんな卑怯な女と違って、さあやがそんな卑怯なことするわけないじゃない!」
彼女の取り巻きたちもここぞとばかりに調子づいてしまった。
だが彼女らはすでに負けている。
「そういえば教室に携帯を忘れて取りに来たんだけど見なかったか?」
「携帯?立切君の机にあるんじゃない?探しなよ」
探しなよと言われ僕は自分の机じゃなくて黒板の方に足を運んだ。
「思い出した。黒板消すときに置いたんだった」
僕は黒板に立てかけられていた携帯を手に取った。
「あったんならもうでていってよ」
益田の取り巻きがそういった。
ーーピコン。
「ん?今の何の音?」
益田が僕の携帯に目を配らせてそう言った。
「あれ、なんかビデオ取ってた。何が取れたんだろう」
そう言って保存されたビデオをの画面が見えるように彼女たちの方に画面を向けて、目の前で流した。
そこには益田たちが小林さんを詰めている様子がしっかりと映っていた。
「おい、益田。これから彼女に危害を加えるな。もちろんクラスの奴らを使って彼女に危害を与えるのも許さない。何かすればこのビデオをてつやだけでなくクラス、いや先生の目の前でも流すことになる」
彼女たちは顔を真っ白にして僕を見ていた。
「何もしなければこのビデオは流れない。てつやを諦めろと言っているわけでもなく、正々堂々あいつにアピールしろと言っているんだ。別に悪い話でもないだろう?」
彼女たちは先程の小林さんと同様、選択の余地はなかった。
「それに、この学校では部活内恋愛は禁止されている。お前ら帰宅部はこれを知らなくて当然だが本当だ。小林さんがマネージャーとしている間は2人の間には何もない。これでお前が小林さんにちょっかいをかける理由も消えただろう?」
「小林さんもこのことを承知の上で部活に入っている。益田は勘違いしてしまったかもしれないが小林さんはこのことをお前に訴えていたんだ。マウントを取ったつもりなんて、はなからない。部活仲間は仲間としては一番近い存在かもしれないが男女関係では一番遠い存在なんだよ。益田、小林さんに謝罪をするんだ」
僕は益田に部活の掟というのを教え、謝罪を促した。
今ならまだ彼女の心が壊れてしまうこともなく、まだ間に合うと思ったからだ。
「彼女はグラウンドにいるだろうから早く謝ってきな。今ならまだ間に合うから」
そう彼女たちに告げると意外にも大人しくうなずいて教室を出て行った。
人は誰かを大切に思い、それが奪われたと感じれば狂気的なほどに変わってしまう。
皆自分の大切なもののためには必死になるのだ。
それは僕も同じで、踏み込んだことはしたくないと言いながらも彼女を助けた。
彼女を僕はどう思っているのかの答えは出ないが、母も昔は小林さんのように純粋で明るくて誰からも羨ましがられるような人だったのだろうな。
ーーガララ。
「立切君。助けてくれてありがとう」
小林さんが帰ってきた。
「なんでか益田さんにすごく謝られたよ。立切君が何か言ってくれたんだよね?」
「いや、彼女に部活恋愛は禁止だって伝えただけで、すごく青ざめて小林さんにひどいことをしたと言って急いで教室から出て行ったよ。」
「きっと何か勘違いしていただけなんだろう。小林さんは何も悪いことをしていない」
「うーん。そうだよね?誤解だよね!ほんとびっくりしちゃったよ〜。誤解が晴れたなら本当によかった。ありがとう立切君!」
彼女はそう言って何もなかったかのように笑ってみせた。
これに関しては危機感を持った方が良いとも思ったが、まあこれはこれで良いだろう。この話をこれ以上追求せず彼女が忘れてくれたらそれでいいのだから。
「そう言えば顧問の先生に事情を話して入部届返してくださいって言ったら、立切は今日休む連絡があったとか言ってたんだけどどういうこと?」
この教室にきてどれだけ長丁場になるかわからなかったから部活を休むと言ってしまっていた事を思い出したがもう一つ、この場から小林さんを出すためについた嘘が残っていた。
「あれはちょっと小林さんに前のお返しがしたくて言っちゃった嘘なんだ。ごめん..」
僕はごめんと言いながらも全く反省していない顔で小林さんにそう言った。
「も〜。立切君からさっき受け取った入部届返してください!って言ったら、頭おかしいやつを見る目で先生に見られたんだからね!!」
「悪かったって。じゃあもう俺は帰るから」
小林さんにじゃあ、と手を振って教室を出た。
「今からどこ行く?」
「あー、なんか疲れたし甘いもんでも買って帰ろうかな」
「おー!いいねえ!じゃあイオン行ってフードコートで何か食べようよ!」
「おー。まあまあありだな。ドーナッツでも食うか。って小林さん何してるの?」
じゃあと挨拶をしたはずの小林さんが白々しく僕の隣を歩いていた。
「え、だって私も部活休むって言っちゃったし暇なんだもん。細かいことはいいから早く行こうよ!」
小林さんはほらほらと階段を元気に降りて僕の方を振り返って笑顔で手招きをした。
「なんか高校生になって放課後に出かけるとか初めてでワクワクするな〜」
イオンに向かう途中で、2人で自転車を漕ぎ、髪を風に靡かせながら彼女はそう言った。
「まあ僕も同じだな。小林さんに無理矢理部活に入れられてしまったからね」
「なんか意外だね!もっと遊びに行ってる人だと思ってた」
僕のどこをどう見て遊びに行くタイプだと思ったのかというツッコミを入れたくなったが今はいいだろう。
「小林さんこそ元気だからアウトドアが結構好きなタイプだと思っていたよ。部活がない日は何してるの?」
一瞬だったが彼女が、自転車を漕ぐ足を止めたことを僕は見逃さなかった。
まずいことを聞いてしまったのか?少しプライベートなことに踏み込みすぎたか?
「まあ1人がほとんどかな?立切君は?」
小林さんが休日に1人は予想だにしていなかったが、あまり触れないでおこう。
「基本は家でだらだらしているな〜」
そんな当たり障りのない会話をしている間にイオンに到着した。
自転車を駐輪場に止めて、フードコートでドーナッツを購入して席に着いた。
「立切君って甘いもの本当に好きなんだね」
僕購入したもののほとんどは生クリームがたっぷり入っているものだった。
「いや、ドーナッツなんて基本甘いものしかないでしょ。でも当たってる。甘いものが大好きだけどそのこと話ししたっけ?」
「あ。いや、前に世古君が言っていたからそれを思い出して...」
記憶にはないがてつやになんとなくそんな話をしたのだろうか。
「てつやから聞いたのか。2人でもよく話をするの?」
「ん?全くしないよ?」
どっちだよ。
よく話しているのか話してないのか全然分からない。
やはり小林さんは何を考えているのか本当に分からない。
「レナか立切君としかあまり話をしないよ」
これは男子なら勘違いしてしまっても仕方ない発言だと思うのだが、小林さんはもしかしてあざといというやつなのか?
「勘違いしてしまうからあまり他のやつにそんなこと言っちゃダメだよ」
僕がそう言うと流石の小林さんも気が付いたのか顔を少し赤らめていた。
「ごめん。そ、そうだ!話を変えようかな!立切君って中学生の頃はどんな感じだったの?」
うっ。
あまり聞かれたくない質問をされてしまい、と反射的に目が泳いだ。
「僕?いや今とそんなに変わらない感じだよ?そんなにすぐ変わるわけないじゃん?」
彼女は目を細めて僕の方をじーと睨みつけた。
「なんか怪しいなぁ。立切君嘘ついているでしょ」
なぜかこういうときに限って彼女は鋭く問い詰めてきた。
「いや、ほんとだって!3年生の時とかもう勉強しかしていなかったし」
これならどうだ?
1、2年生の時は散々だったが、3年生は本当に勉強ばかりしていなかったのだから嘘はついていない。
「3年生はねぇ〜。まあ今日はこれくらいで許してあげる」
多分何か引っかかっていたがまあ、やり過ごせたのならそれはそれで良かった。
彼女といると本当に自分のペースに持っていけないが、後手に回るのはここまでだ。
「小林さんは昔どんな感じだったの?」
「私?私はね〜。こんな感じではなかったかな?いや、こんな感じだったかな?」
いや、だからどっちなんだよとツッコミを入れたくなったがそれもまだだろう。
明るく元気で天然でバカみたいな純粋なタイプではなかったと言う意味なのか?
彼女が言う発言に関しては裏の真理を読み取る僕のセンサーも反応しないので真意が分からない。
「小林さんは本当に不思議な人だね。なんかふわふわしてる」
僕がそう言うと、さっきまでニコニコしていた小林さんがすごく怖い顔になって僕を睨みつけた。
「....太ってるってことを言いたいのかな?」
「いや、違います、すいませんでした」
早口で訂正して見せると彼女は怯えた僕を見てゲラゲラ笑っていた。
「もう遅いし帰ろっかな〜」
彼女は携帯で時間を確認しそうつぶやいたので、僕も合わせるように賛同し、自転車置き場に向かった。
「今日はありがとう立切君!楽しかったよ〜。また明日ね!」
そういって彼女は僕に手を振り自転車を漕ぎ出した。
「家近いの?」
「うーん、ここからだと40分くらいかな?」
「結構遠いんだね。学校来る時も大変でしょ」
「そうなのよ。朝の5分って夕方の一時間分に相当する感覚がしない?って立切君は何してるの?」
じゃあと挨拶をされたがSiri時しく僕は小林さんの隣を並走していた。
「家まで送るよ。別にストーカーがしたいわけじゃないから。それが不安なら家の近くまででも送るよ」
「いや、いいよいいよ!今日は立切君に迷惑かけっぱなしだし」
今日というのは益田たちのことを言っているのだろうか。
申し訳なさそうに彼女はそう言った。
「迷惑なんて一つもかけられてないから心配しなくていいよ。細かいことはいいから早く行こうよ〜」
彼女が学校で言っていたことをそっくりそのままお返ししてやった。
彼女は間を置いてありがとうと呟いた。
ーーキキーッッ。
「あ、もう着いた?」
流石に女の子を1人で返すのは僕が納得できず家まで送ったが彼女に迷惑だと思われていないだろうか。
「うん!今日一日本当にありがとう!」
「全然大丈夫だよ。イオンも楽しかったしここまでの帰り道も楽しかったから」
「立切君。本当だったんだね。フードコートで言っていたこと。変わってないよ、聞いてた通り優しいんだもん」
フードコートで言ったこと?
たくさん話はしたけどなんのことだ?
「小林さん、もしかして疲れたの?本当に太って...」
あたりはもう真っ暗で立切の顔ははっきり見えなかったがすごく怒りのオーラが出ているのがわかった。
「嘘だよ!ちょっと茶化しただけだから!」
もういいと言って彼女は自転車を家の前に止め、カバンから鍵を取り出して家に入ろうとしたときに今日がなんの日かを思い出して僕は彼女を呼び止めた。
「小林さん、誕生日おめでとう。誕生日プレゼント渡せなくてごめんね。明日なにが欲しいか部活の時にでも教えてよ」
ドアノブを引こうとしていた彼女の手が止まった。
「今がいい」
彼女は僕の方を見ず、ドアノ方を向いたまま小さい声でそうつぶやいた。
「今?何か決まってるのか?」
僕がそう言うと彼女は下を向いたまま僕の方に駆け寄った。
「携帯貸して。お気に入りに入れとくから。」
通販にしかないものなのか?
まあ最後に失礼なことを言ってしまったしまあいいかと携帯を彼女に手渡した。
「情けないけど、あんまり高いものはやめてね?」
「物には興味がないよ」
彼女はそう言って自分の携帯を取り出し、両手で携帯を操作していた。
商品名でも見ながらやっているのか?
何か僕の携帯を見てはっとした表情を一度したが、携帯にやましいものなど入れていないから大丈夫だろう。
彼女が欲しいものは興味があるし、てつやと割り勘すればそんなに高くはつかないはずだ。
「はい。お気に入りにも入れといた」
彼女から返された携帯の画面を見ると、LINEの画面で、『きき』と言う人のアカウントが表示されていた。
「え?これ小林さん?」
アイコンも彼女の写真だったが念のため、これが小林さんのラインかと問いかけた。
うんと彼女が頷いていて、携帯の画面をもう一度確認すると、右上の星マークが点灯していた。
お気に入りってこっち?
もう一度彼女の方を見ると彼女は振り返って家に入っていった。
バタンと言うドアの音が聞こえて小林さんを送り届ける僕の使命は終わり、僕がここにいる意味は無くなったのだが、少しその場で携帯を眺めて家に帰った。
家についてからも今日のことを思い出していた。
電気を消してベッドで横になって天井を見ているとLINEの通知が鳴った。
僕はこの時間に珍しいなとい思い、もしかしてと思って携帯を開くと予想通り小林さんからだった。
”今日は楽しかった!家まで送ってくれてありがとうね〜!あと誕生日プレゼントも!”
と言う文と一緒に、目が死んでいるうさぎのスタンプの通知が入っていて、その通知をスライドして小林さんのトーク画面に飛んだ。
そうすると今受信したもの前に僕が何かを小林さんに送信していることに気がついた。
そう言えばトーク画面は見ていなかったが僕は小林さんに何か送った覚えはなく、送ったものを見てみるとfor youと書いてあるスタンプを送っていた。
このfor youと書いてあるスタンプには見覚えがあった。
これはライン上で有料スタンプを相手にプレゼントした時に送られる時にしか勝手に送られるスタンプだ。
多分僕が彼女に買わされたスタンプは、この死んだ目のうさぎだろう。
誕生日プレゼントはスタンプだったのかと思うと今まで考えていたことが間違いだったことに気が付き、あまりの勘違いに自分が恥ずかしくなった。
少し騙されたような気持ちになり腹が立ったが、彼女は悪くなく、いや、勘違いされても仕方がないだろうとも思ったが、勘違いしてしまった僕の責任だと思い込みもやもやした気持ちを収めた。
”スタンプは気に入った?”
僕は知っていたかのように彼女にスタンプの話題を振った。
”うん!これ欲しかったから笑 なんだ気がついていたのか〜、面白くない”
”やっぱり騙そうとしていたのか。勘違いされてしまうから本当にこんなことはやめた方がいいぞ”
やはり彼女はからかっていたのだろう。
笑いが込み上げでもして耐えられず家にでも帰ったと言うところだろう。
”わかってるよ!笑 誰でもいいわけじゃないし、立切君以外にはしませ〜ん”
こいつは多分わかっていないな。
そう言うところだぞ!と、喝を入れ直すかとも考えたが彼女を相手にすると思いもよらない攻撃が飛んできて対処が大変になることもあるので、今日はその追撃はやめておいた。
”好きにしてくれ。明日も学校だからもう寝るよ。小林さんも早く寝なよ?”
”面倒くさいとかおもったんでしょ!!まあいいや。また明日ね!今日は本当にありがとう。おやすみ、立切君”
彼女からの返信が来たことを確認して僕は携帯を枕の側に置き、目を閉じた。
ーーガララ。
小林さんとLINEを交換した翌日、学校に登校をして教室に入ると、僕たちの席の近くにはてつや、小林さん、高田は席が近いからいて当然だがそこには、益田の姿もあった。
てつやと小林さんは教室に入ってくる僕を見つけておはようと挨拶をしてくれたが、益田は僕を見るなり自分のせきに戻っていってしまった。
この反応は当然で理解はできたが、高田は僕の顔を睨みつけていてなぜ、こんなにも睨まれているのか検討がつかなかった。
高田に睨まれることなど何もしていないのであまり気にせず、てつやと小林さんに挨拶を返して自分の席に着いた。
「唯斗!昨日部活サボったろ!更衣室で携帯忘れたから教室戻るって言ってから何してたんだ?」
そうだった。
益田のことなどこれっぽっちも信用していない僕は、必ず何かあるだろうと思い携帯を黒板にセットして、頃合いを見極めて事態の回収をしにいったあとはてつやとは会っていないんだった。
てつやの発言に僕と小林さんが同時にビクッと反応していた。
「なんか急用で家の用事ができてすぐ帰らないといけなかったんだよ。先生には伝えたんだけどてつやにも言えば良かったな、ごめんな」
僕がそう言うとてつやはなんの疑いもせず、「そっか!何かあったのかと心配したんだぞ〜。家の用事なら良かった!」と言った。
このやりとりを聞いていた小林さんと益田がホッとしていた。
「唯斗はわかったけど小林さんは昨日何してたの?確か益田さんと話があるからってここで言っていたけど何してたんだ?」
小林さんも昨日部活を休んでいたのでてつやの質問は当然予想できるものだった。
ホッとしていた益田がまたビクッと反応していた。
「私は益田さんと少しだけ喋って、それからは少し体調が悪くなって帰っちゃった!ごめん!」
なんか小林さん嘘が上手くなっていないか?
どれも真実でこの小林さんの発言には何の話?と、いつ帰った?と言うのが彼女が隠したことだ。
僕は彼女と昨日一緒にいたからこの裏にたまたま気がつけたが、てつやは何も引っ掛からず納得をするだろう。
「そっか!体調良くなって良かったな!2人とも今日から頑張ろうぜ!!」
まあ嘘が上手だとか下手だとかは正直関係がなく、てつやが良い奴なだけだろう。
「そう言えばさっき益田はここで何を話していたんだ?」
次は僕がてつやに質問をした。
「ああ、それは益田さんが昨日小林さんと話をして、仲を深めたいと思ったらしく、間を取り持ってくれって言うから3人で会話していただけだよ!」
てつやの発言を聞き、僕は益田の方に首をひねって彼女を睨みつけた。
益田はやはり危険だと思い、彼女の方に近づくと小林さんが間に入ってきた。
てつやはどうしたんだと言う顔で僕を見ていて、それを考慮した小林さんが小声で僕にこう言った。
「待って立切君!本当だよ!」
純粋で人を疑う能力がない小林さんには分からない。
益田を信用して小林さんに近づけることはできないと思い、小林さんを無視して益田の席の前に立った。
「おい、益田。どう言うつもりだ?昨日忠告したよな?」
そう言うと益田は少し顔を赤めて、僕の表情を伺いながら彼女にだけ聞こえるように問い詰めた。
「本当よ。昨日のことで小林さんのことを勘違いしていたことに気がついて、友達になりたいと思ったのよ。それで、世古君にお願いしたの。それに立切君は危害を与えるなって言ったじゃない?危害を与えるために近づいてないもの。忠告は守っているわ」
彼女の発言を最後まで聞き、彼女の顔を見てみたがどう言うわけか恐らく本心だ。
恋敵だと思っていた小林がそうでないと気がつき、反省の意も多少はあるが本当に仲良くしたいと思っているのだろう。
昨日の敵は今日の友という言葉は本当にあったのか。
まあ小林さんに何かしないか見守っていれば、益田の気が変わっても危害を与えることは、難しいだろうからひとまずは信じてやるか。
「そっか。ビデオは俺が持っている。そのことは忘れるなよ?」
「わかってるわよ。もうあんなことはしないわ。立切君も昨日はごめんね。止めてくれてありがとう」
この学校に来てからは不思議なことだらけだ。
考えが読めない人がいたり、人を貶めようとしていたやつがいて、それが間違いだと気がつけば、あっさりと改心したり、その改心を信用して何も疑わず信用する怖いもの知らずの人がいたり。
人はこうも良い方にすぐ変われるのか?
母は変わらないどころかひどくなっていたじゃないか、信用すれば自分が喰われてしまうのに。
母は病気で変わってからまた良い方に変わるなんて出来ず、僕も母の事を許して昔のように変わるなんて出来なかった。
本当に改心した益田、そのことを簡単に信用した小林さん。
この人たちを認めてしまったら僕は...僕と母は本当に負け組になってしまうじゃないか。
僕は益田に危害を与えられたわけではないが彼女のことは疑い続ける。
そうしないとこんな光景を見て耐えられなかった。
ーーキンコンカンコーン。
「立切君。もう授業が始まるから席に戻ろう?」
「うん。そうだね」
益田の背中を軽く睨んでから僕は席に着いた。
「は〜〜。今日も疲れた〜」
今日はきちんと部活に出席し、てつやと小林さんといつも通り自転車置き場から自転車を押しながら帰っていると、小林さんが気だるそうに口を開けた。
なにが疲れただ。
ほとんど原液のアクエリを作って僕に渡してきたりと、遊んでたじゃないか。
文句を言いたくなったが悪気のなさそうに隣を歩く小林さんを見ると、そんな気分にはなれなかった。
「そうだね。でも明日から土日で部活休みだから気が楽だよ」
「あらあら、立切君は明日も暇人ですか?」
小林さんに小馬鹿にしたような物言いをされた。
「暇だけど読みたい本があるから実質忙しいんだよ!」
暇人と思われるのが何だか癪に触ったので忙しいアピールをしてみせた。
「はいはい、強がっちゃって〜。世古君は何かするの?」
小林さんに軽くあしらわれると小林さんはてつやにも話題を振った。
「スポッチャに誘われていて、中学の友達とさしぶりに遊びに行くかな〜。ゆっくりしたい気持ちもあるけどね。」
さすが陽キャ。
僕とは違って休みを完全に謳歌している。
休みの日にまで体を動かすのなんて考えられないから、僕ならいかないがてつやにはそんな思考は存在しないだろう。
「おぉ〜。青春だねぇ!立切君とは過ごし方が天と地だ!」
「2人って仲がいいのかよくないのか分からないな」
てつやは睨み合っている僕たちを見てそう言った。
学校の外にでると各々がバラけて、それぞれの帰路についた。
僕は家に着くとすぐにお風呂に入り、ご飯を済まして自分の部屋に戻った。
YouTubeでも見ようと思い携帯を開くとLINEに小林さんからのメッセージが入っていた。
”やっほ〜!小林君今何してるの?”
小林さんも意外と暇だよな。
というのは建前で、何だこの可愛いメッセージは。
”寝る準備してた。どうしたのいきなり?もしかして「暇」なの?”
僕が今日の帰り道にバカにされた分のお返しを交えたメッセージを送りつけるとすぐに返事が帰ってきた。
”暇を強調するな!!明日行きたいところがあるんだけど明日暇だったよね?着いてきてよ!!”
なかなか強引でくどいな。
女子とも男子ともあまりLINEをすることはないが、どこ行くかは承認しないと教えてくれないオプションがついたメッセージが今は普通なのか?
まあ普通を誰かに教えてもらったところで彼女には当てはまらないか。
明日は正直暇だから別に良いが、明日は何だか家でゆっくりしたい気持ちが大きかったので、申し訳ないが今回は断ろう。
いや、待てよ。
小林さんだぞ?
ここで僕が明日は行けないと言っても引き下がるだろうか?
きっとあれやこれや言い結局はいかないといけない羽目になってしまうだろうと思い、寝たふりをして今日は小林さんのLINEの会話は忘れようという作戦を思いついた。
しばらく小林さんのLINEを無視してYouTubeを見てリラックスタイムを謳歌していたが携帯の上部にLINEのメッセージが通知として表示された。
”立切君寝たフリでもしてるの?絶対に気がついてるよね?”
いや、バレているぞ。
僕は彼女の考えていることが読めないが、彼女はなぜ僕の思考をこうも読んでくるのだ?
逆に今ここで返事をしてしまうとこの作戦が破綻してしまうし、見ていた動画がいいところだったのでその通知を上にスライドし、見なかったことにした。
よし、ここまできてしまったのなら寝たふりを完遂させなければならない。
僕は心でもう一度誓いを立て、見ていた動画の続きを視聴した。
すると今度はすぐにてつやからLINEで電話がきた。
いつものてつやのアイコンはサッカーボールなのだが、アイコンが真っ黒になっていた。
何かあったのかと気になり僕はすぐに電話に出た。
「どうしたてつや?なんかあったのか?」
数秒ほどてつやからの返答はなく静かだったのだが、かすかに笑い声が聞こえた。
「てつや?アイコンも真っ黒にしてなんかあったんだろ?俺で良かったら話聞くよ」
すると我慢していた笑い声が吹き出す音が聞こえた。
「あははは!!騙されたな〜。寝たふりしようったてそうはいかないんだから!!」
この声は小林さん?
てつやと一緒にいたのか?
3人で別れて帰ったはずではなかったか?
「小林さんもいたのか。何?」
「名前を世古君の下の名前にして、電話かけたら出るだろうなと思ってやってみたら、見事に釣れたよ〜。アイコンは知らないから真っ黒にしたけどその様子だとまんまとはまったみたいだね!!」
姑息だが、こいつなかなかやりやがる。
LINEの機能など把握していない僕は名前の変え方もアイコンの変え方も把握しておらず、まんまと小林さんの策にはまったというわけか。
だが寝たふりをしてしまったから少しまずいことになった。
「いや〜。すまんすまん。無視したことは素直に謝る。んで、どうしたの?」
「いや、潔よ!!本当に反省してるの〜?まあ立切君ならしかねないと思っていたから別に今更いいけどさ〜」
小林さんからの僕の評価はどうなっているんだとツッコミを入れたくなっただ今は立場的にやめておこう。
「てゆうか、何って明日のことだよ!買い物したいから、明日はじゃあ12時に私の家の前集合ね!!」
買い物だったか。
今日の失態のこともあるし明日はきっと荷物持ちだろうな…。
「つまり迎えに来いってことでいいか?」
「無視した罰だよ。遅刻はまあ許してあげるけど、ドタキャンはだめだからね!」
遅刻は許してくれるんだ。
意外に優しい罰則だな。
「わかった。さすがにしないから安心して。じゃあまた明日ね。」
「え〜、もう電話切っちゃうの?初めて電話してちょっと楽しいんだけどな〜。」
また勘違いされちゃう発言だ。
「小林さん」
「どうしたの?何か話題思いついた?」
「もしかして暇なの?」
ートゥルルン。
図星だったのだろう、電話を切られてしまった。
あれだけ帰り道に暇人だの何だの言ってきたくせによく言えたものだな。
”ばか”
電話が切れてトーク画面に戻ると本当にてつやという名前に変えていて、バカとメッセージがきていた。
その後すぐに名前もアイコンも、小林さんのものに戻っていた。
”ごめんごめん。また明日ね。おやすみ”
”相手しろバカ、明日遅刻も禁止だからね。おやすみ!”
僕の失言で遅刻も禁止になってしまったのを確認して眠りについた。
ーー翌日
時刻は11時10分。
僕は遅刻してはいけないと早めに家を出ていてもう小林さんの家の前に到着するところだ。
もうあと5分くらいで着くが、さすがに45分前は早すぎるよな?
家の前で待っていても良いが小林さんの家族とかと会うと気まずいし、それより小林さんのことだから「立切君、早すぎだよ!もしかして楽しみにしてたの?」とか言ってくるだろうからそれだけはごめんだ。
少し、目の前のコンビニでも寄って時間を過ごすか。
「いらっしゃいませ〜」
少し暑いしアイスでも買って食べていたらちょうど良い時間にでもなるだろうと思いアイスを手に取ってレジに向かった。
「一点で80円です」
今日どれくらいお金を使うか分からないし安いアイスで我慢しておこう。
それにしても入店の時から感じていたがこの店員さんの声どっかで聞いてことあるんだよな。
そう思い恐る恐る顔を少し上げて名札を確認した。
高田。
間違いなく小林さんと仲が良い、あの高田レナだ。
そういえばあの2人は同じ中学だからここら辺でアルバイトをしていても不思議ではないか。
しかしここで顔を見られると小林さんに僕を見たと言われ、集合時間の早めに彼女の家の近くについていることがバレてしまう。
バレないようにお金をそっと出して店から出ようとした。
「立切。何でそんなコソコソしてんの?」
はあ。やはりバレていたか。
「高田さんか。気づかなかったよ。何してるの?」
「何ってアルバイトしかないでしょ。それにあんた一回名札確認したよね?声くらいかけなさいよ。」
相変わらずあたりがキツくて少し怖いな。
「バイト中で邪魔しちゃいけないかなと思ってね。そういうことだから、じゃあ!」
すると高田はレジから売り場に出てきて僕の前を遮った。
「大丈夫。あんたしか今お客さんいないし。あんたこそこんな所で何してんの?」
周りを見渡すと本当に僕しか店内にはいなかった。
「いや、小林さんと待ち合わせしててその行き道だけど」
「は?キキと?2人じゃないよね?」
怖いって。
詰め方が女ヤンキーのそれなんだよ。
「いや2人だけど…」
「あんたキキのこと好きなの?サッカー部って部内恋愛禁止じゃなかったっけ」
こいついきなり突っかかってきて何なんだ?
「りこがサッカー部のマネージャーするって聞いて最初は不安だったけど、今はすごく楽しそうだからあの子に変な気起こして邪魔しないでね?私が許さないから。」
親か。というツッコミを入れたくなったが今それを入れてしまうとこの場で殺されてしまうと思い、心にそっとしまっておいた。
「本当に買い物するだけだし、小林さんが来いって言うから今日は来ただけだし」
「りこが誘ったの?あの子本当にいつも私に相談しないわね」
「もういいだろ?アイス溶けちゃうから本当に通してくれ」
だがそれでも高田は何か言いたげで道を譲らなかった。
「立切。益田から助けてくれてありがとう。りこから聞いた。私は何もできなかったから、これだけは本当に感謝してる」
小林さんから話を聞いたのか。
それで何もできなかった自分が情けなくなり、逆ギレのような感じで昨日は学校で睨んできた、というようなところか。
「別に何もしてないって。あの時は高田は帰っていたし何もできなくて当然だろ。誰が守ったとかは重要ではなくて、小林さんが無事だった、それでいいじゃないか。」
そう言うと高田は下を俯いたまま道を開けてくれた。
「ありがとうございました」
最後に彼女は店員としての仕事を全うして声を出した。
高田からの睨みの原因が分かったことは良いことだが、小林さんに僕がきたことを報告していればきっと茶化されてしまうんだろうな。
そんな時はうまく誤魔化すかと現状を受け止めてアイスを頬張った。
”着いたから用意できたら降りてきて”
アイスを食べて小林さんの家の前に着いたのは集合時間の10分前だったので彼女にメッセージを送った。
久しぶりに誰かと休みの日に出かけるから楽しみになってしまっているのか、何だか今日起きてからずっとソワソワしている。
暑いから早く来て欲しいという想いと何故かソワソワが落ち着くまでまだ来ないでほしい、という想いが僕の中で交差していた。
ーーガチャ
小林さん家のドアが微かに開く音がしてドアの方を向いた。
「あ!おはよ〜!ドタキャンしなくて偉い!!」
いつもはセミロングのストレートなのだが、今日は少し巻いていたり、制服姿しか見たことがなかったが、彼女は着飾らずにスウェットにジーパンを合わせていた。
街を歩いていてもスウェットは緩い感じが出て、すごくおしゃれだとはいえない服装だと思っていたが、彼女が着ていた何の変哲もない服たちは、どんな女優やモデルがきている服よりもおしゃれに見えて思わず見惚れてしまった。
「おーい。なんか返事してよ〜」
彼女の声でハッとした。
「ん?ああ。おはよう〜。今日はどこまで行くの?」
「今日はね〜、心斎橋に行こうと思います!!」
心斎橋か。大阪の中でもあまり治安が良くはないがそれは夜の話で、昼は立派なオフィス街なのでそう危険でもないだろう。
って僕も親みたいだな。
「心斎橋か。てことは電車?」
「ピンポーン!今から駅に行くよ!」
昨日寝ぶっちをしてしまって少しは直接怒られるかとも思ったが、彼女はすごく上機嫌でそんなことなど忘れている様子だった。
「電車だよね?それなら駅集合でよかったんじゃない?」
心斎橋駅に集合にしていればよかったのではと思い、彼女に聞いてみた。
「ええ〜。解散時間早くなっちゃうじゃん?ここから一緒に駅に行けば、帰りも立切君と喋りながら帰れるからいいかなって思って!」
今日も勘違い発言は炸裂されるみたいだし、本当に調子狂うんだよな。
「まあ何でもいいけど…。じゃあ行こっか」
それから彼女の家の最寄り駅に行き、電車に乗った。
電車では隣同士で座っていて何だか全ての自分から発せられる音に敏感になってしまい、呼吸だけでもと、ゆっくり深呼吸のようなものを繰り返した。
「次は心斎橋駅〜。心斎橋駅〜」
電車内で車掌さんのアナウンスが入り、彼女とアイコンタクトを交わして2人同じタイミングで席を立った。
「で、地上に出たけどここからどこのお店に行くとか決まってるの?」
彼女の方を振り向くとスマホでマップを開いて携帯を回転させながら、周りの景色とマップを何度も見比べていた。
こうゆうのはすごくわかりやすいんだけどな〜。
「もしかして迷ってる?マップ見せて?」
彼女は恥ずかしそうな表情をして僕の顔を睨んだ。
「迷ってないもん!....でもせっかくだし案内してもらおうかな」
そう言って僕に携帯を差し出してきた。
「ここがここだから....こっちだね。経路はわかったから行こっか」
遠くなかったのでその場でマップを暗記して携帯を返した。
「おぉ!頼りになるね〜!」
そう言って後ろで鼻歌を歌いながらついて来た。
子供みたいに無邪気にあたりをキョロキョロしながら楽しそうに僕の後ろを歩いてくる彼女を見ていると、僕の方まで楽しいが伝染してしまい、彼女に気づかれぬように前を向いて少し笑った。
10分ほど歩いて小林さんのお目当ての店の前まで到着した。
「この店だ!ありがとう〜」
店の前まで来たので彼女に着いたよ、と言おうとしたがそれよりも早く気がついた小林さんは、店の中に入って行ってしまった。
僕もすぐに彼女の後を追った。
「立切君はこれとこれだったらどっちがいい?」
彼女はadidasの赤色のカバンと青色のカバンを持って僕の方に尋ねてきた。
このカバンは最近女子の中で流行っているのかな?
何度か学校で見たことがある。
彼女も流行り物には弱いと言うことか。
「そうだな〜。僕は青色かな?」
赤色よりは青色が好きだったので僕は青色だと彼女に告げると、赤色のカバンはすぐに直してレジに行った。
「え?ちょっと待って小林さん!僕の意見で決めちゃっていいの?」
なんでそんなこと聞くの?と、不思議そうな顔をして彼女はうんと即答した。
「いいならいんだけど...僕も何か買いたいからもうちょっと店の中見ていい?」
「わかった!!じゃあ見て回ろっか!その前にトイレだけ行って来ていい?」
わかったと僕が言うと彼女は、青色のカバンを僕に持っててと言ってトイレに向かった。
僕は彼女から渡された青色のカバンをジーっと眺めた。
少しすると彼女がトイレから戻ってきた。
「お待たせー!じゃあ回ろっか!ってあれ?もう何か買ったの?」
僕は店のロゴが入った大きな袋を持って小林さんを待っていた。
「一緒にまわろうって言ったの立切くんなのに!!じゃあ私もカバン買ってくるから待ってて」
このタイミングだと思い、彼女に袋を手渡した。
「これ、誕生日プレゼント。ちゃんとしたもの渡せてなかったから」
彼女は袋を受け取って困惑していたが袋の中を見て、ええ〜!と言いながら僕の顔を見た。
「これ私が買うつもりだったカバンだよね!?プレゼントならこの前にもう貰ったのに!」
「もう買っちゃったから受け取って。今日はプレゼントしたい思って来たのもあったから」
僕の発言は無視して、すぐにお金だけ返すと言ってきたが、何とか言いくるめてプレゼントを受け取ってもらえた。
「じゃあ受け取っちゃうね。ありがとう。大事にする」
「全然。じゃあ次のお店行こっか。もうプレゼントはお終いだけどね」
うん!と彼女は前を向いて返事をし、カバンの入った袋を手にぶら下げず、大事に抱えて歩き出した。
その後は2人で最近流行りになっているタピオカジュースを飲んだり、6個入りのたこ焼きを分けて食べたりしてお腹を膨らませたりした。
お腹を膨らました後、小林さんは服を買うといい、服屋さんに入ると試着室の前で待たされ、色んな小林さんが試着室から出てきては意見を求められた。
試着室のカーテンが開くたびに見たこともない小林さんが目の前に現れ、どんな服を着て出てきても彼女は見事に着こなしていて、彼女のためにここにある服は作られたのでは?と錯覚してしまうほどに、彼女は輝いて見えて...可愛かった。
「ねえ〜。ねえってば!!」
柄にもなく彼女に見惚れてしまっていた僕はハッとなって彼女に返事を返した。
「あっ。ごめん。どうしたの?」
「この服はどう?」
「似合ってると思うよ」
「さっきからそれしか言わないじゃん!!こうなると本当に似合ってるのか心配になるんだよね〜。じゃあどれが一番好き?」
先程見たコーディネートを思い出し、少し悩んだがこの問いに対する回答は僕の中でもう決まっていた。
「今の小林さんだね」
「.....あ、この服みたいなのが好みなんだ!へぇ〜」
少し間が空いたがすぐに彼女は「へぇ〜。そっかそっか」と言いながらニヤニヤとした目つきで僕を見つめた。
その後彼女はその服をレジに持って行き、服を購入した。
「お待たせ!今日はもう買い物の用事済んだしそろそろ帰ろっか〜」
そう言って彼女と僕は電車に乗り込み彼女の家の最寄駅まで到着した。
駅で解散という話だったが、当たり前のように小林さんを家まで送っていた。
小林さんは歩いて帰る派だとかよく分からないことをポリシーに持っているらしく、僕と小林さんは自転車を押しながら彼女の家に向かった。
「いや〜、送ってもらっちゃって悪いね〜」
「ううん。せっかくだからね」
「本当に今日は楽しかった!かわいい服も買えたし、プレゼントも貰っちゃったし。ありがとうね」
彼女はカバンが入った袋を眺めながらそう言った。
「僕も楽しかったし、プレゼント渡せてよかったよ」
「またどこか行こうね!次は寝ぶっちなんてしないでね?」
「本当に悪かったって。最初は行くの少しだるかったけど」
前を向いて歩いていた彼女が僕の方を向いてこう言った。
「素直じゃないな〜。どうせ集合時間よりだいぶ早めに着いちゃうくらい楽しみにしてたんでしょ〜」
キキー!!
僕は押していた自転車のブレーキを握り、足を止めた。
「いや、どうしてもセブンイレブンのアイスが食べたくなったけど、家の近くにセブンイレブンがなくてたまたま探してたら、小林さんの家の近くにたどり着いただけだから!」
やはり高田からメッセージでも送られて来ていたか。
なんとか誤魔化そうと嘘をついたが何も思いつかず、どうしようもない誤魔化し方をしてしまった。
「え?本当に来てたんだ!!適当に言ったのに当たっちゃった〜!しかも誤魔化す理由がアイスって...」
彼女も足を止めて僕の方を振り返り、クスクスと笑っていた。
鎌をかけられてまんまとハマってしまったことを思うと、ものすごく恥ずかしくなり、すぐにでも帰りたくなったがこれをチャンスだと思った。
「やっぱり鎌かけだったか〜。知ってて乗ってあげたんだよ。こう言った方が小林さんは喜ぶかなって」
これで本当の事は分からず、冗談で終わらせる事ができたらいいのだが。。
いけるか?と思い、彼女の方を見ると彼女は笑っている時の笑顔とはどこか違う笑顔で僕を見ていた。
「ねえ、立切君。適当にそんなこと言うわけないじゃない。レナから聞いてるんだよ?」
完全敗北だった。
最初の段階で正直に言っていたら、集合時間に早くくるのは当たり前だと考えている真面目な人だということで簡単に終わるのだが、少し嘘を着いて誤魔化してしまったせいで、僕が早く小林さんに会いたくて、小林さんの家に早く向かったが、小林さんとの集合時間より早く来てしまったことを気にしている青春野郎と思われてしまった。
彼女はあえて僕を泳がしさらにダメージを与えに来ていたのだ。
それに気が付かず騙しきれると思っていた自分が浅はかだった。
僕が早めに着いていたなんていきなりカマをかける方が不自然だったし、今考えれば普通に高田から聞いていると気づくべきだった。
今の彼女の笑顔は、僕を出し抜いて優越感に浸っている顔だろう。
次の言葉を何か発しなければいけない、と頭の回転スピードを必死に上げたが、この状態を覆すことは到底できず、僕はたったの一言しか発する事ができなかった。
「うん。そりゃあ、聞いてますよね…」
あっさり負けを認めてしまった事が予想外で面白かったのか、彼女はゲラゲラと先ほどよりも大きな声で笑っていた。
「あはは、茶化しちゃってごめんね!寝ぶっちの反省で早く来てくれただけなんでしょ?わかってるよ」
そう言って彼女は自転車を押し出した。
なんだかよく分からないが彼女が良い解釈をしてくれたのでこれ以上はこの話題に関して触れないでおこうと思い、僕も彼女に続いて自転車を押した。
キキー。
「着いたね」
彼女の家が近づくにつれて2人とも会話が減って、小林さんの家の前に着いた時には2人とも無言になり少し佇んでいたが、僕の方から口を開いた。
「あ、うん。着いたね」
「今日は本当に楽しかった。結構歩いて足も疲れてるだろうからゆっくり休んでね」
「うん。ありがとう。立切君も疲れたでしょ?」
「僕は部活で足を使ってるから全然平気」
「そっか。そうだよね。じゃあ今日は本当にありがとうね。送ってくれてありがとう。気をつけて帰ってね」
彼女はそう言ってゆっくりと自転車を家の前に止めてゆっくりと荷物を手にまとめていた。
その動作を僕はただ見つめることしかできず、僕も小林さんも何か物足りない表情をして、2人のお出かけの時間は終わりを迎えた。
僕はバタン、と小林さんの家の玄関のドアが閉まる音を確認して自転車に跨り家路に着いた。
僕は彼女のことを本当はどう思っているのだろう。
クラスメイト?部活仲間?僕が探していた光?多分どれも違う。
そんなことはとっくに気付いていた。
でも認めてしまうのが本当に怖いんだ。
僕は彼女の特別な人になりたい。
でも僕の特別な人になって欲しくない。
僕にとって特別な人が現れたら僕はどうするのだろうと考えた時期もあった。
母のことで裏切りに対してシビアに考えていた僕はきっと、裏切られるのが怖くなって想いを告げないだろうと思っていた。
まさにその通りで、やっと僕にとっての希望を見つけて彼女に対して特別なことをしてしまえば、僕は彼女を意識してしまい距離を置いてしまうだろう。
てつやは男だからそんな感情にはならないのだが、希望に当たる人が女の子だった場合僕はどのようにその人に接するのだろうと疑問を抱いていた。
あまり干渉せず、特別を意識せず、あくまで友達の距離感をとることを心がけて彼女に接してきた。
なのに気がつけば彼女のことばかり視界に入るようになり、人のことを考えて過ごす夜が増えた。
でもここで僕が彼女に想いを告げてしまうとどうなるだろう。
彼女にNOと言われてしまえば、てつやと僕と小林さんの仲を壊してしまうことになることは容易に想像ができた。
彼女が仲を保てるようなタイプだとしても僕はきっと今のように接することはできず保つなんて器用な真似はできないだろう。
そして万に一つ、彼女がOKと言ってくれたとしてもいつか別れが来たときに僕は裏切られたと考えてしまい、光を失った僕はきっと死んだように毎日を過ごしていくことになるだろう。
それならいっそ想いは告げず、今の関係のまま時を過ごし、誰にも裏切られることのない世界を選ぶのは当然だろう。
僕の心を殺してしまえば、僕自身も、小林さんもてつやも笑っていられるのだ。
言わなければ後悔する?
分かっている。
言わなければ伝わらない?
知っている。
小林さんに対して抱いている感情?
気づいている。
彼女といる時間が本当に大切で大好きなはずなのに彼女といると本当に辛くなる。
楽しければ楽しいほどにその痛みは増して、次第に過去のトラウマが楽しかった時間を埋め尽くすように僕の中に入ってくるのだ。
だから僕は彼女に対しての気持ちを認めず、僕の特別な人にはさせないように明日からも干渉はせず、あくまでクラスメイト兼部活仲間として学校生活を送っていこう。
僕はそう自分に言い聞かせながら眠りについた。
翌日、僕は学校に着いて一限が始まるのをただただ座って待っていた。
クラスメイトの大半が投稿してきていて、クラスも賑わっていたが小林さんの姿はまだ見えなかった。
昨日あんなことを考えてしまったせいで一方的だが小林さんと顔を合わせずらく感じてしまっていて、彼女がくるのを緊張して待っていた。
ーーガララ。
まだ心の準備ができていなかったがそんなことはお構いなしに彼女は教室に入ってきた。
ドアが開いて、顔が見えた途端に顔を伏せてしまった。
どう声をかける?
いつもなら朝なのだから当然、おはようと挨拶を交わすのだが、彼女と少し距離を置こうと決意した途端におはようと声をかけるだけでも躊躇ってしまう。
かといって無視はあまりにも酷いし、声を掛けないことによって、逆に意識してしまっている感が出てしまう。
どうすればいいんだと俯きながら頭を悩ましている間にも彼女がこちらに歩いてくる音がする。
その時、高田が小林さんにおはようではなくいつもは聞こえてこない発言が聞こえた。
「あれ?りこカバン変えた?」
その言葉を聞いて思わず顔を上げてしまい小林さんの方を見た。
すると彼女は僕がプレゼントしたカバンを早速使ってくれていたのだ。
「変えたよ〜!よく気がついたね!」
「いや、青色のカバンなんて見た事がないし目立つからそりゃあ、あんた気がつくよ?」
小林さんがそっかあと高田に向けて笑みをこぼした後、彼女の視線が横に動き、彼女と目があってしまった。
「あ...おはよう小林さん。カバン似合ってるね」
思わず声をかけてしまったが、彼女は少し動揺している僕を見て頭に?を飛ばしながら僕の目を見ていた。
「ありがとう!立切君から貰ったものだし大事に使うね!」
そう言って満面の笑みを浮かべた彼女を見て僕は腹が立った。
またそんな勘違いしてしまう発言か。
彼女は本当に何を考えているんだ。
友達から貰ったものを使っているだけでそんなことは男女間の友達なら日常茶飯事に起きていることだ。
そんなことは勘違いの原因になってしまうと分かっているし、彼女は今までもこんな感じで所々期待させる言葉を僕に吐いてきたが、僕はそれは小林さんの通常だと理解していて馬鹿な男子のように勘違いせずこれまでやってきた。
なのに...なんでさっき高田に向けていた笑顔よりも今向けられている笑顔の方が笑っているんだよ。
もう彼女に対しては何も抱かずにおこうと決意したはずなのに、これじゃあ諦められないじゃないか。
彼女はカバンを机に置き、そっと席についた。
僕は彼女に話しかける事はせず、彼女の笑顔をただひたすらに思い出していた。
「いやー、今日も部活疲れたな。大会が近いから仕方がないけど」
更衣室で一緒に着替えていたてつやがやり切った表情で僕に言った。
そうだなと返事をしたが更衣室の片隅でバスケ部のグループの会話が耳に入ってきた。
「サッカー部のマネの小林さん?あの子めちゃくちゃ可愛くね?」
小林さんという単語を聞いて思わず体がピクッと反応した。
「わかるわ〜。俺らのマネはブスばっかだもんな」
「そうそう。部活内恋愛禁止?そんなんする気も起こらねえつーの!」
下衆のような会話が聞こえてきて、僕は彼らを睨みつけたが僕の視線など気がつかず彼らは話を続けた。
「小林さん、今度遊びに誘ってみようかな?」
「アリだな!でもお前好きな人いるじゃん?」
「あーいんだよ。やれればそれでいいんだから。二番手って感じで小林さん狙うわ〜」
「富永は顔だけはいいもんな〜。余裕で捕まるっしょ!俺にもまた斉藤さんみたいに回してくれよ!」
ほうほう。
あのクズが富永というやつか。
クラスの女子が話していたのをちらっと聞いたが、てつやと張るイケメンが同学年にいて確かそいつの名前が富永って言ったよな?
なんでも中学はかなり悪目立ちするようなタイプだったらしく何故かその悪要素が高校生になると少しだけ優遇されることがあるらしく、真面目より少し悪い方がモテるというアレだ。
それに、顔にも恵まれてはいるがてつやには敵わないな。
それにクズだ。
僕が練習技から制服に着替えた時に、一度つけた時計を外す動作をてつやは見逃さなかった。
手をガシッと掴まれてつやは緊迫した顔で僕にこう言った。
「唯斗!?何をする気だ?一回落ち着くんだ」
「てつや。悪い。あれは見逃せないし放っておくと小林さんが危険なことになる」
てつやもどうすればいいのか分かっていないのだろう。
僕の腕を掴んでいる手の力は全力がこもっていたが、目は泳いでいて迷っていた表情をしていた。
「唯斗。確かに小林さんに対しての発言は見逃せない。でも大会があるんだぞ?今、問題を起こせば先輩にも迷惑がかかるし必死に練習してきた同期にも顔が立たない」
てつやはそう言ったが表情は変わっていなかった。
「じゃあ見過ごせっていうのか?今までの練習を一緒に頑張ってきた僕もそれは分かっている。でもこの先、小林さんに何かあって一生後悔はしたくないんだ」
僕はそう言っててつやの腕を掴まれていない方の手でゆっくり掴んだ。
「てつや。手を離してくれ。大丈夫。潰れるのは僕の顔だけだ。大会には出れる作戦もある。だから離してくれ」
落ち着いた声でてつやにそう投げかけるとてつやは手を離してくれた。
「唯斗、話し合いはダメか?」
「無理だな。ああいう輩の事はよく知っているが、話し合いに応じるタイプではないし、何を話す?小林さんに手を出すなって言って聞く奴らだとは思えない」
「手を出すのか?あっちは4人だし返り討ちにあうぞ。力に自信はないけど、俺も手伝うよ。やられてしまえば、唯斗は怪我で大会にも出られないし、小林さんのことも結局解決しないじゃないか!」
「大丈夫だよ。作戦があるって言っただろう?でもその作戦はてつやがここから去らなければ成立しない。このことを目撃していないことにして、僕自身が単独で起こさなければ成立しないんだよ。さあ、行ってくれ」
てつやはまだ迷っていた。
部活と小林さんを天秤にかけられていて、どうすれば良いのかを。
「てつや。助けられる人がいるのに助けないなんて絶対に嫌だ。それが小林さんなら尚更だよ」
クッとてつやは歯を噛み締めて、てつやは更衣室の出口へと向かった。
「ありがとうなてつや。部活誘ってくれて本当に良かった。弱気な僕はてつやみたいに引っ張ってくれる人がいなきゃ、楽しい日々は無かった」
更衣室から出るてつやの背中に向けて僕はずっと言えなかった言葉を伝えた。
バスケ部の連中は話に夢中で、てつやの存在を認識していないのが不幸中の幸といったところか。
「いつにする?土日とかだったらサッカー部も休みなんじゃね?」
「よし、じゃあ今週の土日にするか!声かけて適当に引っかけとくから集合場所とか決まったら連絡するよ」
「問題にならないよな?」
「問題?なるわけねえだろ。斉藤さんみたいにまた写メでも撮って口封じすればいいんだよ」
なるほど。
よく問題にならなかったなと思ったらそんなことまでしていたのか...
本当に見過ごせない奴らだ。
4対1なら返り討ちにあうだって?
てつやは知らなくて当然だが中学の時に、僕にも黒歴史と呼ばれる期間があった。
母親のことで非行に走り荒れていた僕は非行集団と呼ばれる一員で喧嘩なんて日常茶飯事だった。
僕は母親の首吊りを見たときに助けを呼ぶしか出来なかった弱さを悔やみ、体を鍛えていたから腕っぷしは自信があった。
「おい。富永」
盛り上がっている話にトドメを指すように彼らの中心人物の名前を呼んだ。
彼はあ?と言って僕の方を振り返りそれに釣られて周りの金魚の糞も同じく僕の方を向いた。
「何?てか誰?」
富永は僕のことを知らない様子だったが、富永の近くにいた男が僕の顔を見てあ!と指を刺した。
「お前サッカー部だろ!グラウンドで小林さんを見てる時に視線が動かなくて追ってみたらお前の方ばっか見てたから覚えてるよ」
それを聞いた富永がニヤっと口角をあげ、僕のつま先から頭までを舐めるように僕を観察した目つきで視線を上下させた。
「何?お前小林さんとできてんの?それで俺らにキレてんだ?」
何か勘違いしているみたいだが、安い煽りだな。
「別に小林さんと付き合っているとかではないが、部活の仲間だからお前らみたいなカスに関わってほしくないのさ」
「なんだよ、付き合ってないのかよ。じゃあ別にお前にどうこう言われる筋合いはねえから好き勝手やらせてもらうわ〜。ほら、はやくどっか行けよ。気持ち悪いな」
富永は手でシッシと僕をあしらって見せた。
「いつまでいんだよ。小林さんの彼氏でもねえんだったら狙おうが勝手だろうが。彼氏面してんじゃねえよ、まじで気持ち悪いなあ」
「確かに何もいう権利はないが、お前らはきっと無理矢理彼女を襲って写真でも撮って脅すつもりだろう?猿みたいに盛り上がりすぎて声がダダ漏れだったぞ」
彼らは本当に馬鹿なのだろう。
彼らの話の一部を言ったのだが、聞かれていたかという予想外の反応をしていた。
「分かったよ。お前も混ぜてやるから、これでいいだろ?部内恋愛禁止でお前も溜まってたんだろ?あんな胸が近くにありゃあそら溜まるわな。お前のとこのマネージャーを俺が適当に誘って、カラオケかなんかに連れ込んだらこいつらと一緒にお前が入ってきてあとは無理矢理でも犯して写真撮っちまえば、先生にもチクらねえし大人しくなってバレねえから」
本当に下衆だな。
今すぐにでも彼の口を塞ぎたかったが富永はまだ続けた。
「しかも一回やっちまったら、これからいつ呼び出しても脅してやりまくれるんだぜ!最高だろ?」
父さんが言っていた事は本当だった。
世の中は優しい人に厳しく、優しくない人があまりにも多い。
こいつらの被害にあった女性は今にも悩んでいて、助けを求められる状況にもないんだろう。
こんなやつらがいるから、母のような人が生まれて不幸を辿るんだ。
彼らの話を聞かず、僕は富永の元に歩いた。
すると彼らは仕方ねえなと誤った解釈で僕を迎え入れた態度をしている。
ここで一つ訂正。
富永は最初になぜキレている?と僕に尋ねてきたが、キレてるんじゃなくてブチギレていた。
ーードゴッ!!
僕は迷いもなく冨永の顔面に重い一撃を喰らわせた。
体が軽くふっとんで失神してる富永を見た金魚の糞たちは、一斉に僕に襲いかかってきた。
――はあ。これで彼らは僕の存在があるかぎり小林さんには近づかなくなっただろう。
更衣室を出るともう暗くなっていた。
もうてつやも小林さんも帰っただろうな。
先生も帰宅している時間でおそらく警備員の人が戸締りをする頃だ。
僕はもともと持っていた退部届を座って書き込んだ。
汚れてしまうから血がついた手がつかないように少し浮かしながらペンを握ったが字がガタガタになり酷い出来になった。
「これでいいのかな。。ハンコとかいるのかな...」
てつやが部活に誘ってくれて嬉しかったし、小林さんが強引に入部届を書いてくれて助かった。
入部届と書かれた部分が退部届に変わっているだけの紙だが、可笑しくも入部届を書いたことがない僕は書き方に少し戸惑った。
てつや、それに小林さんと放課後に関わる時間も無くなってしまうしこれからは一人ぼっちだ。
でも、彼女といればいつかこの気持ちを収めれなくなってしまう気がしたし、彼女に干渉することが無くなって良かったのだろう。
これで良かったんだ...。
ーー翌日。
手に絆創膏をたくさん貼り付けていたせいでいつもより遅く学校に登校したが、廊下を歩いていると僕を見てコソコソと話をする人が目につき、もう話が出回っているのかとSNSの発達に感心をした。
まあ冨永や僕以外にも関係のない生徒が更衣室には数人いたから話くらい出回るか。
冴えない根暗の男子高校生の僕と、明るくて顔もよく友達がたくさんいてバスケ部でも監督から一目置かれている富永。
まあ、暴力事件があれば間違いなく僕が何かしたと勘違いされて当然だろう。
頭に血が昇ってしまってマトモな思考回路ではなかったから益田の時のような証拠も残せていない。
あっちは4人だし、口裏を合わせれば僕が悪役になるのはあいつらにしては上出来の思考だ。
だが、こちらも先手は打ってある。
早々にてつやを退場させ、僕はサッカー部を退部したのでサッカー部の誰もこの事件に関わっておらず、部活が責任を負う必要もなくなる。
「(てつや。大会には出れるぞ。約束は守った。)」
僕が自分の教室に手をかけると、聞き覚えのない声で名前を呼ばれ、それに反応してドアを開けようとする手を止めた。
「立切。生徒指導室にきてくれるか?昨日の事で話が聞きたいのだが」
声の主は体育の先生で、バスケ部の顧問という肩書きを持つ飯尾先生だったが、横には昨日ぶりとも言える、顔がパンパンに腫れていたバスケ部の4人が並んでいた。
だが、パンパンに顔を腫れていてもわかるほどに腐った顔をしながら、後ろで4人は僕の顔を見て静かに笑っていた。
「おい、お前らまだ反省してなかったのか?」
僕が彼らにそういうと、少し怯えて飯尾先生の後ろに隠れた。
「反省していないのはお前だろう立切!!またこいつらに手を出すのか!!」
嘘の情報を練り込まれた先生は僕の発言を脅しのようなものだと解釈をし、僕を怒鳴りつけた。
するとなんだなんだ?と僕のクラスからだけでなく、他のクラスからも人が集まり始めた。
「あれ富永くんじゃない?飯尾先生までいるし。どうしたのかな?」
「え、知らないの?昨日更衣室で立切って奴が暴れて暴力事件を起こしたんだよ」
「え〜?まじ〜?あの感じだとあの4人と先生に怒鳴られているあいつが立切だよね?冨永君に手を出すなんて許せない!」
「でもさ、あの4人を1人でボコボコにしたって事だよね?それやばくない?」
「違うわよ!富永君たちはバスケ部のためを思って抵抗せず殴られ続けたんだって!!」
「無抵抗の人をあそこまで?流石にやりすぎだよね。あんな奴が学校にいるとか普通に怖いんだけど。」
無抵抗?
なんなら最後は集団で襲ってきたぞ?
富永はさすがの人気で、他のクラスはともかく、同じクラスで僕がいきなり暴れたりするようなキャラではないことを知っていた者も含めて僕の味方をするものなど1人もいなかった。
完全に僕のコミュニケーション不足で自業自得なので仕方がないか。
「立切君」
その声を聞いて反射的に声の主を探すと、彼女は僕が手にかけたドアとは違うもう一つのドアの付近で僕を見つめていた。
「小林さん。違う。これは違うんだよ…」
他の奴らになんと言われたっていい。
だが小林さんは、小林さんにだけには勘違いしてほしくなかった。
小林さんという名前に反応したのか、富永の金魚の糞の1人が僕にこう言った。
「何が違うだよ!俺らの顔と、お前の絆創膏だらけの両手、おまけにお前は一つも怪我をしていないじゃないか!これ以上の証拠があるか!?」
それを聞いた恐らく富永に気に入られたいだけの女子どもがそうよそうよ!と一斉に僕に野次を飛ばした。
小林さんに弁解する時間もなくこのまま停学、いや退学になってしまうのではと思うほどの勢いに押され、僕は成す術もなく野次を受け続けて立ち尽くしていた。
「ちょっとどいてくれ」
そう言って誰かが野次を飛ばしている連中の間から顔を出した。
担任の先生兼、サッカー部の顧問である丸山先生だった。
「あ、丸山先生。先生のところの立切がですね..」
飯尾先生は丸山先生を見ると、勝ち誇った表情で偽りの事件を話そうとしたが丸山先生は聞く耳を持たず、僕のそばにきた。
「おい、立切何してる?」
丸山先生の表情はいつものめんどくさそうな表情で怒っているような雰囲気は感じ取れなかった。
「すいません。手を挙げたのは事実です。でも、サッカー部はやめたので部活には迷惑をかけません」
丸山先生は僕の目をじっと見つめてこう言った。
「なんのことだ?早く教室に入れ、ホームルームだぞ」
え?いま?と丸山先生の発言を聞いてキョトンとしていると、飯尾先生が割って入ってきた。
「何も聞いていないんですか?丸山先生。立切には生徒指導室に来てもらわないといけないのでお借りしないとダメなんですよ」
そう言ってわざと僕の手を強く握り、昨日の傷が疼いた。
僕も諦めてついて行こうとすると、丸山先生は僕の手を掴んでいる飯尾先生の手首をしっかり捕まえてこう言った。
「困るのはこっちですよ飯尾先生。大事な僕の生徒に何するんですか?」
思ったより丸山先生は力が強いのか、飯尾先生は僕の手をぱっと話した。
「先に暴力を受けたのはうちの部員だ!あんた良し悪しもわからなくなったのか!?」
「あれ、先にうちの部員に危害を加えようとしたのはあなたの部員ですよ?飯尾先生」
何を言っているのかわからないという表情をしている飯尾先生をよそに丸山先生は僕の腕を心配して大丈夫か?と声をかけてくれた。
「なあ、先にうちの部員に乱暴しようと計画を立てたのはお前らだよな?富永」
どういうことだ?願ってもいない味方の登場だが僕を信じているという類ではなく富永たちが小林さんを狙っていたことを知っている。
だが、丸山先生が昨日のことを知っている検討がつかなかった。
「はは...先生何を言っているのかわからないんですけど..いきなり暴れ出した立切に僕たちは殴られたんです」
思わぬ敵の登場に先程の威勢を失った富永は弱々しく対抗した。
「確かに立切はお前たちに暴力を振るったがこれから襲う予定だったうちの部員を助けるために止めただけじゃないか。暴力はいい事じゃない。こいつにも非はある。だがお前たちがしようとしていたことは冒涜だ」
「しょ..証拠はあるんですか!?僕たちが立切を刺激したっていう証拠が」
押されてはダメだと感じたのか富永は先程の威勢を取り返したかのように丸山先生に証拠を求めた。
『分かったよ。お前も混ぜてやるから、これでいいだろ?部内恋愛禁止でお前も溜まってたんだろ?あんな胸が近くにありゃあそら溜まるわな。お前のとこのお気に入りのマネージャーを俺が適当に誘って、カラオケかなんかに連れ込んだらこいつらと一緒にお前が入ってきてあとは無理矢理でも犯して写真撮っちまえば、先生にもチクらねえし大人しくなってバレねえから』
近くで昨日の富永たちの言葉が聞こえた。
『しかも一回やっちまったら、これからいつ呼び出しても脅してやりまくれるんだぜ!最高だろ?』
僕の何かが飛んで行った、あの瞬間の富永の発言だ。
「おい、富永。お前が黙っていたら流さないでおこうと思っていたんだけどな。そんなに証拠が欲しいならやるよ」
昨日の更衣室の出来事が映り出されていた携帯を持っていたのはてつやだった。
「遅れてごめんな唯斗。あの時逃げずに更衣室の出口から携帯で動画を撮ってたんだ。これをさっき丸山先生に見せたら走ってっちゃって」
てつやは、先程のシーンをもう一度流しながら、富永の前に立ってこう言い放った。
「おい、富永。言い訳はあるか?」
その動画を見てはっきりと自分の顔が映っているのを確認して諦めたのか、富永たちは床にぺたんと座りんだ。
「今の聞いた?なんか犯すって言ってなかった?」
「マジでやばい。富永君あんなこと言う人だったんだ。最低。やっぱり世古君派だわ。」
「顔はいいけど性格は正直あんまりだったもんね〜」
「てことは富永君が言ってたことは嘘で立切がレイプの標的になっていたサッカー部の子を助けたってこと?」
「めっちゃかっこいいじゃん!!しかも富永君一発で失神してたし、他の奴らも一気に襲いかかってたけど、一瞬でやられててウケる。」
先程までの野次が僕の味方になり、全ての真実を知った飯尾先生は顔を真っ赤にして富永たちをどこかへ連れて行った。
きっと今から僕が行くはずだった生徒指導室でこてんぱんに怒鳴られるのだろう。
本当に助かった。
いつもだるそうにしている丸山先生が走って助けに来てくれるなんて案外いい先生なんだなと見直してしまった。
「唯斗」
肩を撫で下ろしているとてつやが僕の名前を呼んで近づいてきた。
「唯斗。何が作戦だよ!危うく濡れ衣で退学だったじゃないか。」
てつやも事態が収集して安心したのか顔が引き攣っていた。
「ごめん。確かに、てつやがいなかったらやばかったよ。」
「本当だよ。それにこれはなんだ?」
てつやはポケットから紙を取り出して僕の前に出した。
「退部届...ごめん。部活には迷惑かけられないから」
てつやは僕が書いた退部届を持っていた。
「今朝、事情を話しに丸山先生の所に行ったら、先生がこれを持ってた。」
後ろから肩に誰かに手を乗せられた。
「立切。来るもの拒まず去る者は追わずが俺の方針だが、世古の頼みもあって一度お前にそれを返すからどうするか考えろ。お前が出しに来たら受け取ってやるから」
僕は渡された退部届をじっと見つめた。
「さあ、全員教室に入れ。ホームルーム押してんだよ。めんどくせえ」
丸山先生は僕らだけでなく周りを囲って野次馬をしていた生徒たちにも聴こえるようにそう言った。
他の生徒は次々と教室に入り、僕も入ろうと、退部届をポケットにしまおうとしたが、てつやにその手を掴まれた。
「唯斗、これはまだ俺が預かっておくよ!」
てつやの言っている言葉の意味があまりわからなかったが、教室に戻ろうと急いでいたため、とりあえずてつやに退部届を渡した。
そのまま教室に入ろうとしたが、丸山先生はてつやを教室に入れるとドアの前を塞いだ。
「先生。何やってるんですか。僕も先生のクラスですよ」
「お前はあっちのドアから入れ」
そう言って顎でクイッと指示をしてきたので、逆のドアの方を見るとそこには小林さんが1人佇んでいた。
僕は小林さんの待っている方のドアまでいき、なんて喋りかければいいんだと考えていたが小林さんの方から口を開いた。
「立切くん。狙われてたのってサッカー部のマネージャーだよね?誰?」
「おはよう小林さん。びっくりさせてごめんね、何も起きなくてよかった」
僕は彼女にかけられた質問に対して見当違いの言葉を返した。
「何も起きなかったのは立切くんが守ってくれたからじゃん」
「そんな大層な人間じゃないよ。教室に入らなきゃ。いこう」
彼女は俯いていた。
欲しかった言葉じゃなかったのだろう。
彼女の横を通り教室に入ろうとしたが手がぐいっと引っ張られ、その反動で教室に向かっていた体が小林さんの方に引き寄せられた。
「ッ!?」
振り返ると彼女の顔が当たりそうになるくらい近くにあった。
彼女はまっすぐに僕を見ていた。
目の奥まで見られているような感覚に陥り、心まで覗かれている気持ちになった。
「嘘が上手なのはどっちよ!でも...ありがとう。また守ってくれて」
彼女は自分だと気がついていたのだろうか。
先生を交えて富永と口論をしているときにバスケ部の下衆がチラチラと小林さんを見ていたし、僕がマネージャーの中で唯一仲がいいのは自分だと言うことを彼女は知っていた。
自分が狙われていたと知った彼女は困った表情でも、驚いた表情でもなく今まで見たことが無い程に優しい顔をして笑っていた。
「あ...。え...うん。これからも守るよ」
あまりの表裏のない笑顔のせいで普段なら絶対に言わない僕の心の声が初めて漏れた瞬間だった。
勘違いするから変なことは言うなといつも言っているのは僕の方なのに、この時は変なことを言った自覚がなく、彼女が顔を赤らめて先に教室に入っていっていく姿を、ただ横目で追うことしかできなかった。
ーーキンコンカンコーン。
五限が終わり放課後の時間がやってきた。
昼休みになると今朝のことがなかったかのようにてつやと僕は食堂に行き、ご飯を食べ終わると教室に戻り、小林さんとたわいもない話を繰り返し、たまに益田と高田が話に入ってくるいつも通りの日常を送っていた。
昼休み前の授業中に小林さんに行った恥ずかしい言葉を理解し、穴に入りたくなるほど、1人でもがいていたが、小林さんはいつも通りに接してきてくれたので僕も落ち着きを取り戻したのだ。
「唯斗は今日部活どうする?今日は休むか?」
「そうだな。今日は帰るよ。ごめん」
退部届は返してもらったが、辞めた気持ちでいたので練習技も持ってきていなかったし、何より気分が乗らなかった。
「いや、全然大丈夫だからな。今週いっぱいは休んだらどうだ?先生が唯斗への罰として大会には出さないって言ってたし…」
まあ、当然の罰則だろう。
さしぶりの長期休みが取れると思うと読みたい本や観たいアニメが次々と浮かんできて、完全に僕の脳内はオフモードに入ってしまった。
「そんなに抜けて大丈夫かな」
一応、部活には行きたい感を出しておくことにした。
「じゃあ丸山先生には俺から言っておくよ!きっといいって言ってくれるし。それより今週の週末、唯斗って暇か?」
「ん?ああ、奇跡的に土日空いてるなあ」
『奇跡的に』と冒頭につけることによっていつもは忙しいと思わせることができ、多忙な人間を演じることができる。
まあ、いつもめちゃくちゃ暇だけど。
「俺ってラッキーだな!じゃあ土曜日出かけようぜ!」
てつやは僕の言葉の裏など疑わず信じ込み、また連絡すると言って部活に向かった。
「いつも暇なくせに」
やっとツッコミがきた!と嬉しく思い声をする方に振り返ったが、そこにはじとーっとした目で僕を見る小林さんが立っていた。
ツッコミの主の正体が小林さんだと判明すると、ゴホンッと咳払いをして気を取り直した。
「小林さんは部活に行かないの?」
「行こうとしたんだけど、立切くんの強がりが聞こえたから蔑んだ目で見てたの」
いやそれは『行こうとしたんだけど、立切くんの強がりが聞こえたから』と蔑んだ目で言ったとかでよくないか?
何も口に出さなくても。
「強がりじゃないよ本当にたまたま空いていたんだから」
「そうですかそうですか。じゃあ日曜日どっか行かない?空いてるんだもんね!奇跡的に!!」
土曜日だけでなく、日曜日までもが予定で埋まってしまうのは少し懸念する必要性があるが、つい5分前に空いていると言ってしまったからには言い訳のしようがない。
「…わかった。どこいくの?」
「前は私の行きたいとこついて来てもらったから、次は立切くんの行きたいところに行こう!じゃあ、そろそろ行ってくるから考えておいてね!」
彼女は僕に返事をする余地を与えず荷物をまとめて教室から出て行ってしまった。
行きたいところか、正直ここに行きたい!とかがあまりなく困ったな。
「あんたさ、キキのことどう思ってんの?」
日曜日のデート...じゃない、小林さんと遊びに行くところを考えていると、高田が机に肘をついてむすっとした顔で僕に突拍子もないことを聞いてきた。
「食堂でも知らない女子から話しかけられたり、なんか今日は声かけられることが多いな」
「何?モテる自慢?気持ち悪いんだけど。そりゃあ、今朝あんだけ注目されれば声くらいかけられるっしょ」
今朝の富永との最終決戦のせいで、僕の名前が学校中で広まった。
食堂でてつやとご飯を食べている時も何かと話の詳細を聞きたい生徒たちが僕に話しかけに来たのだ。
「富永だっけ?あいつのことで話を聞きに来た奴が沢山いたんだってね」
「まあ面倒くさいからほとんど無視したせいで元々ゼロだった好感度はマイナスに変わったけどね」
僕の発言を聞いた高田は、いつもはきつく当たってくるぶっきらぼうな表情と違って優しい顔を見せた。
「あんた嘘つくの下手だね。あんたがあそこまでキレるなんてサッカー部やあんたのことを知っている人なら狙われたのはキキだってすぐにわかる」
「高田は僕のことを他の人だったら助けない薄情な奴だと思っているのか?」
「そこまでは言っていないけど、キキの体が狙われたことを学校中に広められるのを避けるために無視して事件のことを話さないんでしょ」
まあこいつにはバレるか。
高田だけでなくおそらく益田も気が付くくらいだろう。
「めんどくさかっただけだよ。今日は疲れたしもう帰るよ。んじゃ」
高田に最初にされた質問の答え合わせを避けるかのように僕は荷物をまとめ出して話を強制的に終わらせた。
荷物をまとめて教室から出ようとする僕に高田は逃すまいと声を上げた。
「立切!ありがとうね!あんたちょっとはいいとこあんじゃん!応援してやるよ!!」
思いも寄らない高田からの感謝の言葉に足が少し止まったが、僕は振り返らず教室から立ち去った。
ーー土曜日。
ピピッ...ピピッ...ピピッ...ピ。
「痛った〜」
いつもは土曜日に目覚ましをかけることはないが、今日はてつやとの約束があったので目覚まし時計をセットしたが、勢いよく止めてしまったせいで手をぶつけてしまった。
昨日の夜に夜更かしをして本を熟読してしまったせいで、目覚めがあまり良くはなかった。
もう昼過ぎの15時だった。
晩御飯を食べにいくだけだったので集合時間が遅めの17時だったのが救いか...。
体を起こし出かける準備を始めた。
16時にはもう出かけられる状態になったが、ふとLINEから通知が入った。
「唯斗起きてるか?一応ドタキャンの最終確認の連絡だけ入れておいたから返事待ってる」
ドタキャンの最終確認って..。
小林さんもてつやも僕のことをなんだと思っているのだろうか。
「もう用意も終わって向かうところ」
そう返事を返すと、ジャガイモから手が生えてサッカーボールを片手にOK!と書かれたよくわからないスタンプが送られてきた。
あそこまで完璧な奴が変なスタンプを使用していたところで、ギャップ萌えだのなんだの言って肯定化されてしまうのだろうなと、皮肉を思いながら家を出た。
上辺の友達を作り、バツが悪くなったら切り捨てて、また新しい上辺の友達を作りあげる。
そうすればいずれ卒業を迎える。
彼らと出会った時はそんなことを思っていたが今は違う。
誰でもない彼らと一緒にいたい。
入学当初から通っていた学校までの道のりも、その中で目に付く人々やお店まで、何もかもが今までとは違って見えた。
毎日見かけるコロッケ屋も、ゲームセンターも、公園も、てつやと小林さんと行ってみたい。
できればずっと仲良くしていたいしもっと今みたいにもっと出かけたりしたい。
だが、そう願うことはもっとも僕の理想に近くて遠い。
今まで人との関係を断ち切ってきた僕はあまりよく分からないし、漫画やアニメの世界からでしか覗いたことはないけれど、きっとこれが青春と言うものなのだろう。
学校が見えるところまで辿り着き、校門で1人佇むもキラキラした雰囲気を纏った少年が目に入った。
「お待たせ」
「集合時間ぴったりじゃないか!もっと早く来いよな〜」
てつやに後ろから話しかけると彼はすぐに僕の方を振り向いて笑顔でそういった。
僕が到着すると間髪入れる間もなく、ご飯を食べにいく予定だったハンバーグ屋さんに向けて自転車を走らせた。
自転車を無言でひたすらに漕いでいる間は何か話題を降らなければと気を遣う必要は僕とてつやの間柄にはなく、それが僕にとって心地よかった。
「土曜日なのに全然人いないな。大丈夫なのか?このお店」
休みの日だし少しの行列は覚悟していたが、ガラス張りの窓から見える店内はいくつもの席が空いていて、思わず心の声が出てしまい、このお店のことを心配するくらい人が入っていなかった。
「ここのハンバーグ屋は穴場だからな!味は俺が保証するから入ろうぜ」
てつやのことだしお店選びは僕なんかよりよっぽど頼りになる。
自転車を止めて中に入ると、すぐに店員さんがやってきてテーブル席に案内された。
「何がおすすめ?てつやのおすすめにする」
てつやはうーんとメニュー表を見て頭を悩ませていた。
「デミグラスハンバーグも美味しいけど...やっぱりチーズインハンバーグかな!」
てつやが覚悟を決めてチーズインハンバーグを推したところで僕が店員さんを呼び、オーダーを通してもらった。
「部活がない間、放課後は何してたんだ?」
てつやは携帯を触りながら僕にそう尋ねた。
何してたっけ?
漫画読んで、アニメ見て、携帯でゲームして、小説読んで.....
「勉強してた。人生の」
「絶対してないだろ。どうせ漫画読んで、ゴロゴロしてたんだろ」
人生のと締めくくった瞬間にてつやは鋭いツッコミを入れてきた。
いや、でも実際に漫画から学ぶことは多いし嘘ではない気がするんだけどなあ。
そんなくだらない会話をしていると、店員さんがやってきて僕たちが頼んだ品をテーブルに並べ始めた。
すごくいい匂いがし、お腹も空いていたので、ごくりと唾を飲んだ。
2人で手を合わせいただきますの儀式を済ませたところで、僕はハンバーグに口をつけた。
「え、めちゃくちゃ美味い...」
熱々のハンバーグの中にとろとろのチーズが入っていて、予想以上に美味しかった。
「だろ!ここのハンバーグはどれも美味しいんだよ!」
てつやは自慢げにハンバーグ屋さんを褒めていた。
僕は聞いてあげたかったがあまりの美味しさにお箸が勝手に進み、すぐに皿を空っぽにしてみせた。
あまりの食いつきに流石のてつやも嬉しかったのか、僕が食べ終わったすぐ後にさらを空っぽにして、水を一口で飲み切った。
「いや〜。本当に美味しかったよ。連れてきてくれてありがとうな!」
「気に入ってくれてよかった。また来ような!」
店を出て思わず感謝の言葉をハンバーグ屋さんではなく、教えてくれたてつやに言った。
同じご飯を食し、同じ気持ちで満たされた僕とてつやはお腹をぽんぽんと叩き満腹感を披露した。
「この後はどうする?まだ19時だけど」
ご飯の予定は立ててあったがこの後の予定を立てていないことに気がつき、てつやにこの後をどうするか委ねた。
「そうだな〜。あ!花火しねえ?河川敷近いし!」
花火か。
母が変わってしまう前は夏によく近所の公園で父の帰りを待ちながら2人で手持ち花火をしていたなあ。
ちょうど夏休み前の時期だし温度もバッチリだ。
それに河川敷という言葉はなんだか青春の醍醐味のもののように聞こえて、花火をするのも楽しみだが河川敷に本当に大好きな友達といける日がきて胸が躍った。
「いいねえ。じゃあドンキで花火でも買ってから河川敷行くか」
そうこなくっちゃっと言わんばかりにてつやは指をパチンと鳴らし、決まりだなっと言って僕たちは花火を買いに自転車を走らせた。
花火は結局、時期というのもあり、ほとんどが売り切れで、花火の締めにあたる線香花火しか買えなかった。
まあ、良いかと2人で納得し、河川敷で静かに線香花火をしていた。
夏の静かな夜、それに線香花火まで加わったこのシーンは、最近覚えたエモいという言葉が似合っていて、僕とてつやは黙って線香花火が落ちるのを何度も見ながら、想いに耽っていた。
そんな静寂を破ったのはてつやの方からだった。
「唯斗。あん時はごめんな。俺はコソコソ証拠撮るだけで、何もしてやれなかった。あの時、あの日に力になれなかった。」
何か話があるんだろうなと覚悟はしていたが、そんなことを気にしていたのか。
「てつや、あの時てつやが逃げずに動画を撮ってくれたおかげで、今もこうしていられるんだ。謝って欲しいことなんて一つもないよ」
「そう言ってくれてありがとう。唯斗は何か言いたいことはある?」
言いたいことは、…ある。
絶対に言っておかなければならないことはあるが、それを一番、てつやに言うのが怖いし、幻滅されてしまうのではと思って言えないんだよ。。
「じゃあ、せっかくだし、線香花火で勝負しようぜ。運に任せるってことで、どうだ?」
僕は言われるがままに頭を縦に振った。
「勝負の内容は、線香花火が地面についたら負けで、勝った方はなんでも負けた人に命令ができる。例えば、隠してることを話せだとか」
まあ、そうくるだろうな。
でも僕も言うか言わないかで迷っているから、これくらい強引な方がいいのかもしれないな。
「分かった。勝負しよう」
てつやはライターをかちっと鳴らし、火をつけ、その火に向かって僕とてつやの線香花火が近づいていった。
お互いの花火が同時に着き、勝負が始まった。
先に地面に落ちたら、今ここでてつやに言わなければならない。
パチパチと言う音に合わせて、緊張が走った。
ここで言わなければ次の機会はいつだ?
ぐずぐずしていてそれこそてつやに幻滅されないか?
バチバチと音に勢いがついてきて、覚悟が決まった。
先に僕のが、落ちてくれ!!
目を開けると、僕の花火は落ちていて、てつやの花火は小さかったが、火を纏っていた。
決着はついたのだ。
きっとてつやは、隠し事を、僕が今考えていることを言えと言ってくるだろう。
てつやの花火も地面に着き、2人とも花火をゴミ袋に纏めた。
「じゃあ、俺が命令する権利があるっていうことで」
そう言って、てつやはカバンから紙を一枚取り出して僕に渡した。
退部届?
そういえばてつやが僕の退部届を持っていたんだっけ?
「お前が守るのは部活動じゃねえよ。唯斗自身の気持ちだって。タイミングで言えば今だぞ唯斗。踏み出すなら今だよ」
てつやは命令で話をさせるのではなく、あくまで僕の口から話して欲しいのだと、直感にして伝わった。
そこで渡してきてくれたのが、この退部届だ。
そうか、てつやは何もかも気づいていたんだろう。
この退部届はてつやなりに背中を押してくれているのだろう。
「てつや、部活をやめようと思ってる」
てつやは僕の口からその言葉を聞いて、知っていた表情を見せたが、その中には切なさが少し混ざっていた。
「そっか。唯斗は好きな人がいるか?一応だけど、異性としての意味だぞ」
「いるよ。小林さん」
てつやは少し冗談を混ぜて、一応という言葉を使ったが、あまりの僕の即答に驚いた顔をしていた。
「あっさり言うんだな。まあ、クラスメイトやサッカー部の皆は気づいていたよ。その気持ちに気づいていなかったのは、唯斗と小林さんくらいだ」
え?そうなの?と思ったが、ここは口に出さないでおこう。
「ずっとサッカー部にいたかったけど、本当にごめん」
「部内恋愛禁止だもんな。小林さんのために戦ってる唯斗を見て、唯斗には部活なんか捨てて、小林さんと結ばれてほしいって本気で思った」
「誰も唯斗を責める奴はいねえよ。もしそんなやつ見つけたら、今度は俺が唯斗とききさんのために戦う番だな。
てつやは拳を強く握りしめてそう言ってくれた。
「暴力沙汰はよしてくれよ?」
僕は自虐ネタとして、笑いながらそう言った。
「そしたら、唯斗と放課後も遊んだりしてるさ」
こんなことを僕なんかに言ってくれ、僕の気持ちを汲んでくれて、本当に僕のことを考えてくれているんだろう。
「明後日に渡してくるよ。てつや、今までありがとうな」
「なにも部活だけじゃない、これからもよろしくな!」
てつやは笑ってそう言った。
翌日、朝に目を覚ますといつもは布団からなかなか出ずにいた自分とは違ってスッと起き上がることができた。
どこか落ち着かない気持ちがあり、そわそわした気分で歯を磨いてた。
いつもは寝起きでブサイクな顔を見ながら歯磨きをしているのだがそこに映ったのは顔がとても寝起きだとは思えないほどにスッとしている自分が映っていた。
緊張もしている。
緊張はしない体質だったので、いつぶりだろうと思い返してみたが遠い記憶の中で見つけることはできなかった。
鏡に映る自分を見てフッと鼻息をこぼした。
人はこんなにも簡単に変わってしまう物なのかと。
どこにいても楽しくなく、誰といても人を疑い、何をしていてもどこか冷めてしまっていた自分と向き合う覚悟を決めたはずだったのに...
そう開き直ることで自分が自分を保てていて、今まで生きて来れていたのに、1人の人に出会って、時間を過ごすことで変わりたいと心から思えたのだ。
「お待たせ!!」
電車で彼女の最寄り駅のホームまで行き、彼女と集合をした。
「今日はどこに行くかちゃんと決めてくれた!?」
昨日の夜、どこに行こうか考えては見たがあまりしっくり来ず、というか気に入ってくれそうなところが最優先で探していたけどどこもピンと来なかった。
小林さんがKーPOPにハマっているという話をしていたのを思い出し、大阪の鶴橋という韓国の食べ物が食べられる場所を思いついた。
「最近辛いものにハマっているから鶴橋で食べ歩きでもしない?」
さあ、どうでる?
「...いいね!!!!」
反応がよく心の中で久しぶりのガッツポーズを決めた。
電車に揺られながらたわいもない話をした。
授業についていけないだとか、最近流行りのドラマの話だとか、電車で騒いでいる子供が可愛いだとか。
食べ歩きも無言が続くようなことはなく、本当に楽しい時間だった。
ただ、根っからの甘党な僕は辛いものが苦手で、悟られないように必死にヒリヒリする口を我慢していたことを除いては。
「チーズドッグめちゃくちゃ美味しかったね!小林さん2つも食べてたじゃん!」
「唯斗くんが食べなよって言うからだよ〜」
ん?
唯斗くんだって?
「ずっと上の名前なんて嫌じゃない?私は唯斗くんって呼ぶから、唯斗くんも下の名前で読んでよ!」
急な提案に頭が追いつかず、顔が熱くなった。
彼女は気にしてるふりもせず、電車の中は週末というのもあり結構混んでいて、立っていると言い張る彼女を無理矢理にでも座らせた後に、たくさん歩いて疲れていたのか彼女は寝ていた。
僕はイヤホンを挿して、音楽を聴いていた。
ふと、当時流行っていた恋愛ソングが流れ、緊張が走った。
今日なのか?
次にいつ一緒に出かけるのかわからない現状、今がベストのタイミングなのか?と頭を必死に働かせて考えた。
覚悟が決まる時間を待ってくれるほど時間の流れはお人好しではなく、強制終了を告げるかのように彼女の最寄り駅に電車が到着をした。
僕は急いで小林さんを起こし、小林さんは寝ぼけた表情で前を見ていた。
「小林さんの最寄り駅だよ。早く行かないと!」
はっと驚いた顔をしたキキさんは「ありがとう」と「またね」だけ言い残して電車を降りた。
遠のいていく彼女の背中を見て思わず足が動いた。
「え?」
プシューー。
電車の扉が閉まる音が後ろで聞こえて思わず声を発した。
僕の声が聞こえたのか、階段を降りようとする彼女の足が止まってこちらを振り返った。
「唯斗くん何してんの..?」
キキさんは状況が把握できないというような顔をしていた。
もちろん僕自身もなんで電車を降りてしまったのかよくわからずなんとか言わなきゃという思いで言葉を探した。
「遅いし家まで送るよ!」
絞りでた言葉はこれだった。
そんな紳士のようなことを言ってしまったことに対しての恥ずかしさは異常だったけど、彼女はからかわずニコッと笑ってみせた。
「ありがとう!唯斗くん!」
彼女の自転車を僕が押し、彼女は手を小学生のように振りながら夜道を歩いていた。
ただ、今日の昼ごろとは違い、お互いが無言だった。
僕は無言の中、思いを伝えるべきかひたすらに悩んでいた。
この信号が変わったら言おう。
そんなことを考えながら何個も信号を渡ってきた。
彼女に振られたらどうしよう。
そのことが、そのことだけが頭に引っかかり声を出せずにいた。
そんなことを何度も考え、信号を何個も渡っていると彼女の家の前についていた。
「送ってくれてありがとう!今日は本当に楽しかったよ!また学校でね。」
意気地なしな自分に本当に嫌気がさした。
何度もチャンスがあったのに、覚悟も決めたはずだったのに、目の前にいざ立つと本当に怖くて仕方がなかった。
それでもこのことだけは伝えたかった。
「あのさ、小林さん」
彼女は少し間を開けて返事をした。
「...小林?」
はあっと小さくため息を溢して言い直した。
「キキさん」
「…なに?」
「部活辞めようと思うんだ」
彼女の顔を見るとポカンとしていた。
「え、なんで?この前の事があったから?」
彼女は珍しく真剣な表情で僕に問いかけた。
「ううん、それは関係ないけど理由を話すことはできないんだ」
ごめんと付け加えようと彼女の顔を見たときに驚いた。
彼女の目から涙がツーッと溢れていた。
僕は戸惑い、頭が真っ白になった。
彼女は何も言わず、玄関の扉を急いで開け、家に入ってしまった。
彼女の涙の理由を考え、僕はただその場に立ち尽くしていた。
翌朝、昨日の事を思い出し、どんよりとした気分とどこかキキさんと会うのが気まずい気持ちで学校に登校をした。
キキさんのカバンが机に置いてあるのが見えたのでキキさんは学校にはついているがどこかに行ってしまったのだろうと思った。
彼女が教室に入ってきたらなんと声をかけるべきなのかを必死に考えていた。
昨日のことを聞きたいが学校の中でなんで昨日は泣いていたの?なんて聞いたら失礼だろうと思い、ここは無難におはようと言うことが正解だろうと勝手ながら解釈をした。
キーっとドアが開く音がして扉の方に顔を向けたが、そこに現れたのは少し泣いた後が残っているキキさんと鬼の形相で僕を睨みつける高田の姿だった。
あまりの形相に背筋がピンっと張ってしまい声をかけるタイミングを見失ってしまった。
授業が始まっても授業の内容なんか頭に入ってくる訳もなく、キキさんの泣いている理由についてずっと思考を巡らせていた。
まず原因は部活をやめると言ったことであることは間違いなく、僕の癖で悪い方へと思考が言ってしまった。
「恋愛禁止の部活動」、彼女はどこか抜けているところはあってもそこは最初に説明もあった理解しているはずだ。
そこを辞めると言い出した僕に告白されると思い、友達だと思い込んでいたキキさんは関係が崩れてしまうことが嫌で涙を流したのではないだろうか。
キキさんはサッカー部に所属しているからそういう関係にはならないだろうと思い、今まで僕に対して遊びに誘ってくれていたのではないだろうか。
キキさんは僕のことを友達として接してくれていて、そこに僕が恋愛感情を持ち込んでしまったのだ。
てつやと花火をしたあの日に覚悟は決まったはずだったのに、振られることが分かってしまうと僕の覚悟がいかに弱く、脆いものだったのかが分かる。
そして、僕がこの想いをキキさんに伝えてしまえば、この関係は本当に終わってしまう。
告白をして、振られて、じゃあもう一度友達からやり直せるとは到底思えず、今まで通りとは行かないことは分かっていた。
そう思うと、自分の抱いていた感情に恥じらいを感じてしまい、自分の気持ちを悟られないように、心に蓋をするみたいに、机に顔を伏せた。
それからキキさんとは一度も会話をせずに放課後を迎えた。
てつやはいつも通りに声をかけてきてくれた。
「唯斗、退部届今から渡しに行くのか?」
てつやの声が聞こえているのか、高田とキキさんがその声に反応してこちらを見ているのがわかった。
「あ、うん。…渡しに行くよ」
サッカー部を辞めることの意味は無くなってしまったが、てつやと話したことを無かったことにしづらくなってしまった僕は咄嗟にそう返事をしてしまった。
「そっか。俺はじゃあ部活に行ってくるから気をつけてな!!」
てつやは昨日と今朝のことを知らないから僕のことを覚悟を決めたかっこいい男として応援してくれているのだろうが、僕はそんなにかっこいい男ではなく、むしろ意気地なしのダサい男だということを知らない。
「頑張ってね。また明日!!」
精一杯の元気を振り絞っててつやにまた明日と伝えた。
その後、丸山先生のところに行き、退部届を渡したが先生は何も僕に聞かなかった。
「ルールなんて破ってもいいんだぞ」
急なよくわからない名言を一言だけ披露し、先生は退部届を受けとった。
足元を見ながら階段を降り、廊下を歩いていると僕の視界に足が2本現れて僕の歩いていた足を止めた。
「立切、あんた何がしたいの?」
フッと顔を上げるとそこにいたのは高田だった。
「あれ、キキさんは?」
質問の問いかけに対する反応ではなくキキさんのことを聞いてしまった僕は僕に対して少し、懲りないやつだなと憐れんだ。
「たく..あんたまで下の名前で呼んでんのね。キキは部活行ったよ。あんたサッカー部辞めんの?」
やはり高田は今朝、キキさんにそのことを言われていて僕を睨んでいたのだろう。
「うん」
僕は高田の目も見れずに二つ返事をした。
「なんで?」
「なんでって言われても...」
「きき泣いてたよ」
知ってるよ。そんなことは。
「ああ、知ってるよ」
「なんで泣いてるのかは知らないでしょ」
そこも知ってるよ。理由ならいっぱい考えて結論も出た。
「知ってるよ」
「いや、あんたは知らないよ」
なんだこのいたちごっこは。
間髪を入れず、高田は話を続けた。
「あんたはききのことを知らないし分かってない。けどききはあんたのことよく知ってるよ」
僕だってキキさんに適当に絡んでいたわけでもない。高田に言われたことに少し苛立ちを覚えた。
「最初にききにあんたのことを言われた時にどんなやつかと思って見ていたけど、あんたがいい奴なのはわかった」
「他の人には手を差し伸べたりはしないけど、ききには必ず手を差し伸べるし、自分が危険になってもあんたは守った。富永の件も益田の件もそうだった」
今更なんなんだ?これ以上キキさんの話はしたくない。
「あんたしかいないの。私じゃダメなの。あんたならキキのこと本当にわかってあげられるし守れる」
高田が何を言っているのか全く理解できなかった。
守る?何から?
「高田、さっきからなんのことを言ってん...」
「れな」
僕の後ろから聞きなれた声が突然聞こえてきた。
後を振り返るとキキさんがいた。
「れな。何してるの?なんの話をしているの?」
もう一度振り返ってみると初めてみる高田の焦った表情が目に写った。
「いや、立切が部活を辞める理由について聞いてただけだよ。キキも気になってたでしょ?」
「そりゃあ、気にはなるけど。唯斗くんが話せないなら無理に聞きたくはないよ」
キキさんがそういうと高田とキキさんの間に謎の間ができて、僕が何か話さざるを得ない空気になったのが感じられた。
「バイト..そう、バイトがしたくて。お金がどうしても欲しくなって。部活してたらバイトできないから辞めようって思っただけなんだ」
とっさにでた言い訳はバイトだったが理には叶っているしなかなかの言い訳だった。
この言い訳が場を収めることができるのか不安だったがキキさんの方を振り返った。
「え。バイト?バイトだったの?」
キキさんは呆気に取られた表情をしていたがしっかりと僕の目を見て言っていた。
「サッカーは好きだけど今はアルバイトをどうしてもしたくて...」
これは押せばいけると確信をした。
「なんだ...そんなことなら昨日行ってくれたら良かったのに!!ほんと唯斗くんは言葉足らずだなあ」
「はは...ごめんごめん」
「私のせいかと思ったよ。本当に」
まあ、キキさんのせいかと言えばそうではあるが、人のせいにするのはよくないだろう。
「別にキキさんは何もしてないじゃん」
「そっか。良かった。サッカーしなくなるのは悲しいけど本当に良かった」
キキさんは僕の気持ちに気づいていたのだろうか。
友達の関係を続けることができて本当に嬉しいと思っているのだろうか。
この時に僕は思った。
キキさんとは友達の関係を続けて、少しづつ距離を縮めることの方が良いのだろう。
彼女に自分の気持ちが完全にバレないように振る舞って、少しづつ距離を縮めていこうと。
世の中には色々な恋愛像があってその分、過程もある。
仲の良い男女がいて、どちらか片方が意識をしてしまえば関係は徐々に壊れていくだろう。
恋をしてしまった片方はすぐに答えを求めずに徐々に距離を縮めて意識してもらい発展する。
はたまた、男らしく距離を詰めてアプローチをして意識してもらう。
それとは反面、どちらとも既に両思いでベストなタイミングを逃し、徐々に距離を詰めようとおとなしくしていた結果、片方にこの人は気がなく友達だと思っていると思われてしまい徐々に友達としての距離は縮まってはいるが、恋愛としての距離が離れていってしまう。
それに気がつけず失敗をする。
だが、そのどれもが結果論であり正攻法なんて存在しない。
だから青春は儚いもので、失敗もして成功もする。
成功した人の助言を幾ら聞いたところで自分も同じ結果になるとは限らない。
皆んなが口を揃えて言う。
人によると。
インターネットで”○○されたら脈あり”なんて書いてある記事を見ても当てはまる人もいるし当てはまらない人もいる。
というかそんなことを調べる人はだいたい安心したいから調べているに過ぎず、脈なしですと書かれても違う検索方法でまた調べて当てはまった記事だけを信じるだろう。
その1人の人の気持ちですらこのインターネットが普及した時代でもわかりやしないのだ。
気を持たれたいから格好をつける、気を持たれたいからクールなふりをする、気を持たれたいからお金持ちのフリをする、気を持たれたいから分かったフリをする、気を持たれたいから嘘をつく。
そのどれもが1人の人を意識した結果なのだから素敵だが、いつかは必ず足を引っ張る。
もっと必死に生きていたら、もっと必死に向き合って話をしていたら、もっと必死に自分の思いを伝えていたらもっと彼女のことを理解していたら、あんな事件は起きなかったのではないだろうかと思うが、人生は皮肉の連続でその事件があったからこの先があって、今があると。
この時の僕はまだ知らない。
――高校2年生の春。
部活を辞めて少しすると、高校に入学をして一年が過ぎた。
2年のクラス発表で僕はまた、キキさんと同じクラスになったが、それだけじゃなく、てつやも同じクラスだった。
高田は他クラスで、キキさんと一緒にクラス発表を見にきていてかなり落ち込んでいた。
「れなは残念だったけど唯斗くんとまた同じクラスになれて本当に良かったよ!」
「またよろしくね...」
キキさんの後ろで僕を睨みつける高田に少し遠慮しながらそう答えた。
部活動を辞めたが、学校ではキキさんともてつやとも話をしていたし、部活をしていた頃と変わらない日常を送っていたが春休みの間はてつやとは遊んでいたが、キキさんとは連絡は何度か取っていたがキキさんが忙しく、遊びに行くことは無かったので、久しぶりの再会だった。
久しぶりに会ったからか、彼女が少し疲れているように見えたのが気になった。
「春休みはかなり忙しそうだったけど大丈夫?なんかげっそりしているように見えるんだけど」
「あれ、言ってなかったの?キキ」
高田が間髪を入れずに話に入ってきた。
「学校には内緒なんだけど、キキ春休みの間、部活動とバイトしてて朝から夜までずっと動いてたんだよ」
部活をしながらアルバイト?
そんな話は聞いていなかったので心配になった。
「学校があるときはできないけど、春休みだとかなり時間が空いていたからね。ちょっとお金が必要になったこともあったから」
そうだったのか。
僕は春休みの間、バイトをしてゴロゴロしていただけだったから、部活動とアルバイトを両立させたキキさんがものすごい偉人に見えた。
「お疲れ様!あまり無理しないでね」
今になって知ったので体を気遣うことしか僕にはできなかった。
この時にキキさんの後ろから僕の目をじっと見る高田に違和感を覚えたが、なにか触れることはなかった。
それぞれが新クラスの教室に戻って先生の話を聞いて下校になったが、キキさんは忙しくカバンを背負って僕に「また明日!」とだけ伝えてそそくさと帰っていった。
僕はあくびをしているてつやに声をかけた。
「てつや、今日って部活ないの?」
「お!遊びの誘いか!嬉しいけど普通に部活があるんだよな〜」
部活は普通にあるのか。だとしたらおかしいな。
「キキさん帰ったけど大丈夫なの?」
「あ〜。唯斗は知ってると思ってたけど、春休み入ってから部活にあんまり来なくなったんだよな。先生は何か聞いてて、許しているみたいだけど」
そうだったのか。
連絡を取ってはいたが、部活動の話はあまりしなかったので知らなかった。
サボるようなタイプでもないだろうしやっぱり心配だ。
また本人に聞いてみよう。
「それより一週間後の授業参観だよ。俺勉強できねえし当てられたら答えれねえから絶対親に怒られちまうよ〜」
そういえば新学期にはいってすぐにこの学校は授業参観があるんだったっけ。
一年生の時にも確かあったけど僕は父さんが仕事休めなくて来なかったから気が楽だったな。
「去年そういえばてつやお母さんに廊下で頭叩かれてたね」
「おい、嫌な記憶が蘇ってきたじゃん。辞めてくれ〜」
落ち込んでいるてつやを見て僕はからかって笑っていた。
「唯斗は今年も親父さん来ねえのか?」
「うん。今年も来ないから気楽に授業でも受けるよ」
どんなことがあったのかまでは言っていなかったが、てつやには片親のことを言っていた。
「この学校進学に力入れてるから授業参観はほとんど皆んな来てるけど唯斗は仕方ねえよな〜」
てつやは悪気があって言っているのではないと知っているから何も言われたことに気にはしなかった。
「そういえば小林さんとこも来てなかったよな?」
言われてみれば、確か僕とキキさんのところだけ授業参観に来ておらず、一回は必ず授業中に当てられるはずだったが飛ばされたことを覚えている。
「なんか共働きで忙しいって言ってたよ」
キキさんにあの時声をかけられて、片親しかいなくて仕事が忙しいから誰も来ていないと言えず、に共働きだと嘘を言ったら「私も!」と言っていたことを思い出した。
「じゃあ、部活言ってくるわ〜」
相当授業参観が嫌なのか、珍しく肩を落としながらてつやは教室を後にした。
そんなてつやを見届けた後、僕も教室をでて帰路についた。
国道163号線の大きい信号を渡れば、もうあと少しで家に着くとこで信号待ちをしていると妙なおばあさんと出会った。
「あら、こんばんは」
信号待ち中に隣でヘルパーさんのような方に車椅子を押されているおばあさんが僕の顔をじっと見つめていることは気がついていたが気にせず信号を待っていたら声をかけられ思わず不信感を抱いてしまった。
「...こんばんは」
おばあさんが挨拶をしてきただけにも関わらず、そっけない返事をしてしまったがおばあさんは笑いながら僕に声をかけてくれた。
「そんなに怪しいものじゃないよ。あなたは今何歳?」
「16歳です」
すると静かにおばあさんはなぜか頷いた。
「知り合いの子に似ていて、幼い頃しか知らないけれど今はお兄さんと同じくらいの歳になるから思わず声をかけてしまったわ。ごめんなさいね」
おばあさんの会話では良くある話だろうと思い、不信感も消えていた。
「いえ、全然大丈夫です。気になさらないでください」
「ありがとうね。その制服は芦間高校かしら?学校は楽しい?」
この辺では有名な進学校ではあったが、おばあさんが制服で高校の名前を言い当てた時は、ちょっとだけ驚いた。
昔に通っていたのかな?それともこの辺の高校の名前を当てずっぽうで言ったのかな?
「はい!そうです。...そうですね。今は楽しいです」
高校一年生の時は色々なことがあったが今は友達もいるし、キキさんとは友達をやれている。
今は楽しい部類に入るだろうと思い、少し間を開けてしまったがそう答えた。
僕が返事をし終わると信号が青に変わり、ヘルパーさんがこちらにお辞儀をしていたので僕もお辞儀を2人に返し自転車を走らせた。
信号を渡った先でちらっと振り返ると、おばあさんとヘルパーさんは信号を渡らずにそっと僕の方を見つめていた。
おばあさんは世間話が好きなイメージがあるし、悪い人ではないと思いそれ以上気にすることはなかったが妙な出来事として記憶に残った。
それから授業参観の日まで淡々とした日々が続いた。
授業参観の日には去年と変わらずてつやは母親に頭を叩かれていたし、僕の親もキキさんの親も来ておらず、キキさんと2人で頭を叩かれているてつやを見て楽しそうに笑っていた。
同じ日にキキさんに部活動のことを聞いてみたが、ちょっとお金が必要で週に3回ほど今もバイトをしているということで部活は、バイトがない日は参加をしているということを聞いた。
お金のことはあまり深入りしてはいけないだろうと思いあまり突っ込んだことは聞かなかった。
「そっか。体調には気をつけてね。何かできることがあったらなんでも言ってね」
すると彼女は待ってましたと言わんばかりに要求をしてきた。
「じゃあ再来週の土曜日に立切くんがバイトなかったらあそぼ!!」
「え、キキさんは部活とかバイトは大丈夫なの?」
「うん!その日は両方休みだから!弱ったフリをしてれば優しい言葉をかけてきてくれると思って待ってたんだ〜。引っかかったね」
きっとフリではないだろう。
彼女が疲れているのは感じ取れるし、心配をかけたくないから強がっているということもわかっていたが彼女に騙されてあげるフリをした。
「なんだよ!疲れてなかったのか。再来週の土曜日ね。ちょっと確認してみる」
土曜日はいつもアルバイトをしていて当然再来週もシフトに入っていた。
「うん!空いてる!じゃあ再来週の土曜日空けておくよ!」
やった〜!と喜んでいるキキさんをみて、僕もあれくらい感情を表に出すことが出来たらいいなあと彼女を尊敬した。
「じゃあ今日は部活行くから、またね!!」
「うん!頑張ってね」
再来週の約束をして彼女の姿を見送った後、すぐに僕は携帯でアルバイトの変わりを探し始めた。
久しぶりに彼女と遊びに行く約束をして胸が躍った。
彼女に気持ちを悟られないように淡々と日々を過ごしていて、隠そうとすればするほどに想いは増し、勝手に舞い上がってしまうが、これ以上踏み込むことが出来ないと言い聞かせてまた現実に生きる。
その繰り返しだ。
何かで恋愛は好きになった方が負けだと書いてあったが、ぐうの音も出ないほどにその通りだと思った。
彼女には悪意はなく、僕に友達として接していてその純粋な心を僕は悪だという。
だが、僕も益田の件や富永の件で彼女を助け出し、遊びにも行って危ないからと言って家まで送ったりしても気持ちの一つも伝えはしない、彼女が告白をしてきてくれればと淡い期待を抱きながら、高田やてつや側からみれば思わせぶりをしている僕もまた、悪となんら変わりのないものだろう。
てつやはあれから何も聞いてこず、あくまで僕から言い出すのを待ってくれているのだろう。
高田には最初こそ睨まれていたが、今はいい奴認定をされてて、僕が彼女をどう思っているのかは気になっているだろう。
そんな僕だが、何も行動をせず、一度は覚悟を決めたが勝手な解釈をして彼女との関係にヒビが入ることが怖くて友達の関係を保ってウジウジとしている。
本当に気持ち悪く、意気地なし野郎だ。
ーーー5月2日、土曜日
「お待たせ!!家まで来てくれてありがとうね!」
僕とキキさんは彼女の家の前で待ち合わせをしていた。
「ううん、全然大丈夫だよ。自転車漕ぐの好きだし」
「そっかそっか!じゃあ行こっか!」
今日は高田の誕生日プレゼントを買いに行きたいらしく、そこについてきて欲しいとのことだったのでショッピングモールへと行く。
キキさんの家から出発をして自転車を漕いで3分ほど経った時に、どこかみたことのあるような人がキキさんに声をかけ、僕たちは一度自転車を止めた。
「ききちゃん!今からお出かけ?」
「あ!鈴木さん!そうだよ!」
隣で一緒にいる僕の方にも目を配りその女性はお辞儀をした。
こちらもお辞儀を返すとその人は僕とキキさんを交互に見てクスッと笑った。
「ち、違うよ、鈴木さん!!勘違いしないで!!」
彼女は焦った表情で僕とキキさんの関係を否定した。
「え〜、でもその子がいつも言っている男の子じゃないの?」
「や・め・て!!」
彼女は顔を真っ赤にして必死に訴えかけていた。
「ははは、冗談よ冗談。気をつけてね」
「鈴木さんも気をつけてね!!色々と!!」
僕も鈴木さんという女性にもう一度お辞儀をしてその場を去った。
「あの人は誰?」
どこか見覚えがあったのでキキさんと彼女の関係が気になった僕はキキさんに聞いてみた。
「あの人のことはもういいの!!!」
よほど勘違いされたことが恥ずかしかったのか、石田さんの話はタブーとなった。
それからはたわいも無い会話を繰り返し、気がつくともう目的地となるショッピングモールに到着していた。
「高田さんには何を買うの?」
まだ決めていないのか、んーっと彼女は悩んでいた。
「まあ、ぶらぶらしながら決めようか。一緒に考えるし」
すると彼女は、パッと笑顔になってうん!と返事をした。
「これとかどう?れなっぽい気がするんだけど」
キキさんが靴を持ちながらそういった。
「おお!いいねえ。今っぽい感じもするし悪く無いと思う」
「だよねえ。ちなみに立切くんって何センチあるの?」
「えっと26.5かな。キキさんは?」
「私は23!」
そんな会話をしながらすぐに決めずにじっくりと2人で高田のプレゼントを考えた。
その後、アクセサリーや、洋服、雑貨などのお店もみたがSNSで人気のコスメをプレゼントすることに決まった。
「今日はありがとうね!!れな絶対喜んでくれるよ」
「喜んでくれるといいね!」
一緒に考えるとは言ったが、コスメに関しては本当に何もわからないのでほとんど彼女1人で頑張って決めていた。
結局何もしていないと思いながら、フードコートで晩御飯を一緒に食べていた。
「唯斗くんって優しいね」
「急にどうしたの?」
「いや、別に〜。ねね!唯斗くんって今気になってる人とかいないの?」
急な質問と綺麗な眼差しで僕を見つめるキキさんに思わず心臓が止まるかと思った。
「え、それもどうしたの急に」
「ん?もしかしているの!?」
お前だよなんてかっこよく言えたら本当に気が楽なんだけどな〜。
「キキさんこそどうなの?」
「あ!話逸らした!!いるってことだね!」
うん、いるって、目の前に。
「ん〜、じゃあどんな人がタイプなの?これくらいならいいよね!?」
「え〜。じゃあ、キキさんも答えてくれるならいいよ」
「唯斗くんみたいな人!!はい、答えたよ!次は唯斗くんの番だね!」
あまりの出来事にポカンとした表情を浮かべていた。
キキさんは本当に何を考えているんだろうと思った。
それでもあまりにもなんとも思っていないかのような顔をしているので僕の方がおかしいのでは無いかと錯覚をしてしまうほどだった。
「ねえ〜!私は勇気を出して言ったのに唯斗くんは言わないとかずるいよ!ほら!!」
「あ、えっと...どんな人が好きとかは無いんだけど、好きになった人がタイプかな。」
キキさんは目をぱちぱちさせて僕の話を聞いていた。
「んーなんかずるい気がするけど、!ちょっとおトイレに行ってくるから待っててね!」
正直に答えたつもりだったけどなんとか深掘りだけはされずに済んで良かった。
キキさんがトイレに行っている間、キキさんのタイプの人の話を思い出すとすごく顔が暑くなったので僕もトイレへと行くことにした。
トイレの方に歩いていたがキキさんがトイレの前の踊り場で電話している姿が見えた。
でも、その姿はさっきまでのキキさんとは違いものすごく焦っているようで声を荒げていた。
いったい誰となんの電話をしているんだ?
話している内容は詳しく聞こえないがキキさんが敬語で話しているのが聞こえたので親や友達では無いことは分かった。
ここで何故か退部届を出した日に高田に言われたことを思い出した。
『あんたしかいないの。私じゃダメなの。あんたならキキのこと本当にわかってあげられるし守れる』
キキさんにあの後何か釘を刺されたのか高田はこの時のことをもう話さなかった。
キキさんはあの時からずっと、もしかしたらそれよりもずいぶん前から何かに困っているのではないのか?
僕はキキさんに気付かれないように席に戻った。
席についてから10分程でキキさんは何も言わずに戻ってきた。
目がパンパンに腫れていて明らかに気分が落ちてる様子だった。
「キキさん、大丈夫?何かあったの?」
キキさんはずっとしたを向いていて首を横に振っていた。
しばらくして落ち着いたのかキキさんは口を開いた。
「ごめんね唯斗くん。ちょっと今から行かないといけない所があるからここでさよならしないといけないや」
今にも涙が溢れてきそうな声色だったが、キキさんはなんとか踏みとどまっている様子だった。
「気にしなくていいよ。でも、僕にできることはない?キキさんの力になれるならなんだってするよ」
僕がそういうと下を向いていたキキさんの顔が僕の方をしっかりと捉えた。
「一緒にいてほしい」
今までは言葉の真意や裏なんて読めやしなかったキキさんだったが、この言葉に初めてキキさんが本心で言っていて切にそう願っているのだと感じ取ることができた。
「うん。一緒にいるよ。任せてほしい」
キキさんは僕の言葉を聞いて何かハッとした表情をした。
「ごめんね。やっぱりいいや。私はもう行くから唯斗君は気をつけて帰ってね」
そう言い残してキキさんは急いで席を立ち走り去っていった。
そばにいて欲しいと言われたり、拒絶をされたりして状況が読めなかった。
キキさんの電話の相手は?内容は?どこにいった?わからないことだらけではあったが、彼女が電話をしているときに手が震えていて怯えている姿を思い出すと考えるよりも先に体が動いた。
今、僕は病院にいる。
キキさんの後を追い、後ろからついていった先が病院だったのだ。
あの電話はもしかするとお医者さんからの電話だったのかもしれない。
キキさんは受付の人と何か話をしてすぐさま階段を駆け上がった。
僕も後を追いキキさんがドアを開けて勢いよく入っていったドアを確認して僕も扉の前に立った。
中からはキキさんの泣く声とは別に何人かの泣く声が聞こえてきた。
病室に書いてある名札を見るとそこには病室に2人の患者さんが一緒に寝ているのか、名札が2つ書いてあっり、そこには小林恵美と石田美紀という名前が書かれていた。
その名前を見て思わず手に持っていた鞄と携帯を落としてしまい、廊下にキツイ金属音が響き渡った。
まず驚いたのは恐らく小林恵美というのは苗字からしてキキさんの母親で、キキさんが電話をしていた時の状況と今も泣いている声から察するに亡くなってしまった状況だということ。
そしてもう一つが、『石田美紀』。
この名前は僕の実の母親の名前である。
僕は頭が追いつかなくなったことと、母の首を吊っている姿がフラッシュバックしてしまい、過呼吸で苦しくなって床に倒れ込んでしまった。
中にいたナースさんが、廊下に響き渡った音が気になったのか、僕の前の扉が開かれた。
「え、大丈夫!?君!?」
扉を開けたナースさんは目の前に苦しそうに倒れ込んでいる僕を見てびっくりしたのか、携帯を落とした時の音以上に廊下に響き渡るように叫んで駆け寄った。
中にいた人もそれに驚いたのかナースさんが駆け寄っていった僕の方を見ていて、そこには目に大粒の涙を流しながらこちらを見るキキさんの姿もあった。
「唯斗くん...なんで..なんできちゃったの...」
キキさんの言った僕の名前に反応をした中にいた人達は、なにやら焦った素振りをした。
中にいたのはお医者さんを除いて4人だった。
1人はキキさん、2人目は信号待ちの間に声をかけてきたおばあさん。
3人目はおばあさんと一緒にいたヘルパーさんで、キキさんが鈴木さんと呼んでいた人。
4人目は、僕の母親だった。
「唯斗...」
間違いなく母の姿をしていて、声も昔のままだった。
「唯斗。今は落ち着いてほしい。今は小林さん達が涙を流す時間だから、邪魔しないであげて?私と病室を出ましょう」
そういって僕の手を取ろうとした母さんの手が昔と重なって振り払ってしまった。
「ごめんなさい...」
母が手を引っ込めて僕に謝った。
僕はこの場所が怖くて仕方なかったが固まっている母さんを他所に、キキさんの方へとそっと駆け寄った。
「キキさん、ついてきてしまってごめん。どうしてもキキさんが心配で仕方なかった」
キキさんが泣いていたベッドには顔が青白くなっているがキキさんに似ている女性が横たわっていた。
「ううん、こんな姿を見られたくはなかったけど唯斗君が来てくれて少し落ち着いた。ありがとう。それに…こちらこそごめんね」
「キキさんが謝ることはないよ。今一番辛いのはキキさんだし。ただおばあさんとヘルパーさん以外に顔見知りの人がいてびっくりしただけで僕は大丈夫だから」
そう言って実の母のことをバレないように振る舞った僕を見てキキさんだけじゃなくおばあさんやヘルパーさんも僕をどこか心配そうな目で見ていた。
「あのね、唯斗くん」
彼女は何か他に言いたげな顔をしていたが、僕は母がいるこの状況に耐えきれなかった。
「家族の時間に僕なんかが首を突っ込んでしまったことは本当にごめん。また気持ちが落ち着いたら連絡をして?いつでもどこでも駆けつけるから」
キキさんが静かに頷いたことを確認し、おばあさんたちにもお辞儀をして僕は病室を出た。
母も何か言いたげだったが、キキさんに対する心配や母に対する恐怖と怒りがぐちゃぐちゃになって母と話せば周りに迷惑がかかってしまい、キキさんが落ち着いてお母さんとの最後の時間を過ごすことができないと考え、その場を後にした。
今日はすごく色んなことがあった日だった。
キキさんと久しぶりにお出かけをして、キキさんの母が亡くなったところに立ち会って、実の母親に久しぶりに会った。
キキさんは大丈夫だろうか。
実の母親が亡くなってしまったことに対する悲しみは多分僕には理解することができないが、父親が亡くなってしまったと聞けば到底正気は保てないだろう。
母を救うことができなかったことに対して自分を責めていなければ良いのだが今は、家族がいなくなってしまったことで悲しみに明け暮れているだろう。
自分から連絡をしたいが今はそっとしといてあげる方が良いだろう。
僕はこんがらがった頭を整理することにした。
キキさんが電話をしていた相手は恐らく病院の方か石田さんだろう。
あの電話で母親が亡くなったことを聞かされたに違いないが、どんな病気だったかは正直わからない。
そしてあの場にいたおばあさんは恐らくキキさんのおばあさんで間違い無いだろう。
孫が芦間高校に通っていたのであれば制服を見ただけで僕の通っている高校を当てることができたのなら合点がいく。
そして石田さんは僕の読み通りキキさんのおばあさんのヘルパーさんだ。
キキさんの父親はあの場にはいなかったが仕事か何かですぐには来られなかったのだろう。
そして問題は僕の母親。
あの人とキキさんの母親が同じ病室だったことは本当に驚いた。
キキさんの母親のベット周りには生活感が出ていたので長く入院をしていたのであろう。
キキさんはお見舞いにも行っていた筈だから、僕の母親とは面識があったはずだ。
だが、母は離婚をして旧姓で入院をしていたため僕の母親だったと言うことには気づいていないだろう。
だが、母親が今も入院していたことには驚いた。
ちっとも良くなっていなかったなんて。
母が成長した僕をすぐにわかっていた事にモヤモヤした。
悩んだ挙句、心配をかけてしまうだろうと思い、今日のことは父親には言わないでおくことにした。
そんなことを考えているうちに、体が疲れていたのか気がつくと眠りについていた。
朝になってもキキさんからの連絡は来ておらず、一週間立っても彼女は学校に登校はせずキキさんへの心配は募るばかりだった。
「立切。キキのことなんか知らない?」
キキさんの名前に敏感になっていた僕は後ろから急に声をかけられてすぐさま振り向くとそこには高田が立っていた。
「高田は何も聞いていないのか?」
心当たりがあるように何かを思い返した素振りをしていた。
「そうね。何も聞いていないけど」
母親が亡くなってしまったことへの悲しみは想像を絶するだろう。
彼女がいないところでそんなことを勝手に話すのは失礼だろうと思いそのことは伏せておくことにした。
「先週の日曜日にききに誘われていたんだけど突然いけなくなったって連絡が来たの。それから学校にも来ないし心配になって連絡してみたけど何も返ってこなくて。あんた土曜日にキキと出かけてたんでしょ?なんか変わったところはなかった?」
高田への誕生日プレゼントを渡すために日曜日に約束を取り付けたのだろう。
土曜日にあんなことがあって渡すことはできなかったのだろう。
「いや、普通だったけど。ただ学校に来ないのは僕も心配している」
高田は思いつめた顔をしていた。
「立切。あんた私がキキを救ってほしいって言ったこと覚えてる?」
退部届を出した時のことか?
そのことなら引っ掛かるところがあって、もちろん覚えていた。
「ああ、途中でキキさんがきたあの日のことだろう?もちろん覚えてる」
「そっか。実はね、キキ昔にもこんなことがあったの」
昔?高校に入学してからはキキさんと同じクラスだったし一週間も学校に来なかったことはなかったから中学の時のことを言っているのか?
「それって中学の時?」
高田はコクリと頷いた。
「突然学校に来なくなってその時も連絡をしたんだけど何も返事がなくて...」
今回は母親のことがあって気に病んでいるから仕方のないことだが中学の時にも何かあったのだろうか。
「それでどうなったんだ?」
「しばらくすると学校に突然登校してきたわ。何かあったの?って聞いても何もなかったの一点張りで..」
高田の眼差しは遠い過去を振り返るように虚としていた。
「でもそこから時々手が震えていたり、会話をしていても急に空っぽになってしまったかのように表情が怖くなったりすることが増えたの」
そんなことがあったのか。
もしかしたらその時から母親が何かの病気を患ったのかもしれないな。
「学校に急に来たと思えば、行きたい高校ができたって言いだして、よく一緒に勉強をしていたわ。時々遠い未来も見ているかのように考え事をして笑うようになった。そこからは徐々に学校に来なくなる前のキキに戻っていった。それが今の芦間高校よ」
そうだったのか。
ここら辺ではかなり有名な進学校だから行きたい大学ができて希望を見出したのだろうか。
僕がキキさんやてつやと出会った時のように。
「何か夢ができたんじゃないのか?行きたい大学が見つかったとか」
「ううん。それは違う。この学校は確かに進学には強い高校で有名だけどキキは大学に通うつもりはないって言っていたもの」
キキさんは就職希望だったのか。
僕も別に進学はどちらでもいいと言う意見だが、父親を安心させたくてこの学校にきたし理由なんて人それぞれか。
「私はキキが心配だったって言うのもあるけど、ききをそんなに変えたものが気になった。それを知りたくて、必死になって勉強をしてこの学校に入学したの」
「随分長い時間ききとはいるけれど、キキは抱えている悩みを結局私には話してくれなかった。でもあんたならきっとキキが抱えているものを分かってあげれるし救ってあげれる。今はそう確信している」
高田の言っていることは前の時から何も腑に落ちなかった。
高田は僕なんかよりキキさんのことを知っているし、長い時間を共にしてきた大親友だ。
そんな高田にすら話さなかった事を僕に打ち明けるはずがないだろう。
でもキキさんの母親のことを僕は知ってしまった。
そのことに関わりがあるのであれば、打ち明けてくれる可能性がないわけではない。
キキさんの家庭のことを勝手に話すことはしない僕と同様なのであれば、高田は本当にキキさんのお母さんのことを知らないのかは不明だ。
退部届を出した日は僕は何も知っていなかったし、土曜日の事を高田は知らないだろう。
それなのになぜ高田は僕にしかできないと言い張るのかがどうしても腑に落ちないのだ。
「なんで僕だって思うんだ?」
高田は覚悟を決めた表情をした。
その後に、何かから解放されたように僕にこう告げた。
「あんただからだよ。立切唯斗。キキがこの学校にきた理由があんただったからだよ」
僕?
この学校に来た理由が僕だって言ったのか?
高田はキキさんへの心配で頭がおかしくなってしまったのだろうか。
僕は高田ともキキさんとも、この学校に入学してから知り合っていて、入学する前には一度も出会っていない。
そんな僕が理由になる意味がわからなかった。
「何を言ってるのかさっぱり理解できないんだけど..」
当たり前の僕の返事に高田は動じず、凛としていた。
「全ては私も知らないわ。私はあんたがどんな奴かも知らなかったわ。ただ、キキは良く知ってたよ、あんたのこと」
高田は中学3年生の時に起こったことを回想シーンかのように話してくれた。
「れな!私これからたくさん勉強をして芦間高校に進学しようと思うの!!」
芦間高校って確かこの辺では有名な進学校よね?
「行きたい大学とか見つかったの?」
「ううん。大学に行くつもりはない。実はね、会いたい人がいるんだ〜」
「会いたい人?誰?」
「立切唯斗っていう男の子!」
立切唯斗?誰だろう。
キキは可愛いし、学校に来ていない間に変な男に捕まったんじゃないでしょうね。
「会ったことはあるの?」
「あるよ!一度だけ。でも多分向こうは覚えていないと思う」
「一回会ったことがあって向こうが覚えてないってあんた...大丈夫なのそいつ?悪いことに巻き来れたりしてない?」
キキの心配をしたはずなのに、キキは私の心配をよそに笑ってみせた。
「大丈夫だよ。すごくいい人だもん!今はきっと悲しみの中にいて辛いだろうけど..私みたいに」
最後の部分は声が小さくて読み取ることはできなかったけど、キキのこんな元気な姿久しぶり見た。
「なんかよくわかないけど私もききと同じ高校に行く。心配だし」
「えー!!本当に!?れなもいるなら絶対に楽しい高校生活になることは間違いなしだね!3人で仲良くできたらいいなあ」
「まあ、まず受験に受かるかが心配だけどね..」
「うーん、それはそうかも…。」
私たちは2人で笑い合って、その日から一緒に勉強をするようになった。
「これがあんたの名前を聞いた時の話よ。キキとはいつ出会ったの?」
驚いた。キキさんは僕のことを入学前から知っていたのか?
そして僕と一度会ったことがあるだって?
中学の時は僕は荒れていてとても良い人だなんて印象を持たれるような奴ではなかった。
三年はかなり落ち着いていたが勉強ばかりしていて学校以外の人とろくに会うことなんてなかっただろう。
記憶を辿ったがどれも良いものではなく、キキさんのような人に会った記憶はないどころか、記憶の中は全て母親で埋め尽くされていた。
「ごめん。わからない」
高田は仕方ないかと言わんばかりに肩を落とした。
「それなら仕方ないわね。でもキキはきっと今でも覚えている。あんたに会うためにこの学校に来たんだもの。だから私はキキを救ってあげられなかったけどあんたならって信じてるの よ…」
高田が僕のことを警戒していて入学当初から睨んでいたことや、退部届を出した時に話をしたこと、高田の言っていることが全て事実なのだとしたら腑には落ちる。
「でも、あんたがキキのことを覚えていないならなんであんたはききの味方ばかりしているの?」
次は高田が腑に落ちないような表情をして僕に問いかけた。
「どうしてだろうね」
僕は高田が腑に落ちない回答をしてその場を去った。
僕は帰宅途中も、帰宅をしてからもずっと考え事をしていた。
高田の発言や態度に関しては理解ができたが、キキさんの存在に関しては腑に落ちるどころか謎が深まるばかりだったからだ。
何度思い返しても彼女と会った記憶はない。
入学をして同じクラスになったときに彼女とは同じクラスだった。
名前を知っていたのだからすぐに僕のことは気がついた筈だけど、キキさんはそのことをなぜ僕に言わなかったのだろう。
何度もそのことを話す機会はあったであろうし、キキさんの性格上、明るく当時のことを話しにかけてくれそうではあるが、そうではなかったのには何か理由があったのか?
その理由に関しても分からずじまいで、彼女からのアクションを待つことしか今の僕にはできることがなかった。
「唯斗〜!ご飯だぞ〜」
父がご飯の準備ができたと下の階から呼ぶ声が聞こえたので僕は返事をして父の元へ行った。
「今日は豚の生姜焼きだ!」
父は料理の才能があり、作ってくれるご飯は本当に出来栄えがすごく、味も絶品だ。
テレビでニュースを見ながら父と祖父と祖母でご飯を食べていた。
すると父は僕の顔をじっと見つめていることに気がついた。
「ん?どうしたの?なんかついてる?」
「なんかここのところ元気がないけど、大丈夫か?」
母と会って昔のことが蘇ってきたことが態度に出ていたのだろうか。
親は本当に些細な変化に気がつくものなんだなと感心をした。
「いや?別に大丈夫だけど」
大丈夫だと言った僕を他所に、父は祖父と何かアイコンタクトをしていた。
「母さんと会ったんだって?」
知っていたのか。
僕は返事をすることもなく黙り込んでいた。
「病院の先生から電話があってな。唯斗が発作を起こして倒れ込んでいたことも聞いている」
「そっか。ごめん。心配かけるかなと思って言わなかった」
父はそっと持っていた箸を置いた。
「母さんの病院を言っていれば良かったな。あまり母さんの話を持ち出すのはやめておこうと思って話していなかった俺の責任だ。ごめんな唯斗。」
父は父なりの考えがあったことは知っているし、何も父を責めるつもりもなかった。
「ううん、今は前よりマシだよ。ありがとう」
祖父と祖母は心配そうに僕のことを見つめていた。
あの当時僕を見ていて、本当に気にかけてくれているのだろう。
「もう美紀さんの話はやめてあげなさい。ご飯も冷めるし、ほら唯斗も食べて食べて」
祖父が僕に気を使って父に釘をさした。
「何かあったら父さんたちを頼ってくれよ」
父はそう言って箸を進めたので僕もうんと返事をし、ご飯に手を伸ばした。
寝る準備を済まし横になって、携帯を手に取ってキキさんとのLINEのトーク画面を開いた。
今日も何もきていないな。
トーク履歴を遡って過去をなぞっている間に眠りについた。
朝、目が覚めるとてつやから連絡が来ていた。
”今日部活が昼までなんだけど夕方とか暇か?”
久しぶりのてつやからのお誘いに胸が躍った。
”バイトが夕方までだからそっからなら暇だよ!”
土曜日に部活が基本、昼までなことは把握していたから土曜日のバイトを夕方までにしておいて正解だった。
すぐにてつやからも返事が返ってきて、僕たちは夕方に河川敷で2人でサッカーをすることになった。
アルバイトが終わるとすぐに家に帰宅し、あらかじめ準備していたカバンを取って颯爽と河川敷に向かった。
「お!バイトお疲れさん!」
先に到着していたてつやはリフティングする足を止めて僕に声をかけた。
「てつやも部活お疲れさん!昼までサッカーしてたのに夕方もサッカーなんてほんと好きだね」
アルバイト後に運動をする僕もまあまあだが、てつやの体力の底はどこにあるのだろうと思った。
「いやあ、なんか久しぶりに唯斗とサッカーしたくなってな。鈍ってねえだろうな?」
僕が部活を辞めて以来、サッカーをすることがなかったので本当に久しぶりだった。
現役を離れてアルバイトばかりしていたので多少実力は劣るだろうが、サッカーには自信があった。
「まあ、見てなって」
てつやとボールの蹴り合いをして何度か実戦形式で一対一をした。
体力の差は大きくあったが結果はほとんど互角に終わった。
「全然動けんじゃん、なんか嬉しいな」
「もう体力の限界が来てるし、このまま続ければてつやが圧勝だよ」
一緒に汗を流して疲れたなと言いながらベンチに座る。
すごく懐かしいものを感じて思わずフッと笑みが溢れた。
「戻りたいのか?部活?」
てつやの中には色んな感情があったのだろう。
僕の目を見ずに小さな声で言った。
「半分半分。戻りたい気持ちもあるし、戻れない気持ちもあるから」
「そうだよな」
「うん。そうだよ」
僕もてつやの方は見ず、目の前の無作為にボールが転がった芝生を見て返事をした。
「てつやは俺といつ出会ったっけ」
「ん?入学式に初めましてだろ?」
「そうだよね」
「何を急に言ってんだよ。運動不足でボケたのか?」
高田の誕生日プレゼントを買いに行った日の夜に会った出来事を除いて、僕は高田から聞いた話をそのまあてつやに伝えた。
「そうか。そんなことがあったのか。小林さん学校にも来てねえし、今は何してんだ?」
「分からない。連絡もしてないし」
「連絡もしてないって、心配じゃないのか?」
もちろん心配はしているが母親のことを引きずっているに違いないし、1人にしておくのがいいと思っているから連絡はできないのだ。
てつやには全てを言っていないから誤解されてしまったのだろう。
「おい。なんか隠してんだろ」
隠してるだろうと言われたことへの動揺と、てつやの怒りが混ざった声色でびっくりして僕はてつやの方へと視線を合わせた。
「小林さんと土曜日に出かけて、日曜の高田との遊びにはバックれて、そっから一週間も学校に来ないけどなんも知らないって?それに知らないけど連絡もしてないだって?そんなんで通じると思ったのかよ」
てつやの言う通りだと思った。
明らかに言っていることはおかしかったのはわかっている。
けど言えないんだ。
「けど言えないって顔してんな。なあ、俺が頼りないか?すぐに誰かに言いふらすようなやつだと思ってんのか?」
「いや、そんなことは...」
てつやは僕の胸ぐらをぐいっと掴んだ。
「あのなあ唯斗。俺は楽しいことだけを共有するのが友達だとは思ってねえ。この一週間、明らかに唯斗が落ち込んでいるのは俺が学校の誰よりも気付いてた。」
この一週間のことを思い出して僕はてつやから逃げるように視線を落とした。
それを見逃さないてつやはもう一度胸ぐらを掴んでいる手に力を入れた。
「逃げんなよ。キキさんとなんかあったんだろ?お前がさっき言った”分かんない”ってどうしていいのか分かんないって意味だろ?俺にも力にならせてくれよ。俺は何を聞いてもお前を見限らないし裏切らない」
てつやにはお見通しだった。
僕は心配と不安、母に対する恐怖感から逃れるようにてつやに全てのことを喋った。
キキさんと2人で出かけて告白をできなかったこと、キキさんの母親の事、首が閉まる感覚をなんとか堪えながらも、昔に起きた母親との事や僕のこれまでの過去や今の話も全て。
てつやとサッカーをしてからベンチに座った時は夕焼けだった空も、全てのことを話し終える頃には夜空に変わっていて辺りは真っ暗だった。
「過去にそんなことがあったんだな...。辛いこと話させちまってごめんな。今は大丈夫なのか?」
「うん。隠してたことてつやに話せて良かったよ。聞いてくれてありがとう」
「逃げんななんて言ってごめんな。ずっと1人で戦ってたんだもんな。お前すげえよ」
「逃げてばっかりだよ。キキさんからも。母親からも」
「ちげえよ。自分との戦いにだよ。必死に生きてきたじゃねえか。今まで」
気がつくと目からは涙が溢れていた。
僕にはカウンセリングの先生にも、父親にも言っていないことがあった。
キキさんに出会ってからは一度もないが、僕は何度も母親と同じように首に縄を通したことがあった。
その度に怖くて、躊躇って、また通して、躊躇って...。
人に言えることではないが何度もそうしたことがあったのだ。
てつやは人生をやめようかと思ったことが何度かあると濁したが恐らく、話の流れから気がついたのだろう。
遠い昔に枯れてしまったと思っていたが、頬を蔦って手に落ちた涙を見て、少し嬉しい気持ちになった。
てつやは僕が泣いていることに気が付いて、そっと背中をさすってくれた。
何年もためていた涙を流しきり、てつやに問いかけた。
「これからどうしたらいいと思う?」
てつやはスッと立ち上がり、僕の目の前で再度しゃがみこんで目を合わせた。
「決まってんだろ。小林さんに連絡しろ。返事が来ねえなら家まで行けばいい」
「迷惑じゃないかな?」
「一緒にいてほしいってお願いされたんだろ?なら迷惑じゃないって」
「そっとしといてほしいって思われないかな?」
「大丈夫。きっと受け入れてくれるし、きっと待ってんだよ」
「そうかな...」
「そうだよ。誰でもいいってわけじゃない。高田も言ってたらしいけど、お前じゃないとダメだと思う」
僕はてつやの目を見てしっかりと頷いて見せた。
「これは俺の勝手な見解なんだが...」
てつやは僕の横に座り直して前を向きながら話を進めた。
「唯斗のお母さんは唯斗が本当に大切だったんだと思うぞ」
てつや以外にこんなことを言われていたら何も知らないくせにと怒りが爆発していたところだが、全てを聞いたてつやがなぜそう思ったのがが気になった。
「なんで?それはないでしょ...」
「唯斗が言っていた、唯斗の母さんが首を吊っていた日のことを聞いてさ」
てつやに過去のことを話しているときにも起きた首が閉まる感覚が蘇って息遣いが荒くなった。
「この事を話すと首が閉まる感覚に陥るって言ってたよな。さっきも何度かあったけど今も始まってるか?」
僕は声が出せなくなって、首をコクコクと縦に振った。
「そうか...。でもあの日のことを聞いて思ったんだけど、お前の母さんは守ろうとしたんだと思う。唯斗を」
てつやが何を言っているのか分からない。
僕を守るために僕の部屋で首を吊っただって?
どう関係があるって言うんだ。
「その日の夜、唯斗のお母さんは多分だけど病気の症状で我を失って寝ている唯斗に手をあげようとしたんだと思う」
僕もそう思う。
だが、そうではなくてトラウマを植え付けようと身を犠牲にして首を吊ったのだろう。
「そこで唯斗のお母さんは病気と戦って我に戻った僅かな時間で唯斗に手を出す前に、唯斗の首を閉める前に、自分の首を絞めたんじゃないかなって。唯斗を守るために。」
「結果的に唯斗に消えない傷を背負わしてしまったことにはなった。でも、それでも唯斗のお母さんは生きてて欲しかったんじゃないかなって思うんだ。」
「首を吊ることがどれだけ怖いことかは経験したことはないが想像はつく。唯斗を失わないために、唯斗のお母さんはやってのけたんじゃないかなって思うんだ。」
てつやの話が終わると同時に僕の首閉まる感覚は消えていた。
僕はずっと勘違いをしていたのか?
あの日、目が覚める前に誰かに声をかけられて終わった夢があったことを思い出した。
「(...唯斗。こんなことしかできないけれどごめんなさい。強く生きて。)」
もしあれが夢じゃなかったら?
母が首を吊る前に僕に対して言った言葉だったとしたらてつやの憶測が正しいと言うことになる。
それでもすぐにそうだと思い込む事ができないほどの傷を負っていた僕は、すぐに確信づけることはできなかった。
「なあ唯斗、一回お母さんと話をすることは無理そうか?」
てつやが言っていた話の行方は僕も気になった。
だが、母にされたことはそれだけではなく、そうじゃない可能性の方が濃厚であることは僕が一番わかっていた。
もしそうでなかった場合、一度希望に縋ってしまった分の跳ね返りは大きいだろう。
そうなると次こそは立ち直れないかもしれない。
「会ってみようと思う」
母と対面することは本当に恐ろしくてどうしようもない。
でも、僕は母に全てのことを聞きたかった。
多分、父さんやじいちゃんはすごく慌てるだろうし、僕も何度も息が詰まってしまうかもしれない。
それに、母に会う一番の理由はキキさんだった。
どうしても引っかかる事があり母に直接キキさんのことを聞いておきたいこともあった。
2年前の自分に母に会いに行こうと思うだなんて言ったら、きっと辞めておけって言われるんだろうな。
好きな女の子がきっかけで会いに行けるのか?って膝から崩れ落ちそうだな。
いや、きっと昨日の自分に言ってもそう思っただろうな。
てつやに全てを打ち明けて、キキさんや母親に向き合おうって思えたんだ。
となると好きな女の子と大親友のお陰になるな。
この2人に出会っていなかったら今頃この世にはいなかったのかもしれない。
もしくはずっと暗くて深い闇の中でうずくまっていたのかもしれないな。
「唯斗。本当に大丈夫か?」
「うん。安心して。戦うって決めたんだ。もう逃げやしないよ」
てつやはカバンをごそごそと漁って何かを取り出した。
「これ、覚えてるか?」
てつやは線香花火とライターを取り出した。
「覚えてるよ」
てつやはニコッと笑って線香花火を渡してくれた。
一本のライターから出る火に向かって線香花火を2人で近づけた。
二つの花火は同時に着いてパチパチと音が鳴り出した。
三十秒ほど経っただろうか、2人の線香花火は同時に地面に着いた。
「おお、同点か。珍しいな」
「今度こそ勝ちたかったのにな。どうする?もっかいやる?」
てつやは少し見て、首を横に振りこう言った。
「もう押す背中はないみたいだからいい。でも最後に教えておきたいことがある」
「なに?」
「唯斗が部活を辞めた後の小林さんの部活の様子って唯斗は知らねえだろ?」
僕が辞めてからは部活の時間は帰宅していたし知る由もなかった。
「なんか空っぽって感じだったよ。そんな小林さんを見てある時、聞いたんだ。なんでキキさんってサッカー部を選んだのかって。」
確かにサッカーに詳しかったわけでもないキキさんがサッカー部のマネージャーを選んだ理由は知らなかった。
「なんて言ってたの?」
てつやは少し笑いながら僕の顔を見ていた。
「唯斗がいたからだってよ」
キキさん、君は一体何者なんだ?
僕とは本当にどこで知り合ったんだ?
「今も続けてる理由は?って聞いたら唯斗が帰ってきやすいように待ってんだって言ってたよ。」
てつやは話を続けた。
「知らなかったよ」
「え?なにが?」
「部内恋愛の事。めちゃくちゃ驚いてた様子だった。あ、唯斗のことは言ってねえから安心して」
はー..。
やっぱり話をちゃんと聞いていなかったのか。
おそらくあの学校で部活に入っていて知らなかったのはキキさんくらいだろうな。
「どうだ?少しは勇気を出すきっかけにもなったか?」
「うん。キキさんって本当馬鹿なんだなって再認識したよ」
二人でケラケラと笑い合い、しばらくしてから解散をした。
家についてからキキさんには電話をかけてみようと考えていたが、いても立ってもいられなくなり自宅付近の公園に自転車を止めた。
本当に電話をかけて良いのかという不安と、 久しぶりのキキさんとの会話に手が震え、軽く深呼吸をした。
よし。
そう覚悟を決め直して、着信ボタンを押した。
しばらくの間、コール音が耳元で流れた。
でないかと諦めて携帯を膝下に下ろそうとした途端コール音が止んだ。
「...」
何も声が聞こえなかったので携帯の画面を確認したが電話はつながっている状態だった。
「久しぶりだね、キキさん」
「....」
キキさんは何も返答しなかった。
「キキさんからの連絡が待てなくてごめんね。本当に心配で電話しちゃった」
「...」
「今日はてつやと遊んだんだ。久しぶりに一緒にサッカーをしたよ。その後に花火もして、すごく楽しかった」
「...」
「そういえば、月曜日は英語の単語テストがあるんだって。本当に学校がだるくなっちゃうよね」
「...」
「いつまでも待ってるから。キキさんのこと」
「待たなくていい...」
急にキキさんの声が聞こえて思わず固まってしまった。
「え、それってどう言う意味?」
「...ううん、もう何もない」
なんだかキキさんの様子がおかしいのは第一声の声色で感じ取れていた。
「唯斗くん、あの日廊下で倒れてたけど...大丈夫だった?」
キキさんの言うあの日とは恐らくキキさんの母親が亡くなった日のことだろう。
「実はあの日のキキさんのいた病室にいたもう1人の患者さんは僕の実の母親なんだ」
「...」
「久しぶりに会ったんだけど、母親とは良い思い出がなくて」
「...」
キキさんからの返答が消えていたことには気づいていたが話を続けた。
「てつやにそのことを相談したんだけど、会って見たらって言われて”会う”って言ったんだけど、実はまだ決心がつかなくて」
「会うって言ったの?動悸を起こすほどいい思い出がなかったんでしょ?なんで?」
キキさんが返事を返してくれた。
「確かめたい事があって。それを聞けたら少し母さんを許せるって思ったから。でもその答えが僕の思っていた通りだったらどうしようってすごく怖くて」
「...」
「正直、てつやには大口叩いたけど今も逃げ出しそうなんだ」
僕は少し笑ってそう言った。
「大丈夫。きっと唯斗くんが聞きたいことが聞けるよ」
キキさんはさっきまでの不安が混ざった声色とは違って、優しい声で僕を励ました。
「キキさん」
「どうしたの?」
「待ってるからね」
キキさんはすぐに返事を返さなかったが少し間を置いて声を発した。
「...待たないで」
キキさんはそう言い、電話を切った。
電波が悪かったと言う考え方もできるが、あまりの儚く、願いに満ちたその声にキキさんの意思で電話を切ったのだと言うことは馬鹿な僕にでも分かった。
キキさんとの会話をした事を思い出して耽るかのように、しばらく公園で夜空を見上げた。
翌日、僕は創生病院に来ていた。
ここはキキさんの母親が亡くなった場所で、僕の母親が入院している病院だ。
あれだけ母に会うことを燻っていたが、てつやとキキさんと話をしたおかげで踏み込む事ができた。
昔の僕はこんな事、行動どころか、想像もできなかっただろうなと、成長した自分が嬉しく感じ少し大人ぶってみせた。
前、母がいた病室の前に到着し、名札を確認した。
『石田美紀』
そう書かれた名札があることを確認したがキキさんの母親の名前はもうなかった。
唾をごくりと飲んでドアをノックした。
「はーい。」
母がドア越しに返事をした。
「カーテンでお母さんの顔は見えないようにしてあるわ。さあ中に入って。」
僕が何かを言う前に母さんは僕だと分かっていたかのように僕を病室の中へと呼んだ。
「...失礼します」
僕はドアを開けて中に入った。
母の言う通り、ベッド周りにはカーテンがあって顔が見えず、シルエットだけが見えた。
「僕が来るって分かってたの?」
「ナースさんが唯斗の姿を見たってすぐに私のところに報告にきたのよ」
そう言えば、父が母さんと会った事を知っていた事が気になっていた。
病院の先生たちは僕たちのことを知っていて、父に報告もしていたのか。
「そっか」
少しの間、沈黙の時間が続いた。
「今日は来てくれてありがとうね」
母の方から会話を持ちかけてくれた。
「あ、うん。今日は聞きたいことがあって来たんだ...」
「そう。その前に、この間はごめんね。唯斗に軽々しくも触れてしまったこと、反省してる」
「ううん。あれは小林さん達のことを思ってのことだから気にしてないよ」
母と会わずにカーテン越しで会話をすれば首が閉まる感覚がキツくなかった。
「良かった。それで聞きたいことって何?」
そうだ。今日は聞きたいことが二つあって来たんだ。
すごく聞くのが怖いけど、勇気を出して話をした。
「完全に母さんと離れることになったきっかけの日のこと覚えてる?」
母さんは少し沈黙していた。
「...ごめんなさい。せっかく聞きに来てくれたのに、覚えているところもあるけれど覚えていないところもあるの」
やはりうつ病の症状で記憶が断片的になっているのだろう。
「そっか...」
「でも話は父さんから聞いているわ。本当にごめんなさい。あなたを苦しめてばかりで...」
”いいよ”とは言えず、僕も沈黙した。
「小林さんの事があったときにあなたと会ったけど、”あの日”を境に唯斗とはちゃんと会えなくなって、謝罪をすることもできなかったことを本当に反省しているの。本当にごめんなさい」
母からの謝罪の気持ちは十分に伝わっていた。
それでも僕は”いいよ”とは言えなかった。
「覚えているところって僕に話す事ができる...?」
母は当然聞かれると予想はしていただろうが少しの沈黙の後に大きな深呼吸の音が聞こえた。
この事が聞きたかった僕は首の閉まる感覚ではなく、自分の心臓が脈打つ音が身体中に伝わっていた。
「自殺しようとしたわ...」
僕はとんでもないことを母に言わせている罪悪感を感じたがどうしても続きが聞きたかった。
「それは...なんで?」
「あの日に私はあなたの部屋に向かった。でもそれが私ではないことには気がついていたわ。必死に抵抗をしても体は言うことを聞いてくれなかった」
母が話の途中で深呼吸をしなおした。
「でも自我を保つことが一瞬だけどできた。その時にもう考えるより先に覚悟を決めたわ。どうかあなたが目覚めるより先に父さんが見つけてくれることを祈って、自分の首を絞めたの」
母さんは話しながらを声が震えていて泣いていることに気がついた。
死ぬ覚悟をすぐに決めるなんてどれだけ怖くて勇気がいることかは僕も十分知っていたから母の気持ちを知って僕は顔を伏せた。
「あの後聞いたけれど、唯斗が第一発見者だって聞いて本当に後悔をしたわ。ああすることしかできなかった私を憎んだ。あなたには癒えない傷を負わせてしまったもの」
てつやの言った通りだった。
母は僕にトラウマを植え付けたくてしたことではなく、僕を助けるために首を吊ったんだ。
それなのに勝手な憶測だけで、僕はあれから母を憎んで憎んで...。
もっと早くに母と話ができていたら僕はもっと可愛げのある高校生だったのだろうなと思った。
僕は閉まっていたカーテンを勢いよく開けた。
母はボロボロに泣いていたが僕の行動に驚いていた。
「唯斗...。私の事を見ると辛くなるでしょう。大丈夫なの...?」
母が僕の体を心配してくれたが、母の周りのものを見て思わず声が出た。
「え...?」
小林さんの事があったときに僕は病室に入っていたが、その時には気づけなかったものがたくさんあった。
母のベッド周りには僕の写真がたくさん置いてあったのだ。
いつ撮ったのか覚えのない僕の幼い頃の写真から、まるで鏡を見ているかのように今の自分にそっくりな自分の姿のものまであった。
でもその写真には違和感があった。
幼い頃のものや、家で過ごしているものなら父が撮り、母に渡していたということで納得ができる。
実際にそんな写真も母のベッド周りには置いてあったからだ。
でも僕が違和感を感じた写真は僕の高校でサッカーをしていたり、学校でてつやと笑い合っている写真だった。
この写真は僕は撮ってくれと頼んだ覚えもないし、むしろ気がついていないようなカメラワークで、明らかに父がその場にいることのできない状況での写真だった。
母はその写真を見ている僕のことに気がついた様子だった。
「唯斗が聞きたかったことはあの時の話だけではないんでしょ?ほとんどがあなたが今考えている事が答えだと思うわ。ききちゃんのことも聞きたかったんでしょ?」
キキさんの名前を母が発した時に母の顔を見直した。
母は涙ながらも優しい顔をしていた。
「やっぱりキキさんとは知り合いだったんだね...」
母はコクッと頷いた。
高田の言っていたことが全て繋がった気がして少し鳥肌がたった。
「キキちゃんと初めて会ったのはあなたが中学二年生の冬の事よ。よくお喋りをするようになったのはそれから数か月後。その時は、唯斗もキキちゃんも中学3年生の時ね」
やっぱりキキさんは僕の母との会話で僕のことを知っていたのか。
「キキさんのお母さんのお見舞いに来ていたの?てことはキキさんのお母さんはかなり昔から入院していたの?」
母さんは初めて僕と目線を外した。
「そうね。私とほとんど同じタイミングで小林さんも入院していたわね。この病院の入院患者は皆、母さんと同じ病気の人がいるから小林さんもうつ病患者よ」
なんとなく察しはついていたがやはりキキさんのお母さんもうつ病だったのか。
だとしたら死因はなんだ?
事故のようなものに巻き込まれたのかと考えたが、入院をしていたのならその心配はないだろう。
「自殺よ。」
母は僕の考えている事がわかるのか、突拍子もなくそう言った。
「トイレに言って戻ってこない小林さんを心配した私は、小林さんを追って、トイレに行ったらそこで首を吊っていたわ。」
首吊り自殺か...。
それに話を聞く限り、母が第一発見者で間違い無いだろう。
「助からなかったの?」
「そうね。小林さんは入院中に癌が発症して体が弱りきっていたこともあったけれど...。うつ病の人は気づかない間に自分を傷つけているときがあるけれど、彼女は自分の意思で首を吊ったんだと思うわ。私と同じ覚悟を決めた顔をしていたもの」
癌も発症していたのか。
病院だから早期発見でなんとかなりそうだがそうではなかったのか?
「治療費よ」
母はまた僕の考えていることを見透かすようにそう言った。
「入院をしていてお金がかかるのは当然のことよ。母さんは父さんが負担してくれているからまだ大丈夫。だけど...」
「だけど?」
「小林さんのご家庭は主人がいなくて女手一つでキキちゃんを育てていたと聞いていたわ。そして癌の治療費をききちゃんがアルバイトをして貯めていたことも聞いた」
キキさんに父親がいないことは知らなかった。
それに、キキさんがアルバイトをした理由は母親の治療費のためだったのか...。
「きっと、キキちゃんに迷惑をかけたくない気持ちが先行してこの世を去ったのね」
話を聞いていてどうしてもやるせない気持ちになった。
「キキさんの父親はどうしたの?」
「交通事故でキキちゃんが中学二生の時に亡くなったと聞いたわ。そのことが精神的ストレスでうつ病を発症したんだとも言っていたわ。おばあさんがいるけれど普段は、介護施設に入っているから...。キキちゃんはきっと今も寂しい思いをしているわ」
高田がキキさんが中学の時に学校に来なくなったと言っていたが、父親の事があってキキさんは中学の時に一時期学校に来なくなったのだろう。
彼女の人生は僕とは違う絶望の中で生きていて、それでも明るく頑張っていたキキさんを思い出した。
僕なんかよりずっと彼女は本当に強い人だ。
キキさんも母親が何を想ってこの世を去ったのかは気がついていて、今は助ける事ができなかった後悔が付き纏っているだろう。
それを支えてくれるもう一人の親もおらず、一人でもがいている。
「ききちゃんのことを話すことを忘れていたわ」
暗い話で肩を落としている僕のことを気遣って母は話題を変えた。
「キキちゃんとの出会いは唯斗が中学2年生の時で、仲良くなったのはその一年後だって話までしたわよね?」
僕はコクリと頷いた。
「唯斗が中学3年生の時に父さんがお見舞いに来て、あなたの昔の写真を持ってきたの」
「その後、飾ってある写真を見たききちゃんが写真を見せてほしいと言ってきたわ。どうやらあなたと幼い時に会ったことがあったみたい」
幼い時?高田も言っていた僕に一度会った事があるって言うやつか。
やはり幼い時に何かでたまたま会っていて僕は覚えていなかったのだろう。
「それから唯斗の話をするようになってね。父さんから聞いていた唯斗の現状の話や、私がしてしまった事も含めてね...」
だんだん話が繋がってきた。
進学校だが進学をするつもりはないキキさんが、この学校に来た理由は何となくだがわかった。
母との会話で、僕が芦間高校を志願していることを知ったキキさんも芦間高校を志願したのだろう。
「母さんは僕が母さんのことを思い出すと首が閉まる感覚になることは知ってた..?」
母さんはまた僕から目線を逸らしてこう答えた。
「父さんから聞いていて知っていたわ。キキちゃんもそのことは知ってる」
やっぱりか...。
「今は母さんからあの日の真実を聞いてかなりマシになったから大丈夫だよ」
母さんが申し訳なさそうにしていたから安心させるためにそう言った。
「ありがとう」
僕は母の目をしっかり見て大丈夫と言わんばかりに頷いて見せた。
「それからはききちゃんが唯斗と同じ高校に入ったと聞いて写真をくれるようになったわ。それがこの写真が私の手元にある理由よ」
話の流れから察しがついていたので、今になっては何も驚かなかった。
「高校生活のことはキキちゃんからよく話を聞いていたわ。あなたが幼い時にあった時とは雰囲気が違いすぎて最初は困ったとか、今は辞めてしまったけれど私が奪ってしまった大好きなサッカーをまた始めてくれたこともね」
そんなことまで聞いていたのか。
サッカーに関しては今思えば無理矢理入部させられたに等しいけど、そう言うことにしておこう。
「それでも優しくて、困った事があれば助けてくれるところは変わっていなかったってすごく笑顔で話していたわ。私もそれを聞いて本当に嬉しかった」
「ところでいつ唯斗は告白するの?」
あまりの予想だにしていなかった質問に喉を詰まらせそうになった。
「え?なんのこと...?」
母さんは笑顔で僕を見ていて、その笑顔が何年ぶりだろうと考えると少し涙が溢れそうになった。
「隠しても無駄よ。息子のことはなんでもわかるんだから」
あたふたしている僕を見て、母さんは声を出して笑っていた。
「でもね唯斗」
ついさっきまで笑っていた母さんの顔が急に真剣になって僕は何を言うんだろうと唾を飲んだ。
「あまり時間はないかもしれないわ」
時間がない?一体母さんはなんのことを言っているんだ?
「ききちゃんね。今朝、私のところに来たの」
え?
キキさんがここに来たって?
それも数時間前に?
「何をしに来たの?」
「唯斗が訪ねてくるかもしれないから本当のことを言ってあげてって私に言いに来たわ。唯斗はもう大丈夫で救えてよかったと言っていた」
「救う?」
救うとはなんおことを指しているのかわからなかった。
「私のトラウマから救うことよ。真実を言えば大丈夫だからって言っていたわ」
母は話を続けた。
「あなたの過去を聞いたキキちゃんはあなたを助けたいと言って高校に入学したのよ。危ない時はあったけれど救えて良かったって」
心当たりならあった。
部活に入る前に僕が母のトラウマから過呼吸になっていたところを、誰かに声をかけられた気がして首の感覚が治っていくことがあった。
その時は確かに、キキさんがいた。
やっぱりキキさんは、僕が首が閉まる感覚に陥ることも知っていてあの時に助けてくれたのだろう。
”大丈夫。よく見て。あなたは知らないことだらけなのだから。”
この言葉を言ったのはキキさんで、この言葉の意味をキキさんは知っていたのだ。
でも高校に入学してまで僕のことを気にかけてくれる理由が見つからなかった。
母と仲良くなったとはいえ、普通なら流して自分のしたいことをするだろう。
なんでだ...?
「あなたに恩があったみたいよ」
「え..?」
母はまたもや僕の心情を透かして答えを教えてくれた。
「幼い時にショッピングモールで同級生に母親がいないことを理由にいじめられていたキキちゃんをあなたが助けてあげたみたいなの」
ショッピングモール?
いじめられていた?
僕はトラウマだらけの過去から必死に記憶を巡らせた。
....!!
キッズエリアにいた女の子だ...。
祖父に連れられてショッピングモールに行き、そこで男の子に絡まれていた同い年くらいの女の子がいてその子を庇った記憶を思い出した。
あの時の子だったのか...!
でもそうだとしたら何かがおかしい。
あの時の子は確か、母親は入院をしていて会えるから大丈夫だと言っていた。
その頃からキキさんの母親は入院をしていたのであれば、母と本当に同じタイミングで入院をしていたことになるだろう。
でも母はキキさんと出会ったのは中学の時だと言っていた。
これだと時系列が明らかにおかしくないか?
母が首を吊った事件があったのが僕が小学五年生の時でその時期から母は入院をしていた。
キキさんと初めて会ったのもその時期のはずだよな。
なぜ母とキキさんは小学5年生ではなくて中学2年生の時に初めて出会ったのだ?
「母さん。父さんとキキさんは会ったことはある?」
「ないわ」
「そうだよね。父さんは面会場でしか母さんと会えないって言っていたから」
「そうね。今唯斗と会えているみたいに、入院から5年で病室までは来れるから唯斗が高校を入学してすぐの時に一度来たわ」
入学式の時に父がもうすぐ病室に会いに行けると言っていて、”良かったね”と言って父を困らせてしまったこともあったな。
「でもキキさんとは中学2年生の時に病室で会ったんだよね?」
「....そうね」
「キキさんのお母さんも入院当初は面会場でキキさんと会っていたんだよね?」
「面会場から嬉しそうに帰ってくる小林さんをよく見ていたわ」
高田が言っていた学校に来なかった時期の事、僕の母親との接点、その全てが繋がった。
「母さん。さっき言っていたキキさんのお父さんが亡くなったショックからうつ病を発症したって言っていた”小林さん”って誰のこと?」
「....ききちゃんね」
病室に来れないはずのキキさんが母と会っていた。
学校に来なかったのではなくて行けなかった。
その理由は簡単だった。
キキさんもうつ病患者だったのか....。
「唯斗。今は頭の整理が追い付いていないかもしれない。けどさっきも言ったようにあまり時間はないのかも知れないの」
そういえばさっきも時間がないと母が口にしていたがこの時間というのは一体なんなんだ?
「それはどういうこと?」
「少し違う感覚はしたけれど、私やキキちゃんのお母さんのような覚悟を決めた顔をしていたわ」
覚悟....。
唾をごくりと飲み込んだ。
「死ぬ覚悟ってことだよね...」
母は天井を見上げて考えて事をしていた。
「結果的にはそうね。でも私も、小林さんもそうだと思うけれど私たちが決めた覚悟は大切な人にお別れをする覚悟。意味合いは似ているのかも知れないけれど全然違うものよ」
その後に、母は当時を思い出すかのように窓の外に広がる青空を眺めながら寂しい声でこう言った。
「だって、誰でも死ぬ事は怖いもの」
こんな言葉を心から理解できる事に負い目を感じた。
怖かった。
そうする方が楽になれる物だと思っていたのに、こんなに恐ろしい物だと思っていなかった。
母からの言葉の意味、自分との重なりを照らし合わせて自然と涙が溢れていた。
「うん。そうだね」
精一杯の返事に対して母は何かに気がついたのか僕の方を振り返った。
「唯斗...。あんたまさか...」
僕は何も返事ができなかった。
止まらない涙を抑えるために目に力を入れ、膝に置いていた両手でズボンをぎゅっと掴んでいた。
母は追及をせず、ベッドから身を乗り出して僕のことを強く抱きしめた。
ずっとこうしていたかったが、僕は母にもう大丈夫と言って体を引き離した。
今はまだやるべきことがあった。
「母さん、キキさんのところに行かなくちゃ」
母は僕からの言葉に少しハッとしていた。
「そうね。あなたしかいないわ。手遅れになる前に早く行きなさい」
僕は母の目を見ながら強く頷いた。
そしてすぐに立ち上がって向かう準備を始めた。
「ねえ唯斗。大丈夫...?」
カバンを肩にかけたところだったが、母の言葉で少し手が止まった。
それでも止まっちゃいけないことはわかっていた。
「また会いに来るね。今度はキキさんと一緒に」
母は今日一番の優しい声でこう言った。
「どんな事があっても、唯斗だけだとしても....。あなた達から”ここ”に会いに来てね」
「約束するよ。じゃあ、行ってきます」
くるっと回って母を背に、僕は病室を去った。
去る時に気が付いたが、首が閉まる感覚はいつしか全くしなくなっていた。
母との誤解がひも退かれ、久しぶりに話をしたことをもっと噛み締めたい気持ちがあった。
でもききさんのことを聞いて、ホッと胸を撫で下ろすような気持ちには到底なれず、不安と焦りが付き纏い、僕の足を動かしていた。
病院から出ると自転車に跨り、電車で行くことを考えたが、足を動かしていないと胸がはち切れそうな気がした僕は、ひたすらに自転車を漕ぎ続けた。
昔、自転車でキキさんの家まで来たことはあったが、その時は部活をしていた時で体力的に問題はなかったのだが今は違う。
焦りと自転車を漕ぎ続けているせいなのか、胸がドクドク鳴っていて息切れが激しかった。
直接会って何を話そうとか、そもそも会ってくれるのだろうかとか、母の言っていた通りに手遅れになっていないだろうかなど、色々なことを考えた。
でも彼女をどうしても助けたくて、一人じゃないんだって伝えたくて、ありがとうって伝えたくて、大好きだって伝えたくて、僕は会いに行く。
キーーーッッ。
がむしゃらに自転車を漕ぎ続けたからか、あっという間にキキさんの家の前に着いた感覚がした。
荒い呼吸を整えるために一度大きな深呼吸をした。
ピンポンは押すか?
モニター越しに僕が映っていたら出てきてくれるか?
おばあさんは介護施設に入っていると言っていたから今、いやずっと前から一人でこの家にいるのだろう...。
僕は携帯を取り出し、思い切ってキキさんに電話をかけた。
――プルルルル...。
電話には出なかった。
キキさんの自転車があるのを見ると、家にはいるのだろう。
もしかして......。
この時に母が首を吊っている記憶が蘇った。
ただ、今まで苦しめられていたものとは違って、目の前にはキキさんの姿に変わっていた。
恐ろしくなった僕はもう一度電話をかけようと、LINEを開いた。
トーク画面を見ると、今さっき電話したものとは別に、前に公園で電話をした記録が残っていて、ふと僕は前のキキさんとの電話の内容を思い出した。
”待たないで”
キキさんに言われたあの一言が僕の頭を過った。
そして、電話をかけながら僕はキキさんの家のドアノブを握った。
頼む....。
そう願って僕はドアを引いた。
キーー。
ドアに鍵はかかっていなかった。
女子高生が一人で住んでいるのに鍵をかけないのにはヒヤッとしたが、今は不幸中の幸いだ。
綺麗に靴が整えてあって、少しいい匂いがした。
もしキキさんが家を開けていただけなら、住居侵入罪で僕は捕まってしまうのだろうなと考えたが、捕まって彼女が無事なら安いものかと思った。
でも、彼女はこの家にいる。
彼女の家に入ってから、僕の携帯からなっている呼び出し音とは違う着信音が奥の部屋で鳴っているのが微かに聞こえたからだ。
この静けさに着信音が微かに鳴っている状況がとても怖かった。
本当に彼女は...。
嫌なことばかりが頭を過り、足が震えた。
手も震えていた。
それでも僕は音の鳴る部屋のドアノブに手をかけた。
その時、ずっとなっていた着信音が鳴り止んだ。
手に持っていた携帯を確認したが、”応答なし”という表示が画面に映し出されていた。
突然、静寂に放り出された恐怖が僕を覆い尽くそうとしたが、僕は負けじと思い切ってドアを開けた。
ドアの向こうの光景は正に、さっきまで頭に流れていた映像そのものだった...。
ひさ足ぶりに会うキキさんは、僕がいつも見ていたきらきらしていたキキさんとは違い、深く心を閉しきった昔の自分を見ているようだった。
バタンと床に膝が着き、こんな時になんだと自分の足を見るとさっきとは比にならないほどに震えていた。
それを抑えようとする手も同じくらいに震えているが、震えが収まることを待っている時間はない。
その時、床に倒れていた椅子のそばに携帯が置いてあるのが目に止まった。
電話をかけたことによって携帯がついたままだった。
僕からの電話の通知が映し出されていて、彼女のホーム画面に目が止まった。
僕と二人で出かけた時にキキさんの無理矢理撮ってきた、二人が映っている写真が設定されていた。
唇をぎゅっと噛み、震えは止まらないままだったけどなんとか立つことに成功し、キキさんの元に駆け寄った。
椅子を立ててその上に乗り、彼女の首に巻かれていた紐に向かって手を動かした。
解いている間、キキさんの顔を近くで見ると涙が流れた跡があった。
...絶対に助けるんだ。
あの頃みたいに泣いてばかりで、誰かの助けを待っているなんてもう嫌だ。
うずくまって向き合わないなんて絶対に嫌だ。
紐を解くとそのままキキさんの体を掴んで、彼女が落ちて怪我をしないように抱き抱えて下敷きになった。
はあ...はあ...解けた..。
スッと体を起こしてキキさんの頭を膝に乗せた。
「キキさん...どうして...。遅くなってごめん...」
返事をしないキキさんの体を起こしてそのまま両手で体を優しく覆った。
「ごめん...。本当にごめん...」
彼女には聞こえないと分かっていても、思っていることを言葉にして吐き出した。
「僕のことを助けてくれてありがとう。おかげで母さんとも打ち解けたんだ。キキさんは知っていたんだろうけど、僕本当に苦しくて誰のことも信用する事ができず、堕ちた人生を歩いていた。自分でも終わった奴だって思って、そんな自分も仕方ないって諦めてたんだ」
僕はキキさんを抱きしめながら今までの思いを綴った。
「でもキキさんと出会って徐々に変わっていったんだ。キキさんのこと母さんから聞いたよ。あの時の子だったんだね。高校で僕を見かけた時に変わり果てた姿にビックリしたろ。僕のことを母さんから聞いていたって知った時は僕も驚いたよ。親戚や僕のことを知った人たちはみんな可哀想な奴だって目で見るんだ。でも...。それでも僕を可哀想な奴だって知りながらもそんな事思わせずに僕をいろんなところに連れていってくれたよね。本当に感謝してる。ありがとう」
少し遅かったけど、ありがとうとキキさんに言うことができた。
「それとね...」
このままもっとキキさんに話しかけようとした時だった。
耳元で鼻を啜る小さな音が聞こえた。
「キキさん...?」
その音は間違いなくキキさんから聞こえていた。
キキさんを抱きしめていた手を解き、彼女の顔を確認しようとしたが、彼女は僕の体を両腕で強く抱きしめて確認することが拒んだ。
「良かった...。キキさん。間に合って本当に良かった...」
僕は解いていた腕でもう一度キキさんの体を抱きしめた。
「続けてもいい?」
僕がそういうとキキさんは無言で頷いた。
「キキさんと出会っていろんな感情を思い出したり、貰ったりしたんだ。君を嵌めようとする奴に対する怒り、君が誰かと話している姿に嫉妬なんかもして、誰かと一緒にいることが楽しいって思ったり、早く会いたくなったり、寂しかったり心配したり、ありがとうって思ったり...。キキさんに会わなかったらきっと僕は心を閉ざして、母さんとも会わなくて、生きることに必死になってなかったと思う」
僕は優しくキキさんの肩を掴んだ。
彼女の腕はさっきとは違って簡単に解くことができて向かい合わせになった。
彼女はボロボロと涙を流しながら、潤んだ瞳で僕を見つめていた。
僕も彼女と同じように涙を流していたが、少し口を窄めて笑顔で彼女の瞳を見た。
「でも今はてつやみたいな友達もいる。それに、目の前に大好きな人もいる。大好きで放っておけなくて、絶対に守ってあげたくなって、ずっとこの先も一緒に生きていたい人が目の前にいる。全部ききさんのおかげ。ねえ、大好きだよ、キキさん」
あんなに伝える事ができなかったキキさんへの想いを、今になってやっと伝える事ができた。
この言葉を言うのにどれだけ長い時間を無駄にして、自分が大嫌いになって、どれだけ彼女への想いが増しただろう。
数日前までの自分が遥か後ろにいるように感じた。
「待たないでって言ったのに...」
キキさんが今日初めて言葉を発した。
少しだけ驚いたが、それよりも彼女が生きてるって感じる事ができた喜びの方が大きかった。
「うん。待つなって言われたから会いに来たんだよ」
キキさんは僕の解釈を否定しなかった。
「私のこと嫌いになったでしょ?私、...死のうとしてた」
キキさんは俯いてそう尋ねた。
「僕もあるよ」
僕がそう言うとキキさんは俯いた顔を少し上げた。
「何度も繰り返した。でも今はここにいる。だから落胆なんかしないよ」
キキさんは今、暗い闇の中にいる。
これからどうしていいのか分からないのだ。
かつての僕のように...。
「私、うつ病なんだ。私といても迷惑ばかりかけちゃうよ。唯斗くんが一番わかるでしょ」
彼女はまた俯いた。
「ねえ知ってる?うつ病って症状が軽くなっていくだけでなくならないの。何かあればそれがきっかけでまた再発してしまうんだって...。完治なんてないんだって」
彼女は涙をポタポタと流していた。
「私、お母さんの気持ちがわかるの。誰かに迷惑をかけたくないから生きることに絶望して、この世を去ってしまいたくなってしまう気持ちが...。私はせっかく癒えた心の傷をまた唯斗くんに与えてしまったもの。迷惑でしかないよ、こんな女」
キキさんは止まらなかった。
「医療では無理なの。カウンセリングをしてお薬をもらって終わりだもん。その薬は結局は緩和剤みたいなものなの。心の病気は医療では治せないんだよ。ずっと怯えながら生きていくしかないんだよ。それが爆発するともう取り返しがつかないことになってしまう。我慢すればするほど被害者が増えていく一方なの。もう....どうしようもないの....」
キキさんの口調は強さを増していた。
僕はキキさんをとめるように問いかけた。
「ねえ、なんで僕なんかのために芦間高校を志願したの?」
キキさんは少し間を開けてこう答えた。
「唯斗くんには小さい時に助けてもらったんだ。うつ病を診断されて少し経った時に病室で唯斗くんのお母さんが置いてある写真を見つけたの。それを見たときにすぐにあの時の子だって分かった。記憶に残ってたからね。その写真がきっかけで良く唯斗君の話を聞いてた」
ここは母さんから聞いていた通りだった。
「話の中で唯斗くんのお母さんが唯斗くんにしてしまった事を聞いたわ。すごく反省していた。そして最後にあなたを助けるために自殺を図ったことも言っていたわ。でもああするしか無かったんだっていうのも理解ができた。それでも唯斗くんはすごくトラウマになっているとも言っていて、話しながらあなたのお母さんが泣いていたのを今でも覚えている。きっとあなたのお父さんから聞いたのね」
キキさんは一度鼻を啜ってから話の続きをしてくれた。
「唯斗くんのお母さんはあなたがうつ病を発症しないかすごく心配していた。ひどいことばかりして、最後にトラウマの根源になってしまった自分の所為でうつ病を発症してるんじゃないかってね。唯斗くんのお父さんから聞くにはかなり危ない状況だけど、今は勉強に専念していると言われたそうよ。そこで私は唯斗くんとお母さんとの誤解が解ければ唯斗くんのトラウマは消えていくと思ったの。うつ病の苦しさは味わってほしく無かったから...」
その後は高校生活での行動の経緯を話してくれた。
「サッカーが大好きだったけど、お母さんとの一件があって辞めてしまったことを聞いた私は、サッカー部に入部して貰えるように行動をした。勝手に入部届を出したりしてね」
キキさんは天性の天然ではなかった。
天然なところも多少はあるが、そうでない部分もあったのだろう。
だが、それも薄々気が付いていた。
「やっぱりそうだったんだね」
「だから部活を辞めるって聞いたときは本当に悲しかった。せっかく大好きなサッカーをまた始めてくれたのにって...。でも唯斗くんがしたいことを応援しようって思った」
本当の理由は別にあったが、その件に関しては気が付いていなかったみたいだ。
「ねえ、キキさん」
「どうしたの?」
「どうして芦間高校に入学をしたの?」
キキさんは同じことを聞かれて首を少し傾げた。
「だからそれは...」
「僕を助けるため?」
「そうよ。お母さんからも聞いたでしょ?」
聞いていた。
確かに母と会話をしたときに聞いていた。
でもその理由はキキさんから直接聞いてはいなかった。
「それだけじゃないでしょ?」
「今度はなに?」
「どうして本当のことを言わないんだよ」
キキさんは少し戸惑った表情をしていた。
「確かに助けられたよ。さっきも言ったとおり僕を変えてくれたのはキキさんだよ。でもそれだけじゃないだろ...」
キキさんは黙っていた。
僕は、そんなキキさんに向かって訴えた。
「自分も助けてほしいからこの芦間高校に来たんじゃないの!?」
「家族を一人失うに似た経験をした僕に会えば、なにか自分の中できっかけになるものが生まれるんじゃないかって期待を抱いてきたんじゃないの!?」
キキさんは声を荒げた僕に対して反発するかのように言い返した。
「私がそんなこと一回でも言った!?勝手に決めつけないでよ!」
「言ってないよ。言ってないから腹が立ってるんだよ。じゃあなんでマネージャーとしてキキさんは入部したの?僕を部活に入れるためならマネージャーなんてしなくてもよかったよね?」
キキさんはすぐに言い返してきた。
「それは唯斗君を部活に入れるためだったんだから仕方ないでしょ!」
「ならすぐにやめることもできたよね?辞めなかったのは何で?てつやが言ってたよ。僕を待ってるって。その待ってるって”助け”をって意味だったんだよね...?」
キキさんは言葉に詰まったのか、目線を横に持っていき、必死に言葉を探している様子だった。
「高田からも話を聞いたよ。キキさんが学校に来なくなったけど突然来るようになって僕のことを言っていたって。その時キキさんの笑顔を見たのが久しぶりだって言ってた。それは希望を見い出したからだよね。助ける予定の人が決まっただけで笑顔になるわけないよね」
僕も彼女という希望の光が見えて笑うことができた。
きっとそれは彼女も同じだったんだ。
それでもキキさんは黙り込んでいた。
「ドアの鍵だって開いてたよ。女の子が一人で住んでいるのに鍵もかけないでいたよ。待っててくれたんでしょ。誰かの助けを...」
キキさんはそのことを聞くと重たい口を開けた。
「そうだよ...。全部唯斗君の言った通り...。でもね、もう無理だよ」
「...なにが無理なの?」
彼女の止まっていた涙がまた溢れだした。
「治んないんだもん。唯斗君に会って、不思議だけど収まっていたから安心していたの。でもお母さんがいなくなってからまた震えが止まらない。治ることはないんだよ。うつ病って」
彼女の心の叫びは痛いほど身に染みた。
「だから私は救われなくとも、唯斗君を救えて本当に良かったと思ってる。それだけでも頑張って生きていてよかった...」
違うんだ。
それだけじゃないんだよキキさん。
キキさんに救われたことは言ったけどそれもまだ一部に過ぎないんだ。
母さんやキキさん、父さんにも言っていないことがあるんだよ。
キキさんの心の叫びを聞いても、なんとか抑えていた涙が僕の意思とは反して頬を伝っていた。
「泣かないで、唯斗君。私は助かるとかそんなんじゃなかったの。最初から。でも本当に唯斗君に会えてよかったよ。だから泣かないで...。お願い。このままいかせて欲しい」
キキさんは自分の涙を拭こうともせず、僕の頬に手を当てて涙を拭こうとしてくれた。
そんなキキさんの手をしっかりと掴んだ。
「なんでそんなこと言うんだよ...。なんで諦めるんだよ...。治るんだよ。うつ病だって」
「ごめんね。励ましてくれてるんだね。優しいね、本当に」
掴んでいた彼女の手が震えているのが伝わった。
その震えを止めるかのように、それと覚悟を決めるかのように、僕は少しだけ強く握りなおした。
「僕も、うつ病だったんだよ!!」
涙を流しながら訴えた僕を見て彼女は眼を見開いていた。
「え...。そんな...。嘘だ...」
「嘘じゃないよ。母のことがあって僕はカウンセリングを受けてたんだ」
「それは聞いていたわ。でもあなたのお父さんは先生から何も聞いていなかったわよ?」
僕は蓋をしていた過去を開けて、当時のことを語った。
ーーーカウンセリングを受けていたある日。
「唯斗君、落ち着いて聞いてほしいことがある」
先生はすごく張り詰めた表情で僕にそう言った。
でも何を言われるのかは大方の予想はついていた。
「大丈夫ですよ。もう自分でも気が付いています。...僕もうつ病なんですよね?先生、父には内緒にしてもらえませんか?母のこともあったので...」
先生は僕が気づいていたことに驚いていたが、約束をするかのように、見つめながら小さくうなずいた。
「でも、まだ初期段階だよ。ここからしっかり療養に専念すれば大丈夫だから」
僕は母が一度目に家を去ったときにうつ病について調べていた。
だからうつ病が完璧には治らない厄介なものだということも知っていた。
だから先生の言っていることは、励ましだという事はすぐに気が付いていた。
母が首を吊った日、泣き叫ぶ中で僕の中の何かが壊れた音がした。
ある程度落ち着いてから、携帯でできるうつ病診断をしてみたのだ。
結果はうつ病。
信じられずにたくさんのサイトを駆け巡って、色々なうつ病診断を受けてみたが、結果はどれも同じだった。
父さんに連れていかれて、カウンセリングを受けることになった僕は、先生にうつ病の診断を頼んだのだ。
ネットで受けた結果しか見ていなかったので、病院の先生に診断のお願いをしてもらうときはとても怖かった。
それ結果を聞いてしまうことは、最後通達でもあったからだ。
淡い期待を祈っていたが、結果は僕が見てきたものと全く同じ。
うつ病、そう診断された...。
それからは酷かった。
自分は壊れていく一方で、非行に走る日々を送った。
思えば母もこんな気持ちだったのだろうか。
自分は変わらないのに周りはあっという間に変わっていく。
人も風景も時代も。
取り残されて誰かの助けを待っていた。
それでも助は来ず、何かを傷つけているのにそのすべてが自分に返ってくるように痛かった。
警察のお世話にもなり、父が何度も頭を下げている場面を見ていた。
生きていても迷惑になり、生きる目標もなく、希望もない僕は、何度も自分の首に縄を通しては怖くなって、そんなこともできないのかと誤った自分への𠮟り方をしたこともあり、そんな夜が来ては隠していた睡眠薬を摂取して眠りについた。
その後はこんなことをしても何にもならないとが馬鹿馬鹿しく感じて、怖さ、憎さ、不安、そのすべてを勉強に当てて高校に入学をした。
高校に入学をしてからも父には内緒でカウンセリングに通って、先生とは高校の話をしたりしていた。
キキさんの話を主にしていたが、初めてキキさんの話をしたときに、先生が僕を見て唖然としていたのを今でも覚えている。
どうしたのか聞くと、初めて笑っているところを見たから驚いたといわれたのだ。
それからはカウンセリングというよりは、先生にキキさんのことを話しに行くような感覚で病院に通っていた。
とある日、先生にもう一度診断してみないかと話を持ち掛けられて、僕は承諾をした。
「唯斗君。もう君はとっくに大丈夫だと思うよ」
「大丈夫って何のことですか?」
「お母さんのことを考えると首が閉まる感覚がすると言っていたよね」
「....はい」
「痛みが伴う分、厄介ではあったけどあとはその問題だけだよ。その痛みを直すのが何なのかは正直わからない。時間なのか、人なのか。でもそれさえクリアすれば完治なんだ。」
僕は少し苦笑いをして先生にこう言った。
「先生。実は完治しないって知ってるんだ」
先生は漠然とした表情で僕を見ていた。
「するよ。唯斗君。完治はする。完治をした人は少なからずいるんだよ」
先生は僕にそう訴えた。
「正直な話をしよう。病院では限界があるよ。軽症化することしかできないかもしれない。でも僕は、最後まで患者さんに寄り添って奥さんを完治させた夫婦を知っている」
先生はまっすぐな瞳で僕の目を見つめていた。
「生活習慣がトリガーにはなりうることもあるが、うつ病のすべては人によるものが原因だよ。再発だなんて言葉を使うからよくないんだ。一度治った。でもまたかかった。その原因は決してその人じゃない。その夫婦はどうやって完治をしたのかって思うよね」
僕は小さな声で”はい”と言った。
「幸せを見つけたんだよ。でもその幸せは人によって大きく違う。何かを成し遂げたい、どこかへ行きたい、誰かと一緒に生きていきたい。どれが自分の本当に望んでいるものなのか、それを見つけるのに時間がかかるんだ。近くにあったものがそれだって気が付く人もいれば、新しく出会ったものがそうった事例もある。でもそれは人によってしか見つけることしかできない」
その後も先生は話を続けた。
「僕たちカウンセラーはよく患者さんに趣味を見つけなさいと言うんだ。これは何かに熱中してうつ病のことを考えさせないようにする目的もあるんだけど、本当は何かしたいと思ってもらえような引き金になればいいと思って勧めているんだ。それが幸せに繋がればいいと心から願ってるんだ」
先生は少し悲しそうに俯いてこう続けた。
「うつ病ってね、優しい人がなりやすいんだよ。人に気を使って、我慢して、自分より誰かが幸せになればって思ってる人ほどうつ病になりやすくてね..。弱って迷惑をかけたくなくてこの世を去る選択をする人も少なくはない」
先生は遠い過去を見ているようだった。
先生ももしかしたら近い人で鬱に悩んだ人がいたのだろうか...。
「鬱になるまで人に優しくしたのに、鬱になった人を世の中は慰めもしない。慰めることがあってもその時にはもうその人がいないことのが多い。優しい人が損をするのが大嫌いでね。患者さんには自分の幸せを優先してほしいんだ。患者さんの周りの人もそれに応えてほしい。したいことができないのに理由があるのなら一緒に立ち上がってほしい。見捨てないであげてほしい。諦めないでほしい。鬱は決して人生の終わりじゃない。そう伝えたくて...そんな人を一人でも多く助けたくて、僕はカウンセラーになったんだ」
先生は椅子をキイっと音を立てて僕のほうに近寄り、手を握った。
「これがしたい、まだ諦めたくないって思うのはその人自身だけどね、自分で見つけられなくてもいい。誰かのおかげで、誰かが理由でもいいんだよ、唯斗君」
「その幸せが叶えられなかったら僕たちはどうすればいいんですか」
先生は僕の捻くれた質問にも笑ってこう返した。
「じゃあまた探しなおしだね」
「幸せって、そんなとっかえひっかえでもいいんですか?」
不思議そうな顔で先生は僕を見つめていた。
「ダメなの?幸せは決して一つじゃないよ。だめならこれ。叶えば新しいものがきっと欲しくなる。幸せってそんなもんだよ」
先生はとどめを刺すかのように僕にこう続けた。
「唯斗君が話してくれた”光”。つまりはキキちゃんだったかな?」
僕はキキさんのことを暗闇から引っ張ってくれる光だと称していた。
「その光はね、君が見出したものだよ。君がその子を光にしたんだ。君自身が光だと、その子を選んだんだよ。唯斗君は心のどこかで諦めてなかったんだよ。強く生きようとしていたんだ。そう思うことで光を見つけれたんだよ」
先生から言われたことは僕をはっとさせた。
「...うつ病は完治するって話、信じてもいいですか?」
「うん。うつ病は完治する。僕の医者人生をかけるよ」
このすべてをキキさんに打ち明けた。
「唯斗君はもう首の症状は治ったの?」
僕は彼女の目をしっかりと捉えてうなずいた。
「キキさんのおかげだよ。もう痛みを感じることはない」
そのことを聞いてキキさんは安心した様子だった。
「キキさんも完治するんだよ。僕は絶対にキキさんを見捨てたりしない。一人になんかしない」
僕は先生がしてくれたようにキキさんの手を優しく掴みなおしてそう言った。
「唯斗君の見つけた幸せは何だったの?」
ここまで話をして気が付いていないキキさんに突っ込みを入れたくなったが、それがキキさんらしくてなんだか嬉しかった。
「キキさんといることだよ。キキさんが大好きなんだ。キキさんがいてくれないと嫌だよ」
キキさんは涙を流しながらも少し顔を赤らめていた。
「でも、私じゃなくても見つけられるんでしょ?」
それでもキキさんは食い下がらなかった。
「ううん。キキさんがいいんだ。キキさんじゃないと嫌なんだ。キキさんが嫌なら仕方がないけど...」
キキさんは僕の手を解いた。
ダメか...。
「ううん。嫌じゃない。私も...私もずっと好きだった」
そう言って僕の手を優しく掴みなおした。
キキさんからの言葉を聞いて本当に息が止まるほど嬉しかった。
叫びたいほどに嬉しかったが、ぐっとこらえているとキキさんは手を強く握った。
「唯斗君はいなくならない?」
その表情は今までに見たことがないくらい儚かったが、眼差しは強かった。
「いなくならないよ。キキさんがいてくれれば僕は幸せなんだ」
そういうと次は、見たことのないくらいの笑顔でこう言った。
「私の幸せももう見つかってたよ。だってこんなに嬉しいんだもん」
涙が悲しくて流れているのか、嬉しくて流れているのか、もう分からなくなっていた。
涙を流しながら二人で見つめあい、お互いがお互いを求めるかのように目を見つめながらキスをした。
初めてのキスはレモンの味だと聞いていたけれど、涙の味がした。
「顔赤いよ」
僕がデリカシーのない発言をすると、彼女も笑って言い返した。
「唯斗君もね」
二人でくすっと笑った後、今までの出来事を思い出し、すべて洗い流すかのように二人で涙を流しながら抱きしめ合った。
僕が泣き止んだ後もキキさんは泣いていて、僕は彼女の頭を撫でながらすべて流しきるまで彼女を抱きしめながら待ち続けた。
キキさんは落ち着いた後に今回の事を話してくれた。
首を吊ったのは僕が到着する少し前だったみたいで何とか一命を取り留めたらしく、一応病院に行くことを進めたが、本人が大丈夫だと押し切るので彼女の家で安静を見届けることにした。
「ねえキキさん。迷惑でなければでいいんだけど、今日は一緒にいてもいい?」
彼女はもう大丈夫だと信じていたが、あんなことがあった後だったので、心配になった僕はキキさんにそう尋ねた。
「うん...。一緒にいてほしい。この家には私しかいないし大丈夫だけど、唯斗君こそ大丈夫なの?」
「うん!気にしないで、僕ん家は大丈夫だから」
「...ありがとう」
彼女は申し訳なさそうな表情だったので、僕は大丈夫だという意味で軽く微笑んで彼女の頭を少し撫でた。
父さんに今日は友達の家に泊まると連絡をすると、すぐに”了解”と返事が来たのでそのことをキキさんに伝えると彼女はどこか安心したような表情をしていた。
「あ...」
彼女が何かを思い出したかのようにぼそっと呟いた。
「どうかした?」
そう僕が聞くと、彼女は壁に立掛けられたカレンダーを見ていた。
「明日学校だけどどうするの?」
そういえばそうだった...。
学校に登校するのなら一度準備をしに家に戻らなければならないが、今は彼女の傍を離れたくはなかった。
「キキさんはどうするの?」
「うーん...。早く学校に行ってれなにも会いたいけど、明日も休もうかな。火曜日から行こうと思う」
「じゃあ僕も休んじゃおっかな」
「え、だめだよ。唯斗君はちゃんといかなくちゃ」
「たまには休んでも誰も文句言わないよ。バイトもないし、それに...。」
「それに?」
彼女は首を傾げながら僕のほうを見つめていた。
「久しぶりにキキさんと会えて嬉しいんだ。だから今は一緒にいたい」
僕がそう言って彼女のほうを見ると目が合ったが、彼女はすぐに目を逸らして髪の毛をくるくると触りながらこう言った。
「まあ、そう言うなら...」
その姿があまりにも可愛くて堪らなかったが、これ以上何かを言うと怒られそうな気がしたので”ありがとう”とだけキキさんに伝え、その場を終えた。
その後、コンビニに夜ご飯を一緒に買いに行き、キキさんの家に戻ってご飯を食べた。
お弁当を食べているキキさんの手が急に止まって彼女の手を見たが震えているわけではなかったのでどうしたのと尋ねると、彼女は持っていたお箸を置いた。
「この家で誰かとごはんを食べるのはいつぶりだろうって考えてた」
父親は幼い時に無くし、退院してからは母親とも会えず、おばあさんは介護施設に入っていたからずいぶん長い間この家に一人で住んでいたのだろう。
僕なんかじゃ想像もつかないほどに寂しい想いをしてきたんだろう。
「キキさんさえよければいつでも来るからね」
僕がそういうとキキさんはお箸を持ち直した。
お弁当を顔の近くまで持っていき、下を向きながら箸を進めていたが次第に涙がぽたぽたと流れ落ちていた。
「キキさん...」
心配になって思わずキキさんの名前を小さく呟くと、彼女はそれに気が付いたのか顔を横に振った。
「違うの。なんだか温かくて...。ありがとう...唯斗君」
僕らは何も会話をせずお互いがお互いのペースでご飯を食べ終えた。
そのあとはお菓子を二人で食べながらテレビを見て、学校の授業は今何をしていて、最近起きたしょうもない話をしたり、キキさんが学校に来なくなった前と変わらない温度感で会話をしていた。
二人で話をたくさんしていると、キキさんが時計をちらっと見た。
「もう21時だ。お風呂先入る?」
キキさんは当たり前のように僕にそう尋ねてきて、思わず飲んでいたジュースを吹き出しそうになった。
「いや、僕はいいよ。着替えもないし...」
「お父さんの服とか捨てずに全部残してあるから、それ着ればいいよ」
お風呂には入りたいけど、実はキキさんの家にいるだけで緊張をしていて、キキさんがいつも入っているお風呂だと想像をすると気が持たなかった。
「いや~...。やっぱり今日はいいかな...」
彼女は僕の話を無視して引き出しからパンツと寝間着を僕に投げつけた。
「この後一緒に寝るんでしょ...。お風呂入らないと、ほら...。私は先入るからね!!」
彼女は顔を真っ赤にしながらドアをいきおいよく閉めた。
僕はぽかんとしながらも、キキさんの言ったことを思い出して困惑していた。
”ほらってなに!?
一緒に寝るって布団別だとおもってたけどそうじゃないのか!?
いやでも好き同士だし別におかしくもないものなのか...?
というか、好きだと伝えたけどこれは付き合っているということでいいのか?
ちゃんと口にして言ったほうがいいよな...?
いくら何でも順序があり、付き合ってからだよな...。
そして、付き合って一日目でするものなのか?
本当にキキさんがなにを考えているのか分からん!!”
頭が追い付かずあたふたとしていると、キキさんがお風呂から上がって部屋に入ってきた。
「え、早くない?」
「そう?30分くらいだったけど」
時計をちらっと見ると21時半を少し過ぎていた。
僕の落ち着きがなかったせいで時間感覚がおかしくなっていたのか。
「ほら、唯斗君も早く入ってきて...」
彼女はお風呂上がりだからなのか、さっきより顔を赤くしていた。
彼女の幼くていつもとは違う可愛さのあるすっぴん姿と、少し濡れた髪や寝間着姿に思わず目が点になっていると視線を感じたのか顔を両手で覆った。
「すっぴん不細工でしょ...。恥ずかしいからあんまり見ないでよ...」
「ううん。凄くかわいくて...」
思わずそう言ってしまうと、彼女は指の隙間から目を出して僕のほうをちらっと見た。
「ほんと...?」
「ほんとだよ」
「...ありがとう」
彼女は小さな声でそう言った。
「ねえ、ききさん」
「今度はなに?」
「きちんと言っておきたいことがあるんだけど...」
そういうと彼女は覆っていた手をどけて僕の横に座った。
「なに...?」
彼女は首を少し傾げて、改まった僕を不思議そうに見つめていた。
お風呂上がりのいい匂いがしたり艶やかな肌が近く、僕は無様にも顔を真っ赤にしてしまった。
「雰囲気作ったりするほど慣れてなくて...ごめん。恥ずかしいけど回りくどいことは嫌だし、きちんと言葉にしてキキさんに伝えたいことがあります...」
彼女は何を言われるのかを悟ったのか、一度ゆっくりと瞬きをした後、しっかりと僕の目を見つめながら”はい”と言った。
「キキさんが大好きです。ずっと一緒にいたいです。臆病で意気地なしでダメな僕だけど、絶対にキキさんを大切にします。それだけは約束できます。僕と付き合ってください」
僕の雰囲気もない告白に対して彼女は笑わずに最後まで僕の目を見つめながら聞いてくれた。
「返事はじゃあ、唯斗君がお風呂に入ってからするね」
彼女は意地悪な顔をしてそう言ったので、恥ずかしさが絶頂に達した僕は、顔を真っ赤にして”はい!”と勢いよく返事をし、お風呂に入った。
シャワーを浴びているときも恥ずかしさが消えることはなく、叫びたい気持ちになったが必死に堪えて体を洗うことだけを考えた。
お風呂を上がるころには恥ずかしさは消えていたが、胸がずっとドクドクと鳴っているのが伝わった。
ただ、なんでこんなことを言ってしまったんだという気持ちは全くなく、言えたことへの清々しい気持ちで満たされていた。
キーー。
お風呂から上がり、キキさんの部屋のドアを開けると電気が消えていて真っ暗だった。
「キキさん、お風呂ありがとう。上がったよ」
すると奥のほうで携帯の画面から出る光が急に現れた。
「お帰り!こっちだよ~」
彼女は携帯を振って位置を知らせてくれた。
「これが唯斗君の枕ね」
すでに横になっていた彼女はポンポンっと枕を叩きながらそう言った。
本当に一緒の布団なのか...。
嬉しいけど緊張のが大きいな...。
「入っていいよ」
布団をかぶりやすいように片手で持ち上げ、僕が入るのを待ってくれた。
「...ありがとう。お邪魔します」
今、僕は彼女と一緒の布団で横になっている。
緊張で潰れてしまいそうだった。
しばらく無言の時間が続いた。
目が暗闇になれたのか仰向けで天井を見ていると消灯した電気や周りの壁がうっすらと目視できるようになっていた。
「唯斗君」
横で寝ているキキさんが僕の名前を呼び掛けた。
「どうしたの?」
「さっきの返事してもいい?」
唾をごくりと飲み込んだ。
「うん」
「...こちらこそよろしくお願いします」
その一瞬、彼女は声を小さくしていたが、周りから出る雑音がすべて止まったかのように、しっかりと彼女の言葉が耳に入ってきた。
僕はキキさんの方向へ体を動かすと、キキさんはすでに僕のほうを向いていて向き合う形になった。
「大好きだよ、キキさん」
「私も大好きだよ、唯斗君」
暗闇の中お互いが見つめ合って言葉を交わし、お互いが惹かれ合うようにキスをした。
「初めてだから優しくしてね」
彼女はそう言って体を委ね、僕たちは重なり合った。
朝、目が覚めると彼女の顔がそこにあった。
見慣れない部屋に一瞬ここはどこだろうと戸惑いを感じたが、すぐに昨日のことを思い出し状況を把握した。
目が覚めて隣にキキさんが居ることが嬉しく感じたが、夜のことを思い出して恥ずかしさが後からやってきた。
そんな恥ずかしさを紛らわすために携帯を開くと、時刻は12時を過ぎていた。
そんなに寝ていたのか...。
昨日は本当に色々なことがあった。
涙もいっぱい流したし、疲れているんだろう。
彼女の寝顔が本当にかわいくて、このままずっと眺めていたいけれど、目を覚ますとお腹がすくだろうからなにか用意しておこう。
起こさないようにそっと立ち上がって、起きていないかキキさんのほうをもう一度確認をした。
あまりにも無防備な姿にくすっと笑みがこぼれた。
きっとバレたら怒られるんだろうけど...。
それでも今見えているものをどうしても残しておきたくて、携帯のカメラで思わず彼女の写真を一枚撮って保存した。
――それから一時間後。
「ご馳走様!本当においしかった、ありがとね!」
彼女は僕が作ったご飯を残さずに食べた。
彼女は僕が作った味の保証もないご飯を本当に美味しそうに食べてくれて、その表情を見れただけでも幸せだった。
「今日は家にいる?」
キキさんは外に遊びにいくことができていなかっただろうと考え、どこかに行きたいところはあるかという意味で尋ねた。
「唯斗君が良ければ行きたいところはあるんだけど...」
少し僕の顔色を窺ってそう答えたキキさんに対して僕は頭からハテナを飛ばすように首を傾げた。
――ガチャン。
「あら、キキちゃんも来てくれたのね。いらっしゃい」
僕は母の病室にキキさんと来ていた。
キキさんが僕の母のところに行きたいと言い、それを断る理由ももう無くなった僕は、二つ返事で行こうと言って今に至る。
「こんばんわ!」
キキさんが元気よく挨拶をし、二人の雰囲気間を見るに、やはり母とはかなり長い付き合いのようだ。
「二人とも昨日ぶりよね。ありがとうねキキちゃん。あなたのおかげで唯斗ともう一度話をすることができたと思っていて、本当に感謝しているの」
「いえ。私も唯斗君に助けてもらってばかりなので」
母はじっとキキさんの顔を眺めた後、僕のほうをチラッと見てにっこりと笑った。
「自慢の息子だもの」
母に頑張ったねと言われているような気がして、僕はうんと頷いて見せた。
「それより、今日は二人揃ってどうしたの?」
キキさんは思い出したかのようにアッという表情をした。
「実は、唯斗君と..」
「付き合ったんだ。昨日キキさんに告白をして付き合ってもらったんだ。そのことをキキさんが報告したいって言って来たんだよ」
母は驚く素振りを見せず、僕とキキさんの顔を交互に見て微笑んで見せた。
「そう。二人ともお似合いだわ。お互いが両思いだったものね。良かったわ」
両想いという言葉を聞き、お互い顔を赤らめながら目が合ってすぐに逸らした。
「二人にも私から報告があるの」
僕は突然の母からの報告宣言に唾をのんだ。
「どうしたの?」
「実はね、まだ時間がかかるかもしれないけれど退院の目途がたったの。体の休養は足りていたし、心の休養はキキちゃんと唯斗からもらったから」
心の休養?
僕はなにかした覚えはなかったが何のことだ?
「うつ病のきっかけは職場でのストレスなの。唯斗が生まれたときにはすでに限界を迎えるところだった。でもあなたの顔を見ると頑張れたの。それでも限界をとうに越してしまってうつ病を患った。あなたには勘違いさせてしまったと思うわ」
憶測でこうだと決めつけていたところはあったけど、母のうつ病のきっかけについては聞いたことはなかった。
生まれた時期からおかしくなっていたと思い、理由は僕だと決めつけていた。
母はかなり前から自分自身と戦っていたのか...。
「職場から離れて身体的には回復をしたけれど、唯斗に大変なことをしてしまった罪の意識から病気がよくなることは無かったわ。でもあなたが私を許してくれて、またこうして会いに来てくれたお陰で幸せなの。見る見るうちに良くなっていくわ。だから二人ともありがとうね」
「私はそうなるんじゃないかと思ってました。本当に良かったです!」
キキさんは母の回復も願っていたのだろう。
その言葉はまっすぐでずっしりとしていた。
「母さん良かったね。母さんが頑張ったからだよ」
母さんはうっすらと涙目になっていて、本当にうれしくて安心しているのが伝わった。
「せっかく来てくれたのにこんな話をしてごめんなさいね。母さんは二人が会いに来てくれただけで嬉しいから、二人の時間を大切にしなさい。親なんて二の次でいいのよ」
行こうかとキキさんとアイコンタクトを交わし、二人で同時に立ち上がった。
「また来ますね!」
キキさんは笑顔で母に手を振り、病室を出た。
それに続いて僕もドアノブに手をさしかけたところで、母が僕の名前を呼んだ。
「唯斗、キキちゃんはもう大丈夫。昨日とは顔つきが違うわ。間に合ったのね」
僕は振り返ろうとしたが母はそれに気が付いて止めた。
「そのままでいいわ。あなたばかりに頑張らせてしまってごめんね。それだけ唯斗に伝えたくて。キキちゃんが待ってるわ。行ってあげなさい」
僕はドアノブを握る手に力をぐっと入れた後、すぐに力を抜いた。
「母さん。正直に言うとね、今までしんどかった。でも過去があって今があるなら僕は、その過去も必要なものだったのかもしれないと思ってる。キキさんと幼い時に出会ったことも、母さんとの事がなければその時は訪れなかった。そんなキキさんのおかげで今では母さんとも会えてる。だからいいんだ。遠回りをしたのかもしれないけど、いまが幸せだから。だからもう謝るのはやめてほしい」
「そう...。最後に一つお父さんから唯斗のことを聞いていたり、今の唯斗を見て謝りたいことがあるの。それで最後にするわ」
母さんは少し間を開けて小さく深呼吸をする音が後ろから聞こえた。
「大人にさせてしまったね。もっと違う経験を積んでそうなってほしかった。まだ年も全然なのに無理やり大人にならないといけない状況にさせてしまったことを反省してる。もっと周りの子たちみたいに青春を謳歌したかったよね。本当にごめんなさい」
何も気にしないで遊んでいたかった。
ずっとサッカーをしていたかった。
良いことをしたら褒めてほしかったし、悪いことをしたら叱ってほしかった。
辛い表情をすると家の人たちが困ると気が付いてからは、大丈夫なふりをしていたけど、なんで自分だけなんだって駄々くらいこねたかった。
なんの疑いもなく人に接していたかったし、落ち着いた雰囲気を出すんじゃなくてもっと無邪気でいたかった。
それでも、僕は僕で良かった。
「母さん、僕は大人じゃないよ。いつまで優しい父さんと母さんの子供だよ...。じゃあ、またね」
母さんからの返事は聞かず、僕はキキさんの後を追うように病室を後にした。
病室を出るとキキさんは扉の外で静かに待っていた。
「もういいの?」
「うん。ありがとう。また会えるから。もういいんだよ」
キキさんは僕を見つめてゆっくりと瞬きをしながら優しくうなずいた。
「そうだね。じゃあ行こっか」
キキさんと僕は二人で手をつなぎながら廊下を歩いた。
キキさんは病院で過ごした時間があるからか、たまに懐かしむような表情で自動販売機を見たり、カウンセリングルームを見たりしていたが、その度に僕のほうをチラッと見て微笑んだ。
きっと過去と今を比べているのだろう。
僕も遠く辛い過去を思い出しては節々に、キキさんのほうを見て微笑んだ。
「ねえ、唯斗君は私の事いつくらいから好きだった?」
「うーん。あの時には好きだったんだろうなと思うけど、益田に絡まれていた時からかも。なんか危なっかしいから、守りたくなっちゃうんだもん」
「あの時か!私は唯斗君のことを知ってるって隠していたけど、唯斗君の視点だとあまりお互いの事わかっていない状況よね?もしかして惚れやすいタイプ?」
今思えば確かに浅かったとは思うがどうしてあんなに気になっていたんだろう。
「もしかすると一目惚れかも..」
僕がそういうと彼女は足を止めた。
「どうしたの?」
そう言って振り返ると彼女は顔を少し赤くしていた。
「私もだよ」
ん?
一目惚れってこと?
でもそれって...。
「...いつの一目の話?」
彼女は止まっていた足を動かして僕の手を引っ張った。
「それは内緒!」
彼女はいたずらっ子な笑みを浮かべて僕のほうを振り返った。
その笑顔がとてもキラキラしていて、無意識に足だけが動き、彼女と横並びでまた歩き出した。
「でも、一つ教えておいてあげる」
彼女は僕のほうを見ず前を向いて歩きながらそう言った。
「この病院ってうつ病の重症患者さんが入院するところなの」
まあ母がいるくらいだからそうだろうとは思っていた。
前に母の病室を出たときに看護師さんが心配になって病室の外で待機していたし...。
「人と会うと何をするかわからないから普通のケガの人たちとは会わないよう決めた方針なんだって。そしてもう一つ、唯斗君はすでに聞いたのかもしれないけど、五年の間この病院で入院をするなら面会場でないと身内の人に会うことはできないの」
もちろんその話は父さんからも母さんからも聞いていた。
「私もその一人。病院の計らいで私はお母さんと同じ病室にしてもらったの。でも私は異例のスピードで病院を退院するにまで回復したんだ」
母と同じ重症者でそんな事可能なのか?
高田が言っていた感じ、キキさんが学校に来なかったのは数ヶ月程度。
僕でも軽症者の扱いだったのだからキキさんはもっとうつ病の症状がきつかったはずだ。
そんな僕でもうつ病の回復は数年を要していて、母は目処が立ったのはつい最近でそれまでに何年も経っていた。
なのに数ヶ月。
たったそれだけで...?
「あなたの話を聞いているだけで、この先が待ち遠しくなった。楽しみにしているだけで、私は重症患者から軽症になったんだよ。嘘みたいでしょ。だから唯斗君の言っていた先生から聞いた話、私は疑ってないよ。信じてる。幸せを願って自分も救われた一人だから」
僕もキキさんも、うつ病によって人生が変わった。
お互い親がうつ病を患っていて、親がきっかけとなりうつ病を患った。
その先は真っ暗で途方もない闇の中だったけど、二人が出会って大きく人生がまた変わった。
「唯斗君、明日から学校に戻るよ」
キキさんの顔つきは真っすぐで活力に満ちていた。
「本当に大丈夫?まだ休んでもいいんだよ?」
それでも無理をしていないか心配をしていた僕に対して、キキさんは微笑みながら顔を横に振った。
「一人だったらまだ無理だったかも。でもまだ唯斗君がいるって気が付けたから、大好きな人が私を見てくれてるから大丈夫。唯斗君も辛くなったらいつでも私を頼ってね。絶対に力になるから!」
「わかった。明日は学校で待ってるね」
うん!っとキキさんは笑顔で返事をして、二人は病院を出た。
その後、二人でご飯を食べて解散をした。
もう少しキキさんと一緒に居たかったが、彼女はおばあちゃんのところに行きたいからと言って二人は別れた。
日が落ちて夜に差し掛かる直前になって僕は家に着いた。
「ただいま~」
玄関で靴を脱ぎながらそういうとドタドタと僕のところへ走ってくる音が聞こえた。
「あれ、父さん。どうしたの?」
父が僕を出迎えてくれた。
「唯斗。母さんから連絡があったよ」
母さんとの仲が戻ったことを父に言うつもりだったが、先に母さんが話をしてくれていたのか...。
「ありがとうな唯斗...。母さんを許してくれて。今日も病院へ行ってくれてたんだってな。母さん嬉しかったのか、泣きながら電話をかけてくれたよ」
泣きながら?
会っていた時は泣いてはいなかったけど、我慢していたのかな...。
「また、父さんと一緒にお見舞いにでも行ってあげよう!きっと喜ぶよ」
父はボロボロと泣き出して僕をぎゅっと抱きしめた。
「辛い思いをさせちゃってごめんな...。本当にありがとう」
父の想いが伝わって涙がでそうになったが大人げなく泣いている父を見てくすっと笑いながら父の肩をさすった。
父が落ち着いてから母の病院に行った経緯について話をしたが母からすでに聞いていたのかすべて知っている様子だった。
それでも僕が母のことを話している姿が嬉しかったのか父は微笑みながら僕の話を聞いていた。
「じゃあもう寝るね。お休み、父さん」
かなり話し込んだせいで時刻はもう22時を過ぎていた。
「ああ、ありがとうな。話をしてくれて。ゆっくり休みなさい」
僕はコクっとうなずいて自分の部屋に戻ってベッドに横たわり、すぐに目を閉じた。
――翌日の朝。
「おはよう唯斗!昨日は学校休んでたけど大丈夫か?」
てつやは僕の顔を見ると近寄って心配をしてくれた。
「おはようてつや!大丈夫だよ。ちょっとさぼりたくなって休んじゃっただけだから」
学校の廊下でてつやとじゃれていると奥から高田とキキさんが話をしながら歩いてくる姿が見えた。
「キキ本当に大丈夫!?なんで連絡くれなかったの...?」
「すごく風邪が長引いちゃっただけだから大丈夫だよ!連絡はごめんね。レナとの約束断っちゃったから怒ってないか怖くって...」
高田ははーっとため息をこぼしていた。
「そんなんで怒るわけないでしょ!まあキキがこうやって学校に来てくれたからもういいけど...。何か困りごとがあれば何でも言いなさいよ!!」
「えへへ...。ありがとう。レナの事が大好きだから怖くなっちゃて」
キキさんにそう言われた高田は照れながらキキさんを軽くたたいた。
「あれ、小林さんじゃん。なんか久しぶりに見たな。唯斗は来るって知ってたのか?」
「うん。聞いてたよ」
「そっか。キキさんと話し合えたんだな」
「哲也が背中を押してくれたお陰だよ。本当にありがとうね」
僕がそういうとてつやは強く僕の背中を押した。
「ほら!おはようくらい言ってこい!」
後ろを振り返るとてつやは優しく僕を見つめていた。
本当にてつやはいいやつだな...。
「あれ、唯斗君!おはよう!これ洗ったから返すね!」
キキさんは袋をカバンから取り出して僕に渡した。
「なにこれ?」
キキさんはにやっと笑ってパンツだと答えた。
それを聞いていた高田は、ん?と言いながら袋と僕とキキさんを何度も見ていた。
「立切...。あんた...」
高田はものすごい形相で僕を睨んでいて、それを見たキキさんは後ろでケタケタと笑っていた。
「キキも笑い事じゃないでしょ!!あんたらほんとにどういう関係なの!?」
僕が高田に怯えていると、キキさんが今にも襲い掛かりそうな高田を止めてくれた。
「唯斗君と私、付き合ってるの。最近だからレナには言えてなかったの。ごめんね」
キキさんからそう言われた高田は僕とキキさんを交互に見返した。
「え、うそでしょ..?」
高田は何が何かわからないというような表情をしていて、僕に確認をするかのように聞いてきた。
「本当だよ」
「頭の整理がつかないわ。ちょっと頭痛くなってきた。もう教室に戻るわね...」
突然のことが多すぎて頭が追い付いていない高田をキキさんは心配していた。
「これからは隠し事はしないようにするから、ごめんねレナ...」
高田は深くため息をこぼした。
「まあキキが幸せそうだからいいわ。でも後でちゃんと説明してよ?」
「うん!わかった!」
高田はまだ授業を受けていないのに疲れた様子で教室のほうへと歩いて行った。
「私たちも教室いこっか!」
「うん!そうだね」
「唯斗君今日、放課後一緒に帰ろ?」
上目遣いで僕の顔を覗き込むようにお願いをしてきた彼女の可愛さに悔しくも目を逸らしてしまった。
「うん...。帰ろっか」
やったー!と彼女は喜んで見せて、それを愛くるしく僕は眺めていた。
この先こんな幸せがたくさん訪れるのかな。
彼女に出会えて本当に良かった。
放課後の帰り道、キキさんと歩きながら夕焼けを眺めていた僕は、こんなことを考えていた。
人生、なんでも経験が大事だという人がたまにいる。
自分に言い聞かせるという点では何とも思わないのだが、わざわざ他人に押し付ける類の人間に出会ったことが僕にももちろんあった。
確かに、経験は自信につながり自信を成長させる要素の一つに成り得るだろう。
でもそれはメリットの一つでしかなく、デメリットももちろんある。
僕やキキさんは二人とも幼くして、うつ病という病気に巻き込まれた。
その後は自信までもがうつ病患者になり、世の中を去ろうとした。
こんなものは経験しなくていい。
経験は時に、自信を失って、自身を衰退させてくる。
まさにメリットの裏側の話だ。
世の中はメリットしか表に出ていないから、時に人の感覚を鈍らせる。
経験は武器になる。
でもその刃は自分にも向いていることを忘れないでほしい。
心を大事にしてほしい。
早く忘れてしまいたい。
でも、背負ってしまうことになっても僕にはやりたいことがあった。
「唯斗くーん...おーーい」
キキさんが退屈そうな声で僕を呼んだ。
「ごめん。ちょっとぼんやりしてた」
「あはは、何それ。おじいちゃんみたいなこと言わないでよ」
キキさんは、カバンをゴソゴソと漁って、一枚の紙を取り出した。
「今日配られた、進路調査票何かこう。進学するつもりはないし。唯斗君はどうするの?」
「大学は行くつもり。大学に行って論文の勉強とかをしたら、本でも書いてみたいんだ。」
「本?なに書くの?」
キキさんは不思議そうに僕を見ていた。
「うつ病に関する本。できれば物語みたいなのがいいかな」
キキさんはさっきまで不思議そうな表情だったのに、今はもう納得した顔をしていた。
「本当に、優しいんだね。一人でも自分と似た経験をした人を助けたいんでしょ?」
「助けるなんて大それたものではないよ。ただ、少しでも勇気や期待を持つ、キッカケになればいいなってだけ」
「そう。唯斗君らしいね。その本、見つけてくれるといいね。」
僕とキキさんは学校からの帰り道ではない河川敷を、自転車を押しながらゆっくりとあてもなく歩いた。
うつ病でない人へ伝えたいことがある。
うつ病を患った人は心が弱いわけじゃなく、優しすぎたのだ。
見捨てずに、かわいそうな人だなんて思わずに、親身になって寄り添ってあげてほしい。
あなたの行動で救われる命があることの重大さを理解してほしい。
あなたの助けを待っている人がいることに気が付いてほしい。
それは自分じゃないなんて思わずに...。
唯斗の母親が唯斗にしてしまったことはすべて事実にあるお話だ。
時にあなたを傷つけるだろう...。
矛盾してしまうが、自分がダメになりそうだったらすぐに手を引いてほしい。
一人でも多くのうつ病で悩む人を減らしたいという願いがあって、あなたにもうつ病を患ってほしくはないから。
うつ病の患者さんが願っている「大切な人がうつ病になってほしくない」という願いを代弁して...。
最後にうつ病に悩む方に聞いてほしい。
うつ病に今も悩んでいる人は世の中に多くいるだろう。
うつ病で悩む方には心当たりもあるだろうが、重度の症状を患えば、生活保護の生活になったり、障害者手帳をもらうことがある。
そのことで社会から切り離された感覚に陥ってしまうこともあるだろう。
それでもあきらめないでほしい。
人生が終わりだと思わないでほしい。
強くなくてもいいから生きてほしい。
優しすぎる自分を痛めつけず、責めないでほしい。
生きていれば何かがあるから。
それはいつ訪れるのか分からなくて苦しむ時間のほうが長いのかもしれないけれど、きっと訪れる。
安心してほしい、うつ病は必ず治すことができるから。
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