第10話 『飯田さん』

 昔を思い出していた。小学生の頃だ。母は、結婚と離婚を繰り返していて、新しい人と出会うとすごく機嫌が良かった。が、結婚すると光国に必ず、

「いい子にしてなさいよ。私はあんたのせいで何度も嫌な思いをしたんだから。あんたのせいで別れなきゃいけなくなったんだから」

 真偽のほどはわからなかったが、自分が母の人生を邪魔しているのではないかと感じていた。


『飯田さん』と初めて会った時、彼は光国に右手を差し出し、笑顔で言った。

「光国くん。初めまして。仲良くしてくれよ」

 光国は戸惑いながらも彼の手を握った。うちに来た人でそんなことをしてくれたのは、この人が初めてだった。今までの人たちとはどこか違うと感じた。そして、それは当たっていた。


 今も彼はその時と同じ。いつでも穏やかな空気をまとっている。だから、そばにいても普通にしていられる。それまでは、いつも家の中で小さくなって、母の迷惑にならないように心がけていた。それがうまくいかなくて『父』が出て行ってしまうと、母はよく光国を叩いた。今でも母は少し苦手な存在だ。


『飯田さん』は最初から光国の存在をしっかりと認めてくれていた。光国の親になろうと努めてくれた。

 五年生の頃、ある日曜日に散歩に行こうと誘われた。時々一緒に出掛けることはあったが、その日は喫茶店に連れていかれた。


「ここのケーキはすごくおいしいんだよ」

 そこが、今もよく通っていてツヨシが働いている場所だ。


 中に入るとマスターが迎えてくれた。『飯田さん』とは顔なじみで、マスターは笑顔で彼に話しかけ奥の席を勧めた。光国と『飯田さん』は席に着きメニュー表を見た。『飯田さん』はすぐに、「イチゴのタルトとダージリンティーにしようかな」と言った。それまで聞いたことのない食べ物の名前を聞き、「何ですか、それ」と訊いてしまった。彼は笑って、

「じゃあ、同じ物を注文しよう。大丈夫。ここのはすごくおいしいんだから」

 その言葉を信じて彼に従った。そして、それは正解だった。


「おいしい。これが、タルト?」

「そう。タルト」

 夢中で食べた。光国のその姿を見ている『飯田さん』は微笑みを浮べていた。

「おいしかったかな」

 食べ終わった後に彼が訊いてきた。光国は頷き、

「すごくおいしかったです」

「そうか。良かった」


 『飯田さん』は紅茶を飲んでから、

「光国。何か欲しい物あるか。ほら、来月誕生日だろ。あんまり高いものは無理かもしれないけど、言ってごらん」


 光国は首を振った。別に欲しい物なんかなかった。ただ、いつまでもうちの人でいてくれればいいな、と思っていた。


「光国は欲がないんだな。何かしたいこととか。プラモデルとか好きかい?」

「作ったことないです」

「ゲームとか」

「目が悪くなりそうだからやりません」

「目が悪くなるから?」

 『飯田さん』は驚いたように目を見開いた。そんなに変なことを言ったのだろうか、と不思議に思った。目が悪くなったら眼科にいかなければならない。眼鏡かコンタクトレンズを買わなければいけない。お金がかかってしょうがない。そんな無駄はしたくない。自分が気を付けて防げるならばそうしたい。が、あえて説明はしなかった。

「あ、えっと、あんまり興味がないんです」

 すぐに言い直した。一応納得してくれたようだ。


「何か楽器とか」

「今までやろうとしたことはないです。でも……」

 これは少し興味があった。ラジオから流れてくる音楽は、光国の心に引っかかっていた。母にひどいことをされた後でも、それらは彼を慰めてくれた。


 『飯田さん』は光国が言い淀んだのに反応し、

「わかった。楽器だ。何がいい? ピアノ? ヴァイオリン?」

 彼はクラシックが好きなんだろう。まずその楽器が出てきた。が、光国がやってみたい楽器は違った。しかし、それは口に出来なかった。


「光国はどんな音楽が好きなんだい? クラシック、ロック、ジャズ、えっと…」

「ロックです」

 つい言ってしまった。『飯田さん』は笑顔になり、「そうか」と言った。

「じゃあ、ギターかな。いいぞ。買おう。今から楽器屋さんに行こう」

 言われたが、さすがに首を振った。楽器は高いはずだ。誕生日に買ってもらっていい物ではない。

「それはだめです。絶対だめです」

「だめじゃないさ。ビンテージの何とか、は無理だけど、普通のエレキギターなら買えます」

 言い切った。

「この後、行くからね。いいよね、光国」

 頷くしかなかった。そして、その日にギターを手にしたことが今につながっている。彼のおかげで生きる喜びを感じることができている。本当にありがたい『父』だ。


 イチゴのタルトにはそんな思い出がある。食べるとその時の幸せな気持ちがよみがえる。心が癒されていく。そんな食べ物だ。

 食べかけのタルトを口に運ぶ。作り手が娘の美代子に代わっても、優しいあの味は変わらない。


 気が付くと、美代子がそばに立っていた。

「わ。びっくりした。何?」

「少し元気出たみたいだね。よかった。もう一個、食べる?」

 冗談か本気かわからない問いだ。光国は首を振った。

「オレは、見られる商売だから体形維持しないと。かっこよくいたいんだ。二個は食べません」

「なんだ、つまんない。売り上げに協力してよ」

「ツヨシの分はオレが払うから。ちゃんと協力してるじゃん」

「はいはい。ありがとね」

 そう言って彼女は去って行った。何をしに来たんだろう。多分、心配してくれたんだろうと思う。感謝しなければいけないんだろう。


 しばらくして、席を立ち会計を済ませた。ツヨシが営業スマイルで「ありがとうございました」と言い、軽く手を振った。光国も振り返した。何も解決していないが、心は少し軽くなっていた。

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