1-13 毒を喰らわば




 既に日は落ちて、夕餉には少し遅いほどの時刻。

 何やらやけに疲れた様子で、リュックは再びマリーの家までの帰路に着いていた。


「影の獣が…たくさん…」


 衛兵団の駐在所で聞いた、『ワルプルギスの翌夜祭』に関わる話。

 詳しく聞くと、それは毎年訪れて最早通例と化したものらしかった。






「ま、待って。影の獣が群れになって街に来るって、何?」


 つい先程、駐在所に居た時の会話。

 リュックは青ざめた顔で、女性隊員に食って掛かるように聞いた。

「お、おわ。だから、その。来るんだよ、毎年、同じ月の、同じ日に。影の獣が特定の場所から大量に湧いて出て、人が住む場所に群れを成して近寄ってくるんだ」


 エリアと共にアゼリアの街を出て、影の獣に襲われた時を思い出す。

 あの時遭遇した獣は、たしか一匹だけだった。

 その一匹にリュックとエリアの二人は催眠を掛けられ、死に物狂いで逃げても一瞬で捕まえられ、魔道具の山に叩きつけられて意識を失う程の怪我を負った。

 リュック自身、その窮地をどうやって脱したのかは憶えていない。


 自覚が無かったとはいえ、エドと同じ龍人の力を持っていながら、まるで太刀打ちできなかったその怪物が群れになって襲ってくるなど、彼女からしたら絶望以外の何物でもない。


「どうするの、それ」

「どうするって、そりゃ。私たちが何とかするのさ」

「何とかって」


 そう話していると、ウィルが横から口を挟んだ。

「大丈夫っスよ、リュックさん。俺たち、何度もワルプルギスの夜を乗り越えてますから」

「…そうなの?」

 自慢気に胸を張るウィルだが、女性隊員からは「あんたは新兵なんだから経験ないでしょうが」と突っ込みを入れられる。

 えへへ、と頭を掻きながらウィルは続けた。

「あ、バレちゃいましたか。…でも、嘘は言ってませんよ。パリの騎士団とバルベナの衛兵団で協力して、ここ数年は被害ゼロでワルプルギスの夜を乗り越えてるんです」

「騎士団?」

「ええ。パリにあるんすよ、エドさんみたいな龍人が何人も属する最強騎士団が」


 ウィルが説明するに、ワルプルギスの夜にはその龍人騎士団が主体となって、影の獣を出現元から制圧しているとのことだった。

 衛兵団はその補助的な位置づけで、隊員を近隣の街に配備し、取りこぼした影の獣が接近した場合には討伐する役目を担っているのだという。


「龍人、他にもいるんだ」

「そりゃ勿論。今現在で騎士団に四人の龍人が居るはずですよ。エドさんも、何年か前は騎士団の所属だったそうですし」

「へぇ」

 そう聞いて、少し安心して胸を撫で下ろすリュック。

 自分よりも戦闘に慣れている龍人が何人もいて、実績もあるなら、怯えるほどのことでは無いのだろうと一旦気持ちを落ち着けることが出来た。

 ただ、まだ他に不安や疑問は残っている。


「その、影の獣が湧いてくる場所ってどこなの?」

「んー…詳細は、俺もよく知らないんですけど。どっかの迷いの領域が発生源らしいんです。ただ、何故そこから影の獣が湧いてくるのかは不明で、根本から原因を絶つのは難しいんだとか」

「へぇ…」


 加えて話を聞くと、年々影の獣の発生量は減ってきているのだという。

 希望的観測ではあるが、いずれは獣が発生しなくなることも期待されているとか。


「―――というか、そうなってくれないとマズいって話もあるんすよね。パリもバルベナも魔力資源が結構枯渇してきてて、去年くらいから対影兵器の使用に制限がかかってきてるんで」

「たいえいへいき…」

「ハイ。セブレム製の、影の獣に有効なレーザーを射出できる特殊武器です」

「ほ、ほう…」

 セブレムの話まで絡んできて、徐々にリュックの脳は情報整理が追い付かなくなってきていた。

「ん、まあこの辺の話はリュックさんには関係ないっすかね。龍人に対影兵器は必要ないですし」

「そ、そうなんだ…?」

「はい。…ま、気になったらまたいつでも教えますよ」

「うん」

 リュックは何度か瞬きをして、先程までの不安やら何やらでざわついていた気持ちを一旦静めるように呼吸を落ち着けた。


 その後も幾らか気になることを聞いたりしているうちに、リュックの駐在所見学の時間は終了となった。

 その後もいくらか衛兵団員として知るべきことを教えられたりして、リュックはぐるぐると頭を回しながら一日を終えたのであった。




 ◇ ◆ ◇




「おかえり」

 いつもの幸せそうな笑顔で、エリアはリュックの帰宅を迎えた。

「ただいま。エリアも、おかえり」

「うん」

 流れるように、リュックはエリアにハグをして回復を喜んだ。


 その後、リュックはもう一度だけエリアの身体を強く抱きしめた後、少し名残惜しそうに彼女から手を離して、数歩分の距離を取る。

 少しわざとらしい素振りで、なにやら香辛料の香りがするキッチンのほうへ目をやった。

「いい匂いがする。スープか何か?」

「うん。今日ね、私が作ったの」

 エリアはつい先ほどまで料理をしていたらしく、マリーから借りたであろう花柄のエプロンを身に着けている。

 すぐに距離を取られたことが寂しかったのか、エリアは少し口惜しそうな顔をした。


「楽しみ。また今度、私も一緒に何か作りたい」

「うん。スープのレシピも、教えてあげるね」

 そう話していると、奥の部屋で何やら作業をしていたらしいマリーもリビングのほうへやってくる。

 リュックとエリアが若干の距離を取っているのを見て、彼女は何とも言えない笑顔で二人に笑いかけた。

「リュックちゃん、お疲れ様。エリアちゃん、張り切ってたよぉ。今までで一番おいしいスープ作るんだって」

「あは、嬉しい。疲れ全部吹っ飛んじゃうな」

 また嬉しくなって、一瞬だけエリアの顔に手を触れそうになるリュック。

 ふと何かに気が付いて、また少し気まずそうにその手を引っ込めて、前に出たその体もその分だけ後ろに下がった。

 あ、とエリアはまた残念そうな顔をする。


 本来なら、これでもかという程にエリアを抱きしめて首筋に顔を埋めたかったリュックだったが―――

 ある疑念を晴らすまではそれは控えようと、手が僅かに震えるほどには己の欲求を抑え込んでいた。

 その判断は正解だったものの、エリアもエリアでもう少し再会を喜んで欲しかったらしく、直ぐに接触を控えられたことにはもどかしさを覚えていた。


 一瞬だけ気まずい空気が流れた後、リュックはずっと考えていたその質問を投げかける。

「…ねぇ、ちょっと聞いてもいい?」

 マリーとエリアのどちらに質問するべきか分からず、双方の顔を交互に見ながら、顔色をおずおずと窺う。

「大丈夫。聞いていいよ」とマリーが促す。

「エリアが体調崩した理由って、私?」

 エリアは下を向いて答えづらそうにしていたが、マリーは小さな声で「うん」と言って首を縦に振った。

「…やっぱ、そっか」


 エリアは慌ててリュックに近付いて、下から顔を覗き込むように弁明する。

「あ、あのね!?別にリュックに魔力吸われて嫌だったなんて一個も思ってなくてね!?むしろあの時は私も楽しんでたっていうか、なんにも考えてなかったっていうか、その、その!」

「エリアちゃん、ステイ、ステイ。言いたいことは分かるけど、ちょっと落ち着こうか」

 マリーが途中で止めに入る。

 は、と顔を赤くしてリュックにしがみついていた手を離し、そのまま力なく膝を折るエリア。

「あ、えっと、その。つまり、これは私の自己管理が出来ていなかっただけで、そのぉ…。リュックは何にも悪くないから、気にしないでねって…そう言いたかった、だけなんですぅ」

 そのまま、エリアは膝を抱えて俯いて、じっと動かなくなってしまった。


「…んん、今抱きしめるだけならいいかなぁ…?」

「やめとこうね、リュックちゃん」

 目の前で縮こまっているエリアに覆いかぶさろうかと両手を構えているリュックだったが、マリーに制止を掛けられて計画は断念した。




 エリアの発熱の詳細をマリーから詳しく聞いたリュックは、ソファに座り込んで顔を隠すように額に手を当てた。

「ごめん、エリア…そんなつもりは本当無かったんだけど」

「ううん、私、もう大丈夫だから。むしろ、そのおかげでレリちゃんと知り合えたわけだし、結果オーライかも?」

「会ったんだね、もう一人の魔女の子」

「うん」

 熱を出してから、レリアの家に辿り着いて起きた出来事を大まかに話すエリア。

 その時の話を楽しそうに話すエリアの様子を見て、リュックも少し安心したように表情を柔らかくした。


「つまり、君たちがこないだの夜にどんなことをしていたかを、私とレリアちゃんは知っているわけです」

 いつもの笑顔のままでそう告げるマリー。

 エリアは、「だって言うしかなかったんだもん…」と恥ずかしそうに目を逸らした。

「えっと…まぁ、仕方ないよね…」

 リュックもやや気まずそうに、マリーのやや怖さを感じる笑顔から目を逸らした。




 冷めてしまう前にということで、一旦リュックが身支度を整えるのを待って、その野菜てんこ盛りのスープやら他のなにやらを食卓に並べる三人。

 軍服は脱いだリュックだったが、カミヤに結ってもらった三つ編みはそのままにしていた。


 レリアと会った話、野菜の育て方を教わった話。衛兵団の駐在所に行った話、カミヤと会って髪を結ってもらった話、ワルプルギスの翌夜祭の話。


 その日あったことをお互いに報告するように話して、翌夜祭も少し一緒に楽しめそう、とか、今度こそウルフセプトに遊びに行こうと予定を立てたりとか、そんな話をして彼女達は時間を過ごした。


 不安になる話は、お互いに避けた。


 群れになって影の獣がやってくるとか、実は小さな影の獣と友達になっているとか。

 メルのことはいずれ話そうと、エリアは考えていた。




 食事が終わって、色々と事が済んで、いつも通りに就寝の準備をする一同。

 少し口惜しそうに互いのことを見るリュックとエリアだったが、「どちらかは私と一緒に寝ようね?」というマリーの提案でリュックは大人しく一人で寝ることを決めた。


「エリアちゃん、そしたら私の部屋においで」

「うん、それはいいけど―――二人で寝るなら、私が使ってた部屋のベッドのほうが大きいんじゃない?」

 そう言うと、マリーはなんだか恥ずかしそうに「ん~」と目を逸らす。

「いや、そっちはお兄ちゃんが使ってたベッドだからさ。なんか、ね」

「あ、恥ずかしいんだ?」

「はいはい、早く寝ようねぇ」

 やめてと言わんばかりにエリアを急かして早く部屋に誘導しようとするマリー。


「お兄ちゃんのベッドに他の女の子が寝るのはいいの?」

「んんん、じゃあ床で寝ればいいでしょぉ」

「ごめん、ごめんって」

 冗談めかしく言ったリュックは、ややお怒りのマリーに追い立てられて、さっさとマリー兄の部屋に押し込まれるのだった。




 ◇ ◆ ◇






 その日の夜。

 リュックは結局眠れなくて、夜中にこっそりとマリーの家を抜けて外を歩くことにした。


 門前の花壇の横を抜けて、人気の少ない林道を歩く。

 ほんの少し先を、街灯が物寂しく煉瓦造りの道を照らした。


 夜中の風は生暖かくて、それに釣られた中途半端な眠気が思考を鈍化させる。

 この、夢の中にいるような感覚が彼女にとっては精神安定剤だった。




「…」


 少し先の街灯の下、誰かが立っているのが見える。


 闇夜に浮かぶようなその立ち姿が、なんだか少し不気味に見えた。


 顔はよく見えないが、容姿からして女性。体はこちらを向いていて、恐らくはリュックのことを見ているようだった。


「…こんにちは」


 知り合いだろうか、とも思ったが、衛兵団にそのような人物が居た憶えは無かった。

 バルベナに来てからも、それ以前も彼女と会ったという記憶はない。

 ただ、目の前の女性は確実にこちらを見ていて、何故だか笑顔を浮かべているらしいという事はわかったので、自衛の意味も兼ねてリュックは先制して声を掛けていた。


 女性は、何も言わずに一歩足を踏み出す。

 敵意の無い、ごく自然な一歩。

 ただ、得も言えぬ不安がリュックをほんの少しだけ身構えさせた。


 彼女は笑顔のままこちらを見ていて、手は後ろに組んでいる。

 近付いてきて見えた笑顔は優しそうな色をしていて、肩に少しかかる程度の薄紅色の髪は足取りに合わせて穏やかに揺れた。


 服は少し汚れていた。ただ、決してみすぼらしくは見えず、騎士を思わせる長いマントは泥に汚れても尚その高貴さを保っていた。




 女性は目の前まで来て、リュックの顔を覗き込むまでに接近してから漸く口を開いた。

「こんにちは」

「…」


 リュックの目はもう覚めていて、目の前の女性がどうやら尋常ではない様子であることにも気がついていた。

「どうされたんですか」

「…どうにも。ただ、ちょっと気になったから見ていただけ」

「気になった、って?」

 そう聞くと、女性は何も言わずに目を細めて笑う。

 この状況でさえなければ、彼女のその表情はただ優しそうで、全てを赦す聖女のようにさえ見えた筈だった。

 ただ、このほの暗い空間で、至近距離でこちらを見る彼女のその顔は、とてもではないが落ち着いて向かい合えるものでは無い。


「衛兵団の、人?」

「いいえ」

「マリーの知り合い?」

「知らないわ」

「…私の、知ってる人?」

「いいえ。でも、今、知り合いになった」

 そう言って彼女はにこにこと笑う。

「…じゃあ、せめて名前だけでも教えてよ」

「…」

 少しの沈黙の後、穏やかに彼女は名乗った。




「―――ロベリア」




 そう言って、彼女は少し姿勢を起こす。

 きちんと立つと、その人はリュックとそう変わらないほどの背丈だった。

「…私は、リュック。衛兵団の訓練生。よろしく、ロベリア」

「リュックっていうのね。私、なんだかあなたとは仲良くなれそうな気がするの。よろしくね」

「…うん」

 その返事を肯定と受け取って、ロベリアと名乗るその女性はまた嬉しそうに目を細めた。


「また今度、会いに来るね。その時は、また一緒に話そう」

「話すって、何を?」

「あなたが一緒に暮らしてる女の子の事。私、あの子のことがとっても気になるの」


 そう言われて、リュックの背筋に悪寒が走った。


 直感的に、何か異常な事が起きていると悟ってリュックの握りしめた手に力が籠る。


「気になるって、何が?君、エリ―――あの子の、何を知ってるの」

「なんにも、知らないわ。だから、気になるの」

「…待って」

 リュックの静止を聞かず、女性は背を向けてゆっくりと歩きだす。

「わかるわ、あの子、とっても―――良い、もの」


 心臓が音を立てて、目の前のこの女性は危険だとリュックに信号を出している。

 放置しておいてはいけない。必ず、この人物はこの先脅威になると、本能がそう告げていた。


「…良い、って。何が」

「わからないの?そんな訳が無いわ、それだけ本能を剥き出しにしておいて」

「…」

 一瞬だけ彼女が何を言っているかを理解しかけて―――リュックは、咄嗟に考えるのを辞めた。


 そんな訳が無い、自分がそんなことを考える訳が無い。

 あの夜に思ったことは気の迷いだ、その夜に見た夢も全部思い違いだと、今までずっと自分を説得し続けていた。


 エリアと同じベッドで寝たあの夜、不安に呑まれてエリアの優しさにただ甘えたその夜に自分が考えていた事。

 彼女にそれを言われたら、今まで見ないようにしていた自分の本質を思い知らされるような気がして。

 質問を投げかけておきながら、リュックはもうその先を聞きたくはなくなっていた。


「―――いい、言わなくて」

「わかるわ。あの子」

 唾を呑む。

「やめて」


「―――とっても、美味しそうなの。あの耳、あの腕、あの首筋」


 耳を塞ぎたい。でも、動けない。


「遠巻きに見てたわ。あの純真な笑顔、立ち振る舞い。あなたのことが大好きなんだって、すごくわかるの」

 女性は満面の笑みで、リュックの目をじっと見ながら話し続ける。

 彼女の額には龍の角が淡く光って、その目を気味悪く照らす。


「だから、可愛いって思ったの。食べたいって思ったの。あなたもそう思ったんだって、私には分かるの」


 呼吸が乱れる。

 何も言えなくて、ただただ立ち尽くして聞くことしかできなかった。


「私たちはね、そういう生き物なんだよ。大切なものは、食べて、一緒に、一つになるの。だから、おかしいことじゃないんだよ。あなたがあの女の子の事を食べたいと思うのは、血まみれにしてその心臓を取り出したいと思うのは。何も間違ってない。なんにも、間違ってないの」

「違う、違う」

 消え入るような声で否定する。

 そうして認めないでいると、少し不満そうに女性はその目の色を変える。


「あなたが食べないなら、私が食べてあげる。その血も心臓も、全部私と一緒になればいい。そうしたら、失うことは無い。あの子の命は、必ず報われる」

「…駄目」


 小さな声で抵抗するように呟く。

「駄目じゃ、ないわ。あの子たちを守りたいなら、大切だと思うなら。その魂と一つになるの。一緒に。ずっと、一緒に」

 そう言って、彼女はリュックに抱き付くように腕を回した。

「違う」


 唇を噛む。

 違う、違う、違う。

 私は、エリアに幸せになって欲しいからこの街に来た。

 あの笑顔をずっと見ていたいから、彼女をアゼリアから連れ出した。

 その笑顔が二度と見られなくなるようなことを、してはいけない。




 食べては、いけない。

 殺しては、いけない。

 これは純粋な愛情だ。空腹ではない。捕食本能ではない。




 私は人間だ、もとより龍人じゃない。

 そんなことはおかしい。


 食べてはいけない。


 食べてはいけない。


 血が出るほどにその拳を握り締めて、違う、違うと自分の中にある欲求を押さえつけた。




「うそつき」




 顔を上げる。


 その女性は、ほんの一瞬だけ、心底幻滅したようにこちらを睨んでいた。


 殆ど抱き合うような距離感まで近づいていた彼女は半歩だけ下がって、じっとリュックの顔を見る。

 ただ、何も言わずに。何か言いたげに目を合わせて、ぷいと後ろを向いてまた歩き出した。


「また、会いに来るね。その時は、もっと本当の話をしよう」

「…」

 リュックはただ茫然と彼女の背中を見つめて、何も言えずに立ち尽くす。


「勿体ぶって、他の誰かに取られちゃわないようにね」


 彼女は一瞬だけ振り向いてそう告げた後、風のように姿を消した。











 食べてはいけない。


 食べてはいけない。


 食べてはいけない。


 そう思えば思う程に、彼女の中にある良くない本能はその存在を増し続けた。

 おかえりと言って笑うその笑顔と、あの夜の表情が交互に頭の中をよぎって、自分が何を考えているのかがわからなくなる。


 夢で見た光景が脳裏にこびりついている。


 繰り返してはいけない。

 選択を誤ってはいけない。


 彼女はそのまま地面に額を擦りつけるほどに蹲って、考えるな、考えるなと自分に暗示をかけた。




 視界の端に、また黒い猫が見えた。


 見守るように、何かを伝えようとするように。


 でも、何を言っているのかまではわからなくて。

 そのまま、リュックは気を失うようにその場で意識を失った。


 もう、夢は見なかった。


 ただ、ただ苦しい息を立てて、誰かに縋るように体を丸めて、唸るように目を閉じていた。










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