1-03 アゼリアの追憶



「―――ねえ、お父さん。この花は何て言うの?」


 プラチナブロンドの髪、年齢はまだ五歳程度に見えるその少女は、隣で空を仰いでいる男を見上げる。


「…」

「お父さん?」

「―――あぁ、ごめん。ちょっと、考え事してた。その花の名前?」

「うん」

 少女が頷くと、その髪も穏やかに揺れる。


「なんて言ったかな…確か、ラミウムとか、そんな名前だった気がするよ」

「へぇ。なんだか、楽しそうな花だね」

「楽しそう?花が?」

「うん。なんていうか、みんなでスカートを広げて踊ってるみたいじゃない?」

「あぁ、確かに―――。そうも見える」

 男は、不意に目を細めて笑った。


「一輪、持って帰ってもいいかな。ディアに見せてあげたいの」

「うん…でも、みんなで踊っているのに連れて行っては可哀そうじゃないかい?今度、あの子もここに連れてきてあげればいい。きっと喜ぶよ」

「来るかな、ディア」

「ああ、来てくれると思うよ。君の誘いならね」

「…わかった。明日、誘ってみる」

「そうしよう」


 男が、行こう、と声をかける。

 少女は立ち上がって、男と手を繋いで歩き出した。


 日はもう落ちかけていて、行く先の空は茜色に染まっている。


 二人の後姿は、夕暮れの陽光の中に溶けるように、ゆっくりと見えなくなっていった。




 ◇ ◆ ◇




 目を覚ますと、まだエリアは横に眠っていた。

 寝床に流れるプラチナブロンドの髪。


「あ」

 夢に見た少女の髪と、全く同じ色をしていた。


 リュックは少し体を起こし、気持ちよさそうに眠るエリアの顔を見下ろす。


 少し、考え込む。

 夢の中の少女は、まだ幼かったと思う。


 ―――エリアの過去の記憶?


 そうも思ったが、エリアからは母の話はあれど、父親の話はまるで聞かなかったことを思い出す。

 違和感を感じながらも、まあ夢の話だから、とあまり考え込むことはせず、リュックは再びエリアの隣で横になった。


 再び入眠するわけでもなく、彼女はただぼんやりとエリアの寝顔を見ていた。

 人形のような寝顔。

 口に入っている髪の毛を指で掃ってあげると、彼女はむにゃむにゃと口を動かして身体を揺らした。




 しばらく見守っていると、エリアは寝返りを打ってリュックと向かい合う姿勢になった後、ゆっくりと瞼を開いた。


「おはよう」

 リュックがそう呼び掛けると、彼女は寝息混じりに「おはよ」と小さな声で返す。


「夢の中でね、リュックとお話ししてたの」

「夢で?」

「うん。あんまり覚えてないけど―――なんか、変な乗り物の中だった」


 嬉しそうに話すエリアに対し、リュックはなんだか驚いたような表情を見せる。

 互いの夢を見ていたというのは何となく偶然には思えないところがあったが、とりあえず彼女は「そっか」とだけ呟いて、エリアの頭を撫でた。


 その後もしばらく、カーテン越しの朝の陽射しで少しだけ明るくなった部屋の中、二人は身体を起こさずに微睡んでいた。




 体感で一時間ほど経ったころ、エリアはおもむろに体を起こしてベッドから降りる。

 立ち上がって、少しだけ窓の外を見て。

 決心したように一息つくと、振り返ってリュックと目を合わせた。


「善は急げ、だよね。私、ちょっと準備してくる」


 リュックは、ベッドの上に座って、うん、と頷く。

 その返事に背中を押されるように、エリアはぱたぱたと部屋を出て行った。


「…私は、どうしようかな」

 身一つでここにやって来たリュックは、また旅に出るために持ってゆく物もない。

 座り込んだまま、少し考えこむ。

「地図とか、あるのかな。行先の目星とか、立てなきゃ」

 考えなしに提案した『何処かへの旅』だが、無計画に出発するわけにもいかない。

 移動手段とか、食料とか―――

 とはいえ、この世界について何も知らない彼女が考えるのは中々難しい。

 自分には何ができるか―――と考え込んでも、ボディガードやら荷物持ちくらいしか思い浮かばないのであった。


 …あれ?私って、あんまり役に立ってない?


 そんな考えが脳裏を掠めながらも、リュックは自分の頬を叩いてとにかく動き出そうと心に決めた。

 なんにもできない、じゃない。

 なにか、なにか出来るはずだ。記憶喪失でも何でも、やれることを思い出していこう。


 私は、拾われた猫じゃなくて、空からやって来たヒーローになりたいんだから。




 ◇ ◆ ◇




「…とりあえず必要になりそうなものを一通り載せてみたんだけどね。これ、多いかな」


 見るからに古びた荷車の上には、なんだかよく分からない道具やら石やらが山のように積み上げられていた。

「…わぁ。なんていうか、動く城って感じだね」

「城…に見えるかな。これ、殆どは魔道具とか魔導書なの。怪我をしたり、道中困ったことがあった時に使えるかなって」

「これ、引っ張って歩くの?」

「ううん。魔鉱石が原動力になるから、引っ張るっていうよりも運転するって感じ。ほら、この部分にはめ込むんだよ」


 エリアの手の中には宝石のような球体があった。

 その球体を、彼女が指差した荷車の側面に取り付ける。


 そうすると、球体は綺麗な輝きを放って荷車に動力を送り込む―――筈だったらしい。


「…あれ?ん?」


 なんだかおかしな音を立てて揺れる車体。

「…エリア、これは正しく稼働してる?」

「い、いや、ちょっと思ってたのと違うかな!?あ、ちょっと待―――!」


 エリアが一旦魔鉱石を外そうと手を伸ばした瞬間、荷車は側面から火花を散らして煙を吐いた。

 驚きのあまり、エリアは伸ばした手を引っ込めて硬直している。


「…大丈夫?」


 呼びかけに対し、歯車の狂った人形のようにかくかくと振り向くエリア。

「あぁ…」

 明らかに青ざめている彼女は、そのままよろよろとリュックに縋るように近づいてくる。

「荷車これしかないよぉ…」

「…えっと、壊れたってことでいいのかな」

「…」


 一応、といった感じで魔鉱石を取り外すエリア。

 もう一度取り付けてみたり、車体を揺らしたりするが荷車は動かなかった。

「…あ」

 何かに気が付いたエリアは、ゆっくりと振り向いて苦笑いで呟いた。

「使う鉱石、間違えてました」




 電流の与え方を間違えると電子機器が故障するように、魔力にも波長のようなものがある。

 道具によって使うべき魔鉱石は異なっており、荷車にもその表記はあるのだが、エリアは流れるように使う鉱石を間違えていたのだった。


「はあ…なんでこういう大事な時に限って間違えるかなぁ…。いっつもそうだよ、この間も卵割った後に中身捨てて殻焼こうとしてたし…」

「うん、まあ確認は大事だよね…」

 縮こまって凹んでいるエリアを励ましつつ、物は試しと荷車の取っ手に手を掛けるリュック。

「ふんっ」

「え?」


 普通に動く荷車。

「あ、いけるよ、これ。動力無しでも引っ張れる」

「嘘でしょ?」

 何キロあるか分からないような重さの荷車、それを涼しい顔で動かして見せたリュックの顔を、エリアは目を丸くして見ていた。




 ◇ ◆ ◇




 リュックは荷車を引く準備を整え、エリアも持てる程度の重さで鞄を背負っていた。


「心の準備はいい?もう、行くよ」

「うん。持ちきれない花は安全なところに植え替えたし、森の動物にもちょっぴり挨拶してきた」

 少し腹ごしらえをした後、家の中を一通り片づけて、必要な準備は全て終えた。

 地図を見ておおよその行先を決めて、辿り着いた後でどうするかは―――細かいことは、着いてから考えよう、と決めたのだった。


 どうすることがエリアにとっての幸せなのか、その答えはまだ出ていない。

 魔女であることを認めてもらうことが良いのか、あるいはこのまま魔女である事実は伏せて生きていくことが正しいのか。

 理解されずとも、せめて自分だけでも理解者として共に歩いて行く、というのも、決して悪い事ではないと考えていた。


 ただ、一つだけ心に決めた、「見たこともないような花が咲く場所」を必ず見せてあげようと、その想いは強く胸に刻み込んで、彼女は荷車を持つ手に力を込めた。




 エリアも、彼女は彼女で思惑はあった。

 記憶喪失の少女にいつまでも救われる側であってはいけないという思い。

 住む場所を提供し、食にありつけるよう計らう―――そういう、資源的な支援を行う、という話ではなく。

 幼少期からずっと抱え込んでいた心理的障壁。

 己を隠して一人で生きてきた、その孤独を振り払ってくれた人に対しては、同じように心の支えになってあげたいという意思があった。

 故郷を忘れた彼女もきっと孤独で不安に違いない、と。


「ねえ。リュックは、フルリールがどんな街だったらいいと思う?」


 フルリールというのは、ひとまず彼女たちが目指そうと決めた直近の街。

 面積でいえばアゼリアの街と同程度の規模だが、比較的高所にあるため自然の在り方は異なるだろう、と想定している場所である。

 無論、観光ガイドのようなものは存在しないため、全ては憶測。


「うーん…そうだな、お店がいっぱいあるところだと良いな。エリアと一緒にウィンドウショッピングとかしたい」

「ウィンドウ…窓?」

「あれ、そういう言葉、無いかな。まあ、要はお買い物デートみたいな」

「あ、いいね。服屋さんとか、雑貨屋さんとか、向こうにもあると良いな」

「うん。花屋さんもね」


 そう言うと、エリアはにっと嬉しそうに笑った。


 リュックは、「行こっか」と呟くように言って荷車を動かした。






 時刻は昼過ぎ。

 特に危険なことは無く、従来通りの平和な高原がただ広がっている。


 影の獣が現れる気配などはまるで無い。


 予定では、一日は野営をすることになっていた。

 普通に考えて、安全の保障されない場所で女性二人で野営など、危険極まりない行為なのだが―――少し気分が舞い上がっていた二人は『隣の街に行くだけだし、なんとかなるんじゃない?』という甘い考えで行動に移している節があった。

 よく考えているようで、都合の悪い所は二人揃って考えていない。


 特にリュックは、いつの間にか手に入れていた謎の馬鹿力を、既に自分のものだと思い込んでいる所があった。


「…ねぇ、あのさ」

「ん?」

 エリアが、少し聞きづらそうに髪をいじる。

「多分、リュックはとっても遠い所から来たんだよね。少なくとも、文化そのものが異なるような地域から。―――その服も、私が見たこと無いような形だし」

 リュックは、エリアと出会った当初に着ていた服を再度身に着けている。当然綺麗に洗ったうえで。

「そう、だと思う。なんとなくだけど…街の様子とか、私がいたところはもう少し騒がしかった気はするんだ」

「…帰りたいと、思う?」

「…今は、何とも言えない。でも、仮にどこかで私の記憶が戻ったとしても。この旅を途中で投げ出す気はないし、エリアを置いていく気も無いよ」

「そっか」


 俯きながらも、少し嬉しそうな顔をするエリア。

 記憶を取り戻せばリュックはどこかへ行ってしまうのではないか―――リュックを気遣う一方で、心の片隅で抱えていたそんな不安は、彼女の一言で安堵へと変わった。


「旅の途中で、何か記憶を取り戻すきっかけがあるといいね。もしかしたら、いつかリュックの故郷に辿り着くかも」

「確かにね。そしたら、観光案内してあげるよ」

「うん。約束ね」


 二人は、顔を見合わせて笑った。




 少し歩くと、傘のように葉を広げた大きな木が一本、高原の真ん中に佇んでいた。


「あそこでちょっと休もうか」

「うん」


 まだ日は落ちず、天気も悪くない。

 軽食でも取ろうということで、エリアは鞄の中から小さなバスケットを取り出した。

「サンドイッチ作っておいたの。食べて」

 バスケットの中には、ごく一般的な、レタスとベーコンのサンドイッチが入っている。

「わ、ありがとう。いただきます」

「普通のサンドイッチだけどね」

 渡されたサンドイッチを見ながら、リュックは少し考え事をする。

「私も一緒に何か作ればよかったな」

「確かに。でも、あの時は荷物の積み直しをしてくれてたでしょ?」

「ああ、あの時か」

 荷車が故障した際、リュックは振動で荷崩れした部分の積み直しを買って出ていた。

 ただ積むだけならエリアの魔法で何とかなるが、細かい作業は手作業の方が危なくない、との理由。

 彼女の浮遊魔法は、少し精密さに欠ける部分があった。


「そういえば、物を浮かせる魔法は本とか使わないんだね。傷を治すときは、何か読んでたよね?」

「うん。浮かせる魔法は、生まれつき使えるの。治癒魔法は魔導書と医療の本を読んで、後から勉強したものだからね」

「生まれつき、っていうのもあるんだ」

「うん」

 魔女の特性に感心するとともに、彼女が今までずっと医療について学んでいた事にもリュックは驚いていた。

「治癒魔法って、唱えたら傷が治るものじゃないの?」

「詠唱って、使い方によって内容が変わるから。その上で、結局医療の知識は必要になるの。生物学とか、薬学とか、知らなきゃいけないことは沢山あるんだよ」

「…思ったより専門的でびっくりしてる」

「へへ。頑張ったんだ」

 思いがけず知った彼女の努力家としての一面に、リュックは素直に感心していた。

「私も、頑張んなきゃな」

 彼女はそんなことを呟きながら、片手に持ったサンドイッチを頬張る。

 エリアは、嬉しそうにリュックを見上げた。




「―――あ。そうだ、これ見てよ」

 そういってエリアが荷車から引き抜いたのは、細長い片刃刀のような形状をした棒。

 金属にも見えず、刀を模した棍棒と言う方が正しいそれの持ち手には、小さな魔鉱石のような水晶が施されている。

「なにそれ、武器?」

「うん、多分。昔から家にあってね、貴重そうだから保管してたんだけど、護身に使えるかなって」

 エリアはそういって棒を眺めつつ、「でも、魔力にも無反応で使い方が分からないんだ」と濁した。

「ちょっと見せて」

「うん」

 棒を受け取ったリュックは、なんとなく同じように全体を眺めてみる。

 不思議と、手に馴染む感覚がした。


 鞘は無いが、鍔の部分に腰に装着するためのベルトのようなものがついている。

 彼女は試しにその場でそれを身に着け、見せびらかすようにエリアのほうを向いた。

「どう?似合う?」

「ばっちり」

 指で丸を作るエリア。

「なんていうか、お姫様と侍女みたいだね」

 リュックがそう呟くと、エリアが「頼りにしてますよ」とふざけ半分に台詞を投げる。

「ええ、命に代えても」と自然な笑顔を返すリュックの姿に、エリアは照れて目を逸らした。

「ずるい」

「え?」

 んん、と声を漏らした後で、彼女は「ほら、もう行こう」と誤魔化して立ち上がった。


 それにしても、とリュックは目を擦る。

「天気が良すぎて、ちょっと眠くなっちゃったな」

「うん、私も。歩いてれば目も覚めるよ」

「そうだね」

 そう言ってリュックがエリアに背を向け、荷車の方へ歩いて行く。


 本当に、立っていても寝てしまいそうなほどに眠い。

 そう思いながら荷車を見ると、持ち手に一羽の鳥が止まっていた。


 この世界に来てから二度目に見る生き物。


「カラス?」


 カラスは、気が付かれると同時に、カァ、と鳴いて飛び立つ。


 同時に、日陰として使っていた高木の葉の中から、無数のカラスが群れになって現れる。

 その羽音と鳴き声は幾重にも重なり、空をも隠すその群れは恐怖さえ感じる様相を呈していた。


 ―――普通ではない。


 すぅ、と大きく息を吸い、リュックは意識を持ち直す。

 ただの眠気ではない。


「エリア、なんだか嫌な予感が―――」

 目を擦りながら振り向くと、エリアは既に倒れ込んでいた。

「エリア!」

 慌てて駆け寄る。

 エリアが倒れたことのショックが大きかったせいか、彼女の眠気は一時的に回復していた。


「起きて、エリア!」

 呼びかけてもエリアは答えない。


 焦りで意識が覚醒していく中で、漸く彼女は思い出し始めた。

 一度目にカラスを見たのは、確か、一番最初の―――




 振り返らず、エリアを抱え上げて全力で走った。

 直後、脚の下を何かが掠める。

 一瞬走り出すのが遅れたら、もう足を掴まれていたのだと気付く。


 気付けば状況は最悪になっていた。

 影の獣が、人を眠らせる力を持つなどとは聞いていなかったから。


 もし意識のないエリアを狙われて、奪われて。

 そんな状態で“あの扉”に出くわして、自分まで正気を奪われたら。

 この旅は、そこでお終いになると彼女は確信した。


 たった二人で旅に出ることの危険性を、何故よく考えなかったのか。

 何故、どうにかなると思ってしまったのか。

 一度影の獣からエリアを奪い返したという実績で、もう怖いものはないと思い上がっていた自分を彼女は呪った。


 カラスとは別の、身体の大きな影が追ってきている。

 また伸びてきた腕に転ばされても、彼女は必死でエリアを抱え上げて立ち上がり、また走り出した。

 捕まっちゃだめだ、体勢を立て直せ、と自分に訴えかける。


「…はっ、私のケーキは!?」

 衝撃で気が付いたらしいエリアは、どうやら楽し気な夢を見ていたらしい。

「今はちょっとそれどころじゃないかなぁ!?元気でよかったけども!」

「夢かぁ…。ちょうどあれくらいの大きさのケーキが…ぴゃああ影だぁ!?」

 起き抜けにトラウマを刺激されたエリアは、リュックの腕の中で小さなパニックを起こす。

 バランスを崩して、リュックの走行姿勢は崩れた。

「ちょ、落ち着いて!暴れないで、落っことしちゃうから―――あっ!」

 慌てて油断した矢先、二人は後ろから伸びてきた何かにまとめて掴まれる。


 すぐさま、二人はその『何か』によって勢いよく引き戻され始めた。

「離せっ!!」

 上下感覚を失いながらも、リュックは咄嗟にその腕らしき器官を殴りつける。

 影が驚いて彼女たちを手放したことで、二人は勢いをつけて自分たちの荷台に突っ込むことになった。


 ガラガラと崩れ落ちる本、木やガラスで出来た魔道具。

 中には、当たり所が悪ければ怪我では済まないような代物もある。

 リュックは慌ててエリアを庇い、エリアもできる限り落ちてくる道具を浮かせて難を逃れようとした。

 ただ、全ては対処できず、幾らかの硬く重い道具が二人に降りかかる。


 鈍い音がして、リュックを耳鳴りが襲った。

「あば、暴れてごめんなさい!大丈夫!?」

「…あ、うん。らい、じょうぶ」

 リュックの顔からエリアの首元に、赤い何かが滴り落ちる。

 彼女ならきっと大丈夫だろうと、一瞬そう思ったエリアはすぐに表情を変えた。

「―――待って、待って。お願い、すぐに治すから」

 止まる筈のない流血に対して、エリアは懇願する。

 リュックに押し倒されたままで周りを見回して、視線の先に落ちている治癒魔法の本に手を伸ばした。


 エリアは彼女に押さえつけられて動けず、 あと少しの所で本には手が届かない。

 魔法で浮かせて引き寄せようとするが、焦った彼女はその本をかえって遠くに転がしてしまう。

「離して、リュック、リュック!」

 エリアは必死に呼びかけて、自分を守ろうと抱きかかえているリュックの腕を振り解こうとした。

 対して、靄のかかる意識の中でエリアを守ろうとしている彼女もまた必死で、影の獣にエリアを渡すまいと子供のようにしがみつく。


 無数のカラスが飛び回る音と、ゆっくりと近づいてくる影の獣。

 もう何も間に合わない。


「エリア。血が、出てる」

 エリアも、落ちてきた硝子の破片で口元を切ってしまっていた。

 唇から、少しだけ血が出ている。

「今はそんなこといいの、それよりもあなたが…!」

 必死に本に手を伸ばすエリア。

 あと少し、あと少し―――


 そうもがくも、本は歩み寄ってくる影の獣の下敷きになる。

 もう、目の前まで来ていた。


 リュックは、もう思考する余裕もないのか影には目もくれず、ずっとエリアの顔を―――何故だか、口元の傷をひたすらに凝視している。


「お願い、私はいいから、この子には手を出さないで」

 エリアは影を見上げて懇願する。

 影は、見定めるように二人を見下ろしていた。


 永遠にも思えるその一瞬の後、影は少しづつ二人へ顔を近づける。


 エリアは、これがリュックとの別れになると直感した。

 もう腕の力も然程入っていないリュックをやっとのことで押しのけて、自身が上になるように姿勢を変える。

 きっと目の前の化け物は、魔女さえ腹に放り込めば満足して帰っていくと、そう信じて。

「私一人で、十分でしょう」

 返事のない獣に、彼女は小さく呟く。


 きっと、あの高原でひとりぼっちで消えてしまうよりは、ずっと幸せな最期だったのだと信じて、彼女はもう一度口を開いた。

 あなたと出会えてよかったと、そう告げるため。


「リュック、私、―――ん゛ぅーーー!?」


 突如としてリュックは体を起こし、エリアと唇を重ねた。

 それなりにディープな一撃。


 エリアの渾身の台詞は、全て頭から吹っ飛んで消えた。


 彼女は訳もわからずただただ赤面・驚愕して後ろに倒れ込む。


 リュックは、徐に立ち上がり、影の獣と向き合った。

 頭からは、まだ流血している。

 彼女は腰に付けた武器を抜くと、影の獣に向けるのではなく、それを地面に突き刺して言った。


「―――ごめんね。まだ、帰るには少し早いんだ」

 エリアからは、後ろから見た彼女が、笑顔でそう言ったように見えた。


 装飾の魔鉱石が光り輝き、その光に当てられた影の獣は地面の中へと還っていく。

「…女の子?」

 エリアの目には、姿を消していく影の獣の中に、一瞬だけそんな姿が映ったように見えた。


 目を閉じてしまうほどのその光が輝きを終えた時、周囲には影の獣の姿も、カラスの姿も見えなくなっていた。




 エリアは、ただ茫然とリュックの後姿を見ている。

 今の光は一体なんだとか、まだ早いってどういうこと、とか、確かに切り傷は唾を付ければ治るって聞くけどさすがに唇は―――とか、いろいろ考えて。

 最終的に彼女の脳内は完全にオーバーヒートして、最初の催眠効果もぶり返して、そのまま失神してしまうのだった。


「―――」

 振り返り、エリアの意識が無いことに気が付くリュック。

 咄嗟に駆け寄ろうとする彼女だったが、それは叶わず。

 難が去った途端にその意識は遠のいて、何もできずに倒れ込んで気を失った。






 静まり返った高原には、機械越しの声が小さく響く。


『要救助者発見。至急、衛兵団員の派遣を要請します。対象は―――』


 宙を舞う機械のような物体が、静かに駆動音を鳴らしながら彼女達を見つめていた。



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