1-02 愛すべき街と
一夜明けて、閉じられたカーテンの隙間から朝日が差し込んでくる。
目覚まし時計など当然無いその部屋の中、リュックは鳥の鳴き声で目を覚ました。
奥の部屋の扉―――エリアの寝室の扉は半開きになっていて、その反対側の方からはパンが焼ける匂いがした。
香りに釣られて隣のダイニングルームに迷い込むと、そこにはエプロンを付けたエリアの姿があった。
香りの元はスキレットに乗せられたチーズトースト。
髪を後ろに結んだエリアは、少女の姿に気が付くと「あ、起きた?」と笑った。
「ごめんね。ソファ、硬くなかった?」
「ううん。寝やすかったよ」
昨夜、エリアは当初自分のベッドを明け渡そうとしていたが、リュックはここでいいよ、と座っているソファの上にそのまま寝ころんでしまっていた。
「丁度良かった。コーヒーも淹れたし、朝ごはんにしよう」
「私の分まで?ありがとう」
年季の入ったダイニングテーブルに並ぶ朝食。
街の喧騒とはかけ離れた静寂と、森の空気と溶け合うコーヒーの匂い。
平和と言うに相応しい空間が、そこにあった。
「リュック、なんだか嬉しそうだね」
「エリアもそう見えるよ」
「あは、そう?」
いつもと変わらないダイニングテーブル。
物寂しい森の風の音と、決まりきった朝食。
ただ、誰かと朝食を食べることが、エリアにとっては何より特別なこと。
彼女にとっては、嬉しくて仕方のない事だった。
無言でトーストを頬張る。
少し気まずい雰囲気。
話題を探そうと、リュックは部屋の中を見回す。
窓際の植木鉢には、見たことも無い花が植えられている。
「ねえ、あれも製薬で使うの?」
「ん、そうだよ。あの花は、ええと。解毒薬に使うやつ…のはず」
「毒って…蛇とか?」
「うん、この辺は毒持ちもいるから。なかなか会わないとは思うけど」
「蛇かぁ…苦手なんだよなぁ」
「あはは、森に棲んでれば色んな生き物がいるよ。小動物もいるし、どう猛な奴もたまに現れる。でも、私達だって動物のひとつだからね。上手くやれば共存できる」
「蛇とも?」
「そう。蛇とも」
「そっかぁ。頑張ってみるかなぁ」
「目指せ、蛇使い!」
「蛇使いにはならなくていいよ」
冗談だよ、とエリアは笑う。
「…ねぇ、今までもあの黒い奴に襲われてたの?」
エリアの肩が一瞬上がった。
リュックは、しまった、と言葉を繕う。
トラウマか何かあっただろうか、と。
「ああ、いや、ごめん。朝からこんな話、よくないよね」
「ううん、いいよ。あれのこと、リュックにちゃんと教えてなかったもんね」
エリアは、まだ半分ほど残っているトーストを食べる手を止めて話す。
「私は、あれのことを影の獣って呼んでる。まだ、今までに二回くらいしか遭遇したことは無いの」
母といた時の一回と、昨日の一回。
「昨日は、花の種を探しに迷いの森を歩いてて、運悪く出会ってしまっただけ。この家にまで襲いに来たことは無いし、多分来ないから、それは大丈夫だよ」
「そっか。よかった」
「…気味が悪いよね。真っ黒で、音も立てずに近寄ってくる。それで昨日、一度食べられそうになったの」
「…食べる?」
「そう。直感的にね。わかったの、食べられるって」
つまるところ、生存本能のようなものだろうとエリアは考えていた。
「昨日リュックが助けてくれてなかったら、私はいまごろあれのお腹の中だったと思うよ」
エリアは苦笑いした。
「昨日…か。私、実はよく覚えてないんだよね。エリアを助けた瞬間のこと」
「え、えぇ?本当に?」
「うん」
残念そうに驚くエリア。自分にとって運命的だった瞬間を忘却したこと、それをあっけらかんと公表されたことにショックを受けていた。
「凄かったんだよ。びしゃーって雷みたいなのが出て、目が光って。必殺のキックって感じだったんだよ」
やや興奮気味に立ち上がりジェスチャーまでして再現したエリアだったが、それに対してリュックはそうだっけ、と首を傾げている。
エリアは「えぇ~~~」と大きくため息をついて座り直した。
「確かに助けようとは思ったよ。必死過ぎて忘れただけだと思ったけど―――雷って、本当に?私、ただの人間だよ?」
「出てたと思う、よ。凄く、なんていうか…強そうなオーラを感じた」
「…本当にぃ?」
「本当だよぉ!」
そうだっけなぁ、とリュックは天井を見上げた。
「…そうだ」
不意にリュックが思い出す。
「あの黒い門、なんだったんだろう」
「!」
一番初めに現れた、大きく底の無い黒色をした門。
影の獣に似た様相でこそあったが、あれは“獣”では無かった。
「…分かんないけど、その話、やめない?なんだか、凄く嫌な感じがするの」
エリアは、心底嫌そうな顔をしていた。
恐怖感に満ち溢れた表情。
「…うん、やめとこう。折角のトーストの味がわからなくなる」
「うん、うん。朝ごはん、美味しいなぁ!」
結局のところ、エリアも影のことについて詳しいわけではなかった。
ただ、ひとまず『危険だから遭遇したら逃げる』という程度の共通認識は得られたということで、その話題はお開きになった。
「ねえ、街に行ってみる?」
「え?」
「紹介するよ、アゼリアの街」
その瞳に淀みは無かった。純粋に、自分が大切にしている街を伝えたいという意図しか彼女には無かった。
もしエリアの身に何かあったら、と一瞬迷ったリュックだったが、今までアゼリアで暮らしてきた事実があるから大丈夫だろう、ということで承諾した。
「あ、服はお揃いになるけどいい?」
「え?」
昨日の泥だらけの服を着るわけにもいかず、想定外のペアルック外出が決定した。
◇ ◆ ◇
「どしたの?顔赤いよ」
「…べ、別に何でもない」
いくら記憶がなくとも、リュックが今までドレスを着て外出をしたことなど無かったのは確か。
気のせいか、視線が集まっている気がした。
葡萄畑を越えて着いたアゼリアの街は、小さな田舎町だった。
広くない道の両脇には石造りの民家や店が並ぶ。どちらを見ても、生垣や花壇に咲く花が鮮やかに目に映った。
小さなレストランに見える施設には、丁寧に作られた木彫りの看板が下げられている。
人通りは多くないものの、通り行く人たちは気さくに声を掛け合っている。
すれ違う女性の姿を見ると、エリアやリュックのような可愛らしいドレスは着ていなかった。
「…これほんとに普段着?」
「そうだよ?」
あっけらかんと答えるエリアの目を見て、リュックはそれ以上聞くのをやめた。
「そこが雑貨店。生活用品だけじゃなくて、装飾品とかインテリアも売ってるの。何か欲しいときは大体あそこに行くんだ」
「窓際にあった、不思議な形の花瓶とか?」
「あ、そう!あれお気に入りなの。それでね―――」
エリアは楽しそうに街を巡り、リュックに見せた。
一番生垣が綺麗な通り、猫が集まっている裏路地。
美味しいパンを売っている店に、いつもお世話になっている花屋。
何処を見ているときも、エリアはただ好きな物を共有出来ることを楽しんでいた。
花屋の店主らしき男性は何やら驚いた様子だったが、エリアは特段気にしていない様子だった。
終始楽しそうにしているエリアを見て少し安心したリュックだったが、やはり先程の店主の表情には引っかかる部分があった。
何か怖いものでも見るかのような目。エリアはその時店主の顔を見ていなかったが、意図して目を逸らしたようにも見えて気がかりだった。
そんなことを考えていると、どうやら難しい顔になっていたらしく、エリアがリュックの顔を覗き込んだ。
「…ちょっと、休もっか」
「ああ、いや、ごめん。今、ちょっと考え事してたんだ。疲れてるわけじゃないよ」
「そう?…でも、結構歩いたし。向こうにお店があるから、そこに行こう」
「ん、わかった。そうしよう」
無意識か、エリアはリュックの手を取って歩いていた。
少し開けた道、二階建ての民家も道に面している。
その一階では、先程とは別の雑貨屋らしき店が構えられており、手前では気の良さそうな初老の男性が風船を子供に配っていた。
嬉しそうに風船を受け取る子供たち。二人は、微笑ましい表情でその様子を眺めている。
「いい街だね」
「でしょ?」
その日一番のいい笑顔でエリアは答えた。
「だから、この街が好きなの」
その後に、少し寂しそうな顔をした。
「パパ!」
雑貨屋の上、二階の窓から男の子が手を伸ばしている。
風船配りの男性が手を振り返す。どうやら彼の息子らしかった。
釣られて、近くにいた女の子も窓際の男の子に手を振る。
ふと、女の子の手から風船が離れた。
「…あ」
危ない、と感じたのは一瞬だった。
男の子が、風船を捕まえようと身を乗り出したのだ。
あと少しのところで風船は彼の手をすり抜けた。
「危ない!」
男の子が、足を滑らせて窓から身体を乗り出す。
そのまま転がるように外へ。
男性が、持っていた風船全てを手放して走り出す。
が、彼の足で間に合う距離ではなかった。
一瞬の判断。
エリアは迷わず両手を前に出し、魔法陣を―――
そう思ったところで、彼女の横で突風が巻き起こった。
リュックがいち早く踏み出していた。
「間に合わな…!」
一瞬無理だと思った矢先、男の子の落下速度が一瞬和らぐ。
それによって、地面との衝突寸前、リュックが体を挟み込むようにして彼をキャッチすることができた。
周囲がざわめく。
「ロラン!大丈夫か!」
男性が駆け寄る。男の子は泣いているが、大怪我はしていない様子。
「…間に合って、よかった」
そう言ったリュック自身、咄嗟の行動とその結果に驚いていた。
「ありがとう、君。何か礼を」
「いえ、そんな」
男性は気が付いていないが、周りで見ていた人々は、リュックの人並外れた身体能力に唖然としている。
目立ってしまうことに少し躊躇しつつ、エリアも彼らに駆け寄った。
「怪我はない?」
「うん、大丈夫…あ」
なんとか答える少年だったが、膝を見ると擦り傷から血が出ていた。落ちるとき、窓枠で擦ってしまっていたらしい。
「あ、血が出てるね。大丈夫だよ、おねーさんに任せて」
「…え、エリア?」
まさか魔法を使うのかと心配するリュック。エリアは魔法は使わず、ポーチから救急セットを取り出した。
エリアは手際よく処置を終えると、「もう大丈夫だよ」と少年の頭を撫でた。
「ありがとう」
少年はエリアの目を見つめて言う。一方のエリアは、少年だけには視線を合わせて笑った。言い換えれば、他の誰とも目を合わせないようにしていた。
リュックは気が付いていた。
エリアが、少年を助けるために一瞬だけ魔法を使っていた事。
少年が先に落下してしまうのを防ぐためだ。それが無ければ、リュックは間に合わず、彼は硬い地面に頭をぶつけていた。
自分が魔女だと、ばれただろうか。
視線を上げるのが怖かった。
「薬を持っている人がいるとは、助かった。お二人とも、本当にありがとう」
男性は、裏の無い表情で謝辞を述べた。
「…いえ。私は何も」
その言葉で、エリアはなんとか顔を上げることが出来た。
「エリア、ごめん。借りてる服、ちょっと破れたみたいだ」
「ううん、大丈夫」
周りを見ても、エリアのことを魔女だと指差す人間はいないようだった。
ただ、聞こえないように何かを話している人はいる。それがリュックにとっては少し不愉快に思えた。
「ロラン!」
少し遅れて、少年の母親が家から出てくる。
「無事でよかった。あなたが助けてくれたのね、ありがとう」
いえ、と頭を下げるリュック。
「ママ、こっちの人が怪我の手当てをしてくれたんだ」
「そうなのね。どうもありが―――」
見たくない光景だった。
リュックがその母親の表情を見た時感じたのは、やり場のない悔しさだった。
たった一瞬、母親の表情が固まっていた。
その一瞬は、彼女の本心を述べるにはあまりに十分すぎる間であり、エリアの決心を大いに無碍にするものだった。
「…ありがとう、ございます」
「…!」
母親は、努めて笑顔だった。
ただ、嫌悪か恐怖感か、隠しきれないエリアへの『何か』は声の震えとして確実に現れていた。
再び、エリアの目は何処かへと泳いでいく。
母親が出来る限りの常識的な対応を取れば取るほど、エリアは彼女のことを責めることは出来なくなり、自己嫌悪に走った。
私なんかで、ごめんなさい。
でも、仕方ないんです。
私は本当に魔女だから。
途端に、周囲の視線に刺すような痛みを覚え始める。
ほんの僅かに、母親は息子を抱き寄せる。エリアから引き離すかのように。
「おい、やめろ。助けてくれたんだぞ」
「だ、だって。―――いや、なんでもないのよ、ごめんなさいね」
「ママ?」
少年は不思議そうに母の顔を見つめる。
「―――ごめんなさい。これ、置いていくので。傷の治りが遅ければ、使ってください」
「エリア!」
エリアは立ち上がると、早足で人気の少ない方へと歩いていく。
リュックも慌てて立ち上がり、その家族に小さく挨拶をするとエリアの後を追った。
恨んだりしてはいけないと、唇を噛み締めた。
エリアは、彼らを見てこの街が好きだと言ったのだから。
ただ、それはきっと叶わない片思いのようなものなのだろうと、彼女は思った。
途中、エリアを見失うことは無かったが、周りに人がいない路地に着くまでは何も話さなかった。
エリアは、日陰の縁石に座り込んでうずくまってしまう。
「…ごめんね、お店行くって、約束だったよね」
「お店は、今度行けばいいよ」
「…」
ぐちゃぐちゃになった感情をどうにか整理して、エリアは話す。
「私、助けようと思ったんだけど―――ありがとう。リュックのおかげで、魔女だって、ばれずに済んだし…」
「…」
実際のところ、本当に魔女だとばれていないのか真偽は分からない。
仮に大丈夫だったとして。このまま、街の人々との関係がグレーな状態のまま続いていくことに耐えられるのか。
子供の命を救うため、魔女だと明かす覚悟で魔法を使おうとした。
恐らくは、それを最後に街に居られなくなるつもりで。
ただ、ほんの少しだけ、魔女である自分を受け入れてくれることを願っていた。
もしはっきりと魔法を使って見せていたとしたら、あの母親は笑顔で繕ってくれただろうか。
エリア自身、希望を持つことに限界を感じていた。
「私、この街が好きなの。なのに、なのに―――」
リュックは、ただエリアを抱き寄せて落ち着かせる。
どう言葉を掛ければよいか、考えていた。
「…家、帰ろうか」
「うん」
重い足取りの中、二人は帰路に着く。
リュックの服は背中の部分が破れていて、エリアは、それを隠すためか、あるいは自分の表情を見せないためか、ずっとリュックの後ろに隠れるように歩いていた。
◇ ◆ ◇
家に戻った後、二人は街での出来事についてはあまり話さないようにしていた。
服の破れてしまった部分を修復しようとリュックがドレスを脱いだことで、彼女が背中を怪我していることに気が付く。
リュックは大丈夫だと言ったが、エリアは何が何でもそのままにはできないと彼女を座らせた。
「じっとしててね」
背中を向けているためリュックからはっきりとした様子は見えないが、先程の救急セットを取り出しているのとは違う音が聞こえる。
本をめくるような音の後、エリアは一つ深呼吸をする。心の中で、『上手くいきますように』と唱える。
彼女が何か囁くと、その手元からは穏やかな自然光が発された。
「…痛みが引いた」
「よかった」
エリアが安堵の息をつく。
「これが、治癒の魔法。大怪我は難しいけど、これくらいなら簡単に直せちゃうんだよ」
リュックが自分で背中に手を回してみると、傷が残っているような感触も無い。
まるで怪我など始めから無かったかのように、綺麗な状態へと戻っていた。
「…すごい」
ただ思ったことを呟いて、振り返った。
そこで見たエリアの表情は、喜びか悲しみか分からないような顔で泣きそうになっている。
「…そ、そう、かな」
母親以外の誰かに、ましてや魔法のことで誉めてもらったことなど今までになかった彼女は、どう返事をしていいかもわからずただ目を泳がせた。
リュックはそのままエリアを抱きしめて、落ち着かせるように背中を摩る。
「凄いよ、間違いなく。また、助けてもらっちゃったね。ありがとう、エリア」
エリアは、ただ子供のようにリュックに縋って、うん、うんと涙声で答えた。
その日の夜も、リュックはソファの上で寝ると申し出た。
エリアは少し考えた後、彼女の厚意を素直に受け入れ、ハグをした後に大人しく寝室へと姿を消した。
その後ろ姿は、先日よりも少し小さく見えた。
暗い部屋の中、リュックは今日起きた出来事を思い返す。
子供を助けた時の母親の反応と、それを受けたエリアの表情。
そればかりが頭の中で繰り返されていた。
眠れるはずもない。
その直前までの楽しそうな表情との差が、より彼女の絶望感、悲壮感を強調させた。
裏切られた、というのは少し違う。
その時のエリアの表情は、『ああ、やっぱり駄目なんだ』というような諦めを感じさせるようなものだった。
事実、エリアは期待していた。
自分のことを認めてくれる存在がいると知って、舞い上がっていた節があった。
リュックと一緒なら、いつもは気の引ける外出も上手くいくのではないかと、そう思っていた。
馬鹿だなぁ、とエリアはベッドの中で丸まって、心臓を抑え込む。
いくら押さえつけても痛くて、痛くて、どうにもならない。
今になっていくら『やめておけばよかった』と悔やんでもどうしようもなかった。
一人が認めてくれた、それで満足していたのに、欲をかいた。
今ならアゼリアの街の人達とも仲良くやれるのではないか、と思い上がった。
あの母親の目が頭から離れない。
ずっと、ずっと同じことを考えている。
リュックは、どう思っただろうか。
勝手に連れ出して、勝手に浮ついて、そんな私をどう思ったのだろう。
馬鹿な奴だと、目に映ったのだろうか―――
「ねえ、エリア」
痛かった心臓が、別の理由で飛び跳ねてまた痛くなった。
「あぇ、え、おわぁあぁぁ」
「あ、ごめん。驚いたよね」
考え込み過ぎて周りの音が聞こえなくなっていたのか、既にリュックはエリアの眼前にまで顔を近づけていた。
殆ど、覆いかぶさるような姿勢になっている。
「何度か声、掛けたんだけど。耳、塞がってたから」
驚きすぎて気が付いていなかったが、リュックはエリアの羊耳を持ち上げて囁くように声を掛けていた。
「だ、だぶっだぃぅっ」
呂律が回らず、大丈夫だよとも言えずに慌てるエリア。小さく手をばたつかせているが、特に意味はない。
一見、捕食者が羊を捕まえて品定めをしているようにも見える。
「…あのさ。エリアは、アゼリアの街が好きなんだよね?」
その言葉にエリアは動きを止めた。
好きであることは間違いない。ただ、日に日に感じている一方通行な想いに、複雑な感情を思えているのも確かで。少し、間が開いた。
「…うん」
「わかった。…それを承知の上で、聞くんだけどさ」
「…?」
「一度、遠くのどこか、新しい街に行ってみない?」
どうしてそういう結論に至ったのか、よくわからなかった。
ただぽかんと顔を見ていると、リュックは「ええと」と考えながら話を続ける。
「その、なんていうかさ。恋は盲目っていうか―――大事なものが目の前にあると、それ以外のことが考えられなくなるでしょ?だから、上手くいかないと辛くなるばっかりだと思うんだ。だから、その。一度、距離を取ってみるのもありなんじゃないかなって。いや、ごめん。思い付きなんだけど」
今まで考えもしなかった発想に頭が追い付かず、エリアはただじっとリュックの目を見つめる。
リュックは、決まりが悪そうに目をあちらこちらへ泳がせながら次の言葉を考えている。
「新しい、街」
ただ、言われた言葉を反芻しただけ。
その反芻しただけの言葉が、音と共に胸の痛みを何処かへ連れて行ってくれたような気がした。
暗くてよく分からないが、リュックは、少し驚いたような、喜んだような表情をしているように見えた。
「そう、新しい街。誰もまだエリアのことを知らない街。そこで、新しい服買ったり、なんなら、新しい所に住んでみたり。もちろん、帰りたくなったら帰ってくればいい。私が居れば、影だって怖くない」
「…花」
「…」
エリアは、じっとリュックの目を見つめたまま、子供のようにリュックの服の袖を掴む。リュックは、エリアが思い浮かべる景色を言語化するのを待っている。
「新しい、花。見たこと無い花も、あるよね」
「あるよ、絶対。初めて見るような花が、一面に咲くような花畑だってきっとある」
エリアは、母親に縋るように、リュックの身体を抱き寄せていた。
足りなかった何年分もの欠落を埋めるように、ただ彼女の優しさに甘えた。
「行きたい」
「うん。行こう、何処か遠い所。エリアが気持ちよく暮らせる、理想の場所」
「うん」
リュックはそのままベッドに乗り込んで、子守歌でも聞かせるかのように、エリアが眠りに落ちるのを見守った。
それでようやく、彼女も隣でゆっくりと目を閉じた。
リュックも、エリアから必要とされることだけが、唯一の自身の存在意義を感じられる理由だったのかもしれない。
彼女自身、それを自覚はしていない。ただひたすらに、エリアが幸福であることを祈り続けていた。
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