第2話 報復の塔、希望の塵
そろそろ辺りが暗くなった頃。
俺は営業での収穫がないまま、絶望的な気持ちで再び井の頭公園のベンチに座っていた。
現実はいくらやる気を出したって、早々すぐに上手くいくわけじゃなかった。
これじゃ出社した月曜日にまた怒号が飛んでくる。
そう思うと心がまた沈んだ。
まあいい、明日は日曜日だ。
日曜日にしっかりと寝て、少しでも心の栄養にしなければいけない。
「お、義贋じゃないか」
けれど、今だけは絶対に聞きたくない声が、頭上から聞こえた。
「部長……」
そういえば吉祥寺に住んでたっけ。思い出したくもない事実だが。
よく見ると部長の隣には小奇麗な奥さんの他に赤ちゃんを乗せたベビーカーも置かれていた。
部長は俺の様子を見るやいなや、「その様子じゃ全然ダメだったようだな」と苦笑いする。
内心ではそれが面白くて仕方ないというのが口元から見て取れる。
「ええ、まあ」
俺は「ははは」と乾いた笑いを浮かべる。
下手に言葉を言い返すと、その言葉の上げ足をすぐにとってくるからだ。
「こんなところで休んでいるからお前はダメなんだ。休まなければいつか仕事は取れる。営業は常にお客様の事を優先して努力だ。お客様の為に無償で働き、全力で会社に貢献するんだぞ、この俺のようにな」
あらあらと奥さんはにっこり笑っている。奥さんとお子さんに罪はないが、普段の部長を知っているからこそ、家族の前で良い人ぶる部長の顔は見たくなかった。
正直、心の奥にどす黒い雲が渦巻いていくのがよく分かる。
けど何とか憎しみを抑え、喉から声をやっと絞りだした。
「あ、ありがとうございます、では直帰しますので、また月曜日に」
これ以上この場にいたら心が砕けそうだ。
俺は足早にその場を後にしようとするが、部長がさっと手を上げて俺を制する。
「義贋、あの資料まとめておいてくれ、月曜までな、俺のデスクに頼む」
ニヤリと笑う目元。
こいつ——ワザとこのタイミングで仕事を振りやがったな。
「——分かりました」
日曜日も消えた。
なんでいつもこうなんだ、他人の物事にばかり左右される俺の人生。
がんじがらめで選択肢なんてない未来。
一生救いのない世界。
「きゃああああ!」
得意げな部長を背にして足早に歩き出した直後、断末魔の叫び声が聞こえる。
振り返ると部長たちの目の前に、いつの間にか全身が真っ青な炎に包まれた、二足歩行の毛むくじゃらのバケモノがいた。
体長は二メートルほどで、ラグビー選手のようにがっちりとしている。
全身は炎の毛に覆われていて、顔の鼻の高さから狼男のような化け物を連想した。
青焔の化け物は口から青い炎を吐き出しながら掌を何度か握る。
その度に轟々と音が闇に溶けていく。
部長は奥さんとベビーカーを守るように家族の前に立つが、焔の前に後ずさる事しかできない。
だがそれも当たり前だろう、知らぬ間に眼前に出現し、餌を見るような眼で物色されれば本能は恐怖に支配される。
「お、おい、義贋! た、助けろ、今すぐにだ」
部長は青焔のバケモノの背中越しにいる俺へと叫んだ。
「聞いてるのか! 義贋! 今役に立てよ、今すぐにだ! 身体を張れって言ってんだ!」
俺は部長の顔を見る。
190センチほどの巨漢を持つあの部長でさえ、口元をわなわな振るわせている。
足もがたがたで今にも地面に砕け落ちそうだった。
毎日会社で怒鳴り散らしているのにあんなにも怯えているなんて。
「ふ、ふはは」
俺は口から小さな笑い声が自然と漏れてしまった。
「はは、ははは」
正直、こうなればよかった、誰かが命を刈り取ってくれないかと思ってたんだ。
毎日毎日。
「お、早くしろ、警察じゃ、間に合わん!」
いつの間にか辺りは宵闇に沈み、周囲には俺しかいない。
見過ごしたところで、誰も事実を知ることはない。
といっても誰も信じないだろうが。
焔の化け物の腕が部長へと延びる。
化け物の口から伸びた炎が舌のように部長の顔を舐めた。
ジュッと音がしたかと思うと、部長は「ひっ」と声を上げて、家族を押しのけて後ずさる。
「や、止めろ、俺に触るな! 早くなんとかしろ、俺には家族がいるんだ、会社もある、怪我でもしたら世界が困るんだよ! 義贋、貴様は死んでも誰も困らんだろう!」
それが人に助けを乞う言葉なんだろうか。
「足止めしろよ! 俺を逃がすためだけに死ねよ!」
家族を押しのけたものの、地面にはいつくばってそこから動かない。
きっと腰でも抜かしてしまったんだろう。
俺の心に生まれた漆黒の雲が全身を包んでいく感覚、復讐心。
「ふ、ふはは、ふはは」
このまま部長が死ねば、あの家族も死ぬ、会社にも打撃を与えられる。
訳の分からない怪物に殺されれば証拠も残らない。
「最高のシナリオじゃないか」
神はまだ俺を見捨てていなかった。
こんなに最良の日があっただろうか。
「グルルル……」
青焔のバケモノの腕が部長の喉に触れる。
「あつい、あつい——頼む、助けてくれ義贋、これまでのことは、謝る、ただの、ただ俺もむしゃくしゃしてて、だから、だから——社内で弱いやつが必要なんだよ、必要悪なんだ、社員全員の息抜き先が必要だろう? なあ?」
「今更遅いですよ、部長。俺はね、ずっと——」
殺したかったんですよ。
あなたを。
そう言いかけたところで、俺の指先に何かが触れる。
クシャッとした紙の塊のようだ。
ポケットから引っ張り出すと、豆腐ドーナツの包み紙だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます