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「う~ん、これで試験は全て終了! 晴れて今日から夏休みだ!」

 試験会場から退くと、繭は大きく伸びをし、ふうと一息吐いた。

「お疲れ様、実技も無事に終わって良かったねぇ。演奏、今までで一番の出来だったよ」

 会場から漏れ渡るフルートの音を聞きながら、私は今しがたの実技試験を振り返る。

 この一月、夜中まで共に練習した甲斐あり、本番では審査員も納得のいく、美麗な音を繭は奏でられることが出来ていた。

「ありがとう! それもこれも、あけびの伴奏のおかげだよ! 一度ミスしかけたところも、うまくカバーしてくれたし。ねー、この後空いてる? 駅前でお疲れ様会しようよ!」

「いいよ! 私も試験は昨日で終わっているし……繭と暫くのお別れ会も兼ねてね」

 キャンパスを抜け、鬼子母神堂の前を通ると、一足早い蝉の音が聞こえた。今日も暑くなるのかな、繭の気怠げな一言に、私は苦笑いを浮かべ、

「いいじゃん。どうせすぐに、酷暑と湿度とは無縁のウィーンに旅立つんだから。ほら、日本の夏の思い出に、あの子たちと一緒に、蝉取りでもしてきたら?」

 堂内で、虫取り網片手に走り回っている小学生らを指差すと、彼女は、青春だねぇとコロコロ笑いを立てた。

 池袋の駅前は、他の学校も夏休み期間に入っているのか、多くの学生で沸き立っていた。

 私たちは、東口繁華街の一角にある、行きつけの割烹居酒屋に入る。個室に入って暫く、繭はお気に入りの日本酒が届くと、実に美味そうにグッと飲み出し、

「夏の日本には何の未練も無いけど、日本酒が暫く飲めなくなるのだけは辛いねぇ。練習にバイトにクタクタになった時は、ワインなんかよりも、やっぱ日本酒が一番」

「好きだね、日本酒。とは言ったって、留学期間三ヶ月足らずなんでしょ。そんなのあっという間じゃない。それで、ウィーンにはいつ旅立つの?」

 繭からウィーン留学を告げられたのは、丁度三日前、最後の共同練習後のことだった。

 侑磨が、校内留学プロジェクトに合格して、半年間ウィーンに旅立つことになったの。それでね、お祝いに行ったら、もし良ければ繭も一緒に勉強に来て欲しいって。

 白のワンピース姿で顔を真っ赤に染める彼女に、私は楽譜立てを持つ手も止め、度肝を抜かれた。

「二週間後。私ウィーンって初めてだから、今必死になってドイツ語勉強してるの。ねぇ、『私の音色はいかがですか』って、ドイツ語で何て言うの?」

「ごめん、私もドイツ語は全くわからない。でも、最悪ジェスチャーでもいいでしょ。私、フランス語は全くだったけど、それでどうにか、フランス滞在乗り切ることが出来たし」

 開き戸がサッと開かれ、注文した刺身と軟骨のから揚げが現れる。ジェスチャーかぁ、案外そういうもので解決出来ちゃったりするものなのかな。そんな繭の不安話を肴に、梅酒をちびり飲み続けていると、

「それより、あけびの方こそ、昨日の試験どうだったのよ? ねぇ、埼玉の音楽祭、無事選ばれることになったの?」

「あー、おかげさまで、どうにか木谷先生からGOサインを貰ったよ。カルロ・ティタローザの特別レッスンも受けられるみたいで。また今日からその課題曲に練習漬けだよ」

「えっ、ティタローザって、あのイタリアの巨匠の!?」

 繭がマグロの刺身をボトリと落とし、私は咄嗟にしかめっ面を浮かべる。ごめん、ごめん。でも凄いことじゃない! 羨望の入った眼差しに、私はそっと切子グラスを傾け、

「そう。木谷先生から告げられた時は、私もびっくりした。一日限りの特別レッスンらしいんだけど、先生の名に恥じぬよう、一層精進しなきゃ!」

 クイッと梅酒を飲み干すと、繭が少し遠い目で私を見つめる。どうしたの、私の問いかけに彼女は、ううん、何でも、と笑顔で手を振り返し、

「でも、それで言ったら、私もプライナー音楽院でみっちり稽古を受ける手筈だから。負けないよ。今度帰って来た時、あけびを、ぎゃふんと言わせてやる」

「彼氏に現を抜かしている人に、負けるもんですか! はぁ、今日は飲むよう! すいません、おかわりで、林檎酒のロックを!」

「おっ、いいね! 明日からまた禁欲生活に突入するし、今日ぐらい飲まなきゃ。店員さん、私も獺祭を一合ください!」

 追加のお酒を注文する私に、繭も勢いづき、届いた徳利を瞬く間に空けてしまう。こうしてものの開始数時間足らずで、私たちはすっかり出来上がってしまった。

「あけびー、この後、カラオケ行くよー! 私、キリンジの『野良の虹』歌いたいの。後、オザケンの『ぼくらが旅に出る理由』も!」

 その後、繭の提案で、場をカラオケに移すと、私たちは互いに気兼ねなく、別れの曲を熱唱し合った。


 千鳥足にて、サラリーマンの増す池袋駅へと戻ると、駅前は夜の歓楽街へとその装いを変えつつあった。

「あけび、今日は半日、付き合ってくれてありがとう。凄く楽しかった! これで心おきなく、明日からまたしっかりと、音楽に向き合うことが出来る」

 いつもの別れ場所である、メガバンク前の地下入口。それまでの奔放な振る舞いは鳴りを潜め、ふぅと一息吐いた繭は、潤んだ瞳で私を眺めた。

「こんなとこで言うのもあれだけど……私改めて、音楽大学に入って本当良かった。正直、金銭面や周囲の反対もあったけど、おかげであけびや侑磨みたいな、顔立ちも腕前も抜群な演奏者と出会うことが出来て」

「切磋琢磨しながら、好きなフルートに打ち込めて、私本当に幸せ!」

 顔を朱く染めた繭は、実に多幸感に満ち溢れた表情で、周囲の喧騒をしみじみと見渡した。

 瞬間、私の心はチクリと痛んだ。幸せ? この娘は、自身の射幸心を得るために、才能ひしめき合う音楽大学に入学したというのか。

 この学生期間が満足ならそれで良いのか、だったらその先は! 私はすっかり悦に酔い浸っている、彼女の純朴な顔が、心底不可思議かつ羨ましかった。

「そう……でも立派な演奏者だなんて、とてもじゃないけど私言えないよ……ねぇ、ウィーンへのフライトいつだっけ? 時間が合えば私、お見送りに行くよ!」

「本当に!? 嬉しい! えっとね、予定では――」

 彼女から予定の日時を聞くと、私たちは名残惜し気に、最初で最後のお疲れ様会を終えた。

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