41.空涙 ― 1

 夕食の準備ができたと使用人から呼び出しを受けると、イリファスカは憂鬱な気分のまま、階段を下りて食堂へ向かった。



 ヴェラハーグ、カザディア、セルヴェン……そして客人であるケーレン医師も交えての食事の席は、正気を保つのがやっとの状態で参加するには厳しいものだった。


 会食では今後の公務について話し合われ、当面はヴェラハーグが全ての仕事を引き受け、セルヴェンが退所して領地に戻ってくるまでの穴埋めをすることが改めて決められた。


 『もっと早くにこうすべきだった』と悔いる義父に、イリファスカはぎこちない笑みを返した。

 カジィーリアに“屋敷を出ていく”と宣言した手前、領地の運営に関する話題を持ち掛けられても、心苦しくなるだけだったからだ。



 話し合いの最中、アトラスカ親子は懲りずに各々の言葉尻を捕らえて、険悪な雰囲気を生み出していた。

 そんな中ありがたかったのが、ケーレン医師の存在である。


 ケーレン医師はイリファスカの冴えない表情を見て取ると、誰に頼まれずとも仲裁役を買って出た。

 さらに公務関連の取り決めが終われば、すかさず別の話題を持ち出して会話の主導権を握り、イリファスカに余計な問答が及ぶことを未然に防ぎ、上手くお開きまでの場回しをしてくれた。


 翌朝の食事の席でも同様の働きを見せ、イリファスカはこの主治医のお陰で、どうにかこうにかアトラスカ親子との会話を乗り切り、帰宅する義両親の見送りまで済ませた。




 義両親が消えたことで、肩の荷も一つ降りた。


 そろそろセルヴェンの滞在終了も近い。

 彼も応接間での一件を気にしているのか、執務に不明点があっても寝室まで尋ねに来ることはなく、互いに顔を合わせないまま四日が過ぎた。


 だが王都へ発つ前日になると、セルヴェンは何度も鍵のかかった寝室の扉をノックして、イリファスカに『出発前にひと目顔を見せてくれ』と頼み込んできた。



「イリファスカ……またしばらく会えないんだ……扉を少し開けてくれるだけでいい……ひと声聞かせてくれるだけでもいいんだ……最後に何か反応をくれ……」



 懇願する声が聞こえてきても、イリファスカは無視してベッドの上で掛け布団にくるまり、幼虫のように丸まって目を閉じていた。


 いよいよ別れとなる翌朝を迎えても、態度は変わらず……。


 馬車に乗り込む前や、乗り込んだ後も……セルヴェンは幾度となくイリファスカが閉じこもる寝室を屋外から見上げては、窓越しに彼女の姿が映らないか未練がましく探した。

 しかし影一つよぎることはなく、セルヴェンは結婚して初めて、妻からの見送りがない出発というものを味わった。




 こうして本邸は普段の静けさを取り戻した。


 悩みの種達が消え去ると、長らく滞在していたケーレン医師も屋敷を発った。 

 ケーレン医師は『伯爵様にも私から病状説明を……』と、自ら滞在の延長を申し出てくれたが、計画のさまたげとなることを恐れたイリファスカは、やんわりと断りを入れた。


 これで残すはキラジャの来訪のみであるが、到着日が明確に決まっていない中、ひたすら不安を抱えて待つしかないというのは、つらかった。


 仕事はなく、趣味を楽しもうとする意欲もなく……。

 カジィーリアとはポツポツと言葉を交えはするが、以前のような他愛ない会話で盛り上がることはなかった。

 旅の物資の準備がどこまで進んだとか、どの国や地域を目指すかだとか、現実的で息が詰まる話ばかりで……望んでいた関係には戻れなかった。




 ―― そして翌週、ついに懐かしき家紋が刻まれた馬車が、侯爵邸の正門に停車した。



 使用人らと共に玄関口で並んで待機していたイリファスカとカジィーリアは、従者が外から開扉するのも待たずに車内から飛び出す人影を見て、互いに手に汗握った。


 所作も気にせず駆け足で向かってくる大人が二人と、全速力で勢いよく駆けてくる子供が一人……。


 瞬く間に目前まで迫ってきた少年は、涙でぐしゃぐしゃの顔面を服の袖でぬぐいながら、イリファスカの胸を目掛けて飛び付いてきた――。



「お姉さまっ!!」

!! まさかあなたの顔が見られるなんてっ……! 元気だった? 前に会った時は私の腰ぐらいまでだったのに、もうこんなに背が伸びたのねぇ……!」


 イリファスカはぐずぐずに泣き崩れる少年をしっかりと抱き返し、柔らかな微笑みを向けた。



 ―― アデュシーン・ルーゼンバナスは伯爵家の末の子……イリファスカと十七も年の離れた弟だ。


 しかし弟と言えど、生みの母は違う。

 イリファスカは次女のタジャッズ、三女のクォンラーと共に、キラジャのである“ハリリィ”という女性から生まれた。

 一方、長男のアデュシーンだけは、現在の伯爵夫人である後妻ごさいの“チェラカーナ”から生まれた子だった。


 イリファスカが五歳、タジャッズが四歳になった頃からキラジャの特殊な教育は始まり、気弱な実母ハリリィは夫に頭が上がらないながらも、何とか我が子への虐待をやめさせようとしたが……彼女はクォンラーの誕生と引き換えに、はかなくなってしまった。


 幼かった姉妹は母との思い出を薄っすらとしか覚えていないが、没後二年で父が再婚し、しかも相手がチェラカーナだったことには、当時酷く衝撃を受けたものだ……。



「お姉さまっ……!! ひっぐ……!! お姉さまが死んじゃうって……!! み、みんな大慌てだったからっ……!! “もう会えるのが最後かもしれないから”って……!! ぼくも一緒にって……!!」

「ごめんね、心配かけて……お屋敷のみんなやお医者様が手厚く看病してくれたお陰でね、今はもうすっかり元気を取り戻したわ。ヴェラハーグ様の元には大袈裟に話が伝わっちゃったみたいでね、それでお父様のところにも同じように……ね……」


 自分と同じ、父譲りの金髪と翠眼をキラキラと陽の光に反射させて泣くアデュシーンの姿がまぶしくて、イリファスカは目を細めて彼を見下ろした。


 アデュシーンは次期当主として、真っ当な育てられ方をしていると聞かされていた。

 “あの家で大切にされるなんてことが起こりうるのか?”と、にわかに信じ難い話であったが……会合会場の待機場で見掛けた時のアデュシーンの表情はいつも明るかったし、身内しかいない場での父の接し方が、驚くほど穏やかだったところを見るに、やはり家督を継ぐ男児となれば待遇が違うのだと、イリファスカはいささか羨ましさを感じていた。



 ここでふと……背中に回されたアデュシーンの手の感触に違和感を覚えたイリファスカは、自然な動作で彼を引き剥がし、左手の中指と薬指に包帯が巻かれていたことに気が付いた。


「……この包帯……どうしたの?」

「あっ……これは――」

「最近剣のお稽古けいこを始めたのよ。変な握り方をして、指を痛めちゃってね……」



 アデュシーンが答えようとした時、遅れてやって来た母のチェラカーナが遮るように発言した。


 切れ長の目の中心に浮かぶ、深い青色の瞳がこちらをじっと捕らえる。

 昔から憎悪を孕んだようなチェラカーナの目付きが苦手だったイリファスカは、すぐに頭を下げて視線を落とし、挨拶をした。


「お母様……この度は大変なご迷惑をっ……」

「迷惑だなんて……こんな時まで謙虚でいる必要はないのよ? 可愛い子……もっとお母様にお顔を見せてちょうだい……」


 チェラカーナは目を潤ませて微笑むと、イリファスカを抱擁して頬にキスをした。


 はたから見れば、前妻である姉が残した子供にも分け隔てなく愛情を注ぐ、慈愛に満ちた後妻に映るだろう。

 実際は例の躾にも積極的に参加する人だったが……。



「さぁ、一番に元気をお伝えしなきゃいけない人がいるでしょう?」

「……っ」



 耳元で囁かれた艶のある声に、イリファスカは息を呑んだ。


 前方から息を整えながら近付いてくる男性。

 娘が病み上がりにしては真っ直ぐに立ち、飛び付いた弟をなんてことなく受け止めたところ見て、途中から駆けるのをやめた父は―― ……今ゆっくりと、安堵の笑みを浮かべてやって来た。



「おとう、さま」

「イル……」



 父は愛おしそうに名を呼ぶと、周囲の視線を独占した最高の瞬間にほろりと涙をこぼし、両手を広げて、チェラカーナとアデュシーンごと、イリファスカを腕の中に閉じ込めた。

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