40.これで最後だから ― 2
【注意】
この回には虐待シーンが含まれております。
苦手な方、フラッシュバックなどが懸念される方につきましては、ブラウザバックを推奨いたします。
――――
「約束して。キラジャ様が帰路についたら、何が何でもわたくしと共に遠い地へ旅立つと」
力強い眼差しにこめられた思いを感じ取ったイリファスカは、息を呑んで彼女を見返した。
応接間でひと
カジィーリアは『夫婦喧嘩の熱が収まらぬうちに、イリファスカを焚き付けてこの地から引き離そう』と考えていた。
しかしグリスダインは、『病み上がりの体では長期の
“何を悠長なことを”とカジィーリアは反論に出ようとしたが、確かに病気の原因は心身の疲労の蓄積……追っ手が付き纏い、医者にもそうかかれない道中で再発してしまえば、今度こそ命を落としかねない。
そう考えると、何も言えなくなってしまった。
色々と意見を出し合い、好機の見極めをグリスダインに託して、せめて前侯爵夫妻とセルヴェンがそれぞれの拠点へ戻ってから一週間程度……心身を休ませ、満を持して実行しようかと決めたところで、ヴェラハーグの出しゃばりによるキラジャの来訪。
さらには、イリファスカの心のぶれだ。
カジィーリアは背後で静観しているグリスダインに、勝手に予定を早めてしまったことを心の中で詫びながら、正面で揺れる頼りない翠眼をじっと捉えた。
「でも……その……旅って言っても、やっぱり色々と準備をしなくては――」
「“
“禁じ手”である一言を告げた瞬間、イリファスカの表情は絶望に歪んだ。
―― 部屋の
そこに座る教育係の面々は、紙とペンを手にして、こちらの周回を待ち構えていた。
まず一つ目の角に座る教育係の前に立ち、頭を下げて、己の欠点を一つ、声高らかに報告する。
背筋を曲げることなく、次の二つ目の角に座る教育係の元を目指して、広い折檻部屋の角から角を直線上に歩いてゆく。
到着するとまた頭を下げて、直前に口にしたものとは違う欠点を一つ、声高らかに報告して、三つ目の角に座る教育係の元へと向かう。
三つ目が終われば四つ目に。
四つ目が終われば一つ目の角に戻り、また二つ目、三つ目、四つ目と……延々と部屋の角をぐるぐると巡りながら、己の欠点や過ちを告白して、自戒する。
これこそが、ルーゼンバナス家の子供達が恐れた“反省”。
キラジャは決して肉体に痕が残る体罰は行わなかった。
外部の人間から指摘を受けぬ範囲内で、無力な幼少期から徹底して我が子の精神を追い込み、父を絶対的な存在として刻み付けるのだ。
室内には監視役の兵士が配備されており、歩みを止めれば無理矢理に立たせられて、続行を命じられる。
何時間も休憩なしに歩き詰めで声を張り続けていると、次第に息は上がり、思考が正常に働かなくなる。
故に子供達は解放される時が来るまで、ひたすら狂いそうな単調作業をこなすしかないのだ。
頭を下げて“反省”しては、歩みを進めてまた頭を下げて“反省”。
歩いて、頭を下げては、“反省”。
歩いて、頭を下げては、“反省”。
歩いて、頭を下げては、“反省”。
歩いて、頭を下げては、“反省”。
歩いて、頭を下げては、“反省”――。
“反省”は基本的に、本人達が目立つ失敗をしてしまった際の教育として執り行われるが、キラジャの気分で発生することもあった。
朝から始まり、晩に終わる日もあれば……就寝前に始まり、翌朝まで強制される日も珍しくはなかった。
“反省”には達成すべき告白数というものが開始前に定められ、下限は五十から……多い時は百を越える己の中の改善点を見つけなければならなかった。
厄介なのは、『心から正そうとする気持ちがあるならば、すでに声に出した内容を忘れはしないはず』という理屈で、
子供達は己の発言内容を記憶しながら“反省”を行わねばならないが、目標設定が高いとそれだけ単純な運動量が増え、思考力が保てずに自滅する。
だからどの子もだいたい、制限時間を迎えてやっと解放されるのだ。
教育係が書き物道具を用意しているのは、子供達の発言を一つ一つ書き残して、厳しく管理するためだった。
ただ勤め人の中には、キラジャの支配を受けぬ特別な立場の者もいた。
『ドレスの裾を踏んで人前で転んじまったんですって? ははっ、なんともお可愛いらしい失敗じゃないですか。いつもしょうもないことで罰を受けて……お貴族様として生きるのも大変なんですねぇ? 俺ら
……そう言って、
せっかく良くしてくれる人間がいても、親の指示で遠ざけられてしまう。
そんな中で現れた、唯一の味方……それがカジィーリアだったのに――。
カジィーリアだけは、何があっても見放さないでほしかった。
カジィーリアだけは、こんな風に自分を追い立てないでほしかった。
イリファスカは乱れる呼吸の中で、必死に声をしぼり出した。
「……やっ……約束するっ……! カズと一緒にっ……逃げるわっ……!」
大切な人を繋ぎ止めたい一心で、イリファスカは求められた答えを口にした。
中身の伴わない返事だということは、カジィーリアも分かっていた。
だが、それでよかった。脅しをかけるようなやり方になってしまったが、これもイリファスカの―― ……イリファスカ
「絶対ですよ? 誰に引き留められようと、必ずここを去るのですよ?」
「ぜっ、絶対っ……! 出てくっ……! 絶対だからっ……!」
「絶対……約束ですからね?」
「うんっ、約束っ……! だからっ……そんなに怖い顔をしないでっ……!」
おぼつかない足取りで、一メートルほど開いていた距離を詰めてきたイリファスカは、震える指でカジィーリアの垂れ下がった手をすくい取った。
濡れたまつ毛の先で揺らぐ瞳が
自分の中で着実に、イリファスカに対する負の気持ちが強まってゆくのを感じたカジィーリアは、何とか気を紛らわすために過去の楽しい思い出を振り返った。
―― 彼女が成長するまで、毎夜本の読み聞かせをして寝かしつけてあげたこと。
二人で刺繍の練習をしている時に、どちらかが針で指を刺すたびに笑いが起こったこと。
虫が苦手だった自分の肩に大きなトンボが止まってしまった際、声にならない叫びを上げるこちらを困ったようになだめながら、臆せずトンボの羽をつまんで逃してくれたことなど……。
……そうだ、ここでイリファスカへの親愛を疑ってはいけない。
もう少しの
またしても黙り込んでしまったカジィーリアを、イリファスカは不安そうに見つめていた。
二人のやり取りを見守っていたグリスダインは、方針を変えたカジィーリアの心情をくみながら、ささやかな対抗策を提案した。
「人目があれば良いのですよね? 当日は理由を付けて、侯爵家側の人間を室内に控えさせておきましょう。奥様は一度倒れられた身……使用人やケーレン先生などが同伴しても、違和感はないはずです」
「……いえ、同伴はわたくしだけで結構です。事を起こす前に目立つのは、よろしくありませんわ」
カジィーリアは後ろを振り返って答えた。
確かにそれらしい理由を並べて、対策を施しておいた方が精神的には楽なのだろうが……イリファスカが言っていたように、逃走前に目立つ行為だけは避けたかった。
「あと一度きりの我慢ですもの……頑張りましょうね、お嬢様」
カジィーリアがイリファスカに向き直って言うと、彼女は視線を右往左往させて、無言で何度も頷いた。
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