39.これで最後だから ― 1

 上階へ向かったイリファスカは、一度客間に顔を出してから義両親と二言三言話をして、自身の寝室へと戻った。


 セルヴェンと相性が悪いために待機を命じておいたカジィーリアは、グリスダインと何やら話し込んでいたようだった。

 開扉かいひの音を耳にするなり、彼女は居ても立っても居られない様子で、部屋の端っこから駆け寄ってきた。


「大事ありませんでしたか……!? 何か失礼なことを言われては……!?」

「……カズ……ごめん……私ね……」


 イリファスカは応接間での出来事を正直に話した。

 セルヴェンの卑劣なやり口と、様々な不安に駆られた自分が同調してしまったこと……そして、キラジャの来訪についても。



「キ……キラジャ様がこちらにっ……!?」



 想定外の人物の名が飛び出すと、カジィーリアは両手で口元を覆い隠し、落ち着きなく視線をさまよわせた。



 ―― カジィーリア……姓を“カグラー”と言う。


 彼女はカグラー子爵家の末の令嬢であり、とある過ちが原因で、入学して間もなく貴族学校から退学処分を受けた、言わば生家の厄介者であった。


 親に修道院送りにされかけていたところで、折よく屋敷を訪問したのがルーゼンバナス伯爵夫妻だった。


 彼らは『生涯を娘に捧げてくれる侍女候補を探していた』と言って、酔狂すいきょうにも訳あり人間相手に好条件を持ち掛けた。


 カジィーリアの両親である子爵夫妻は『そちらで問題を起こしても責任が取れないので』と申し出を断っていたが、最終的には世間体を選び、頭を下げて娘の身柄を引き渡した。


 修道院行きが嫌だったカジィーリアにとっても、二人からの誘いはまさに渡りに船だった。


 主人となるイリファスカは、当時から目下の人間にも礼節をもって接する出来た子供であったし、本来貴族学校で学ぶはずだった学習については、キラジャが教育係を付けてくれたので補完が間に合った。

 失墜しっついした身には勿体ないくらいの整った環境に、カジィーリアは日々伯爵夫妻への感謝を口にしていた。


 狂気の矛先が、自分に向かってくるまでは――。




「今まで領地をまたいでやって来たことなんかなかったのにっ……ヴェラハーグ様ったら余計なことをっ……!!」

「……流石に、侯爵家の敷地内で酷いことはしてこないと思うけど……」


 弱々しく呟くイリファスカを物言いたげに見つめると、あるじは焦ったように身を縮こませた。



 ……カジィーリアも、イリファスカの閉塞感に追われた末の行動には、一定の理解を示していた。


 七年前、キラジャは娘が侯爵家に嫁ぐと、途端に幼少期から延々と続けてきた束縛を解いてしまった。

 まるで興味の失せた玩具がんぐを放り投げる幼児のように、一切の未練なく接触を断ち、それまで敷いていた異常な監視体制も崩したのだ。


 昔はカジィーリアのように、嫁入り時にイリファスカに付いて出てきた伯爵家側の使用人達が何人もいた。

 しかし彼ら、彼女らは身内の不幸などを理由に次々と退職を申し出て、屋敷を去っていってしまった。


 イリファスカに残された味方はあっという間にカジィーリアだけとなり、正当な理由があったとはいえ、立て続けに退職者が出た事実に侯爵家側の使用人達は『若奥様に仕えると身内が死ぬぞ』と、馬鹿な陰口を叩いて笑っていた。


 この退職者達がキラジャの手駒てごまであったことは、言わずもがなであるが……イリファスカもカジィーリアも、キラジャの妙な配下の動かし方に意図が読めず、困惑していた。


 たとえ向こうの気まぐれによるものだとしても、自由を得られたのであれば喜ぶべきだろうが、キラジャは気まぐれを起こす人間ではない。


 しばらくは“何か仕掛けてくるはずだ”と気を張り続けた二人であったが、いつまで経ってもキラジャが動きを見せることはなく、それどころか体裁を気にして手紙を送った際には、『頻繁に連絡を寄越してくるな』と何故だか突き放されるようになり……。

 そうして伯爵家の人間とまともなやり取りをするのは、大きな会合や催し物で直接顔を合わせた時のみとなっていた。



 ただ、一方のしがらみが緩まったところで、新たな家庭での問題は山積みであった。


 侯爵代理としてやっていくための、不足分の知識を毎日寝る間も惜しんで詰め込み……支えてくれる義両親に感謝しながらも、跡継ぎの催促を受けて神経をすり減らし……。


 いくら忘れ難きつらい過去と言えど、目先の困難に集中する時間が長くなると、心の奥底へと追いやられてかすんでゆく。

 

 二人はいつしか伯爵家ではなく、侯爵家からもたらされる問題に感情を揺さぶられるようになっていた。

 今回は意外な方向からキラジャが絡んできたので、カジィーリアもつい取り乱しかけたが……長子だからと徹底した“教育”を施されたイリファスカは、なおのこと突然で恐ろしかったのだろう。



 仕方ない、理解は示せる。

 理解は示せるが、カジィーリアももう限界を迎えていた――。



「大丈夫よ……ただお見舞いに来るだけだから……振られる話にちゃんと返事をしていれば大丈夫……私兵の雇用さえ内緒にしておけば、他にやましいことはしていないのだから……今まで何も起こらなかったんだから、今回だってきっと……」


 黙り込むカジィーリアが怖かったのか、イリファスカはもごもごと口を動かして言い訳を並べた。



 カジィーリアは哀れな主人を見つめながら、お互いに交わした少し前のやり取りを振り返った。


 あの日……新薬の完成を知らされた朝の支度時……カジィーリアはとても嬉しかったのだ。

 イリファスカが初めて己の誘いに乗り、一緒に新天地を目指してくれると答えてくれたから。


 過去に何度か、その場の勢いで『公務を放棄して遊びに出掛けよう』と誘ってみたことがあった。

 『逃げよう』ではなく、『遊ぼう』だ。小さな切っ掛けでよかったのだ。人並みの楽しみを味わえば、イリファスカもその気になってくれるのではないかと考えた。


 しかし彼女は『勝手なことできないわよ』と言って、いつも笑いながら拒否をした。


 それが初めて……最後に大きな病に苦しめられはしたが、初めて頷いてくれたのだ。

 セルヴェンへの思いにも踏ん切りをつけたと言ってくれた。


 これでようやく真の新たなる人生を歩み出せると思っていたのに、結局イリファスカは最後の最後で尻込みをしてしまった。

 向こうに他者を振り回している自覚はないのだろうが、カジィーリアにはもう、主人を支える自信がなくなっていた……。



 だから、今回ではっきりさせたかった。

 イリファスカが誰の手を取るのかを。


 自分か、セルヴェンか、伯爵家か――。




 カジィーリアはの誘いを口にした。

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