38.地獄への道は善意で敷き詰められている ― 3

 応接間に移動した四人は、それぞれの夫婦に分かれてソファーに腰掛けた。


 カザディアはニコニコと嬉しそうに笑みを浮かべながら、対席に座る息子夫婦を交互に見やった。

 イリファスカは何故か浮かれた様子の義母に嫌な予感が働き、視線を合わせられなかった。

 隣ではセルヴェンがヴェラハーグを睨み付け、ヴェラハーグもまたそんなセルヴェンを睨み返しているのだから、余計に気が重い。



 腹をくくったイリファスカが場を取り仕切ろうと口を開きかけたところで、紙一重の差でヴェラハーグが先に発言を始めた。


「セルヴェン、領地に帰ってこい。これ以上イルに公務を任せっきりにしてはいけない。我々はこの子の優しさに甘えていたんだ。色々と苦労を掛けた分、今後は好きなことをして過ごしてもらって――」

「言われずとも近いうちに戻ってくるつもりだ。祝賀会を機に部下に引き継ぎを行い、退所する。これからは望まれた通りの生き方をしよう。



 ―― 義父の台詞を遮って繰り出されたセルヴェンの言葉に、イリファスカは目を丸くした。



「お前は……自分に纏わり付いている噂に関しては、どう対処するつもりなんだ? 今更“知りませんでした”では済まないぞ。私とカザディアで数えられないくらいの便りを送っていたのだからな」

「俺が第二夫人を娶ろうかと考えているという、ふざけた噂については最近知った。二人から届く手紙は昔から小言ばかりだから、正直言うとここ数年はろくに開封していなかった。だが今になって後悔しているよ……もっと支えてくれている人々の声に耳を傾けるべきだった。俺はイリファスカを愛しているんだ。彼女以外とどうにかなりたいなんて考えたこともないのに、問題はかなり大事になってしまっているらしいな……これから世間に対して積極的に否定してゆくつもりだが、二人からも『あの話は嘘だった』と周囲に訴えかけてくれないか? 一刻も早く解決したいんだ……イリファスカのためにも……」



 セルヴェンはがく然としているイリファスカの方へ顔を向けると、両親に見せつけるかのように、妻の手に自分の大きな手を重ねて、優しく微笑みかけた。


 過去に狂おしいほどこいねがった夫の笑顔は、形を変えてイリファスカの心を引き裂いた。



 妻が自分から離れられないよう、セルヴェンは両親を利用して外堀を埋めてしまおうと目論んでいた。


 元より馬の合わないヴェラハーグには期待していなかったが、狙い通り浅慮せんりょなカザディアは射止められたみたいだ。


 目の前で繰り広げられる安い浪漫ろまん劇のような光景に、カザディアの目は爛々と輝いていた。

 念願の孫誕生への期待から、彼女は誰に指示されるでもなく、自発的にイリファスカを追い込み始めた。


「あぁっ……なんてことっ……イルが倒れたと聞いた時はハラハラしたけれどっ、まさかこんな吉報が聞けるなんてねっ……!? ―― イルッ、もう大丈夫よっ!! これであなたを批判する者は誰もいないわっ!! 今までの困難もきっと、二人が心から結ばれるために必要な試練だったのよ!! セルヴェンがこんなにも情熱的な子だったなんてっ……もう〜〜っ、 感動して涙が出てきちゃったぁ!!」


 舞い上がるカザディアの無邪気な失言の数々は、見事にイリファスカの退路を断った。


 やかましくはしゃぐ母に何を思っているのか、セルヴェンはわずかに目を細めた。

 そんな彼を、イリファスカは怒りや悲しみをはらんだ、何とも言えない形相で凝視し続けた。



 それぞれの反応を観察していたヴェラハーグは全てを察して、困り果てた様子で首を左右に振って言った。


「カザディア、よしなさい……イルの浮かない表情をごらん。今のセルヴェンの発言は、夫婦で話し合って導き出した答えではない。全て奴の出任せだ。変に期待をして彼女を追い詰めるんじゃない」

「変って……いやだわあなたっ!! せっかくセルヴェンが心を入れ替えたのに、なんてことを言うのっ!? イルは照れてるだけよ!! ねっ、イルッ、そうよねっ? セルヴェンのことを愛しているでしょうっ?」

「やめないかっ!! ―― セルヴェンッ、お前もなんと恥知らずな男だ!! 跡継ぎのことなら心配ないぞ、親戚から養子を取って育て上げればよいのだからな!! お前は代替わりまで公務をこなしてくれればいい……!! これからは望む通りに生きてくれると言うのだから、文句はないだろう!?」


 “養子”という言葉にセルヴェンは一瞬肩を揺らしたが……特に反論するでもなく、黙って父を見据えていた。



 ただ、跡継ぎ問題に関するヴェラハーグの主張を耳にして、誰よりも敏感に反応したのがカザディアだった。


「ダメダメッ……養子なんてダメよぉっ!? 親戚とは言えっ、由緒正しき侯爵家の跡継ぎがよその子じゃあっ……!?」

「こんな人でなしの子を宿すなどイルが不憫でならん!! 血よりも大切なのは“信頼”だ!! 直系と言うだけでろくに領地を気に掛けたこともない者よりも、信念を持って任に当たる者を重んじるのは当然のことだ!!」

「信頼よりも信念よりもっ、血の方がずっと大切よぉっ!! 私達は貴族なのよっ!? 傍系ぼうけいの跡継ぎなんてっ、リスイーハの歴史の中では数名しかいないじゃない!? お願いだからそんな恥を私達の代で生み出さないでっ……!!」

「セルヴェンの行いの方がよっぽど恥だ!! 君はよくもこんな男の味方をできるものだな!? こいつはいつも適当な言葉を並べて私達を煙に巻くというのにっ!!」

「息子だから味方するんでしょう!? 親が我が子を信じてあげないでどうするのぉ!!」


 ヴェラハーグとカザディアは、しばし二者間での言い合いを展開した。



 結局のところ、カザディアは献身的な義理の娘よりも、我がままな実の息子の方が可愛いのだ。


 髪色こそ父親譲りだが、セルヴェンの目鼻立ちはカザディアにそっくりだった。

 腹を痛めて産んだ子であり、なおかつ容姿が似ているとくれば、擁護するのは仕方のないこと……ヴェラハーグの方が変わっているのだと、イリファスカは義母に対して、得意の諦めの気持ちを働かせた。


 養子の話は初耳であったが、ヴェラハーグが意見を尊重してくれただけで、充分心は救われた。



 ……そう、だ。

 これでまた我慢できる。



 珍しく言い返さないセルヴェンに横目をくれると、彼は空いている方の手で力こぶしを作り、膝の上で小刻みに震わせていた。


 才能面で自身に劣る父から散々非難され、それを甘んじて受け入れるなど彼の自尊心が許さないだろう。

 だが、ここで耐えねば味方を確保できないということぐらいは、理解しているらしい。



 本当に……小さな世界で生きている人だ。

 この無神経な男に、己が背負う苦しみの欠片でも味わわせてやれたらいいのに――。




「私、セルヴェン様のご帰宅を心待ちにしておりますわ」




 義両親の口論が激化する室内で、イリファスカの無機質な声色が、ひとときの静寂を生み出した。



「……ほっ……ほらねぇっ!? イルもそう言ってるでしょうっ!? 二人は愛し合ってるのよ!!」

「イル、嫌なことは嫌と言うんだ!! こんな時まで自分の気持ちを殺さなくていい!!」

「いえ、お義父様……これは本心です。セルヴェン様に思うところは多々ございますが、今後は私を大切にしてくださると約束してくださったのです。それだけでです。『ルーゼンバナスの人間は、アトラスカ家に尽くしてこそ』……実家ではそう教わりました。愛を望むなど分不相応ですのに、お目をかけていただけるなんて、私は恵まれておりますわ」


 ニッコリと上手く笑みを作ったはずだが、何故だかヴェラハーグは悲しそうに面を伏せた。


「私はキラジャにも……君の父君にも面目が立たないんだよ……キラジャは私にとって弟のような存在だ……情に厚く、忠誠心に溢れ……せっかく娘である君に嫁いでもらったのに、私達親子の都合で振り回してばかりで……良い思いをさせてやれず……」


 がっくりと肩を落として言うヴェラハーグに、イリファスカは少々の間の後、答えた。


「……父とは大きな集まりで必ず顔を合わせますが、別段気にした様子はございませんので……お義父様もお気になさらないでください。そもそも私に魅力と能力が足りていなかったからこそ、良くない噂が立ち上がってしまったのです。謝らねばならぬのは私の方です」

「そんなことはない、君は優れた子だ!! 本当に……息子には勿体ない……素晴らしい女性だ……!!」

「栄えある御方の隣に立てるなど、身に余る幸福です。……空気を変えるために、一旦お開きにしましょうか? 他に気になる事柄がございましたら、また夕食の席にてお話しいたしましょう。しばらくは客間でゆっくりなさってください」


 義母を見つめながら勧めると、ヴェラハーグはしくしくと泣いているカザディアを一瞥し、ばつが悪そうに『そうさせてもらおう……』と、溜息を吐いた。



 カザディアは無事に話が収束したことへの安堵と、普段温厚なヴェラハーグから強い言葉を投げ掛けられた悲しみで、涙が止まらなかった。


 妻の情けない姿に顔をしかめながらも、ヴェラハーグは彼女の手を取って支えてやりながら、共に立ち上がった。



 応接間に入る前に、客間の準備を使用人達に頼んでおいたので、イリファスカは“セルヴェンと少し話したいことがある”と言って、義両親に先に上階へ向かってもらうことにした。


 直前のやり取りのせいで、ヴェラハーグは息子夫婦を二人っきりにすることに難色を示したが、当のイリファスカに“大丈夫だから”と何度もなだめられると、渋々ながらも了承した。



 ―― 去り際、義父はとんでもない爆弾を残していった。






「そういえば、ここへ来る前にキラジャにもイルの不調を知らせる便りを出しておいたんだ。伯爵領は遠い所にあるから、来週辺りに見舞いに訪れるかもしれない」






 イリファスカの心臓が、ドクンと大きく脈打った。






 セルヴェンでも、カザディアでもない。






 最も大きな障壁は、このヴェラハーグであったのだ――。






「……父が……こちらに……」

「キラジャは昔から子煩悩こぼんのうだからな。今でも私の元にこれでもかというほど近況を尋ねる文が届くし……共に狩猟に出掛ける時なんかは、もう狩りに集中できないくらいに、君や他の子供達の自慢話で喋り倒しなんだよ? はははっ」


 キラジャの表向きの顔に騙されているヴェラハーグは、親友の親馬鹿とも呼べる姿を思い出して笑った。



 だが、イリファスカは心穏やかではなかった。



 父が来る。

 自分を叱りに。



 父が、父が、父が、父が、父が、父が、父が、父が――。



「……公務で接する際は“伯爵”としてお相手するので、お互い立場を忘れて顔を合わせられる良い機会かもしれませんね。ふふっ……どうせなので、実家にいた時のように甘えてみようかと思います。お義父様、お気遣い感謝いたしますわ」

「いや、いいんだ。私も君の病状を知らずに慌てて書いて出してしまったからな……奴もさぞや心配していることだろう。元気な顔を見せて安心させてやってくれ」


 先程よりも断然明るいイリファスカの笑みを見て、ヴェラハーグは少しだけホッとしたように言った。



 幼い頃から刷り込まれた癖は、本人の意思に関係なく、“来訪を期待する娘”を演じさせた。

 今にも発狂しそうな状態にあっても、イリファスカの口からは、父の到着を待ち望む台詞が勝手に出てきた。




 ヴェラハーグとカザディアが応接間を去ると、怒りを鎮めたセルヴェンは、握ったままのイリファスカの真っ白い手を指先で撫でて、申し訳なさそうに口を開いた。


「イリ――」

「いつまで握っているおつもりですか」


 しかし重ねられた手を振り落とすかのように、イリファスカは自身の手を乱暴に引っこ抜くと、彼の体温が残る甲の部分をドレスの袖口でゴシゴシとぬぐった。


「あれだけ言ったのに、私の気持ちなんてどうでもいいのね」

「俺の元を去ってほしくないんだ……! 使えるものは何でも使う……たとえ親だろうが、君を縛り付けられるのであれば何でも……!」


 醜く語るセルヴェンに、イリファスカは鋭い眼光を向けた。



 こんな男にかまけている時間はない。

 寝室で待機するように告げていた、カジィーリアとグリスダインに父の来訪を知らせなければ。


 二人にどうすればいいか相談して、急いで支度して屋敷から逃げ出し―― ……いや、やはり逃げるわけにはいかない。


 来ると分かっていて、意識がこちらに向いている時に逃げてしまっては、確実にそれらしい理由を並べて追ってくる。

 『悪い犯罪者集団にさらわれた』とか言って、カジィーリアとグリスダインを悪者にして、確保した自分を抱き締めて、如何にも子を思う親のように『無事でよかった』と皆の前で涙ぐんで、被害者ぶって、そうして――。




 イリファスカは脳内を駆け巡る不安にボタボタと涙をこぼし、あれほど憎らしく思っていたセルヴェンに体当たりする勢いで、自ら抱き付いた。


「どうしようっ……わたしっ……どうすればいいのっ……!?」

「……すまない、イリファスカ……泣かせたいわけじゃないんだ……すまない……分かってくれ……」


 急に胸に飛び込んできたイリファスカに多少動揺したものの、セルヴェンは泣きじゃくる彼女を力強く抱き返すと、言い聞かせるように囁いた。


 何度も何度も後頭部を優しく撫でながら、謝罪の言葉を口にする。

 金糸の髪が指の隙間をくすぐる感触や、時々かすれる泣き声……しゃくりに合わせて揺れる細い体に、抱き上げた時よりも近く濃く感じる甘い香り……。


 イリファスカがもたらす感覚の全てが、セルヴェンの心を酷く高鳴らせた。



 実父の来訪に怯えたイリファスカの縋り付きを、セルヴェンは“跡継ぎの話を勝手に進めたことへの憤りと、そのやるせなさ”だと判断していた。


 しばらくは顔をうずめて嗚咽を漏らしていたイリファスカだが、段々と涙が引いて各部の赤みが取れると、うつろな瞳でセルヴェンの体を押しのけて、黙って応接間を出ていってしまった。



 残されたセルヴェンは、ぐっしょりと濡れたシャツの胸部分の生地をつまみ上げて、不愉快な湿り気に愛しさを沸き上がらせていた。

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