33.子は親を選べないのに ― 1

 セルヴェンが屋敷で過ごすこと、はや三日。

 いつ鳴るか分からないノック音に心を乱されながらも、イリファスカは読書や刺繍などをして暇を潰していた。



 何だかんだ、セルヴェンは立派に公務をこなしていた。

 若い頃に次期侯爵としての教育を受けていた彼だ。持ち合わせていた知識こそ古いものであったが、基礎がしっかりとできているため、イリファスカの補助を挟みさえすれば、坦々と仕事を進められた。



 それがまた、イリファスカの自尊心を傷付けた。



 多くの人間は慣れない仕事に判断が鈍るだろうが……セルヴェンのすごいところは、比較的大きな問題も悩まずに即決する点にあった。


 『仮に失敗したとしても、己ですら判断を誤る事柄なら、より劣る人間達が手を付けたところで、もっと酷い結果となっていただろう』と……良くも悪くも思い切りがいいのだ。



 イリファスカは熟考のしすぎで執務を溜め込む傾向にあったが、セルヴェンは逆に消化が早すぎる傾向にあった。

 どちらも一長一短だが、それぞれのやり方にとやかく口を出す者はいない。



 他にも、セルヴェンの優れた一面は細かな部分にも見て取れた。


 例えば各所から上がってきた金銭にまつわる書類を処理している際、セルヴェンは振り幅の大きい金額が並ぶ表を見て、一瞬の間に合計額を脳内計算で導き出してしまうのだ。

 しかも、絶対に解を間違えない。



 日に日に寝室の一角に居座る時間が長くなってきたセルヴェンに渋い顔をしていたイリファスカだったが、この日は彼の異常な計算速度に気付くと、驚きのあまりつい疑問を口にしてしまった。


「あの……旦那様は道具も使わずに、どうやって計算を……?」


 作業中は他者からの声掛けを嫌うセルヴェンであったが、この時はイリファスカの方から話を振ってくれたことに機嫌を良くし、得意げになって答えた。


「ああ……計算なら、普通暗算で済ませないか? それと……君が調べるように命じていたという“土壌改良に使用する紫色の石”についてだが……この報告書には“不明”と記載されているが、恐らくはシシラ石のことだろう。水中の小さな生物の死骸が固まってできる石だ。確かに我が国ではシシラ石を用いた耕作の歴史があるが、石の確保が間に合わなくなり、数十年前にすたれてしまった文化だ。君もよくこんな古い情報を仕入れたものだな? 誰かに聞いたのか? それとも本で調べたのか?」

「あ……いえ……あの……すみません……私ったら、よく知らずに……」


 以前グリスダインから情報を得て学者に問い合わせを行っていた、ガンカン地区の耕地問題について不意の回答を貰ったイリファスカは、“また余計なことをしてしまったな”と肩を落として声をしぼませた。


 責められる……でもないが、セルヴェンの『素人にしてはよく調べたじゃないか』を限りなく婉曲えんきょくした褒め方は、イリファスカの気力を削ぐには充分だった。


 しょげる主人を見て、石の情報を与えた張本人であるグリスダインも、罪悪感から悲しげに眉を寄せた。

 ベッド横で針仕事をしていたカジィーリアは、『どうしてこの人はいちいち角の立つ言い方をするのだろう?』と、頭の中でセルヴェンをボコボコに殴っていた。



 芳しくない反応に気まずさを覚えたセルヴェンは、小さく咳払いしてから書類を見下ろし、話をそらした。


「しかし、この報告者……前に会って話したことがあるが、この男ならシシラ石の知識ぐらいあるだろうに……何をもってして“不明”と報告したのか、今度尋ねてみよう」

「いえ、そこまでしなくても……私も軽い気持ちで問い合わせしただけなので……」

「軽くても侯爵夫人からの依頼だ。真摯に取り組まなかった姿勢は大いに問題がある。……普段から君はこうやって軽んじられていたのか? その……俺のせいで……」



 妙に弱々しく吐き出された言葉に、イリファスカは形容し難い感情に見舞われた。


 心のどこかで、自分以外に領地運営は務まらないという自信がイリファスカにはあった。

 まともに公務に携わったことのないセルヴェンに何ができると……これを機に自身が体験したつらさを彼が理解してくれれば、いくらか溜飲りゅういんが下がるかもしれないとも考えていた。


 『君に大変な役割を押し付けていた』と、公務に関して弱った姿を見せてくれれば、それだけで……それなのに――。



 現実は違った。

 セルヴェンは天才だった。



 これだけは彼に勝てる部分だと思っていた。自分の存在価値だと。

 侯爵代理として多くを求められることに不満を抱きつつも、『頼られている』という状況に、いつしか喜びを感じていた。


 だが、イリファスカを悩ませた困難全て、彼は持ち前の頭脳や地位で難なく乗り越えてしまう。

 結局こちらは凡人で、あちらは傑物けつぶつ……感じる苦痛にも差が生まれるのかと、イリファスカは酷く打ちひしがれた。



 こうして彼女の最後の心の柱を折ったのは、セルヴェン自身の秀逸さだった。


 単に頭の良し悪しだけではない。

 昨日、いつものように見舞いがてら新たな書類を届けに訪れた役人達が、出迎えたセルヴェンを見てギョッとし、ペコペコと頭を下げて媚びへつらう光景を目にして実感した。


 “家格”、“性別”、“年齢”、“功績”……生まれながらに持ち合わせた武器、積んできた経験、努力して成し遂げた成功……比べるまでもなく、かなわないものが多すぎるのだ。



 そばにいるだけで劣等感が刺激される。

 セルヴェン・アトラスカ。

 己の夫。



 イリファスカは乾いた笑いがこみ上げてきた。



「ふ、ふふっ……あなたのせい……? “そうですよ”……と、お答えしたら……あなたはどうするおつもりですか……?」

「……イリファスカ、俺はっ……!」

「カジィーリア、グリスダイン、下がってちょうだい」


 イリファスカは濁る瞳でセルヴェンを捉えたまま、両脇の二人に呼び掛けた。

 ためらうカジィーリアにグリスダインが目配せをして、両者は共に寝室を出てゆく……。



 自らベッドを抜け、正面の席へと移動し、相対あいたいする妻の冷ややかな表情を前に……セルヴェンは待ち望んだ話し合いの場だというのに、彼女に背を向けたくて仕方なかった。

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