32.手のひらの上

 ユタル家令は声を聞いただけで、今対面している相手が誰なのか把握した。


「支給品は大切に扱いませんと……こんな乱暴に脱ぎ捨てては、シワになってしまいますよ?」

「グリスダインッ……何故ここに!? 一体いつ入ってきた!? いや答えなくていいっ……すぐに出ていけっ!! ここは私室だぞっ!?」

「……ふっ……どうして来たかって? あなたを処分するために決まっているではありませんか」

「なっ―― !?」


 いつの間にか部屋に侵入していたグリスダインは、背もたれ部分に引っ掛かっていたユタル家令のベストを丁寧にたたんで自身の隣に置くと、目の前の机にあったマッチを一本すり、そばの燭台しょくだいに明かりをともした。


「何を驚いているのですか? どこの国でも文書の毀棄ききは重罪に当たるはず……まったく面の皮の厚い方だ。燃やせばこの世から消えてなくなると?」

「なにをっ……あっ―― !?」


 ユタル家令は目を見張った。

 グリスダインがふところから取り出したのは、二通の手紙だった。


 全てを知っているかのような直前の台詞に、封の開いた二つの手紙……ユタル家令は飛び掛かって手紙を取り上げたかったが、あれが本物であるか薄暗くて判別の付かない現段階で、不注意な行動は避けたかった。


 どうしてこんな脅しをかけてくるのかは不明だが、ここは慎重に―― ……。


「『君が食事の席を立った後、部下から低俗な噂について知らされた。今回初めて知ったことだ、誤解させて悪かった。今度会った時にきちんと話し合いたい。愛しているのは君だけだし、自分も周囲に向けて積極的に噂を否定していくので、どうか気に病まないでほしい』……あなた宛てのも読みましょうか? 『ユタル、日頃の報告は嘘だったのか? 第二夫人の噂など聞いたこともないぞ。妻が苦しんでいる姿をお前はずっとそばで見て――」

「やめろぉっ!!!! ……なぜだっ……どうして残ってるっ!? 燃やしたはずだっ、完全に灰になったのを見届けたのにっ、どうしてっ!?」


 一言一句違わずに読み上げられた内容に、ユタル家令はたまらず声を張り上げた。


 グリスダインは便箋びんせんを封筒に仕舞うと、ゆっくりと立ち上がり、狼狽するユタル家令へと向き合った。


 暗闇に浮かぶ、わずかに口角を上げただけの感情の読めない笑みがユタル家令に向けられる……。



「時にユタルさん……あなたは独身だそうですね?」

「だっ、だっだらなんだよっ……!? 私の家族を人質に取ろうと言うのかっ……!? ハハッ、残念だったなっ、私は独り身だっ!! 両親だってとっくの昔に亡くしてるっ!! 親戚を探したところで今更繋がりの薄いヤツらだっ、どうなったって知ったこっちゃない!! 脅しは通用しないぞっ!?」

「いえ、そういった意味で尋ねたわけではなく……独身ならば誰も捜索願いを出す人はいませんよね? と、言いたいだけです」

「……えっ?」


 ユタル家令はグリスダインの“言いたいこと”を即座に理解した。


 つまり彼は……。


「それってつまり……私を“殺す”ってことかっ!?」

「この国では毀棄罪は死刑に至らないのでしょうか? 旦那様はお屋敷からの追放だけで済まそうとしていらっしゃいますが、ジブンがこの手紙をお渡しすると同時に、あなたが叱責逃れのために隠匿しようとした事実を告げれば……いずれ首は飛ぶでしょう。今死ぬか後で死ぬかの違いです。何も変なことは言っていませんよね?」

「へっ、変だよっ!!!! 変っ、変っ、変っ!!!! 変すぎるっ!!!! まさか奥様が暗殺を命じたのかっ……!? あの方に限ってそんなっ……ぐっ……しかしっ―― !! 旦那様が私の処分をお決めになったんだっ!! ふた月後には大人しく屋敷を出ていくんだからっ、何もそこまでしなくたっていいだろう!?」

「そこまでかどうか、判断するのはあなたではありませんが……では、特別に生存へと繋がる選択肢を与えましょう。これからはこのグリスダインの指示に従うのです。奥様の地位が向上するように上手く役割をこなせば、命の保証はいたしましょう。拒否をすれば、あなたはこの場で死にます」

「なっ……何を言ってるんだよぉっ……!?」


 急速に進められる展開に、ユタル家令はめまいがした。

 グリスダインの指示など、どうせろくなものではない……しかし、ここで頷かねば命はない……彼の言ったように、今死ぬか後で死ぬかの違いなら――。



「おおーーーーいッ!!!! 誰かぁーーーーッ!!!! 誰か助けてくれぇーーーーッ!!!! グリスダインに殺されるぅーーーーッ!!!!」



 ……ユタル家令は今更ながら、大声を発して部屋の外にいる人間へと助けを求めた。

 “焦ったグリスダインに止められるかも”、という考えも湧かぬ間に行われた、咄嗟の行動だった。


 通常であれば、この時間帯は夜番を務める使用人達が近くの大部屋で待機しているはずだが……ユタル家令の悲痛な叫びもむなしく、辺りはしんと静まったまま、室外から足音が近付いてくることもなく、老いた家令の興奮した息遣いがひたすら闇に呑まれゆくだけだった。



「無駄ですよ、唯一の選択肢だと言ったでしょう? では改めてお聞きします……次の問いを逃せば、問答無用であなたの首をへし折ります。―― ユタルさん、奥様に忠誠を誓いますね?」


 乱れた呼吸を整える暇もないまま、グリスダインは一歩、また一歩と距離を詰めてきた。


 彼の太い腕が首元に伸ばされた瞬間、ユタル家令は真っ白な頭から一言しぼり出した。



「は、い」



 ボタボタと顔から垂れ落ちた汗が、床を濡らす。


 グリスダインはいつものニッコリとした愛想の良い笑みを浮かべると、伸ばした手を首ではなく肩に乗せて、二、三度優しく叩いて言った。


「ああ、よかった! 平和的に解決できて! 遺体の隠滅に労力を割かずに済むところが、話し合いの良いところですね! では……ジブンはこれにて失礼いたします。手紙は好きにしてください。ほら――」


 後退したグリスダインは、片手に握っていた手紙を宙に放った。

 ヒラリ、ヒラリと、それぞれ別々の方向に落ちてゆく二通のうち、どちらから掴もうか迷っていたユタル家令の目前で、手紙は突如、姿――。


「ハッ……!?」

。これ以上、奥様を悲しませないでくださいね」


 そう言い残すと、グリスダインは静かに部屋を去った。



 ユタル家令は床にへたり込むと、しばらくしてから体を起こして、よろよろと頼りない足取りで作業台の席へと腰掛けた。

 そして、震える手で引き出しの中から無地の紙を一枚取り出すと、卓上に転がっていたペンを掴んで、ミミズが這ったような文字で文章をつづり始めた。


 声が届かないのなら……文章で助けを求めればいい。


 グリスダインの警戒が強い今すぐにというのは無理な話だが、隙を見て使用人の誰かにこの紙を握らせ、彼の恐ろしさを暴いてもらえたなら―― ……その先どうなるかは特に考えていなかったが、ユタル家令はとにかく誰かに我が身の置かれた状況を知ってもらい、救いの手を差し伸べてほしかった。



 『これを読んだ君にお願いがある』……そこまで書いたところで、怪異かいいは起きた。



 ちょうどユタル家令の右手隣に置いてあったインク瓶が突然宙に浮かび上がると、次の瞬間、顔面横すれすれに勢いよく飛び掛かってきて、背後の壁へと衝突した。

 “バリンッ!!”という破壊音と共に黒い液体が周囲に飛び散り、ユタル家令の首筋にも付着して、つうっと垂れてシャツに染みを作った。



 ―― “いつでもあなたを見ていますよ” ――



 去り際のグリスダインの一声が頭の中で再生される。

 あの言葉通り、彼は常にこちらを“監視”しているのだ……そう、きっと今この時も……。



「あ……悪魔……っ」


 半ば強制的だったとはいえ、得体の知れない男との取引を終えてしまったユタル家令は、真っ青な顔で呟いた。

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