29.汚れた手 ― 2

 イリファスカを……ベッドを挟んで、セルヴェンとグリスダインの視線が交差する。

 両者の間に一触即発の空気が流れると、グリスダインはズンズンと大股でセルヴェンに向かって歩き出した。


「グリスッ、ダメよっ!!」


 投げ飛ばしはなしだと約束していたはずだが、今にも掴み掛からんばかりの私兵の勢いに、イリファスカは慌てて制止を求めた。


 セルヴェンは妻の一声に身構えると、目の前でピタリと立ち止まったグリスダインを半ば睨み付ける形で見上げた。

 セルヴェンも長身だが、グリスダインはその上をゆく背丈だ。

 服の上からでも分かる鍛え抜かれた肉体がより威圧感を増幅させ、本能が『向かい合うべきではない』と警鐘けいしょうを鳴らしている。


 だが、セルヴェンは引くわけにはいかなかった。



「侯爵を睨み付けるとは不躾な。貴様何者だ?」

「―― お初にお目にかかりますッ!!!!!! 先日から奥様の私兵を務めさせていただいておりますグリスダインと申しますッ!!!!!! 偉大なる侯爵様に遅ればせながらご挨拶申し上げますッ!!!!!!」



 ……衝撃波が放たれたような……ビリビリと肌に突き刺さる驚異の声量を正面からまともに受けたセルヴェンは、獣のように毛を逆立てて、口を半開きにして呆然とグリスダインを見つめた。


 “ニカッ!”と白い歯を見せて愛想良く笑ったグリスダインは、続けてセルヴェンの手を無造作に掴み取ると、ブンブンと勢いよく上下に振って、熱烈な握手を交わした――。



 グリスダインが静かに息を吸い込む一瞬を見逃さなかったイリファスカとカジィーリアは、いち早く両耳を手で塞いで直撃を避けていた。

 その横で巻き添えを食らったケーレン医師は、尻もちをついて『いま近くで爆発が起こりませんでしたかっ……!?』と、何が何だか分からぬ様子で周囲をキョロキョロと見渡していた。

 カジィーリアはそんなケーレン医師の手を取って、急ぎ強引に耳を塞がせる……。



 に備えていた三人とは違い、手を掴まれて退路を断たれていたセルヴェンは、耳鳴りのやまない頭を何とか働かせ、せめて声量を下げさせようと言葉をしぼり出した。


「こっ”……こえ”が大き――」

「ジブン旦那様が新薬ラバン・カーツに対する熱い思いを語った二年前のブコ社の新聞記事を拝見いたしましてこれはなんと興味深い分野であろうとご聡明な旦那様のお導きにより動植物への理解を深め調薬の世界にのめり込みさらに過去の出版物“牙の輝き”・“消えゆく血の追跡”・“アスボロマンの遺伝子”に加えて去年のこれまたブコ社が発行した新聞の対談企画でメルン学士と魔物の起源について意見をぶつけ合った回を拝読いたしましてあの日からああなんと己の芯というものを持った真っ直ぐなお方だろうと感動の嵐に包まれ過ぎ去る日々を学びに当てておりましたところまさにそんな折にちょうどそうちょうど奥様が私兵を募集しているとの噂を聞きつけたものですから力仕事には自信があるのでまたとない機会だとたまらず志願した次第でありますしかしながらまさか憧れの侯爵様を前にこうして直接お話できる日が来ようとはこのグリスダイン感極まって口が止まらぬ状態にございますッ!!!!!!」



 ……特大の声量はそのままに……ひと息で言い切ったグリスダインを前に、セルヴェンは無言でまばたきを何度か繰り返すと、しばし黙り込んで頭の中を整理した。



 グリスダインの言う通り、セルヴェンは二年前にブコという新聞会社から取材を受けていたし、過去に出版物を何作か世に出していた。

 耳を赤くして、目をギラギラに輝かせて鼻息荒く語るグリスダインの姿は、初めて会ったセルヴェンには自身の熱狂的な支持者に映った。


 ミフェルナがそうだったように、この青年も感情が高ぶると、早口でまくし立てる人間なのだろう。

 イリファスカが私兵を雇った理由は不明だが、もしかしたら第二夫人の噂のせいで、公務や生活に支障をきたしていたのかもしれない……。


 自分に近付くために妻を利用したとも取れる経緯は気に食わないが、これだけ体格が良くて、であれば、自身の留守中も不貞関係を築くことなくイリファスカを守ってくれることだろう。



 セルヴェンはイリファスカに意見して嫌われることを恐れ、呆気なくグリスダインの存在を受け入れた。

 そこには『こんな馬鹿そうな男にイリファスカがなびくはずがない』という、グリスダインへの侮りの気持ちがあった。

 粗雑な振る舞いからして下位貴族……いや、もっと酷い平民の出かもしれないが、だからこそ安心できるというものだ。社会的地位が高い侯爵夫人イリファスカが、わざわざ取るに足りない平民グリスダインを相手にするはずがないからだ。


 自分の本を読んで理解するだけの知能があるのなら、所作ぐらい教え込めばどうとでもなる……冷静になったセルヴェンは、深呼吸に似た溜息を一つ吐くと、興奮しながら返事を待つグリスダインに向かって口を開いた。


「……私兵の件は了解だ……グリスダインと言ったな? そう簡単に他者に触れるものではない……手を振り回すのもやめなさい。いい加減に離さないか」

「ああっ、これは失礼いたしました!」


 グリスダインは痛いぐらいに掴んでいたセルヴェンの手を慌てて離した。

 セルヴェンは薄っすら赤く残った手形をさすりながら、後ろで素っ頓狂な表情を浮かべて耳を塞いでいるイリファスカを横目に見やると、もう一度グリスダインに向き直って注意を付け加えた。


「侯爵家に勤める者ならば、もっと落ち着いて行動することだ。私に……いや、恥をかかせないようにな」

「ハイッ!!!!!! 以後気を付けますッ!!!!!!」

「グッ……! その大声もだっ……! 至近距離だと鼓膜こまくが破れそうだっ……! 以降は常識の範囲内に正すようにっ……!」

「ハッ―― !!?? 大変失礼いたしましたッ!!!!!! 以後気を付けますッ!!!!!!」

「……っ、本当に分かっているのかっ……!?」


 満面の笑みで暑苦しく声を張り上げるグリスダインに、セルヴェンは顔を引きつらせた。



「さ、さぁっ……挨拶も終えたことですしっ、そろそろ移動しましょうっ……! 長居するのはよろしくないと申しておりますでしょうっ……!」

「あ、ああ、分かった……じゃあイリファスカ、また後で様子を見に来る……」

「……お気遣いなく」


 額に汗を浮かべるケーレン医師に呼び掛けられたセルヴェンは、イリファスカの拒絶とも取れる返事を聞いて情けなく視線を泳がせると、彼女の肩を数回撫でてから部屋を出ていった。

 後ろを歩くケーレン医師の『不用意に奥様に触れてはいけません!』という抗議の声が、廊下からむなしく鳴り響く……。



 二人は見事に無視していったが、部屋の扉近くには、極度の緊張下でグリスダインの“挨拶”を浴びたユタル家令が、気を失って倒れていた。

 グリスダインは『外にいる使用人に引き取ってもらいましょう』と言うと、ユタル家令を軽々と持ち上げて、一旦室外に出た。


 嵐が去ったような静けさに、皆が出ていった扉をイリファスカがぼけっと眺めていると……沸き立つ心を抑えられないカジィーリアが、居ても立っても居られない様子で話し掛けてきた。


「あの方は一体どうしてしまったのでしょう!? まるで別人ですっ!!」

「……ミフェルナ様に説教でもされたんでしょう。旦那様はあの子の言うことには耳をお貸しになるもの。私が死んだ後に結婚するとなると、次はあちらに良くない噂が立ってしまうから……」

「な、なるほど……? それにしては本気で心配しているようにも見えましたが……? ……いえ、今更旦那様の肩を持つ必要はございませんわね。これだけお嬢様をほったらかしにしておきながら、よくもまぁ堂々と顔を出せたものです! あのままグリスダインに腕を振り回されて、窓の外へと吹き飛んでしまえばよかったのに!」

「ふふっ、そんなことになったら後始末が大変よ。グリスダインが辞めさせられないように平謝りしなきゃいけないしね。……本当、よく認められたものだわ……」


 イリファスカはセルヴェンが個人的な戦力を認めたことを、今でも信じられずにいた。

 秘密裏に私兵を雇っていたことを咎められるかと思いきや、セルヴェンはグリスダインの無礼すら許容してみせた。

 礼節に厳しいセルヴェンにあるまじき反応だ。


 セルヴェンをここまで変えたのは、きっとミフェルナなのだろう。

 天真爛漫てんしんらんまんというか、セルヴェンはああいった無邪気な娘に振り回されるのが好きらしい。

 やはりあの二人はお似合いだ。ミフェルナの幼い笑顔を思い浮かべるだけで、イリファスカの胸には醜い嫉妬心が駆け巡った。

 『私ではあの人を変えられなかったのに』と、どす黒い感情が渦を巻く。


 セルヴェンも嫌な男だ。

 いずれ本命の少女を娶るつもりであれば、今まで通り好きにやってくれればいいのに。

 今更こんな陰気な年増としま女の機嫌など、取らなくていいだろうに。



 もう葛藤する元気もないイリファスカは、足音を立てずに部屋に戻ってきたグリスダインを視界の端に捉えると、気を紛らわすために彼に気になった点について尋ねてみることにした。


「グリスダイン、あなたよく旦那様の著書なんて知っていたわね? いつ調べたの?」

「以前、休憩中に書斎しょさいの前を通り掛かったところ、扉が開いているのを発見しまして……興味本位で中を覗いたら色々とためになりそうな本が並んでいましたので、つい読み入ってしまいました。もしや入室を禁じられていたお部屋でしたか……?」

「ううん、不思議に思ったから聞いてみただけよ。あそこに機密物なんて置いてないから気にしないで」

「そうですか、それを聞いて安心いたしました。ご当主のご活躍くらい把握しておかねばと、軽い気持ちで目を通したのですが……まさかこんなところで役に立とうとは」


 グリスダインは肩をすくめて笑った。


 彼の言うように、書斎にはイリファスカが記念にと思って集めていたセルヴェンの著書や、彼の活躍が掲載された新聞の切り抜きなどが大切に保管されていた。

 内容はかなり専門的なものなので、異国から来たグリスダインが読んで理解したことは、それだけ彼の優秀さの表れとなるのだが……問題なのは、“書斎の扉が開いていた”という部分だ。


 書斎の管理はユタル家令の仕事であり、鍵が開いていたということは、職務怠慢の裏付けとなる。


 だが、イリファスカは気にしないことにした。

 細かい出来事には目をつぶろう。今はとにかく、嫌なことから気をそらしたかった。



 病状説明が終われば、セルヴェンは王都へ発つのか? それともこのまま何日か滞在するのか?


 イリファスカには夫の出発だけが気掛かりだった。

 早く屋敷から去ってほしかった。同じ建物にいるだけで息が詰まるからだ。



 イリファスカはずっとセルヴェンに握られていた左手を、反対の手でボリボリと掻き始めた。

 研究所で見たセルヴェンとミフェルナのじゃれ合いが脳裏にチラつく。

 あんな姿を見せつけておいて、死にかけた自分に今更愛しているだの何だのと薄ら寒い――。


「ねぇカズ、そっちにある水桶を取ってくれない?」

「え? ええ……どうぞ」


 イリファスカは近くの化粧台に置いてあった、水の入った桶を指差して言った。

 カジィーリアが手渡すと、イリファスカは自身の太ももに桶を乗せて、ベッドの上で熱心に左手を洗いだした。


 特にセルヴェンが何度も吸い付いていた甲の部分を、指の腹でぐにぐにと痛いくらいに押して入念に揉み洗う……。


「旦那様の手に泥でも付いていたのですか……? 旅の直後で湯浴みもしていませんものね……んまったく! 汚い体で病人に触れるなど、それでも薬学に携わる者ですか!? “整理”っ、“整頓”っ、“清掃”っ、“清潔”っ、“躾”っ―― ! グリスダイン、あなたも看病の際はこの五つを心掛けるのですよ!」

「記憶しておきます」


 心得を説くカジィーリアに、グリスダインが模範的な同調を示す。






 少しだけ雰囲気が明るくなった寝室内で、イリファスカはひたすらに左手を水に浸け、こすり続けていた。


「……気持ち悪い」


 ぼそりと呟かれた言葉は、侍女の甲高い声に掻き消された。

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