28.汚れた手 ― 1
「イリファスカッ!!!!」
セルヴェンが慌ただしく寝室の扉を開けると、その先には―― ……誰もいなかった。
「だ、旦那様っ……? 奥様がお休みになられているお部屋はこちらですが……」
「なっ―― !?」
長らく夫婦で寝室を分けていることに何の疑問も持たず過ごしてきたセルヴェンは、当然の如く自身が帰省時に使用している寝室を最初に訪ねた。
急いで後を追ってきたユタル家令に指摘され、二つ隣の部屋に“今度こそ”と意気込んで入室すると―― ……そこには見慣れた顔の医者と侍女、加えて体格の良い
「イリファスカッ、起きていて大丈夫なのかっ!?」
「……あの……すみません……こんな大事になるとは思わず……このような大変な時期に旦那様をお呼び立てするなど、あってはならないことと反省して――」
セルヴェンは伏し目がちに話すイリファスカの元へ駆け寄ると、間に立つ邪魔なケーレン医師とカジィーリアを押しのけるように体を割り込ませて、ベッド脇にしゃがみ込みイリファスカの手を取った。
命の危機と言われていた割に血色が良いだとか、長々とした台詞もはっきり口にできているだとか……そんなことはどうだってよかった。
無事ならそれでいい……イリファスカに誤解されたまま、永遠の別れを迎えるなんてことにならなければ、セルヴェンはそれでよかった。
「あっ、あのっ……旦那様っ……!?」
「よかった……!! 俺は二度とっ……君に会えなくなるんじゃないかと思って……っ!! 移動中もっ……きっ、気が気でなくてっ……!!」
セルヴェンはイリファスカの左手の甲に何度もキスを落としながら、安堵の涙を浮かべて声を震わせた。
イリファスカはそれを
“剥がし役”としてそばに控えていた者達も、想定していたものとは違うセルヴェンの反応に戸惑っていた。
セルヴェンがイリファスカに詰め寄る素振りを見せれば、二人を強制的に引き離そうと待ち構えていたのだが……。
いつも自信に満ち溢れていたセルヴェンの
元々運動が得意でないセルヴェンは、加齢のせいもあって少し階段を駆け上がってきただけで相当に息が切れていた。
イリファスカは乱れた呼吸を整えている夫を見下ろしながら、実物の覇気のなさに静かに溜息をこぼした。
熱にうなされていたせいか、彼に対する恐怖心が異常に膨らんでいたようだ。室内にいる味方が多いということもあるだろうが……思っていたよりも全然……平気だった。
セルヴェンのくたびれた姿は、イリファスカの心を落ち着かせてくれた。
それにしても彼のこの慌てぶり……イリファスカはどうしてセルヴェンがここまで取り乱しているのか、考えてみることにした。
幸いにも、答えはすぐに見つかった。
『ミフェルナを娶る前に自分が死んでしまっては、周囲から手放しの祝福を受けられないから』……そうに決まっているじゃないか。
二人の挙式では、自分は健康体で笑って多くの参列者をもてなさなければならないのだ。
要は“障害”でしかないのだ。名ばかりの第一夫人は死を迎えることすら迷惑な存在というわけだ。
そうでなければ、セルヴェンが
『俺がこんなにも心配してやったのに反応が悪かった』と、後でグチグチと責められてはたまらない。
「この度は誠に申し訳ございませんでした……これより自己管理には一層気を配り、二度とお手を煩わせませんよう再発防止に努めます……」
「そんな風に謝らないでくれっ……!! 悪いのはっ……悪いのは俺だったんだっ!!
「…………手紙?」
イリファスカはセルヴェンが恥を忍んで放った愛の告白よりも、途中の手紙のくだりに意識を持っていかれた。
この流れに『まずい!』と人知れず心臓の鼓動を早めたのが、セルヴェンと共に寝室へやって来ていたユタル家令だ。
「あっ……ああっ、そうだっ! その反応は……もしかして読んでいないのか? 先週出したものだから届いているはずなんだが……」
「……すみません……受け取った配達物の中に、そのようなものは……」
ユタル家令は夫婦の会話に耳を傾けながら、服の下で大量の
一方で話が読めないイリファスカは、これも最終的には己の過失として扱われるのであろうなと、叱られる準備をしていた。
セルヴェンはしばらく黙り込むと、扉付近で立ち尽くしているユタル家令を振り返って睨みを利かせた。
「ユタル、これは一体どういうことだ? お前宛ての手紙もあったはずだが……まさか俺の言葉をなかったことにしようと、手紙を
「な、なんのことでしょうか……? 確かに私は先日奥様宛ての配達物をいくつか受け取りましたが……その中に旦那様から送られてきたものは一つもありませんでしたよっ!?」
ユタル家令は必死に無実を訴えた。
配達物の管理は、ユタル家令の仕事の一つだ。
イリファスカの在宅や不在に関係なく、屋敷に届いた配達物は一度はユタル家令が目を通し、彼の仕分けにより名宛人へと渡される。
以前のセルヴェンであれば、イリファスカが不注意で手紙を紛失したものと決め付けて、彼女の気の緩みを注意しただろうが……今のセルヴェンはたとえイリファスカが出来の悪い嘘をついたとしても、それを全面的に支持するほどには彼女に負い目を感じていたので、疑いの目がユタル家令にゆくのは当然のことであった。
訳も分からぬうちに始まった追及劇を、イリファスカらは首を傾げて見るしかなかった。
「貴様……そこまで言うのであれば、局に問い合わせをしようじゃないか。配達員を調べれば分かることだ。もし嘘をついたのであれば、お前には適切な罰を与える」
「そっ、そんなぁっ!? 私は本当に何も知りませんっ!! 今までひたむきに仕事をしておりましたのにっ、何ゆえこのような仕打ちを受けねばならぬのでしょうか!? ―― 奥様っ、私は全ての郵便物をあなた様にお渡ししましたっ!! 本当ですっ!! 信じてくださいっ!!」
「イリファスカに縋るなっ!! 問い合わせをすると言っているだろう!! 黙って裁かれるのを待っていろっ!! お前はしばらく
……ユタル家令の罪は本物であるが、如何せんセルヴェンはユタル家令以上に信用がなかった。
証拠もなしに断罪を行うのは早計であった。自身に助けを求めるユタル家令の哀れな姿に、イリファスカは心を痛ませた。
人間というのは、すぐには変われないものだ。
セルヴェンはイリファスカの前でユタル家令を責めるべきではなかった。彼女の性格を理解していれば、この光景を見た妻が次にどういった行動に出るか、ある程度予想できたはずなのだ。
イリファスカは自分のせいで、無実の家令が裁きを受けていると思い込んでしまった。
ユタル家令が実際に手紙を受け取っていたのか、はたまた受け取っていなかったのか……事実はこの際どうだっていい。
元より場を収めるためであれば、自らを犠牲にしてもやむなしと考えるイリファスカだ。
彼女はここでも愚かしい犠牲心を働かせた。
「……あの、私の確認不足かもしれません……ユタルから郵便物を受け取った時は体調が優れなくて……ぼんやりとしていたので……大事なお手紙を見落としてしまったのかもしれません……」
「なっ、何をおっしゃるのですか奥様っ!?」
見落としなど心配性のイリファスカがするはずがないのに……ずっと隣で彼女を支えていたカジィーリアは、あるじが得のない呟きを始めたことに悲鳴を上げた。
そもそもユタル家令自身が『セルヴェンから送られてきたものは何もない』と言い切っているので、このイリファスカの発言は彼へのお粗末な擁護だと容易に察することができる。
セルヴェンすらも……己の不用意な問い掛けのせいで、イリファスカに損な役回りをさせてしまったと、気まずそうに首の後ろを掻いた。
「あー、いや……―― だったらいいんだ! 読んでいないのなら、それはそれでいい……また一から説明すれば済むことだからな。君を責めようというわけではなかったんだ、ただ個人的なことを色々と書いていたから……その……読んでいてくれたら円滑に話が進むと思ってだな……」
「……すみません……」
大人しく引き下がったセルヴェンに、誰もがホッと胸を撫で下ろした。
突然人が変わったように態度が丸くなったセルヴェンに、皆が困惑するさなか……主人の本心を知る唯一の人物であるユタル家令は、今の夫妻の関係性を内心で『使える!』とほくそ笑んでいた。
これからは都合の悪い行いは全て、イリファスカに肩代わりしてもらえばよいのだ。
まずは今日中に隙を見てイリファスカに泣き付き、セルヴェンが配達人を調べぬよう説得してもらう。これにて手紙の一件は解決だ。
とはいえ、セルヴェンはなかなか激情的な面があるので、問題を起こした自分を遅かれ早かれ解雇しようと動くはずだ。
いずれ追い出される運命ならば、
長く勤めた侯爵家を去るのは気が進まないが、他に道はない。
どうせ出てゆくのであれば、退職金代わりに屋敷の金を
家令による横領事件など、高位貴族にとっては何が何でも隠し通したい醜聞だ。
特に侯爵家の看板に泥を塗る行為を嫌うイリファスカは、事の収束のためならば『自分の不手際で……』と、厳罰覚悟で罪を背負ってくれるはずだ。
まったく、ありがたいほど愚かな侯爵夫人様だ……ユタル家令はイリファスカに惜しみない感謝を送った。
―― その瞬間、ユタル家令に向かって
背筋も凍る圧迫感に、ユタル家令は思わず肩を飛び上がらせて相手を確認した。
イリファスカとセルヴェンは互いを見合っているし、カジィーリアとケーレン医師はそんな二人を眺めている……ということは、残るは一人。
ベッドを挟んだ奥側に立っていた、グリスダインだ。
まばたきもせずに無表情で見つめてくる青年は、こちらが目を合わせてもそらすことなく凝視を続けた。
一切の感情を
これほど静かに纏わり付く殺意に満ちた気迫は味わったことがない。他の四人がグリスダインの
まるで
わずかでも体を動かそうものなら、それが彼を刺激して取り返しのつかない事態となる気がした。
グリスダインは元傭兵だと聞いている。
全ての傭兵が手の付けようのない荒くれ者というわけではないが、だいたいの傭兵は命を奪うことに慣れている。
紹介された当初はニコニコと愛想の良い笑みを浮かべていたので、純朴そうな青年だと警戒を解いてしまったが……あれが間違いだった。
雇ったばかりの私兵にここまでの忠誠心があるとは思わなかった。初めから機嫌を取るべき相手はセルヴェンではなく、イリファスカだったのだ。
もしイリファスカが考え方を変えて夫を
私兵に報復を命じれば、グリスダインは二つ返事で襲い掛かってくるだろう。
“今までやられっぱなしだったイリファスカが、自身が使役できる取り巻きの価値に気付いてしまったら”――。
……途端に恐ろしくなったユタル家令は、彼女を利用するという計画を即刻取り下げた。
ユタル家令のおかしな雰囲気に最初に気が付いたのは、最寄りに立っていたケーレン医師だった。
ケーレン医師は彼に一瞥をくれた後、『きっとセルヴェンに叱られたのがこたえたのだろうな』と、何の疑問も持たずに夫妻へと視線を戻した。
態度が軟化したとは言え、やはりセルヴェンはイリファスカの精神状態によろしくないみたいだ。
長居させると問題を増やすだけだと、ケーレン医師はセルヴェンを別室に連れ出すことにした。
「旦那様、ご挨拶が遅れました。お久しぶりです、コートリアス・ケーレンです。早速ですが奥様の病状についてご説明いたしましょう。共に別室への移動をお願いします」
「ああ……久しぶりだな、ケーレン。こちらこそ挨拶が遅れてすまない。説明ならここで聞こう、妻のそばにいたい」
「近いうちに新薬の完成祝賀会が開かれるとお聞きしています。主役である貴方様が体調を崩されれば、心ない非難を受けるのは奥様です。皆まで言わずともお分かりですよね? 接触はお控えください」
「……分かった。だが説明を聞く前に……
ずっと掴んだままだったイリファスカの手をようやく解放して立ち上がったセルヴェンは、注目を集める
“屋敷内の出来事に興味のないセルヴェンのことだから、私兵についても適当に流せば済むだろう”……そう高をくくっていたイリファスカは、以前の調子に戻ったセルヴェンの冷めた声に思わずドキリとした。
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