30.亀裂 ― 1
イリファスカの病状について説明を受けたセルヴェンは、最低でも一週間は屋敷に留まる決意をした。
研究所の関係者には事情を説明してから領地にやって来ていたので、よほどのことがない限り呼び出しを食らうことはない。
しばらくは侯爵としての役割をこなそうと、再び妻の寝室を訪れて今後の予定を伝えた。
「セルヴェン様自らご公務を……?」
「ああ、本来は俺の仕事だったわけだしな……慣れた君に比べれば処理は遅いだろうが、地道に進めていくよ」
ケーレン医師からどんな説明を受けたのかは分からないが、重苦しい表情で話すセルヴェンを見て、イリファスカは表情を曇らせた。
“慣れた君に比べれば”なんて……セルヴェンがイリファスカに向けて世辞を口にするなど、出会ってから初めてのことだ。
だからこそ気になるのが、所々でにじみ出る以前の気風だ。
ユタル家令やグリスダインへの接し方を見ていれば、優しさの対象が自分にしぼられていることは想像に難くない。
きっと不遜な態度で各所から反感を買ってくるであろうセルヴェンを、一人で公務にあたらせるというのは、後で割を食う身としては絶対に止めておきたいところだった。
他にも、訳あって保留しておいた案件を独断で処理されることがあるかもしれない。彼が王都に戻った頃に問題が発覚して、自分の元へと苦情が来てはたまらない……セルヴェン一人に任せると、たまらないことだらけなのだ……。
後でカジィーリアに文句を言われるのは目に見えていたが、イリファスカは被害を抑えるためにも、先んじて手伝いを申し出ることにした。
「……何かお手伝いできることはございませんか? 突然指揮が代われば役人達も混乱いたしますし、旦那様も細々とした問題が発生すると面倒でしょう?」
「いや、君は休んでいろ。指揮が代わろうと、上の指示に従うのが下の役割というもの――」
……イリファスカの不安げな瞳から何となく悪い空気を感じ取ったセルヴェンは、なるべく角の立たない言葉を選んで言い直した。
「……やっぱり、分からない事案は相談に来てもいいか? なるべく療養の邪魔をしないでおこうと思ったんだが……うん……君の望む通りにしよう……」
「ぜひ、ご相談に来てください。私も仕事が溜まっていると思うと素直に休めないので……ちょうどいいですわ」
「そ、そうかっ……? では遠慮なく部屋を訪れようっ! 食事はどうだっ? 俺達は話し合っておかなければならないことが山程あるからなっ! 王都へ戻る前にわだかまりを解いておかなければっ……
―― イリファスカから前向きな返答を得られたセルヴェンは、舞い上がって余計な一言を付け足してしまった。
セルヴェンが最後に口走った台詞は、彼としては『祝賀会は多くの貴族が集まる場なので、そこできっぱりとミフェルナとの関係を否定するつもりだ。くだらない噂話に群がる人間が君の心境を暴こうと言い寄ってくるかもしれないが、突然の変化に戸惑わないよう、祝賀会前に夫婦でよく心を通わせておこう』という―― ……それはもう考えが省略された台詞だったのだが、当然声に出さない内容がイリファスカに伝わるはずもなく……。
彼女は『妻であるお前は勿論強制参加だ。俺の顔を潰さないためにも、来月までに体調を整えておけよ』という……そう念押しされたものと受け取った。
イリファスカでなくとも、セルヴェンを知る者が聞けば皆こう解釈しただろう。
こういった些細な一言すら深読みされてしまうのも、セルヴェン自らがまいた種と呼ぶ他ない。
“命に別条はないと分かればこれか”、と……イリファスカはこわばった笑みでセルヴェンを見上げた。
セルヴェンは彼女の笑顔に種類があることを忘れ、『イリファスカも夫婦仲の改善を期待している!』と胸を熱くして、勝手に再起への道を見いだしていた。
二人の温度差を不安視したケーレン医師は、また切りの良いところで割って入ることにした。
「失礼ですが、お食事の席は特に感染の危険性が高いので個々で取ることをお勧めします。食堂は換気口が少ないですしね」
「では窓の多い場所に料理を運ばせよう。寝室か、応接間か……イリファスカの好きな所でいい。何なら外でもいいぞ」
ケーレン医師の意見はピシャリとはねのけたくせに、こちらには穏やかな声色で語り掛けてくるセルヴェンにイリファスカは息詰まりを覚えながらも、やんわりと断りを入れた。
「食事はちょっと……先生のおっしゃる通り、何が旦那様の身を危険に晒すか分かりませんので……その……先程のようなお手を触れる行為も……」
「……そうか。俺のことは気にしなくていいんだぞ、これでも風邪の一つも引いたことのないほど体が丈夫なのでな。滞在中に一度でも席を共にできることを期待している」
「……それは……とても……喜ばしいことですわね……」
暗に“気安く触るな”といった発言も、直接的な言い方でなければ伝わらないセルヴェン相手には空振りに終わった。
とことん相性の悪い夫婦だと、ケーレン医師は今後の己の出動率に思わず溜息がこぼれそうだった。
セルヴェンはベッドのそばへ歩み寄ってくると、猫でもあやすかのように、イリファスカの頬を自身の指の関節部分で撫でて言った。
「湯浴みを終えたら夕食まで執務に取り組むつもりだ……また後で部屋に寄る」
まるで夜の誘いのようなセルヴェンの言葉が、イリファスカの心を
新婚の頃はこの骨張った指がもっと己に触れないかと胸を焦がしていたのに、今は未知の怪物の舌が肌を這っているような……そんな嫌悪感しか湧いてこなかった。
イリファスカは自身の中に、セルヴェンとのやり直しの気持ちがないことを確信した。
セルヴェンがどう変わろうと、あの研究所での光景を嫌でも思い出してしまうのだ。
ミフェルナと楽しそうにじゃれ合うセルヴェンの笑顔を思い浮かべるだけで……あの少女に触れた手がそのまま自分に伸ばされることが、イリファスカにとっては耐え難い屈辱であった。
ミフェルナに注がれた愛情の“オマケ”を寄越されていると思うと、
セルヴェンが湯浴みをしに寝室を出てゆくと、ケーレン医師も
暇なので滞在中に使用人達に簡易的な健康診断を行ってくれるというケーレン医師に、イリファスカは何度も謝意を述べた。
そうして寝室に残ったのは、イリファスカ、カジィーリア、グリスダインのいつもの三人となった。
ひと息ついたイリファスカは、案の定隣に立つカジィーリアが、何とも言えない表情で自分を見つめていることに気が付いた。
「……言いたいことは分かるわ。でも変な方向に仕事を進められて、後で困るのは私だもの……」
「……理解は示します。お嬢様が悪いわけではありませんわ。全てあの方が悪いのですよ」
顔色をうかがうかのように横目で見やって言うイリファスカに対して、カジィーリアは怒る気にもなれないのか、そっぽを向いて静かに返した。
感情豊かなカジィーリアとは思えないほどの抑揚に乏しい声に、イリファスカはひそかに焦燥感に駆られた。
最も信頼の置ける人物を呆れさせてしまった……カジィーリアに限って己を見捨てることはないと思うが……でも……もしかしたら――。
早まる心拍に追い立てられたイリファスカは、タオル生地の下で指先同士を引っ掻き合わせ、めくれた皮をひとむしりした。
痛みと不甲斐なさで、じわりと涙がにじんだ。
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