21.呪いの言葉 ― 1

 驚異の回復を見せたイリファスカに、ケーレン医師は混乱した様子で視診ししんを始めた。


「おかしい……あそこまで腫れ広がった発疹が一晩でここまで回復するなんてっ……!?」

「えっ……? そ、それは……もっと悪化しているということですか……? 熱も痛みも引いて、今はとても体がスッキリしているのですけれど……」


 専門家に慌てられると、素人しろうとは余計に恐ろしく感じるものだ。

 健康体に戻れたとひと安心していたイリファスカは、再度不安に駆られた。


 とはいえ、回復したと言っても、発疹は完全に消滅したわけではなかった。

 白い肌に軽い虫さされと見分けのつかない小さな赤みが二つ、右手首にポツポツと残っている。


「痛みがないにしても……以前訴えられていたジクジクとした熱を帯びた感覚はどうですか? かゆみは?」

「まったく……何の違和感もなくって……前は発疹が服にこすれただけで、ものすごい痛みを感じたのですけれど……今は全然」

「うーむ、やはりおかしい……今までこれほど急速に回復へと向かった患者さんは見たことがないのですが……まぁ、とりあえずは油断大敵ということで、経過観察を続けていきましょうか……」


 ケーレン医師は鞄に仕舞っておいた診察記録用紙を取り出すと、現時点での体温や症状を記入していった。


「ひとまず、お食事を取られた方がよろしいでしょう。食べられる時に食べておかないと、またいつ熱が上がって寝込むとも限りませんからね。今日はひたすら、“消化の良い物を食べて眠る”……その繰り返しです。明日以降もですがね。張り合いのない生活となるしょうが、ここでぶり返すと次は本当に命を失いかねませんので、どうぞご自愛ください」

「……ええ……分かりました……」

「あぁっ……よかったですねっ、奥様っ! 本当によかった……! 一時はどうなることかと思って、わたくしっ……!」


 ケーレン医師がもう何度目になるかも分からない念押しを食らわせると、イリファスカは渋々といった風に頷き……それを聞いたカジィーリアが、ホッと胸を撫で下ろしたように微笑んだ。


「……色々とごめんね。流石に休むから……もうみんなに心配……かけたくないし……」

「ええっ! お休みいたしましょうっ! すぐに昼食をお持ちいたしますねっ! 何か食べたい物はございますか?」

「ううん、何も……強いて言うなら、薄めの味付けでお願い……」

「はいっ、お安いご用ですよっ! ……先生の分もご用意させていただきますので、お手すきの際に食堂までお越しください。本当に、この度は何とお礼を申し上げればよいか……」

「どうも……ですが、まだまだ油断は禁物ですよ。私は奥様のお食事を見届けてから向かいますので、後ほど伺います」

「かしこまりました。それでは、わたくしは一旦抜けさせていただきますね」


 カジィーリアはケーレン医師に深々と礼をすると、窓際に並んで待機していた使用人達を連れて部屋を出ていった。



 ……閉められた扉からイリファスカへと視線を戻したケーレン医師は、目の前の侯爵夫人が、すでに復帰後の仕事の算段に意識を集中させていることを察していた。


 自身の手元に視線を落とした澄んだ翠眼が、その心うちを映し示すかのように、わずかに揺れ動いている……きっと休んだ後の仕事の遅れをどう取り戻そうか考えているのだろう。


 ケーレン医師は本当に救いようのない女性だと思うと同時に、自分が担当する屋敷の貴婦人がここまで精神を追いやられていたことに罪の意識を感じた。


 『本人が不調を隠すせいだ』と言ってしまえばそれまでだが、命の危機にひんしてなお、自分自身を優先することのできない人間というのは、見ていて痛ましいものだ。


「数日の間、お屋敷に滞在させていただいてもよろしいでしょうか? このまま帰路についても、私が去った後に再発やら悪化やらしているのではないかと、気が気でないので……」

「そうしてもらえるのであれば、こちらとしては安心ですけれど……先生のご予定はよろしいの?」

「院は他の医師に任せてきたので問題ありません。急な呼び出しがかかれば、そちらに向かうつもりです。……今回の病状は本当に酷いものでした。侯爵家と契約を交わしている医師として、夫人様の命に関わることは旦那様にきちんと報告しておかねばなりません」

「……でも、もう症状は治まってきたんですもの……あの方の大切なお時間を、こんな些末さまつなことに消費してはいけないわ……」



 ―― “俺は一秒たりとも時間を無駄にしたくないんだ”。



 ……婚約が決まり、初めての顔合わせとなる席でセルヴェンから吐き捨てられた言葉……気持ちが滅入めいった時に必ず思い出すあの呪いの言葉が、またしてもイリファスカの心を侵食しんしょくしてゆく。



 イリファスカにとっては、いつもの癖で口からこぼれた度が過ぎた自虐だったが……ケーレン医師は深刻そうに眉間にグッとシワを寄せると、彼女の目をしっかりと見据えた。

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