22.呪いの言葉 ― 2

「奥様、それは違います。あなたはもう少し熱が上がっていれば死んでいたんですよ? 大事に至らずに済んだから何とでも言えるだけで、今の発言は寝ずの看病を続けてくれたカジィーリアさんに対しても失礼です。こんな時まで己を卑下ひげするのはおやめください」


 たとえ自虐であろうと、ケーレン医師は命を軽視するイリファスカの発言を許せなかった。


 ちょうどカジィーリアに対して負い目を感じていたイリファスカにとって、ケーレン医師の指摘はよく効いた。

 イリファスカはまた表情を曇らせると、人知れず掛け布団の下で指先のささくれを一筋むいて、ブツブツと呟くように謝罪した。


「それは―― ……そうね……ごめんなさい……私、また自分の都合ばかり考えて……」

「……責めているわけではないのです。奥様の謙虚さは美徳と存じますが、いつもかもご自身を無下に扱われていると余計な不幸まで呼び寄せる……と、お伝えしたかったのです」

「……」


 黙り込むイリファスカに、ケーレン医師は“強く言い過ぎたか”と、悪いことをした気分になった。


「……そういうことですので、旦那様には詳細をお話しさせていただきます。まぁ、ないとは思いますが……万が一、あの方が奥様の自己管理などを咎めることがあれば、その時は私が主治医として責任持って応戦いたしますので――」

「だっ、だめよ先生っ!! そんなことしたら先生のお立場がっ……!!」


 自身の不始末に他者を巻き込むことを恐れたイリファスカが、慌ててケーレン医師を制する。


 ケーレン医師はどうしてイリファスカがここまでセルヴェンに恐れを抱いているのかを、ずっと疑問に思っていた。

 自分もセルヴェンとは交流の多い方ではないが……記憶の中の彼は確かにつっけんどんなところはあるが、権力を振りかざしてどうこう、という男ではなかったはずだ。


 だが、家の中と外で態度を変える人間というのはいるものだ。

 考えられる要因を挙げるとするならば、皆に秘密でイリファスカに危害を加えている、だが……。


「失礼を承知でお聞きしますが……奥様は何ゆえ旦那様を恐れるのでしょうか? もしやあの方に暴力を振るわれて、無理矢理に仕事を押し付けられているのですか? でしたら院の方で御身おんみかくまいますので、旦那様に離縁を申し出されては如何でしょうか? 命に関わる事案でしたら、裁判所は女性側の意思を尊重してくれますよ?」

「……え?」



 ―― ケーレン医師がこう提案するのには理由があった。

 

 リスイーハ王国では、一度結婚の誓いを立てた男女がたもとを分かつことを良しとしていない。

 王族や政治に関わる上の人間が、何百年も前の建国時の古い価値観を今も尊んでいるせいだ。


 男性は各所で優遇されており、離婚裁判では目に見えた非……つまり“肉体的暴力を振るった”という証拠がない限りは、男性側の有責が通らず、それどころか申し立てを行った女性側に対して、『無用な騒ぎを起こした』と厳罰がされることがしばしばあったので、離縁に踏み出す女性の数が年々減りつつあった。


 王国が一夫多妻を認めているのは、その辺の事情も関係している。

 『夫婦として続けていけないのであれば、を増やして互いの関与を避けよ』というのが、国の主張だった。



 ケーレン医師は何でもこらえてしまうイリファスカの性格を考慮して、たとえ暴力を振るわれていても彼女が自力で悲鳴を上げることはないだろうなと、思い切って質問してみた。


 一方、予想だにしない問いに虚を突かれたイリファスカは、戸惑いながらも正直に答えた。


「いえ……あの方はまず、私とお会いになられることすらありませんから……暴力なんて一度も……」

「……そうですか。一応の提案でしたが、院への避難はお望みであればいつでも可能ですので、頭の隅にでも置いておいてください。最近は国境沿いを拠点とする医師らが、そういった保護活動に熱心に取り組んでおりましてね。『うちもならうべきだ』と若い医師達が触発されまして……まぁ、社会福祉の一環ですし、善行であれば私も院のおさを務める者として応援してあげたいので……奥様も何かございましたらお気軽にどうぞ。避難者の意思に反して身元を受け渡すということは当然ございませんので、着の身着のまま来られて結構ですよ」

「……でも……そんなことしたら……」


 そんなことをしてしまっては、本当にセルヴェンからどのような仕打ちを受けるか分からない――……。


 イリファスカは思ったことを口にできなかった。



 イリファスカはまた掛け布団の下に隠した手をモゾモゾと動かして、指先の皮を一つむいた。

 今回はをつまんでしまったようで、引きちぎった瞬間に痛みと共に血がジワリとにじむ感覚が襲ってきたので、すぐに掛け布団を押し付けてぬぐい取った。


 もう何も考えたくなかった。

 ケーレン医師が続けて何か話をしているが、内容がまったく頭に入ってこなかった。


 問題は解決したい……が、その過程で新たな問題が発生してしまうのが億劫おっくうで仕方ない。

 ケーレン医師の提案は大変魅力的であったが、彼がいつ侯爵家に寝返って、逃げ込んだ自分の身柄を差し出すか分からない。いやそもそも、この提案自体がこちらの腹のうちを探るための“フリ”なのかもしれない。


 イリファスカの心は他者の善意を素直に受け止められないほど、強い疑心暗鬼におちいっていた。

 セルヴェンに自ら立ち向かう勇気はない。誰かが事態を好転させてくれればいいのにと願っているくせに、こうして肝心の誰かを信用できないでいる。


 これ以上、感情を揺さぶられたくないのだ。

 やはり一番心の苦しみが少ない方法は、この身が病に果てて、告別のときと共に皆の記憶から忘れ去られること――……。



「まずは目先の出来事への対策を講じておきましょう。ね、奥様?」



 ひつぎの中で眠る己を思い描いていたイリファスカは、右方から放たれたグリスダインの突然の呼び掛けに即座に反応できなかった。


「……ぁ……うん……対策って、なんの……?」

「旦那様のご帰宅の際、ご夫婦で二人きりになってしまわぬように、奥様のそばには必ず“仲裁者”を配置するのです。ジブンか、カジィーリアさんか、先生か……話に割って入れる気概きがいのある人間であれば誰でも構いません。最低でも一人は常時張り付いて見守っているようにしましょう。カジィーリアさんは日常的に身の回りのお世話をされている侍女ですし、先生は経過観察というもっともらしい理由がございます。ジブンは私兵だからと強引に押し通してしまえばそこまで……いつでも近場に助け手が控えていると思うと、少しは気が楽になりませんか?」


 首を傾げて尋ねてくるグリスダインの笑顔はいつもの柔らかさに加えて、少しだけ憂いを帯びていた。


 彼は一瞬、掛け布団の下の隠された手元に視線を落としてから、またすぐにイリファスカの顔を見るように瞳を戻した。

 生地に血染みができているわけでもないのに、どうしてグリスダインが手元を気にしたのか……?

 イリファスカは何気ない自傷をも見透しているような彼の言動に、何だか居心地が悪くなって、ごまかすように声を詰まらせながら答えた。


「で、でも……ずっと従者やお医者様がくっ付いて離れないなんて、『重篤じゅうとくのフリをするな』って、さらにお叱りを受けちゃうかもっ……」

「む……あの方は日頃からそのような攻撃的な態度を?」


 イリファスカの言葉にケーレン医師が口を挟む。

 意図せず外部の人間にセルヴェンをおとしめるような発言をしてしまったことに、焦りが募る。


 軽蔑するようなセルヴェンの冷たい表情が脳裏に浮かぶ。

 早くケーレン医師に言わなくては。“セルヴェンはそんな人間ではない”と、早く否定しなければ。

 ……成長したのだから、もう何もできない小娘ではないのだから、“侯爵夫人”にふさわしい振る舞いをしなければ――。



 その時、ぐるぐるとめぐる負の思考に待ったをかけるかのように、ささくれをむいた指先に何かが絡みつくような……またあのゾワゾワと這うような感覚が、イリファスカの身に訪れた。


 掛け布団から手を抜いて確認してみると、確かに引きちぎったはずの人差し指の先端の皮膚ひふが、



 イリファスカは思わずグリスダインを見上げた。

 彼は依然憂いを帯びた笑みをこちらに向けながら、呆然としたイリファスカに言い聞かせるように穏やかに呼び掛けた。


「旦那様に何か言われそう……または言われた時に割って入るための仲裁者ですよ。ジブンにお任せください! 新参者は多少の無礼を働こうと、『以後、気を付けます』という魔法の言葉がございますので!」


 わざとらしく声を張って元気付けようとしてくれるグリスダインに、イリファスカは『もしかしたら発疹も指先の皮膚も全てグリスダインが治してくれたのかも』……という、鹿考えを取り下げた。


 おとぎ話に出てくる魔法使いでもあるまいし……人体を回復させる特殊能力を持った人間など、この世に存在するはずがない。そんな者がいれば医者は皆廃業だ。

 先程からセルヴェンへの鬱屈うっくつした思いが深まりすぎて、血が出るまで指の皮をむいたという幻覚を見てしまったらしい……と、イリファスカはそう考えることにした。


 グリスダインは不思議な人間だ。

 初めて会った時の孤狼のような雰囲気や、彼の生い立ちを知っているので、今の明るい青年としての振る舞いが“外向け”のものだと認識してはいるが……それでもつい頼ってしまいたくなる温かさがあった。


 “この人なら、セルヴェンをどうにかしてくれるかも”……そう一縷いちるの望みをかけて、イリファスカはケーレン医師の同席も気にせず、グリスダインに縋るように尋ねた。


「本当に……守ってくれる……?」

「あなただけを想って尽くす私兵ですから、何が何でも守ってみせますよ。これでも口は立つ方ですし、もし旦那様が実力に訴えかけてこられた場合は、投げ飛ばしてでもお止めするのでご安心ください!」

「……投げ飛ばすのは、ダメかも」

「では投げ飛ばしはなしにします! ジブンの舌戦での奮闘ふんとうをご期待ください!」


 握りこぶしを顔の前に掲げて元気よく宣言するグリスダインは少し……というか結構……抜けているように見えた。


 本当に大丈夫なのかと若干不安になるイリファスカだったが、隣に座っていたケーレン医師が何とも言えない表情でチクリと一言刺した。


「……ちなみに代理人とはいえ、暴力行為の応酬は裁判で女性側の不利に働きますから、投げ飛ばしは本当に控えた方がいいですよ」

「ああっ、今そう申しましたのに! もしや先生はジブンを疑っておられるのですか!?」

「そうですけど?」

「“そうですけど”……!? しょっ……初対面だというのに、何故そこまで信用がないのですか……!?」

「初対面だからこそでは?」

「―― ふっ」


 大袈裟に衝撃を受けるグリスダインと、真顔で疑問符を浮かべるケーレン医師の対比が面白くて、イリファスカは病んで以降、初めて腹から笑いがこみ上げてきた。


 グリスダイン……本当に不思議な人だ。

 イリファスカは彼の悔しがる姿を見て、心がいでゆくのを感じた。


 このままセルヴェンが帰って来ずに、取り越し苦労で終わればよいのにと考えた……。











 ―― その頃、王都と侯爵領を繋ぐ街道に、ある男を乗せた急ぎの馬車の影があった。


 揺れる車内で白紙の紙とペンを握り締めて座っていた、しかめっ面の男……セルヴェン・アトラスカは、手にしていた道具を勢いよく対席へと投げ付けると、背もたれに体を預けて乱暴に自身の後頭部を掻きむしった。


「チッ……クソッ!!」


 そう言って落ち着かない様子で馬車の天井を見上げたセルヴェンは、しばらくの間ピクリとも動かずに、ある一点の装飾部分を見つめて物思いにふけっていた―― ……。

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