20.なんて嫌な人間なのかしら

 深夜になるとイリファスカの悪寒は治まり、ケーレン医師の予測通り次は暑さを訴えるようになった。


 冷蔵倉から運ばれてきた冷たいタオルを太ももに当てて、ぬるくなったら新しいものへと交換し、それがぬるくなったらまた新しいものに……と、使用人達はバタバタと部屋を行き来し、カジィーリアは繰り返し交換作業に追われた。


「発疹部分は冷やしてはいけませんよ。以前同じ症状を訴えた患者は、冷やしたことでより悪化してしまいましたからね」

「分かりました。……それにしてもお体が熱い」


 タオルを当てる部位が部位なので、ケーレン医師の配慮により、簡単な作業は侍女のカジィーリアに一任いちにんされていた。



 黙々と作業を続け、時計の針がまた進んでゆく……。

 そうしてついに、イリファスカははっきりと意識を取り戻した――。


「……っ……カ、ズ……?」

「お嬢様っ……どうなされましたっ……!?」


 いち早く反応したカジィーリアが、ベッドの左側に駆け寄りすぐに声を掛ける。


 ケーレン医師が熱や脈を測る一方で、イリファスカは横に移動したカジィーリアをぼんやりと見つめながら、小さく口を開いた。


「……わたし……ねて、た……?」

「ええ、熱で倒れられたのですよ……お水は飲めますか? 吐き気を催されてはいませんか?」

「……はきけ……だいじょうぶ……おみず、のみたいわ……」

「はい……どうぞ、お嬢―― ……奥様」


 今更ではあるが、ユタル家令や他の使用人達の前であることを意識して、カジィーリアは呼び方を正した。


 カジィーリアが差し出した、“吸い飲み”と呼ばれる病人が飲水しやすい形の容器を使って、イリファスカはゆっくりと水を飲み進めていった。

 二杯目を飲み終えたところで、イリファスカは多くの人間が部屋に集まっていたことに気付き、細くなった声で申し訳なさそうに皆に呼び掛けた。


「……みんな、ごめんね……さわがせちゃって……じこかんりが、あまかったわ……」

「奥様っ……謝らねばならぬのは我々の方でございますっ……! あなたの優しさに甘えっ、私はこの年になっても我が身のかわいさに保身に走りっ、いつも旦那様への報告を怠って……!!」


 そう言って扉横の位置からベッドへと駆け寄ってきたのは、ユタル家令だった。


 イリファスカは声を詰まらせる彼に目を向けると、弱々しく笑って言った。


「……いいの……だれだって……そういうとこ……あるから……」

「……っ、誠に勝手ながら、王都に使いを走らせましたっ……! 数日以内に旦那様は帰ってこられるかとっ……!」

「……だんなさまが……? ……そう……なんで、いっちゃったの……?」


 ユタル家令の言葉に、イリファスカはくしゃりと表情をゆがめた。


 イリファスカはセルヴェンからの叱責しっせきを恐れた。

 セルヴェンに病気を移してはいけないと食事の席を立ち、屋敷に着いてからは送るかどうか迷いながらも、適当に理由をつづった謝罪の手紙を出したのだが……こんな形で病気のことを知られるとは思わなかった。


 きっとセルヴェンは到着するなり怒りを露わにするだろう。

 『どうして倒れるまで言わなかった?』、『何故こんな大事な時に病気にかかった?』……など。


 今の弱った状態で、彼の怒気に耐えられるか不安だった。


「……たいへんなじき、なのに……わたし……また、めいわくに……」

「……迷惑じゃないですよっ……全然迷惑じゃないっ! 奥様は迷惑をかけたことなんて一度もないじゃないですかっ!? もっともっと欲張っていいのにっ……ドレスとかっ、宝石とかっ! よその御婦人はいて捨てるほど持っているのにっ、あなたはいつも自分を二の次にしてっ……! ……もっとご自身のことを考えてくださいよっ……!! お願いだからっ……これ以上がんばろうとしないでっ……!!」


 イリファスカは、自身の左手を握り締めて声を震わせるカジィーリアを見つめた。



 ―― 彼女の目尻のシワは、こんなにもくっきりと刻まれていただろうか?



 自身より六つ年上……現在は三十一歳となるカジィーリアだが、決してその濃さは加齢だけが原因でないとイリファスカは気付かされた。


 日頃から主人である自分が軽んじられているせいで、彼女まで周囲から嫌味を言われたりしていることは知っていたが……申し訳なさを感じながらも、カジィーリアは元来の気の強さがあるから大丈夫なのだと思い込んでいた。

 彼女だってあなどられれば傷付くはずなのに、カジィーリアは己の苦しみをおくびにも出さずに、常にこちらを気遣ってくれていたのだ。



 イリファスカは自分自身の心の卑しさに嫌気が差した。

 『我が身のかわいさ』……先程のユタル家令の言葉が突き刺さる。


 保身に走っていたのは自分も同じだった。

 我慢すればそれ以上大事にはならないと信じていた。我慢こそが最善の選択だと……それが隣にいる大切な存在を傷付けていたなんて、嫌で嫌で、自分がこのまま病んで命を落とした方がよいのではと考えてしまった。



 立ち向かえないのだ。

 いくらカジィーリアからの愛に気付かされようと……事あるごとに注がれてきた、あのセルヴェンの失望したような視線が、今も恐ろしくてたまらないから――。



「……カズ……ごめん……」

「……すみません、興奮して強い口調となってしまいましたね……でも、それだけあなたを心配していると分かっていただきたいのです。今度こそ治るまで安静にしてくださいね? しばらくはお仕事なんて、わたくしが絶対にさせませんので」

「……うん……でも……わたし…………グスッ――」


 カジィーリアから優しくされればされるほど、イリファスカの中の自己嫌悪は強くなっていった。


 “あなたは我が身を犠牲にして私に尽くしてくれているのに、私はどうすればセルヴェン様から叱られないで済むか考えているのよ”……と、いっそのこと告白してしまおうかとも思った。


 しかし言えない……ここにはケーレン医師やユタル家令、他にも数名の使用人が残っている。

 セルヴェンに味方する人間の前で、己の立場が悪くなるようなことを口にできなかった。セルヴェンに報告が上がるのを恐れたからだ。



 あぁ……セルヴェン……セルヴェン、セルヴェン、セルヴェン。


 どうしてこんな酷い仕打ちをするの?

 私があなたに何かした?

 望まぬ結婚だったから?

 どうしてここまで憎まれなければならないの?

 

 私の方こそ、あなたが憎くて憎くて仕方がない。

 あの小娘に向けたあなたの笑顔が忘れられない。


 セルヴェン、セルヴェン……セルヴェン……あなたがもうすぐお屋敷に到着するのだとしたら……私は――。



「おっ……おしごとたまってるとっ……セルヴェンさまっ……おこっちゃうからっ……!」

「奥様……あの方はそこまで非情な方ではございません! 不器用なりにあなたを愛してっ――」

「やめてっ!! こんなときまでっ、みじめにさせないでよぉっ……!! ―― ゔっ!」

「奥様っ!!」


 ユタル家令の言葉に涙ながらに叫び返したイリファスカは、自分の声が頭の中で反響して、強い頭痛に見舞われた。


 頭を優しく撫でてくれるカジィーリアの顔を見ることができない……セルヴェンが帰ってくるかもしれないと知って、まず初めに言うことが“これ”だ……。



 グズグズと泣き崩れるイリファスカを見て、ケーレン医師は顔をしかめてユタル家令に注意した。


「ユタル家令、この方は強い心労が原因で体調を崩されたのです。これ以上病人の精神状態を不安定にさせるつもりであれば、主治医として退室を命じますよ」

「い、いえっ……私はただっ……!」

「……ユタルさん、次は誰に邪魔されようがあなたの鼻をへし折ってやりますからね」


 廊下で掴み掛かろうとした時と同じ形相を浮かべたカジィーリアが、イリファスカのそばからユタル家令を射殺さんばかりに睨み付けて言った。


 人目がなければ本当に殴り殺されるかもしれない彼女の雰囲気に呑まれ、怖気づいたユタル家令はまたも後退した。


「わ、わかったよっ……! 私は邪魔になるからっ……出ていこうっ……!」

「早くしてください。この際だから言っておきますが、あなたは家令としては信じられないくらいに無能ですよ。よくもその座につけたものだと感心するばかりです」

「……っ」


 自分よりもずっと若いカジィーリアからののしられ、ユタル家令は奥歯を噛み締めながら出入口の扉へと向かった。


 その背中に、イリファスカのか細い声が投げられる――。


「ユタルっ……だんなさまが、おつきになられたらっ……まずは『ごめんなさい』とっ……!」

「……その……すみませんでした、奥様……」


 左腕を目元に乗せて表情を隠したイリファスカが放つ涙声に……ユタル家令は面を伏せて退室した。



 まくらに涙を染み込ませながら右方を見たイリファスカは、一言も発さず窓際に立っていたグリスダインの存在に気が付き、声を掛けた。


「……グリスもっ……ごめんねっ……? やとったばかりなのにっ……なにかあってもっ……おきゅうりょうっ……ちゃんとはらうからっ……」

「……何も起こりませんよ。悲観する必要はありません。ここにいる全員があなた様の回復を望んでいます。今はとにかくお休みになられて……食欲が湧いたらお腹いっぱいにお食事を取られてください。奥様の幸福こそ、ジブンにとって最高の報酬でありますから。全快を迎えたあかつきには、野を駆け山を駆ける元気なお姿をこのグリスダインめにお見せください」

「 ……しゅくじょは……のを……かけないわ……」

「無心に体を動かすのも気が晴れてよいものですよ?」


 大きな体をベッド脇にしゃがみ込ませ、横になっているイリファスカと同じ目線の高さに合わせたグリスダインが、柔らかくニッコリと微笑む。


 イリファスカは何だか温かな気持ちに包まれるのを感じた。

 十代の頃の……仕事のできない情けない自分の姿を目にしたことのない、新参者の彼だからこそ安心できるのかもしれない。

 昔からの人間は、“イリファスカ”という女の弱さを知りすぎている。だからこれ以上、付け入れられる“すき”を見せてはいけない……これ以上、カジィーリアを悲しませてはいけない……。



 ―― 不意に、イリファスカは病魔にむしばまれた右半身に、何かが“う”ようなゾワゾワとした……しかし妙に心地よいような、不思議な感覚を覚えた。

 そしてユタル家令との口論で覚醒へ導かれていた意識が、おぼろげに薄らいでゆく……。


「……ありがとう、グリス……あなたのこえ、きいてると……なんだか……おちついて……ねむたく……な…………て…………」


 うつらうつらと、抗えない眠気についにまぶたを閉じたイリファスカは、そのまま穏やかな息遣いと共に夢の世界へと落ちていった――。






「おやすみなさい、奥様。



 優しい声色で囁かれたグリスダインの言葉に、違和感を抱く者は誰一人いなかった。











 昼を迎え……たっぷりと睡眠を取ったイリファスカは、血色の良い晴れ晴れとした顔付きで自ら体を起こした。


 そして、ことに気が付いた――。

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