会社員:佐上 治臣と怖い話

第1話 納涼

 濡れた裸足が床を踏む。彼女の足の爪に塗られた鮮やかなピンクが毒々しさをもって、重い静けさが漂う画面の中に映り込んでいる。室内の異様な寒さを象徴するように、火照った肌からは僅かに湯気がのぼる。

 ひたり、ひたり。

 彼女自身の足音と、濡れて顔に張り付いた髪から滴る水滴の音だけが響く。見開かれた瞳が落ち着き無く周囲を見回すが、彼女が前方へ向き直ったその瞬間、背後を黒い影が横切った。

 おぞましい気配に振り返るものの、既にそこには誰の姿もない。彼女は細く息を吐き再び前方を向いた、その瞬間――


「きゃあああああああああああっ!!」

「うわあああああああっ!?」


 耳元で甲高い叫び声が響き、佐上さがみ 治臣はるおみは全身が跳ねる程の驚きをもって叫んだ。必然的に隣室から"うるさい"とばかりに壁を叩かれる。

 治臣はテレビに映るホラー映画を一時停止し、叫びの原因――いつの間にかいた翡翠色の妖精87番、自称ハナを睨んだ。妖精は座椅子の背もたれにしがみつき、人形大の体と蝶のような羽をぶるぶる震わせて画面を注視していた。


「な、な、な、なんでこんな所で止めちゃうんです? こ、こわ、怖い顔がずーっとこっち見てるんですけど!?」

「……お前、いつの間にここにいたんだ? 一声かければよかっただろう」

「来たのはこのお姉さんが怪しげな骨董品を手に入れたあたりからですね。お仕事終わって暇してたらおじさんが面白そうなの見てたので遊びに来たらこんなことに。こんなことに!」


 画面に映る女性ヒロインが怪しげな骨董品を手に入れる、というのは物語の序盤で、ハナは相当前から部屋にいたことになる。治臣はその間自身がおかしなことはしていなかったか、内心冷や汗をかきつつ行動を振り返る。

 流石に治臣の心を読む余裕がないハナは、座椅子の背もたれに身を潜めながらテレビを指差した。


「何ですこのテレビ? 何でこんなに精神的にこちらを苦しめてくるんです? それを進んで見ているおじさんは被虐趣味です?」

「あー、静かにしてくれ、また隣の人に怒られる。……これは映画という娯楽作品でな、中でもホラーという見る側を怖がらせることに特化したものだ。ここんところ暑いからな。久しぶりに借りてきた」

「何故暑いと怖いものを見ることになるんです……?」

「それが日本の伝統だ。他にも"肝試し"っていう怖いところに行って度胸試しをする遊びもあるぞ」


 異世界育ちの妖精に日本の伝統を教えるのが思いの外楽しく、治臣は肝試しを題材にしたホラー作品があることや、怖い噂や不可解な出来事が絶えない"心霊スポット"と、更には最近の流行である曰く付きの住居"事故物件"についても語った。

 ハナは青ざめた顔で聞き入り、ぶるぶると震え上がった。


「やだぁ……何で地球の霊体ってそんな感じなんですか……異世界うちの霊体の方がずっと可愛げがあるじゃないですかぁ……」

「ああ、ファンタジーと言えばゾンビとかレイスかいたか。異世界そっちにそういうモンスターもいるのか?」

「いますけど、わーっと出てくるしわーっと襲ってきます。こんなにいやらしいねちっこい登場はしません」

「ほう。海外ホラーっぽいな」


 地球に出現したダンジョン群の何処かには地球のホラーめいたモンスターがいるのかもしれないが、ダンジョン適性のない治臣にとってはゾンビもレイスも"ファンタジー"のくくりの一部である。

 治臣の表に出さない心の高揚感を察し、ハナは震えながら「意味わかんないです……地球怖い」と囁いた。


「こればっかりは好き嫌いがあるからなあ。……とりあえず続き見ていいか?」

「ひゃわあ……」


 ――結局ハナは"お姉さんの行く末が気になる"と、悲鳴をあげながら最後まで映画を観賞し通した。尚妖精の魔法によって悲鳴は外に漏れないようになり、隣人の壁ドンは起こらなかった。

 無音が長く続いた映画中から打って変わってロックな音楽が流れるエンドロールを、ハナは呆然と眺め気の抜けた溜息を吐く。


「……お姉さんが生きててよかったとはいえ、霊体を討伐したはずなのに何で最後あんな不穏な雰囲気で終わるんです?」

「ホラーの様式美だ。それに続編が作りやすいだろう」

「はあ。商魂逞しいですねえ」


 ハナはしばらく落ち着きなく室内の電気のついていない玄関やカーテンの隙間から覗く夜闇に目をやっていたが、徐にテーブルの上からふわりと飛んで治臣の着ているシャツの胸ポケットに滑り込んだ。


「ううっ、暑いのにうなじがぞわぞわする。しばらく夜中のお仕事が怖くなりそう。これが夏の"きもだめし"の効果ですか……!」

「いい納涼だろう。今日は映画だったが、人間が語る怪談もいいぞ。百物語って言ってな、夜に百の怖い話をして、一話終わる毎に蝋燭を消していく昔の納涼の定番だ」

「ひゃくぅ……!?」


 映画一本で震え上がったハナは、百の怪談の想像だけで悲痛な叫びをあげる。更に"百本目の蝋燭が消えた時に本物の幽霊が出る"という言い伝えも教えると「もうそれただの悪霊召喚の儀式じゃないですかぁ!」と半泣きで胸ポケットの奥に縮こまった。


「ははは、いい反応だなあ。異世界にはないのか? こういう"怖い話"は」

「あるっちゃありますけど、涼しくなるために好き好んで話すようなもんじゃないですよ……」

「へえ? 異世界怪談か。是非聞きたいな」

「えええ~……? もう十分涼しくなったじゃないですか……。それにさっきの映画を見た後で話せるほどの破壊力は……、……あっ」


 治臣はそそくさと居住まいを正す。経験上、"そういえば"、"思い返してみれば"、のような何気ない一言から始まる怪談は良質なものが多い。ハナが漏らした"あっ"の一言にもいい話が聞ける予感があった。

 期待感でニヤつく治臣を信じがたいと言う顔で見上げ、ハナは胸ポケットの外に這いだす。治臣の座る座椅子の向かいにあるテーブルの上に移動した途端、リモコンを操作していないにも拘わらず室内灯がふっと消えた。暗闇の中でハナ自身の淡い光だけが浮かび上がっている。


「ほお、ホラー初心者の割に雰囲気がわかっているな」

「ありがとうございます。怖がらせる側っていいですね、ちょっと楽しくなってきました。……では始めましょう。これは"異世界平和と摂理支援の会"が発足したばかりの頃の話です――」



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