洪水

シカンタザ(AI使用)

洪水

「危険を招くような高いところに登ったり、深い淵に臨むことは、身を慎む人の子としてなすべきことではない。しかしもし神がその人の命をお取りになるならば、その神は人の子が全きものとなる機会を与えないほどに不公平な方ではないのである」

「先生、それは誰の言葉ですか?」と生徒が聞いた。

「イエス・キリストです」とわたしは答えた。「ヨハネによる福音書十一章五十六節です。あなたたちの中にこの言葉を心に止めておきなさい」そう言い残してわたしはその教室を立ち去った。それは嘘だったんだけどね。そして自分の部屋に戻り、机の上に置いてあったノートの一ページを破り取って、こう書いた。

"ヨハネによる福音書十一章五十七~七十節"

『このたとえ話においてイエスが語っている言葉は、人間の弱さについて語られているもので、聖書の中でも最も人間的な教えのひとつと言われている。なぜならば、この言葉によって初めて人間は「自分が何者なのか」「何をしなくてはならないのか」ということを考えるようになったからである』

つまり人間は「自分は何者か? 何をするべきか?」という問いから出発しなければならない生き物なのだ。そしてその問いに対する答が見つかれば、あとはそれを忠実に実行すればいいだけのことである。

しかし逆に言えば、その問いに対して答を見出せない者はどうなるか?

「なぜだ!? なぜ俺にはわからないんだ!」

「いったい俺は何のために生まれてきたんだ!?」

そんなふうにわめき散らしながら生きるしかないのだ。

そしてこれは実はぼく自身にも言えることで、だからこそぼくもあのとき……。

「あの日以来、お前はずっと俺の中で生き続けている。だからもう迷うことはない。自分の道をまっすぐ歩んでくれ。それがお前の人生なんだ」

そう言ってくれたのは他でもない、あなたなのに……! くそっ!! あの日以来、おれはずっとあんたのことを思い続けてきたっていうのに、あんたはおれのことなんか忘れちまったって言うのかよ!? 許せねえ……! 絶対に許せねえぜ……!!!

「やめろ! それ以上、あいつに手を出すんじゃない!!」

声と同時に巨大な何かが目の前に立ちふさがった。

「え?」

一瞬遅れて気づいた。それは巨獣化した兄さんの姿だった。

「お、おまえ……」

「…………」

兄さんの視線を追って振り返ると、そこには全身血まみれになって倒れている父さんがいた。

「と、とうさん……?」

慌てて駆け寄る。

「しっかりしろ! 父さん!!」

抱き起こそうとした瞬間、首筋に激痛が走った。

「ぐあっ!?」

見ると父さんの手にナイフが握られていた。どうやらそれで刺されたらしい。

「な、なんでだよ……? どうしてこんなことをするんだよ!?」

混乱した頭のまま叫んだ。

「すまんな、息子よ」

「え……?」

「だがこうでもしないと、私はおまえたちを守れないんだ」

「守るってどういうことだよ? いったい何の話をしてるんだ!?」

「……もうすぐ来る。それまで時間を稼ぐ必要がある」

「来るって何が来るんだよ!?」

そこでふと思い出した。そうだ。前にも同じことがあったじゃないか。あれはまだ小学生の頃だったと思う。夜中にトイレに行きたくなって目を覚ました時のことだった。廊下に出ると妙に明るいことに気がついた。電気をつけっぱなしにしていたのかと思って部屋に戻ったけど、やっぱり消したままになっていた。不思議に思って外を見てみると、真っ暗なはずの空が赤かった。火事かと思ってあわてて飛び出した。すると今度は家の前にトラックが何台も停まっていた。その荷台には大量の水が積まれていた。まるで大水が来るみたいだった。そして次の瞬間、本当に洪水が来た。家ごと流された。おれたちは運良く助かったけど、家は跡形もなく流されてしまった。あの時は何が起きたのかまったくわからなかったけど、今ならわかる。あれは父さんが呼んだ洪水だったんだ。

「まさかまた洪水を呼ぶつもりなのか!?」

「……ああ。もう後戻りはできない」

「そんな! だって母さんはもういないんだぞ!? それにみんなも死んじまった!! それなのにまだあんなものを呼ぼうって言うのかよ!?」

「仕方がないんだ」

「ふざけんなよ!?」

おれは絶叫した。

「いくらなんでもやりすぎだ!! もう十分だろうが!! これ以上、罪を重ねなくてもいいじゃねえか!! 頼むからやめてくれよ!!」

「すまない」

「謝るくらいなら最初からやるんじゃねえよ!!」

「本当にすまなかった」

「ちくしょう……!」

悔しさと怒りのあまり涙がこぼれ落ちた。

「どうすりゃいいんだよ!? どうしたら許してくれるんだよ!?」

「……」

「教えてくれよ! お願いだからさあ!!」

「もういい」

「よくねえ!! 全然よくねえ!!」

「もういいんだ。おまえはよくやった。立派に育った。私の自慢の息子だよ」

「そんなこと言うんじゃねえよ! おれはまだまだやれる! もっといろんなことができるはずだ!!」

「無理をする必要はない」

「無理なんてしてない!!」

「いいや、している。おまえは自分の限界を知らないだけだ。だからそんなことを言うんだ」

「そんなはずはない!」

「本当だ。もし自分の力が尽きかけているという自覚があるならば、それを他人に任せることを覚えるんだ。そうすればおまえの人生にもう少し余裕が生まれる」

「そんなのごめんこうむりたいね! だいたい父さんは何様のつもりなんだよ!? 偉そうに説教なんかしやがって、いったい何の権利があってそんなことが言えるんだ!!」

「権利などない。私はただの人間だ。しかしそれでも言わなければならないことがある。たとえどれほど無力であろうと、それが私に与えられた使命なのだから」

「そんなものはいらない!」

「いるかいないかは私が決めることだ。おまえが口を挟むことではない」

「うるさい! あんたが勝手に決めつけるな!!」

「では聞くが、おまえはいったい何のために生まれてきたのだ?」

「え……?」

「おまえはなぜ生きているのだ?」

「そ、それは……」

「答えられないだろう?だから言ったのだ。自分で自分の生きる理由を決めることなどできない。すべては運命によって定められているのだ。この世には、自分がどんなに努力しようとも変えることのできないものがある。だからこそ人は神を信じ、救いを求めるのではないか? そしておまえはその運命に抗おうとしている。だが無駄なことだとどうしてわからない?」

「……」

「おまえのしていることは無謀な挑戦にすぎない。おまえはおまえ自身の人生しか救うことができない。おまえにできることは、せいぜい他人の人生を豊かにしてやることくらいだ」

「……」

「わかったら行け。おまえはやるべきことをやらなくてはならない」

「……おれのやるべきことは父さんを止めることだったんだ」

「そうだ。おまえにしかできないことだった」

「でも父さんを止められなかった」

「当たり前だ。おまえと私とでは背負っているものが違いすぎる」

兄さんがこっちに迫ってきた。

「くっ……!」

慌てて飛び退った。だけど兄さんは執拗に追ってくる。

「どうした? 逃げてばかりじゃ何も始まらないぞ?」

「わかってるよ……!」

兄さんの攻撃を必死でかわしながら、おれは必死で考えた。どうする? どうする? どうする? どうする?……よし、決めた。

「おらあっ!!」

振り向きざまに拳を突き出した。

「ふん」

あっさりと避けられてしまったけど、それでいい。目的は果たされた。

「なに……!?」

背後に現れたのは巨大な水の壁だった。轟音とともに洪水が押し寄せてくる。父さんは流された。

「ちいっ!!」

兄さんがとっさに巨獣化したのは正解だった。洪水に押し流されてしまえば、いくらなんでも無事では済まないだろう。

「おらぁ!」

兄さんが巨獣化したままおれに襲い掛かり、殴りつけてきた。

「ぐっ!?」

なんとかガードしたものの、そのまま押し倒されてしまった。おれは溺れてしまった。

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