(ニ)

「お邪魔して、申し訳ございません」


 と伊織は頭を下げた。

 そうすると養父――武蔵は「いや」と言って。


「そんなことはない」


 とその場に座り込んだ。

 先ほど伊織が見た桜、そして薫りはこの武蔵がもたらせたものである。乱舞、申楽、――そう称される、いわゆる「能」というものは、時間と空間を越えて過去の一場面を現出させる芸術だ。

 優れた演者、感性の優れた観衆がそこにいれば、作り出された世界に入り込み、村雨に散った花弁に郷里の母を想う熊野の舞を幻視することも可能だった。

 勿論、見る側に「花が咲いた」という一文に匂いあふれる光景を想起できる感受性が必要ではあるのだが、それにしても、なんら舞台装置もなく、ただ舞だけでそれをなし得るのは尋常ではない。

 そうなのだ。

 この宮本武蔵と言われる人は、無双の兵法者にして、舞の名手でもあったのだ。


(見ただけではとてもそうは思えないが……)


 伊織も養父に倣って座りつつ、その姿を改めてちらりと見た。じろじろと見るのは失礼だった。

 まず、大きい。白い着物に赤い小袖を羽織っているその身体は五尺七、八寸はある。やや細身ではあるが、六尺に近いという身長は充分に巨躯というに足りた。

 その身体がひとたび動き出せば、桜の花びらの舞い落ちるさまを表現してしまえるのである。


(相変わらず、凄まじいことだ)


 能の類は武士の教養としては必須のものだ。伊織も人並み以上に修めている。それだけに養父がどれほどの腕前なのかというのが実感できる。

 数ある能の中でも、武蔵は〈熊野〉をよく舞った。この曲は源平の時代の平宗盛が侍女にした熊野が、郷里にて病に伏せる母を思って帰郷を申し出るのだが宗盛は許さず……という筋立ての話である。

 武蔵は不機嫌になるとこれを舞う。

 とにかく舞う。

 舞っている内に機嫌が直る、というよりも、そちらの方に夢中になってしまい、どうでもよくなるらしい。ただし、それ邪魔するとさらに不機嫌になるのだというから難儀な話だった。

 今も蓬髪に流した髪の先を左手で弄っている。

 あからさまにさっさと用件を済ませて欲しいといいたげな様子だった。機嫌よく調子よく舞っていたのを中断させられたのだから、無理もない。

 伊織としても舞いが終わるのを待っていたかったが、今の時刻ではそういうわけにもいかない。武蔵が舞いに飽きるまで待っていたら夕餉の時間も遅くなってしまうし、明日も仕事はあるのだ。

 伊織の方こそさっさと報告をすませてしまいたかった。

 それに。


「それで、何か面白い話はあるのか?」


 とおざなりに聞いてくる武蔵に。


「あります」


 と伊織は答えると。


「ほう」


 武蔵は伊織を見た。二重の深い目が向けられた。何処か物憂げでもあるし、眠たそうでもあった。色素の薄い琥珀色にも見える眼差しで興味深そうに伊織の様子を伺っていた。

 伊織のいつもの報告は「特に面白いことはありません」というのが常なので、何か変わったことがあるのかと期待している風である。


「殿様より、お褒めの言葉をいただきました」

「ふむ」


 あからさまに興味をなくしたという顔をした武蔵であるが、伊織はそれは気にせず。


「本多忠政様よりの書状にて、先日に私が舞った〈弱法師〉が好評であったということです」

「ほう――〈弱法師〉が」


 顔をあげ、早く続きを言えと無言で促してきた。

 伊織は内心で苦笑しながらもことのあらましを説明した。

 つい先日に播磨国の明石藩主である小笠原忠政が、同じく播磨国の姫路藩主、本多忠政を招いての宴席があったのだという。隣藩ではあるのだが江戸以外で藩主が顔をあわせるというのもそうそうあることではない。実際にそれは小規模なもので、お互いに小姓だの馬廻組だのを十数人と連れている程度だった。その席で伊織は〈弱法師〉を舞ったのである。


「今日届いた本多忠政様の書状にて、この時の私の仕舞がよかったと改めてお褒めいただきまして」


 ――伊織、でかした。

 おおいに面目をほどこしたと、小笠原忠政は登城したばかりの伊織を呼び出してそう褒めたのであった。


「そうか。本多忠政様が来られていたのだったか」


 すでにそのことは報告していたのだが、忘れていたのかあまり気に留めていなかったか、武蔵はしみじみとした様子で呟いた。


(多分、あまり気にしてなかったのだろうな)


 と伊織は思う。

 この人は、基本、あまり細かいことは気にしないし、気に留めない。

 ちなみに本多忠政と武蔵も縁が深い間柄であるが、その宴席には武蔵は呼ばれなかった。たまたま京都に所用あって不在だっただけだが。

 



「それで、先日送られたばかりの丹波の干し柿を下賜されまして――」

「《弱法師》を見事にこなしたとは、やはり伊織はわしの息子だけある」


 伊織の言葉の続きを無視して、武蔵は腕を組んでうむうむと頷いていた。


(また調子のいいことを……)


 息子ではあるが、前出したとおりに伊織は養子である。

 郷里は同じく播磨の産であるが、この二人には血の繋がりはない。

 それではどんな縁があって伊織が武蔵の養子になったのかというと、主君である小笠原忠政の紹介である。地元ではそこそこの家柄であるとはいえ、伊織は小笠原家にとっては新参の若造だった。そんな人間が将来の側近候補である近習に抜擢されたのだ。当然反発もあった。そんな自分の後ろ盾として宮本武蔵を紹介していただいたのだろうと、当時の彼はそう思っていたものだったが。

 違っていた。


「よし。伊織、今日の稽古は《弱法師》だ」


 立ち上がって、そう言った。


「そろそろ夕餉の時間でございますが……」

「それはそれだ。とにかく付き合え」


 嬉しそうな養父の顔を見ていると、伊織も強くは出られなかった。

 そもそもからして、父である能の師父たる武蔵に逆らえようもない。

 伊織はこの兵法者として高名な宮本武蔵の養子にして、能の弟子でもあったのだ。


(まさか 自分が父に紹介された理由が、父上が一緒に能の稽古をする相手を探していたからだとは……)


 夢にも思うまい。

 元々伊織は、申楽とも乱舞ともいわれる能の類が得意であった。

 重ねて言うがこの時代の武士の教養だったし、多くの武士が熱中していた。武蔵もこの通りにそんな趣味人の一人だったのだが、武蔵には能を共に稽古する相手というのがいなかった。

 能は一人でも稽古はできるが、やはり相方がいたほうがよい。

 兵法については相手は困らなかったのだが、誰も武蔵に能で付き合おうという人間がでてこなかったのは不思議だった……不思議だと、思われていた。

 実際に一緒に稽古をすると、不思議でもなんでもなかったのだが。

 武蔵は熱中すると周りが見えなくなる。とにかく興が乗ると延々と舞い続ける。邪魔をすると不機嫌になる。下手をしたら的場何某のように打たれてしまうことすらありえるのだ。

 これでは共に何かをしようという人間など現れるはずもない。

 それでも一人くらいはそういうこともできる人間はいた――のだが、生憎と若くして亡くなってしまった。殉死であった。武蔵はたいそう悲しんだらしい。それを見かねた小笠原忠政が養子として伊織を斡旋したのだった。

 伊織としてもなるべく義父にして師父たる武蔵には乱舞の稽古は付き合いたいのだが、仕事が忙しいこともあって最近はそれほど相手ができなかった。

 そのあたりのことは若干、うしろめたくもあるし。

 それに。


(殿よりお褒めいただいたのも、父上の日々の指導あってこそ)

 伊織は渋々という風にだが、こちらも立ち上がって扇子を取り出した。


 こうして二人の演舞が始まった。

 それは、毎日とはいわずとも宮本家ではよくある光景であり、要するに今日もいつもどおりということだった。



 ◆ ◆ ◆



 二人の様子を障子をわずかに開けて覗いていたたつぞうは、そっと音を立てずに閉め、そこから席を外す。


「どうやら、ご隠居様もご機嫌を治されたか」


 口元を笑みで歪め、たつぞうは呟いた。

 ご隠居様が機嫌を損ねて、若殿がその慰撫へと向かい、そしていつの間にか二人で舞っている――というのは、明石宮本家が創設された二年前から、いつの間にか毎度のことになった風景だった。


「たつぞう殿」


 たつぞうの後ろに若い用人が控えていたが、こちらも声を抑えている。


「夕餉の支度は何時頃にすればよろしいか」

「いつもどおりに……いや、今日はご隠居様の身体のキレがいつにも増してよい」

「はあ」

「四半刻ほど遅らせるように」

「わかりました」


 頷きあい、若い用人は踝を返して台所へと向かって行き、たつぞうもその背中を見送っていたが、やがて何かに気づいたように玄関へと向かった。

 宮本家にはたつぞうを含めて十五人ほどが詰めているが、屋敷の方が広いのでどうにも人の手が行き渡っていない。人数は近習の家に詰めている者として最低限いるのだが、屋敷の規模には見合っていない。ここは当主である伊織ではなく、その父である新免武蔵に合わせた家屋なのだった。小笠原家に仕えているわけでもないのに、家老ほどの家格を持って遇されているのである。

 たつぞうが足早に玄関に歩いても、五分近い時間がかかった。

 果たして、たつぞうがそこにたどり着くと、五、六人ほどの家人が集まっていたが。

 武家屋敷の常として玄関に人が配置されているのは当たり前であるが、この時間に玄関に五人、六人と集まるということは通常ない。


「――何があった?」

「あ、たつぞう殿」


 この家ではたつぞうに次ぐ年の――それでも三十ほどになる――家人が、なにやら困った風な顔をして振り返った。

 堀部太郎右衛門という、元々は伊織の実家の田原家に仕えていた男だ。宮本家では文字のほとんど読めぬたつぞうの代わりにこの屋敷の事務の大方を仕切っている。たつぞうよりも頭半分小さい小柄さだが、いざ戦いとなると竹内流を能く使い、かつて夜道で出くわした夜盗の三人組を瞬く内にねじ伏せたという武勇伝を持つ。恐らくこの屋敷ではご隠居様を別格にして、五指に入る使い手である。

 その堀部が。


「今、そちらに伝令を向かわせようとしていたところでした」


 というのだから、ただごとではない。

 たつぞうは顔をしかめる。


「必要はなかったな。奥にも声が届いた」


 たつぞうを玄関へと向かわせたのが、微かにも響いた声を荒げたやりとりが聞こえたからだ。宵の口の静かさがなければ、あるいは届かなかったかもしれない程度の大きさではあったが、とにかくも届いてしまったのだから仕方ない。

 堀部の顔が苦渋で歪む。「それでは」と重く声を沈めた。


「ご隠居様にも聞こえた、ということでしょうか」

「ご隠居様は舞に夢中だ」


 仮に聞こえたとして、あまり気になさらなかっただろう――と思いながら、たつぞうは言った。


「いずれ些事と捨て置かれたことだろう」

「ならば、よかった」


 ほっと胸をなでおろした。どうにも、この堀部は心配性なところがある。なんども面白がるたつぞうとは対照的である。それでもこの二人は馬が合うのであるから、人の組み合わせというのは奇妙なものだ。とりあえずたつぞうには、ご隠居様が面白がって顔を出してくるとどういうことになるのか、それを堀部が気にしているのはよく理解できていた。

 何がおきるか――解らないのだ。

 たつぞうは「しかし」とこちらも堀部に合わせて声を低くして。


「ことと次第では、いずれご隠居様にも――いや、先に若様のお耳には入れなくばなるまい」

「それは、――解っては、いる――おりますが、しかし」


 この男が言葉を濁すというは、相当に面倒なことが起きているのだな、とたつぞうは改めて玄関口へと顔を向けた。


「何がおきている?」

「それが」


「もし――」


 玲瓏な、声だった。

 たつぞうも、堀部も、言葉を切ってその声の主を目で追った。玄関の向こうにいるらしく、その姿は他の家人たちに遮られて二人のいる場所には届かない。

 と、何故かその人の壁が二つに割れた。

 その声の主が前へと歩み出たのだ、ということに二人は思い至った。それだけで護衛者であるべき家人達が道を譲るとは考え難いのだが、その時はどうしてかそう思った。どうしてそんなことをしたのかは解らなかったが。

 ――――と。

 西日の挿す茜色の大気と、夕闇が迫る昏さに包まれてそこに立っていたのは――女、だった。

 正に誰彼時という言葉に相応しい光と闇の交わる中にいるその女の姿は、言葉にしがたい圧倒的な何かを感じさせた。

 そして、その女の唇が動くのをたつぞうは確かに見た。 


「――なんと、申されましたかな」


 たつぞうが聞き直したのは、よく聞こえなかったというのはではない。聞き間違えたと思ったのである。

 女は「はあ」と息を吐くように相槌を打ち。


「岩流の縁者でございます」


 と暢気な声で言った。


 彼女は、敵討ちにきたのだと告げたのだ。

 

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