二の段 岩流縁者の娘、仇を求めて宮本家を訪れる事
(一)
「岩流」
と聞かされて、伊織は迷うことなく養父を見た。
「がんりゅう」
養子に見つめられた父はというと、ぽつりと呟いてから首を傾げた。
表情はいつもと変わらない。いつものような二重の深い瞼の、何処を見ているのかよく解らない顔をしていた。
伊織は微かにでも変化はないかと数秒ほど見つめていたが、「それで」と言った。
「どうなさいますか?」
「どう?」
何を言われたのか理解できない――そんな顔だった。
伊織は胸の奥に苛つくものが生じたが、深く息を吸って吐き、気を落ち着かせる。
「その、岩流の縁者とやらの娘を、どう扱うかということです」
ほんの先刻のことであった。
二人が親子して《弱法師》の舞の稽古をしていたところに、たつぞうが「お客様です」と告げた。
誰かと聞いたのは伊織であった。名目上のことではあるが、養父である武蔵は隠居していて、主人は若いながらも伊織である。客の素性と目的を聞かねばならぬのは彼の役目である。
武蔵はというと、扇子を開けては閉じたりとしながら、二人の様子を眺めている。あからさまに、早く稽古の続きをしたいのでとっとと話は終わらないのかという風だ。
たつぞうはそんな二人を見ながらも「へえ」と言ってから、告げた。
「岩流の縁者で名は、ゆう。用件は――仇討ちだそうで」
いつになく、たつぞうは困惑したような声をしていた。
そして、二人は話し合うこととなったのだが。
「どう扱うか――とりあえず、そんなものは殺してから考えてよいのではないか?」
というのが武蔵の答えである。話し合いにもならない。
「そう申されても、女子一人を殺すとなれば、世間でなんと言われるか……」
保身のことだけを考えた物言いであるが、無理はない。
前述したが、伊織は他の近習のような小笠原家譜代の家臣の子弟とは違い、播磨の地侍の子の出である。地元ではそれなりの家柄ではあるのだが、やはり些か劣っているといわざるを得ない。
後ろ盾の弱い身で藩主の忠政の近習になれたというのがそもそも破格の出世であり、それだけにより一層の精進が求められる立場だった。
他の者たちと違って何か粗相があれば出自をあてこすられ、やがてはなんだかんだと理由をつけられ家中での立場が弱くなり、出世は頭打ちになるだろう。伊織とても出世欲は多少はある。できるだけでも上り詰めれば親族の出世頭として見送ってくれた実家の父たちへの孝行ともなるし、自分の才覚をどれだけ発揮できるかを試したいという、若者らしい稚気もまだ抜けてはいなかった。
だから、なるべく堅実に功績を積みたいし、出世を妨げるようなおかしな風聞などは遠慮したいのである。
とにかく伊織はそれらの事情から、世間体がどうしても気になる立場なのだった。
「いいじゃないか、別に」
武蔵の声は、明るい。明るいままで言う。
「そんなこと気にしなくても」
「気にしてください」
門前に若い娘が来て刃物を振り回されるだけでも、世間体は悪くなるだろう。
その上にその娘を撃ち殺そうなどということをしたら、世間ではなんといわれるか……天下の兵法者たる宮本武蔵ともあろう者が、娘一人になんという惨いことをするのかと騒がれるに違いない。
そう言うと、武蔵は眉をひそめた。
「女だろうと、殺されるのは覚悟の上できておろうに」
「しかし……!」
「伊織、いまどきは武士は死ぬことが大事といっている者が多いが、出家だろうと女だろうと、立派に死のうと考えるのはみんな同じだ。数を恃まず名誉をかけ、一人挑んでくるその心意気は認めねばならぬ」
「それは――そうかもしれないですが……」
古い時代の価値観だ、という言葉を、伊織はかろうじて飲み込めた。
もうそんな時代ではないのだと、このひとは解っている上でなおそう述べているのだ。若者の感覚を知った上で、こんなことをいうのだ。
武蔵は続けて。
「だからまあ、名誉の死をくれてやるべきであろう」
「本当、気軽に言わないでくださいよ!?」
思わず叫んでしまった。
それでも武蔵はというと、息子のいつになく声を荒げるのも特に腹を立てることもなく、首を傾げてみせた。
「武士の仕事は勝つことだからな。相手がどうであれ、勝つにこしたことはあるまい?」
「勝つということが即殺すことだというのは、安易すぎです」
武蔵は少し驚いたように息子を見てから、うむうむと何度も頷いた。
「確かに、お前のいうとおりだな」
「……ご理解いただき、ありがとうございます」
それでも果たして何処まで自分の言を聞き入れてくれてるのだか……と伊織は内心では思っていた。
武蔵の理解力にも常識にも疑いようもないのだが、何か、説明しがたいズレがある気がする。
「とにかく、下手に殺したりしようものなら、この宮本家がなくなってしまうかどうかの瀬戸際にたたされるやもしれませぬ」
と少し大袈裟にいってみたのだが。
武蔵はきょとんとした風に言った。
「家がなくなっても、別に困らんだろう」
「…………!」
伊織は、今度こそ言葉を失った。
「小笠原家におられぬようになったのなら、兵法の家として改めて宮本家を立てればよい」
「私は、兵法などはまるでこれしきたりとも……」
かろうじて、そう絞り出す。
武蔵は「うむ」と頷き。
「そうだったな。よい機会だから、改めて兵法を仕込んでもいいな」
恐ろしく無責任な言葉であった。
(この人は……)
伊織はどう言っていいのか解らなくなったが、ここで怒鳴り散らすというのはそれこそしていいことではない。
落ち着け、と自分に言い聞かせながら呼吸を整える。
「今更、兵法を覚えるのはちと面倒でしょう」
「そうか?」
「私にできるのは、せいぜいが乱舞の類でございます」
そもそも、他に教えてもらってもいない。
「それができれば充分じゃないか?」
「……兵法と乱舞は違うでしょう」
「いや、謡曲十五徳というのがあってだなあ」
とかの細川幽斎があげた能を学ぶことによって得られるという十五の徳目を挙げようとする。
伊織は絶望的な顔で首を振った。
「それは存じておりますが――所詮、理念だけでございましょう」
謡曲十五徳に曰く『不馴近武芸』――馴れずして武芸に近づき、とある。他にも古典に通じるだの戦場を知るだのと数々の効能が述べられている。
細川幽斎はこの頃より少し前に亡くなった有名な文化人にして大名であるが、やはり当代の趣味人として能楽も嗜んでいた。いわゆる謡曲十五徳も、相当に幽斎が能楽に傾倒していたのかを示していた。
現代風にその十五徳を解釈するのならば、能をすることによって身体能力を高めつつ、時代や場所を越えた豊かな想像力を養成できる、ということなのだろうが……
伊織に言わせれば、それらは幽斎が能を愛して傾倒するあまりに世間に向けた言い訳である。
「乱舞にて美しい所作を得られたとて、それがそのまま兵法に使えるはずもございません」
やはりそれ専門の稽古をせねば、と続けようとして、武蔵が顔をしかめたのが見えた。
「いや、それは違う。乱舞、申楽の技芸は兵法にも通じるものがあるのだ」
「はあ……」
「よし、その娘を相手にそれを示して見せよう」
「ですから……」
どうにも決定的に話が通じていない。終いには武蔵は不貞腐れたように「もういい」と扇子を広げて口元を隠してぷいと顔をそらしてしまった。
伊織も伊織で、父に訴えてもあまり甲斐はなさそうだと見切って、腕を組んで思案する。
「しかし――堀部にも取り押さえられなかったのか?」
よく考えなくとも、おかしな闖入者などを捕縛するのは彼の役目だ。
「へえ」
たつぞうは頷く。
「なんと申せましょうか、暴れる風でもなく、ただ仇討ちに来たというだけで……どうにも手の出しようがないようで」
「なんだ、それは」
暴れないというのなら、なおさら捕えるのは容易ではないのか。
伊織がそう思うのは無理からぬことであるが、たつぞうは本当に困った顔をした。
「取り押さえようとして騒ぎとなれば、近くの物見高い者が集まってくるやもしれず……」
「――――――そうか」
竹内流の達者としての堀部太郎左衛門のことを、伊織はよく知っている。
元服する以前に実家で簡単にだが竹内流の手ほどきをしてくれてもいた、いわば武術における伊織の唯一の師でもある。その堀部が判断したのなら正しいと思えた。
「悲鳴でもあげられたのなら、確かにな。近隣に説明するのも面倒だ」
「この上は、ご隠居様にお相手していただく他は……」
「いや、それは」
確かに、堀部が無理でもこの人ならばあっという間にどうにかしてしまいそうな――どうにかしてしまうだろうというのは確実ではあるのだが、ここで隠居している人を出すというのは、やはり世間体にはよくない。
(どういうつもりだ?)
伊織はたつぞうがどういう表情をしているのかを確認しようとしたが、俯いていてよく解らない。
いや。
(……面白がっているな)
なんだかそういう気がした。こういうやつだった。
「その、ゆうとやらは幾つだ?」
武蔵がたつぞうに問うた。
たつぞうは「へえ」と相槌を打つように言ってから、
「だいたい、二十歳かそこらではないかと」
「まだ若い」
と言ったのは、それよりもさらに若い十七歳の伊織である。
若い娘だとは先に聞いていたのだが、改めて二十歳ほどだと言われるとますます状況が面倒だと自覚できた。
二十歳だと少しトウがたった年頃であるのだが、それでもまだ若いと言って差し支えはない。そしてそのような娘をよってたかって囲み殺すわけにも、高名な兵法者が撃ち殺すこともやはり外聞が悪くてとてもできることではなかった。
(どうしたものか……)
と腕を組む伊織の耳に。
「二十歳――岩流の――縁者、か」
と武蔵が呟いたのが聞こえた。
(なんだろう)
そのことが、何か注目するべきことなのだろうか。伊織は怪訝な眼差しをして父を見た。
よく解らない表情だったが、悩んでいるようでもあり、怒っているようでもあり、――あろうことか、何処か笑っているようでもあった。
「よし」
パチリ、と扇子を閉じて武蔵は歩き出す。
「父上?」
「ご隠居様?」
二人の戸惑う声を背中に浴びながら、武蔵は止まることなく進む。返事は一言だけ。
「会ってみる」
伊織とたつぞうは、顔を見合わせた。
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