初段 宮本家の変わらぬ日常の事。
(一)
(一)
宮本伊織が帰宅すると、屋敷の奥から重々しい謡の声が聞こえた。
それだけで、大体のことを察することが出来た。
伊織は急ぎ自室に入り、裃を解きながら「たつぞう」と呼ぶ。
すでに控えていたものか、「お呼びでございますか」と声が返った。
宮本家の家令ともいうべきたつぞうは、すでに還暦を越えた年頃のはずだが、声にも張りがあるし動きも俊敏だ。背丈も今の伊織と変わらないほどにある。
伊織も五尺五寸とそれほど低い方ではない。ならばたつぞうは若い頃はかなり大柄だったのだろうと思われた。かつて戦場働きを何度もこなしたとも聞いているが、詳細を知らない。ただ、頼りになるということだけは解っている。それだけで十分だった。
今も、伊織への報告のために控えていたのだろう。
「父上に何があった?」
伊織が問うと、たつぞうは顔を上げ。
「今日、ご隠居様の指南所の方に、兵法者が参りましてな」
「兵法者――か」
たつぞうは「へえ」と相槌を打ち。
「二十三、四ほどの男で、的場鉄斎とか名乗ってましたな。なんでも戸田流を修行して後、独自に練磨して早抜きの術を開眼したという触れ込みでございまして」
「早抜き?」
つい問い返してしまったが、たつぞうは「へえ」と言うと腰に手を当てて刀を抜く動作をしてみせた。
「長々と口上を垂れてましたが、あれは田宮流とか林崎流の、抜刀術の類のものでしょうな」
「ああ……」
兵法に詳しいわけではない伊織であるが、その説明でだいたい解った。
抜刀術とは刀をすばやく抜き、切りつけるという技術である。
今から五十年ほど前の兵法者、林崎甚助が神道流などから編み出して大成させたという。最近ではその甚助の弟子たちが世間に広めていて、田宮流も林崎流もその流れを汲んだ流派として有名だ。
しかし実際のところは甚助の系統以外にも抜刀術は伝わっていたし、呼称も抜刀術の他に抜合、居相、鞘の内、抜剣、鞘離れなどと様々なものがあった。
的場何某の早抜きの術というのも、そんな異系異称の一つだろう。
「それで、その的場とやらは、父上をどう不機嫌にさせたのだ?」
たつぞうは「へえ」と言ってから顔を上げ。
「解りますか?」
「解らいでか」
重々しく聞こえてくるのは、有名な能の一曲〈熊野〉である。平家物語を題材にとった名曲で、古くから〈松風〉と並んで賞賛されてきている。伊織は説明されるまでもなくそのことを知っていた。彼自身が得意とする曲でもある。
彼の父がそれをどういう時に舞うのかも、である。
「父上が稽古以外で仕舞いをするなどという時は、決まって気が立っている時だ」
「そうでございましたな――」
たつぞうは顔を伏せた。どんな表情をしているのか、立っている伊織からはよく解らない。解らないのだが、笑っているのではないかと思った。
この男は頼りになるが、それ以上にどうにも人が悪いところがある。
「それで、何があった」
「へえ」
とたつぞうが、語り始めたところによると――
「ご隠居様は、最初は歓待しましてな」
その様子は、伊織にも想像がついた。
彼の父は決して愛想がいいというわけではないが、同好の士と話す時はよく舌が回る。何処でどう学んだものか知見も広い。大碩学たる林羅山とも親交があるという話もある。その気になれば誰とでも話をあわせられる人であるが、同じく剣士ともなれば、さぞかし盛り上がったことだろう。
「それで、話の途中で、何やら思い至られたらしく」
――絵を描き始めたのだという。
伊織はそれを聞いて、眉をひそめた。前後の事情に繋がりがどうにも感じられない。やってきた兵法者がいて、話していて、そこでどうして絵になるのか。
「誰かお偉い方に屏風絵を頼まれていたそうで」
「ああ……そういえば、殿に頼まれたとかで……いや、あれもだいぶん前のことだったと思うが」
「だいぶん前ですな」
「珍しく、苦戦しているのか」
「そのようで」
「確か、図案が浮かばないというようなことを言っていたが……」
「へえ」
たつぞうの話では、ここ数ヶ月は指南所の運営は弟子に任せ、そればかりにかかりきりになっていたのだとか。
「そうか……」
伊織はそのことには全然気づいていなかったが、昼間の父のことなど意識して耳にいれないようにしているので仕方がないことだった。何か問題があればたつぞうが話してくれるという信頼もある。
(何事もないからと、油断していたか? いや――)
まだだ。
まだ詳細は聞いていない。
今の時点で判断するのは、早計に過ぎる。
とりあえずと、伊織は状況を整理することにした。
まず、殿に頼まれた絵の図案について行き詰まっていた。
そして数ヶ月とたっていた。
(珍しいことではある)
そんな折に兵法者が尋ねてきたというのは、よい刺激になったに違いない。
そして、それをきっかけに図案を思いついたので、忘れないうちにと書き出したというところか。
瞼を閉じるとその光景が目に浮かぶようだ。弟子達に囲まれながら愉しそうに話す若い兵法者と、それに時折に聞き返し「ふむふむ」とうなずく彼の父。そしてその途中で、いきなり紙を広げ……。
やがて、伊織は沈痛な面持ちで。
「もしかしてだが、なんの断りもなく絵を書き出したのか?」
「よくお解りで」
「ああ、うん。まあな」
そう。
常識で考えるのならば、思い付きを書き記すにしても一言くらい何か言っていただろうが……伊織も最初はそう思っていたくらいであるが、よく考えれば、あの人はそういう類に常識的な人ではない。
伊織は溜息を吐き、首を振った。
「となれば、的場何某は、それで腹を立てて父上に切りかかって、返り討ちになった――というところか」
武士は面子を重んじる。
上位者が相手だろうと、目の前でいない者であるかのように一方的に振るまわれては、黙ってはいられない。沽券に関わる。
(最近はそういう戦国の遺風も、少なくなってはきているようだが……)
しかし解ってみれば、たいしたことではないなと思った。
(父上に一太刀でもあびせられる人間がいるとしたら、たいしたものだ)
とまで思う。
もっとも、傷一つでも負わせられたら、それはそれで、由々しき事態である。
どんなおかしな人物だろうと、この明石では名士であり、養子とはいえ息子である伊織にとっては親の仇だ。何が何でも、面子にかけて成敗しなくてはならない。
ところが、たつぞうの答えは「いえ」と首を左右に振ることだった。
「返り討ちも何も……」
「何も?」
たつぞうは、目を輝かせて。
「ご隠居様は、抜かせもしませんでした」
ひょいと、絵を描きながらその的場某の刀の柄頭に左手を添えた――のだという。
的場の方を見もせずに。
絵に集中しながらも周辺に気を配っていた、というよりも、ただ手が勝手に動いたという風にたつぞうには見えた。
立っていたのならばまた少し状況は変わっていたかもしれないが、的場は立つ暇すら惜しんで座位での抜刀を仕掛けようとしたのだった。
「そこで的場は、咄嗟に鞘を持つ左手を引きながら、こう左の膝を後ろに退こうとして……」
「ふむん」
身振りを添えて説明しようとしているたつぞうを見ていると、その場の様子もよく解ってくる。伊織は相槌を打ちながらそれを想像してみた。なるほど、座った状態から柄を押さえられたのならばそうする他はないのかもしれない。兵法だの武術は基本的に門外漢なので、黙って聞く。
だが。
たつぞうは言った。
「それで気がつけば、刀は天井に突き刺さっていましてな」
「なんでだ」
伊織は思わず口を挟んでしまった。
「なんで、と聞かれても……なんででしょうねえ」
腕を組み、たつぞうも首を傾げている。どうやら目撃していた彼自身にも説明が付かないことだったらしい。
「お弟子さんが残っておられたなら、誰か一人くらいはわかったんでしょうけど」
「……いなかったのか?」
指南所なのに。
「ご隠居様が絵を書き出すまでは、いましたな」
「…………」
「まあご隠居様が絵を書き出すと稽古にならないないのは、みんな知ってますからな」
あとはやはり、下手に関わるとろくになことに巻き込まれかねない――そう思ったのだろうとたつぞうは言い添えた。
伊織は額を押さえた。無責任だとも思ったが、父の弟子たちを責める気にはなれなかった。自分も彼らの立場ならば恐らくはそのような行動をしていたはずだ。
「的場何某ならば、さすがにその時何があったのか解るんでしょうけどねえ」
「………生きているのか?」
そう聞いてしまったのは、最悪の想像をしていたからである。というよりも、たつぞうの言い方だとどっちとも受けとれる。
「いやまあ、それで的場何某もさすがに力の差を思い知ったんでしょうな。すぐさま平伏して負けを認めたんですがね」
「なるほど……」
潔いものだな、と伊織は言いかけてから気づく。
「しかしそれだと、その的場が父上が機嫌を悪くさせたという理由がよく解らぬ」
まだ、続きがあるのか――
正直、これ以上は聞きたくはなかったのだが。
たつぞうは「へえ」と頷いた。
「ご隠居様は的場に適当な生返事をしながら、それからさほどに間をおかずに図案を書き上げましてな。大雑把なものでしたが、多分、あれは松であったんじゃあないですかね」
「多分?」
「いやあ、よく見る暇もなかったんで……肝心なのはここからですよ……ご隠居様、会心なできであったらしく、書き上げた時に床をどーんと叩いたんですよ」
「ほう。どーんと」
「どーんと。よほどに嬉しかったんでしょうな。指南所全体が揺れたかと思えるほどでしたよ。実際に、ゆれたようでして」
どうしてそう言えるのかというと――
天井から、刀が落ちてきた。
「こう、とーんと天井から刀が落ちてきましてな。長く生きてますが、ああいうのは初めて見ました」
「………………」
当たり前だ、と伊織は言おうとしたのだが、その前に天井に刀が刺さったままに指南所の床に紙を広げて松の絵を描く養父の姿を脳裏に浮かべた。何故父が絵を書いてる間に誰もそれを抜こうとしなかったのだろうか。たつぞうもその的場という男も、黙ってそのまま見ていたのだろうか。曰く表現しがたい、どうしようもなく不条理な光景であった。
黙りこんだ伊織を尻目に、たつぞうはさらに説明する。
「刀は柄の方からから落ちて、床で少し撥ねてからぱたりと倒れて」
「父上に当たったのか?」
「墨壷に」
「今度こそ、解った」
「へえ」
墨壷は弾かれて、先ほど書きあがった図案の描かれた紙の上に転がったのだという。当然といえばこれほど当然のことはないが、墨壷の中に入っているのは墨であり、中身を使い切っていなかったらひっくり返せば零れる。そして――墨が紙に広がれば。
真っ黒に。
「いやあ、あの時のご隠居様の顔ときたら……『あー』と口を開けてしまわれましてな。ご隠居様が播磨に居を構えてから二十年、お側の御用を請け賜ってきましたが、あんな間の抜けた顔をされたのは初めて見ました」
実に面白そうである。長く仕えているというのに。あるいは、だからこそなのか気安いものの言い方だった。
「それでご隠居様はというと、そこでようやく平伏している的場に気づいたようでして」
その的場はといえば、さすがに刀が落ちたのを察して身を起こしていたが、そこで自分を睨み付ける目を見て恐怖に顔を固めた――という。
そして次の瞬間に。
『何をするか!』
――張り飛ばされた。
「見事なくらいに飛びましたな」
「そうか」
伊織は額を抑えていた。つくづく、聞くのではなかったと思った。しかし聞いておかないと後々差し支えるのも確かなことなので、「まあなんとか一命とりとめたようですが」というたつぞうの言葉を聴きながら深い溜め息を吐く。
「それは……しかしどうしたものか」
先に手を出したのは確かにその的場とやらだが、そもそも客を前にしていきなり絵を書き始めるというのが常軌を逸している。しかし向こうにしても、無礼な行いを見咎めて切りつけて敗れたというのだから吹聴されたくもあるまい……だが、しかし……
伊織は「ううん」と腕を組んで唸る。
「後で何か持って、見舞いにいけ」
「へえ」
たつぞうはそう頷くが、伊織は「いうまでもなかったか」と内心でぼやいた。たつぞうのことだから、すでにその手続きはしているだろう。
しかし、問題はそのことではない。指南所にきた兵法者が一人、死にかけたということは、だが宮本家にとっては所詮は「それだけのこと」でしかないのだ。
問題にすべきは。
「それで、お父上は不機嫌なのか」
ということだった。
「へえ」
とたつぞうは、今度こそ気の毒そうな顔をして、俯くように頷いた。
伊織はするすると滑るような足捌きで廊下を歩いていた。
この先に待ち受ける人のことを考えると気が重くなるが、それでも放っといて夕餉をとり、布団を被って寝てしまうということは許されない。そうしてしまいたいのは山々なのだが、彼は養子である。養子であるからには養父に対しては立場が弱いというのが相場なのであった。まず帰宅したら養父に挨拶に行かねばならないのだ。それが世間体というものである。
伊織は若くして聡明である。少なくとも、そう世間には噂されているし、自分自身でもそれなりに頭が回る方だという自覚もある。十七歳という年齢に似合わず、彼は様々な者達に出会ってきた。戦場往来を続けてきた荒武者もいれば、馬にもろくに乗ったことがない能吏もいる。無邪気なだけが取り得の若者もいれば、権謀術策にしか興味がないような男もいた。
仕えている小笠原忠政候が茶人として有名であることから、いわゆる風流人などにもたびたび接する事もある。そういう人たちとの付き合いのためにも芸事の心得が伊織にはある。そのような者たちの約束事、有職故実の類にもたいがい通暁してもいる。
生来の素養もあるが、そんな日々の中で、彼自身の洞察力も育まれた。
彼と接する者は、多くが「この若さでそこまで至れるものか」と賛嘆の言葉を惜しまなかった。
そんな宮本伊織をして――
この先で待ち受けている養父のことは、よく解らないのだった。
勿論、どのような人物なのかということは、風聞として耳に届くようなこと、それ以外の彼の父親や養父の関係者からも聞いて知っている。縁組の前にあらかじめ聞いていたし、調べもした。それである程度の人物像を作り上げてはいたのだが。
まずは播磨の生まれだということは、誰もが知っていた。揖東郡の宮本村というところらしい。らしいというのは、細かいことは誰も知らないということで、当人さえもほとんど記憶がないらしい。はっきりと聞いたことはないのだが、どうも養父の父、つまり伊織にとっての系譜上の祖父は、当時その地方の領主だった黒田官兵衛の転封に従って九州の筑前に移住したという話で、養父も幼い頃、物心つく前にに渡ったようだ。十五歳の頃に播磨にようやく戻ることにしたのだというが、どういう理由があってのことかまでは解らない。
筑前にいた頃に、養父はとある武芸者の家の嗣子となっている。新免無二という人で、かなりの使い手であったらしいが、養父も逢ったことがなく、どれほどのものかというのは知らない――と、これは当人に断言された。
そんなこんなで新免家の嗣子となった養父は、播磨に帰ってから明石に居を構えた。
今から二十年ほど前だ。
そこからは地元の話なので――伊織もそれなりに聞き及んでいたのだが。
「曰く、絵の名人である」
「曰く、鍔作りの達者である」
「曰く、彫り物の上手である」
というようなものから、
「明石の町割りをやった」
は、まだいいとして。
「決闘をすること六十回以上、今まで負けたことがない」
「三、四十人に囲まれて全員撃ち殺した」
「数え十五歳で神道流の使い手を撲殺した」
と来ては、何がなんだか。
いやいや、かの千利休の弟子の大名たちも、多くが戦場の槍働きから出世したという荒武者どもだった。武士が茶事・芸術を解したとして何も悪くない。むしろ、申楽などは武士の習い事としては重視されていた。伊織だって申楽は得意だ。他の絵や彫り物にしても、得意な武士というのはいる。それに、しても――。
それらをまとめて、となるとそうそういるものではない。
それらの話は別々のところから聞こえてくるのだが、それだけに真偽のほどは定かではなかった。あるいは何処かの誰かの話が混じりこんでいるのかもしれない。リテラシーなどという言葉はまだ世界の何処にも存在しなかったが、そう考えるのが普通だ。なんでもできる人間の話などは、到底信じられるものではない。
しかし、しかし、しかし、そういうあり得ない話もありえる、と思わせるものが伊織の養父にはあった。
結局のところ、
(よくわからない)
紹介された時から、伊織はそう思っている。縁組をして二年を経過した今も、やはりその思いは変わらない。余計に解らなくなってきている感もある。
養父について、確実に解っていることは一つである。
「曰く、兵法の達人である」
ということだけであった。
いや、あともう一つ。
「父上、ただいま帰りました――」
恭しく言った彼の視界を、舞い落ちる桜の花びらが通り過ぎた。
鼻腔を擽るのは春の、華の匂いだ。
目を細めた伊織の視線の先で、一人扇子を持って舞っている人がいる。
「伊織か」
ふわり、と舞いの手を止めて、宮本伊織の養父、新免武蔵守藤原玄信――通称・宮本武蔵は、なんだか不機嫌そうにそう言った。
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