片想いに救われた

CHOPI

片想いに救われた

 雨が降っている。薄暗くてどんよりした空気、コンクリートが雨に湿って香る独特の匂い、まとわりついてくるような生暖かい風。


 ……なんでだろう、頭が酷くぼんやりとしている。


 確か今日は部活で他校との合同練習があるからと、いつもより早めの時間に部員全員が集まることになっているはずだ。私たちの部活の練習は、基本的に午前中から行うことが多く、今回の合同練習も例外ではなかった。


 ……なのに、何故だろう。薄暗い雨雲が空を覆っている今の状況に、妙な違和感を覚える。なんだか朝、というよりは梅雨時の夕方のような感覚に襲われる。酷い雨のせいなのか、車は既にヘッドライトを点けて走行している。違和感は相変わらず、拭えないままだった。


 こんな天気のせいなのだろうか。傘をさしているからなのか、各々が少し隔離されているその距離間に、いつもなら感じるはずのない孤独感を感じる。でもその孤独感が嫌かと聞かれると、それは不思議と嫌なものには感じられなかった。


 ふと気が付くと、さっきより傘をたたく雨の音が大きくなった気がした。それを証明するかのように、先程までの会話の音量だと上手く会話が出来なくなっていた。声を大きく出さなければいけないことも、相手の言葉に集中しなくてはいけないことも億劫になり、先に集まっていたメンバーの口数は雨音に反比例していく。


 「まだ来てないやつって、あとどれくらい?」

 「えーっと……」

 数人の名前が挙がり、その中に彼の名前も入っていて、そういえば珍しくまだ来ていなかったのか、とぼんやりとした思考で考えていた。同時に、理由なんてものはよく分からないけれど、何故だかドキッとしたのも事実。しかもどちらかというとそれは、嫌な感じのドキッという感覚。


 彼のことだから、遅刻って事はまずありえない。本来の待ち合わせに間に合うように必ず来る。と、いうことは彼がこの場に来るまで、あとちょっとだ。


 そのことを考え始めたら、突然眩暈がした。お腹が急に痛くなって、目の奥のほう、こめかみの辺りがぐるぐる回って、吐き気が異常なほどにこみ上げてきて止まらない。


 ――……、逃げたい。


 何故だろう、とっさに強くそう思った。それはたぶん、心の奥底の自分の、今一番の本当の声。でも同時に、逃げ出さないように言い聞かせている自分がいる。それは自分の本音を抑える、理性的な大人な自分。


 どちらが勝つか、理性か、心か――……


 「ちーっす」

 「おう」

 私はほとんど無意識化で、とっさに会話の聞こえる方へと視線を向ける。


 ……、やっぱり来た。


 そこにいたのは、傘をさしながらすでに先についている同期に話しかけている、彼の姿があった。その姿を確認した瞬間、考える間もなく私の体は皆とは逆をむいていて。自分の中でかかっていた理性のブレーキが、一瞬にしてはじけ飛んだ。

 近くにいた部員の1人に半ば怒鳴るようにして

 「ごめん、帰る!!」

 そう言って、後ろを見向きもせずに、その場から全速力で走り出した。


 荷物も何もかも集合場所に置いたまま、雨の降りしきる中闇雲に走った。傘が風の抵抗を受けるのが邪魔で、走り出してすぐに後ろへと投げ捨てる。時折前から来る、車のヘッドライトや街灯が怪しげに光り、それを何故だかいつもより眩しく感じた。


 雨は容赦なく私の体を濡らしていく。だけどそんなことを気にしている暇は無かった。すぐに髪の毛からは水が滴って、靴も走る音にあわせてべチャべチャと嫌な音を出し、濡れた服は動きに合わせて身体にまとわり付いてくる。

 そんな状況で、何故だか頭の中には一つの言葉しか浮かばない。


 ――逃げなきゃ


 普通なら『あぁ、濡れた服気持ちが悪い』とか、『靴が重いな』とか、そういうことも頭をよぎると思う。だけど私は、普通じゃなかった。


 ――逃げなきゃ!


 それだけを思い、ただただ走った。足が遅くて、体力も全然無い私が、自分自身が一番信じられないくらいに一生懸命に。


 ――つかまっちゃダメだ。逃げなきゃ、とにかく逃げなきゃ……!


 ……なのに、なんでだろう。どんなに走っても何故か不安は消えなくて。上がる息の中、増していく不安。

 そしてその不安は的中した。後ろから追いかけてくる人の気配を感じた。それと、同時に聞こえてくる足音。後ろから近づいてくるその足音は、私同様に走っている。


 ――マズイ、向こうの方が、足が速い。追いつかれる……!


 一瞬感じた、服の背を掴もうとする腕の感触。それを咄嗟に交わすように方向転換をした。来た道を戻るように、いきなり180度。雨が降っているから足元がすごく滑りやすい。向こうは転ぶだろう、そう思っての方向転換。するとすれ違ったのは。


 追いかけてきていたのは、彼、だった。


 運動神経の良い彼は、少しだけ足を滑らせただけで、方向転換をした私に上手く付いてくる。少しだけ間合いが広がったものの、これくらいの間合いじゃまたすぐに彼に追いつかれてしまう。


 それでも尚、足を止めずに走り続けていると、目の前には信号。しかも運悪く、光っているのは赤信号。だけど道路を確認すると、まだ信号は変わったばかりだったのだろうか。信号を渡ろうとしている車のスピードはそこまで出ていなかった。しかもわずか数台しか来ていない。


 ――渡らなきゃ、捕まっちゃう……!


 そのことしか頭には無かった。

 あと少しで渡り始められる、その瞬間。右手を強く後ろに引かれた。同時に止まる体。右手に伝わってくる、強い力はやっぱり彼のものだった。さっきすれ違ったときには気が付かなかったけど、彼も何故か傘をさしていなかった。


 ――何で? 濡れちゃうよ?


 そう思ったけれど、上手く声を出せない。それどころか急に、泣き出したくなった。


 ――とにかく放っておいて、お願い一人にして!


 声が出ないから態度で表そうと、必死に腕を振り払って信号に飛び込もうとする。でも、彼も負けずに止めてくる。

 「何してんだよ!」

 珍しく余裕の無さそうな彼の声。でもこっちだって余裕なんかあるわけなくて。強い力で引き戻されそうになって咄嗟に叫ぶ。

 「キャーッ!」

 悲鳴にも近いその声に流石に君も驚いたのか、咄嗟に腕が緩んだ。気づけば信号は青、再び走り出す私。君も追いかけてくる、気配で何故かわかる。


 ――何で?


 逃げ込んだ先にたどり着いた路地裏は、運の悪いことに行き止まりで。私自身ももう、走れなかった。上がった息を抑え込むようにして、両膝を抱えてしゃがみこむ。転んだ覚えも無いのに、気が付いたら泥だらけで真っ黒で、ホント馬鹿みたい。もう乾いた笑いしか出てはこなかった。


 膝を抱えていた腕を外し、両耳をふさぐ。そのまま体を丸め込んで、膝に顔をうずめて目を閉じた。呼吸の荒さが耳に付く。これでこの世界、私、独り。


 ……これで良い。これで傷つくことは何一つ、無いんだから。それは本当に少し、ほんの少しだけ、それは苦み(にがみ)を伴うけれど。


 雨に打たれる感覚以外、何も感じない。そう思っていたのに。急に頭に感じたのは、雨以外の、ぬくもり。


――え?


 戸惑いを隠せないまま、だけどそのぬくもりを享受してしまう自分がいる。その優しいぬくもりは、次第に私の頭を撫でる動きに変わっていった。思わず目を開けて視線を上げてしまった。独り、の世界から、出てしまったのだ。すると目の前には何故か、彼がいた。彼は私に目線を合わせるようにしゃがんでいて、彼の腕は私の頭に伸びていた。

 

 「大丈夫、大丈夫……」

 私に言い聞かせるかのように、彼は大丈夫、と繰り返していた。そんな彼に対して『何が大丈夫なの?』とは聞けなかった。

 だけどそこでようやく気が付いた。彼のくれる手のぬくもりと、『大丈夫』の言葉が少しずつ、独りの世界に逃げ込んだ私を、元の世界に引き戻してくれていることに。


 **********


 ――ピピピピピピッ

 無機質なアラーム音で目が覚めた。


 ……? 朝? え、じゃ、今さっきのは夢?


 少しずつ現実に戻るにつれ、ついさっきまで見ていた夢が薄れていく。でもはっきり覚えているのは、彼のくれた優しいぬくもり。同時に思い出されたのは、今から少しだけ前の、でももう懐かしいと言えるようになった記憶。そうだ、私は高校生のあの頃、酷く孤独だったんだ。


 あの頃の私は生きていることがとにかく嫌だった。いじめとか、虐待とかそういう苦しい理由があったわけじゃない。だけど生きることに対して不器用な私は確かにあの頃、生きることを辞めたいと願っていた。だけどどうしても、どんなにそう願っていても。たった一つだけ、まだもう少し、そう願ってしまう瞬間があった。


 その理由が彼だった。彼は強くて優しくて、ちょっとだけ意地悪で。私の憧れだった。結局卒業するまでの三年間、私は彼にはもちろん、周りの誰にもそのことを言うことは無かった。やっぱりどんなに彼に憧れていたとはいえ、生きるのを辞めたい、そう思う時間の方が当時の私には長かったから。


 卒業してから彼に会ったことは一度も無い。卒業してすぐにLINEは消してしまった。今の私たちに連絡手段は無いに等しい。だけどたまに当時の同期経由で聞く彼の話は、いつまで経ってもやっぱり彼のままで。そうだ、そういえば昨日同期から、彼が来月結婚することを聞いたんだ。もしかして、だから、あんな夢を見たのだろうか。


 今では遠い記憶の彼方の、私の初恋。どん底で、潰れそうで、息が出来なかった私を支え続けた、純粋な私だけの秘密の宝物。


 恋が人を救うって、本当にあることなんだよ。

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