第十六話  州都にて

「――という次第で、私一人がおめおめと生き恥をさらし、逃げ帰って参りました」


 ローザはひざまずき、頭を垂れ、ブレアの町での夜襲作戦失敗の顛末を、包み隠さず報告し終えた。

 相手は無論、ナスタリア伯爵である。

 ヴァスタラスク帝国の重鎮たる大貴族にして、このアーカス州を支配する領主。

 同時に、長い黒髪も艶やかな、妙齢の美女であった。


 大昔では、女性が貴族家の当主になるのは難しかったが、現代ではごく普通のこととなっている。

 徹底的な実力主義者だったカイ=レキウスが、女性の就任を大いに認めたからなのだが、その事実は捏造された歴史の闇に埋もれ、ローザも知らない。

 この時代の人々が、「どんなに有能でも女性は跡継ぎになれない」などと言われれば、「どうしてそんな不合理な?」と首をひねるだろう。そんな社会常識のみが残っていた。


「そう……。スカラッドは死んだのね」


 さほど残念でもなさそうに彼女――ナスタリア伯爵ナターリャは嘆息する。

 州都アーカスにある、彼女の居城。

 中でも当主が寛ぐために設えられた、個人的な居間。

 ナターリャは寝椅子にしどけなく横たわり、ひざまずいたローザと二人きりで相対している。


「しかも、相手は吸血鬼たった一匹とは、恐ろしいことね」

「厳密には裏手を守る何者かもいたようです。私はその存在を確認できませんでしたが、そちらから攻めた部隊も全滅させられてしまいました」


 恥を忍んで逃げ帰ってきたというのに、大した情報も持ち返れなかったことを、ローザは不甲斐なく思い、肩を震わせた。


「騎士や兵士やどれほど討たれようが、大したことではないわ? 問題は魔術師たるスカラッドが敗れたこと」

「あの吸血鬼も申していたのですが、その魔術師とは、魔術とは、いったいなんなのでしょうか?」

「そう……。元皇帝騎士といえど、あなたが知らないのも無理はないわね」


 その台詞をナターリャがどんな表情で言ったのか、顔を落としているローザにはわからない。

 ただ、さすがは帝国の大貴族。

 ナターリャは「魔術師」や「魔術」という存在も、その恐ろしさも、ちゃんと知っていたということに、ローザは深い安堵を覚えた。敬愛する伯爵のために情報を持ち返り、警告できたことを喜んだ。

 そして、一層声を震わせながら乞うた。


「伯爵閣下――願わくば、私にも魔術のなんたるかをお教えください。次、あの吸血鬼と戦う時に、なんらかの対策になるかもしれませんゆえ」


 我ながらずうずうしい願いだと、ローザは思った。

 本来なら、おめおめ一人逃げ帰った自分は、この場で自刃を申し渡されても文句は言えない。

 そこを敢えてローザは、助命と再戦の機会をねだっているのだ。

 無論、我が身可愛さからではなく、ナターリャのために危険な吸血鬼と戦いたい一心で!


「ローザ」

「は、はいっ、伯爵閣下」

「こっちにおいでなさい」

「はっ」


 ローザはびくびくしながら、おもてを上げず、低い体勢のまま寝椅子の傍に寄る。

 自分は許されるのか、許されないのか、伯爵の表情も窺えないまま、沙汰を待つ。


 すると――


「よく生きて戻ってきてくれたわ。そして、よく報告してくれたわ」


 ローザはいきなり、ナターリャに抱き締められた。

 自分よりもさらに豊かなバストを持つ美貌の伯爵の、その谷間に顔が埋まった。

 柔らかく、温かく、ナターリャはまるで慈母の如く迎え入れてくれたのだ。

 ローザは自分が許されたことを知って、涙しそうになった。


 こうなると、ナターリャが臣下の居並ぶ謁見の間ではなく、ごくごく個人的な部屋に二人きりで、報告を聞きたいと言ってくれた理由も、わかってくる。

 ローザの生き恥を衆目にさらすのを避け、且つこんな風に心から慰めてくれるために、そうしたのに違いない。

 ナターリャの優しさが、ローザの胸にしみた。


 そのナターリャが温和な声音で続けた。


「ええ、魔術のことは後で詳しくレクチャーしてあげる。それで再戦のための牙を研いで頂戴」

「あ、ありがとうございます、伯爵閣下! 次こそは必ずや、お役に立ってみせますっ」

「あなたの忠義はうれしいわ? でも、あまり自分を追い込まないでね? 相手も魔術を知る吸血鬼ならば、数百年を生きる大ヴァンパイアの公算が高い。王侯種ロード……最悪、真祖トゥルーブラッドの可能性だって。あなた一人の手に負える相手ではないことを、肝に銘じて?」

「か、畏まりましたっ! 同僚たちとよくよく連携することを、お誓い申し上げます」

「ありがとう。安心したわ」


 そう言ってナターリャは、より一層強く抱きしめてくれたのだった。


    ◇◆◇◆◇


 人は誰でも、ナターリャのように人徳を持っているわけではない。

 そのことをローザは知っている。


 ナターリャから魔術のなんたるかについて教わるため、ローザは連日、伯爵家居城を訪れていた。

 今も清掃の行き届いた廊下を歩いていた。

 その行く先々で、後ろ指を指されていた。


「ほら、ローザ様よ」

「一人だけ生きて逃げ帰ったのって、本当だったのね」

「しかも相手は吸血鬼だったんでしょう?」

「男たちは皆殺し。でも、ローザ様はあの通りお美しくいらっしゃるから、たっぷりと血を吸われただけで、解放されたらしいわよ」

「まあ! それじゃあローザ様も吸血鬼の仲間にされてるんじゃないの!?」

「こわ~い」


 ――などと、城に仕える宮女たちが、侍従たちが、あるいは廷臣たちまでもが、あることないこと、噂話に花を咲かしていた。

 敗戦を許してくれたどころか、生きて帰ったことを喜んでくれたナターリャとは、正反対の反応だ。


(だからこそ、ナターリャ様の人徳が際立つというものよ!)


 ローザは主への忠誠を新たなものにする。

 ただ、口さがなく言われて、心が痛くないわけがない。

 陰口を振りきるように、早足になったところへ、


「愚昧な連中だ。吸血鬼に血を吸われても、その眷属になることはない」


 声高にローザを擁護してくれる者が現れた。

 人間離れした美貌と蜂蜜色の金髪ハニーブロンドを持つ、痩躯の女騎士だ。

 ローザと同い年くらいの少女に見えるが、実年齢は定かではない。

 長い耳が示す通り、彼女は長命なエルフ族だからである。


「吸血鬼の眷属になる条件は二つ。全身の血を吸い尽くされた時と、逆に相手の血を口にした時だけだ。前者の場合は劣等種レッサーとなり、自我が完全に失われる。後者の場合は自我が保たれるが、どちらにせよ吸血鬼は陽光を嫌う。こんな昼日中を平然と歩いているものか。無知蒙昧の輩はまったく度し難いな」


 エルフの女騎士は、遠くで陰口を叩いている宮女たちに向かって、声高に皮肉を言い続けた。


「ジェニ……どういう風の吹き回し?」


 ローザは当惑気味に、エルフの女騎士の名を呼んだ。


 このジェニは、アーカス州土着のエルフ族の出身であり、もっといえば一族を代表して伯爵家に仕えている譜代中の譜代だ。

 一方、ローザは帝都を放逐された後、ナターリャにひろってもらった余所者。

 その立場の違いから、たびたび対立と衝突を繰り返してきた、ライバル関係なのである。


「別にあなたを殊更に庇ったわけではない、騎士ローザ。ただ私は、誤った言説がまことしやかに流れることが、許せないだけだ」

「あっそ。潔癖なエルフらしいことね」


 うっかり感謝しそうになって損した! とローザはむくれて皮肉る。


「そうだろうとも」


 ところがジェニはむしろ誇った。

 それから、


「吸血鬼に敗れたそうだな、騎士ローザ?」

「何よ? 笑いに来たの?」

「あなたが通常種や貴族種に敗れたのだったら、そうしただろう。しかし伯爵閣下からお聞きしたところによれば、王侯種や下手をすれば真祖かもしれない相手なのだろう? だったら笑ってなどいられない。これは笑い話にしていい問題ではない」


 ジェニは頭にクソがつくほど生真面目な、エルフらしい騎士なのだが、さすがこういう判断がしっかりとできるところが、彼女の優秀を証明していた。


 だからローザも態度を軟化させる。

 内心思うところはあれど、同僚たちとしっかり協力するとナターリャにも誓った。


「詳しい話を聞きたいなら、恥を忍んでいくらでもするわ。それであの吸血鬼を討つ一助になるなら、私の個人的なプライドなんてどうだっていい」

「それこそが真の矜持というものだな。それでこそ我が好敵手」


 ジェニは真顔でそんなことを言った後、


「アーカスに住む古き吸血鬼のことなら、我が一族にも何かしらの情報があるかもしれない。その吸血鬼は、名をなんと言うのだろうか?」

「カイ=レキウス……と名乗ってたわ」

「カイ=レキウスだと!?」


 いつも口調が硬質で、バカ丁寧なジェニが、珍しく声を荒げた。


「そ、それがどうしたわけっ?」


 ジェニはにわかに形相を憤怒で彩り、押し殺した声音で告げた。


「その吸血鬼、絶対に許さん! この私の手で葬ってやる! 我がエルフ族には、吸血鬼を仕留めるための叡智が、秘術が、無数にあるのだということを教えてやる!!」


 一転、激情に駆られながら宣言した。


 同じ女騎士のジェニだが、剣の腕ではローザに一歩も二歩も及ばない。

 しかし彼女はエルフであり、精霊を使役する不思議な能力を有していた。


(そこに、あの不滅の吸血鬼を討つ糸口があるかもしれないわね……!)


 ローザはそう武者震いする。

 敬愛するナターリャのためなら、このライバルと手を結ぶことだとてわけはなかった。

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