二人だけの仮の家族 3
一日の家事を終えると、俺とエリスは別々の部屋に籠り、そして寝床につく。
部屋の換気をしようと、俺は寝室の窓を開けた。
外からの涼しい空気が、部屋に流れ込んでくる。
その空気と一緒に、遠くから人の叫び声が聞こえてきた。
空耳だと思い込みそうな、小さな叫び声。しかし不吉なものを感じて、俺は部屋を出ていく。俺の部屋の向かいにあるエリスの部屋のドアを叩いた。足音がドアの向こうから聞こえてきて、ドアが開かれる。
「うーん、どうしたのナオト、おやすみしたばっかりなのに」
パジャマ姿のエリスは眠そうに目をこすっていた。
「外の様子がおかしい」
「外?」
俺はエリスを連れて、さっきの窓辺へと向かう。叫び声は、まだ響いていた。
「外、といっても、防疫壁の向こうからだよね」
「何かが起こっている」
しかも、防疫壁の向こう、ローレンツの街がある辺りの空が、かすかに橙色に輝いている。あれは何の光だろう。
「エリスが帰ってくる直前でも、様子がおかしかったんだ。空に煙が昇っていた。火事かと思ったけど」
「祭りとか、でもないでしょうね。この時期にローレンツで祭りなんてない」
「また四年前みたいなことが」
「……心配しても、私達にはどうしようもないけどね」
「ああ、正直、認めたくないけど」
「防疫壁の向こうとは通信が遮断されていて、連絡する手段がない。壁の外の情報源なんて、新しく壁の内側に入ってきた罹患者達だけ。あそこで何が起きているかなんて、知りようもないわ」
ちょっと規模の大きな火事が起きた、と今の俺達には結論付けるしかない。
エリスが、俺の手を取った。
「でも、ナオトが心配するのも、ちょっとわかるな」
月明りの中で、エリスは寂しげに笑った。
「私だって、防疫壁の外が気になるもの。残してきた人もいるし」
防疫壁に阻まれて共和国の現状を把握できない。エリスだって、そんな状況が恐ろしく、不安なのだ。
俺の背中の、とっくに治りきった古傷がうずく。
クランクハイトの罹患者ではないエリスが、防疫壁のこちら側に囚われるきっかけとなったのは、俺だ。四年前、クランクハイトが発症し、戦って負傷したとき、ローレンツの医者に治療を拒否された。街の人達からは石を投げられて、俺を抱えていたエリスは、やむを得ず防疫壁のこちら側に逃げ延びた。
そして、この隔離街第一区で俺は命を拾った。
――エリスの自由と引き換えに。
「ごめん、俺……」
言いかけて、エリスに口を塞がれた。彼女の青い瞳が、俺の顔に迫ってくる。
「それは言わない約束」
エリスは俺の口から手を離した。ふふ、と笑みをこぼす。
年上らしい余裕だ。うっかりとお皿を割ってしまって、泣いて謝る子供を笑って許しているみたいに。
「じゃあ改めて、おやすみ」
軽い足取りで、エリスは俺のそばから離れていく。
「不安になったら、また私の部屋においでね。添い寝まではしてあげないけど、ヨシヨシはしてあげられる」
「どこまで馬鹿にしているんだよ」
俺が言い返したときには、ドアは閉じられていた。
翌日は、普通に朝を迎えた。窓に近づくと、見えるのは普段どおりの隔離街第一区の街並みと、防疫壁だ。
ローレンツの街のほうは、かすかに空が黒くかすんでいるように見えるが。
俺は先に台所に出た。エリスの分も含めて朝ごはんのパンと目玉焼き、それからサラダを用意する。そのうち学校に行く支度を済ませたエリスもリビングに現れて、二人で朝食をとった。
「じゃあ出ようか。大事なの忘れちゃだめだよ」
エリスが念押ししてくる。
「わかってるよ」
俺は言って、棚から愛刀を手に持った。腰に差す。
「じゃあお先ー」
エリスは外に飛び出していった。そんなに楽しみなのか、足取りが軽い。
「まるで子供だな。いつも自分が年上と威張るくせに」
俺は独り言をつぶやいた。
「何か言った?」
エリスが足を止め、振り返ってくる。
「何でもない」
「じゃあ早く。そんな玄関先でぐずぐずしないの」
せかされるまま、俺はエリスの後を追いかけて、家の外に出る。街の向こうに嫌でも目に入るのは、黒く高い防疫壁。
「あの壁、まだ気になるの?」
エリスが尋ねてくる。
「四年以上も見続けているんだ。今更そんなでもないよ」
「そう……子供達、そろそろ教室に集まってるよ」
エリスは、道を歩き続ける。俺もまた、彼女の後に続いて歩いた。
俺は街を歩くとき、すれ違う人たちの顔をあまり見ないようにしている。鋭い目つきだ。壁の外で家族や友人からも拒絶され、壁の中に押し込められた者達。移動の自由は壁の内側に制限され、壁の外からの援助や交易も無に等しいから、物資や食料品も乏しい。ここの人たちは、みんなが穏やかというわけではないのだ。
通りの建物の陰から、エリス目がけて何かが飛んでくる。俺はとっさに彼女の目の前に出て、飛んでくる何かを空中で掴み取った。
卵くらいの大きさの石だ。俺は石を地面に捨てた。
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