二人だけの仮の家族 1

 四年後。

 隔離街第一区、かつては共和国の普通の中堅都市だったが、クランクハイトの罹患者が大量に発生し、罹患を免れた住人が避難した後、防疫壁に囲まれてからそう呼ばれるようになった街だ。もうすでに日が傾いている。夜に備えて、街の家々に灯りがともる。街の外れにそびえる四方約十キロ、四十万人もの罹患者達を閉じ込める漆黒の防疫壁も、間もなく夜の闇に紛れていく。

 俺は家の窓から、その様子を眺めていた。血の繋がっていない家族の帰りを待っている。すでに夕飯の支度も済ませた。背後のテーブルには今日の夕飯が並んでいて、湯気を上げている。

 ――きっと、あいつは喜んでくれるだろう。

 俺は隔離街第一区を眺めながら、かすかに微笑んだ。食いしん坊なエリスが、特別喜ぶものを作った。おいしそうに食べる彼女の笑顔が目に浮かぶ。

 だが俺の微笑みは、ふと消えた。

 防疫壁の向こうに、煙が上がっていた。かつて暮らしていた、ローレンツの街のほうだ。

 火事でもあったのだろうか。だが、外部との情報が遮断された今、ローレンツに何が起きているのか知ることはできない。

「おーい、ナオト」

 呼ばれて、俺は我に返った。家に向かって、長い金髪の少女が走ってきているところだった。手を振り、青色の瞳をこちらに向けている。

「おう、お帰り、エリス」

 俺もまた、彼女に向かって手を振り返す。そして窓から離れた。髪や瞳の色が違う家族を迎えようと、玄関へと向かう。

 玄関のドアが開けられた。

「ただいま、ナオト」

 エリスが、勢いよく家の中に入ってきた。息を切らし、髪が少し乱れているが、青色の瞳は期待に輝いている。

「おかえり。だいぶお疲れのようだな。なんでそんなに急いで帰ってきたんだ?」

「だって今日の晩ご飯はあれでしょ? 私、お腹空いたの」

 エリスが教師を勤めている学校。そこで飼育しているニワトリが卵を大量に産んだ。なので今日の晩食は、遠慮なく彼女のお気に入りの料理が作れている。

「いいにおいがここまできてるね」

「ああ、もう用意はできている」

 俺はエリスをリビングに連れていく。

エリスはテーブルの上に並べられた料理を見て、「うわぁ」と声を漏らした。

「ナオトの特製オムライス。しかもトマトソースたっぷり……」

 オムライスを目の前にする彼女の横顔が、ご飯を前に主人のヨシを待つ子犬みたいで、その、何というか、かわいい。しっぽがあれば、ぶんぶん振りまわしていそうだ。

「ちょうど市場のトマトが安かったからな。たまには奮発ってことで。はい、座って」

「うん」

 エリスは素直にいつもの椅子に座った。これではおすわりを命じられた、子犬……

 俺はふと、テーブルに料理しか並んでいないのに気づいた。

「やべ、フォークとスプーン持ってくるの忘れた。ちょっと待ってて」

「早く早く」

 急かされながら、俺はキッチンに向かい、戸棚から二人分のフォークとスプーンを手に取った。テーブルに戻ってきて、一人分のフォークとスプーンをエリスの前に差し出す。

「はい」

「ありがと」

 エリスが何のためらいもなく手を伸ばしてくる。どこか子犬のありがちなルーティーンに思えた。フォークとスプーンを持つ俺の手に、彼女の手の平が重なる瞬間、つい、

「……オテ」

 そう言っていた。エリスが無表情になる。

「お手って何?」

 エリスは声を低くしながらも、俺の手に右手を載せたままだった。

「いや、あまりにもかわいかったからつい。一瞬、ポチって呼びたくなったし」

「もー、ナオトの祖国にありがちな犬の名前!」

 エリスは俺の手からフォークとスプーンをぶんどると、頬を膨らませる。かわいい。

「ナオトは十六歳の年下のくせに」

「すみませんでした、十七歳の年上さん。いいから早く食べろよ。俺は先に食べるぞ」

 俺はオムライスの箸にスプーンをつけ、中のチキンライスごとすくった。そのまま口に運ぶ。

「とりあえず、いただきます」

 エリスもまた、怒った顔のままオムライスをスプーンですくって口に運んだ。

エリスはその青い目を見開く。

「おいひい」

 エリスの目じりがとろんと下がる。

「食べながら喋るなよ。お行儀悪い」

「だって美味しいんだもん」

 エリスは言いながら、さらにオムライスを食べ進めていく。

「卵、とろとろー。キチンライスも味がしっかり染みているよ。ほんと美味しいよ、ナオト」

「しゃれたグルメレポート、ありがとさん」

 そうやって、俺にまた料理を作らせるつもりか?

「おかわりはないからな。食べ急ぐなよ」

 俺は忠告して、オムライスを食べ進めていく。

「ところで、今日は早かったんだね。あの研究、どうなってるの」

 エリスが尋ねてくる。

「検体が足りなくて、ちょっと進んでないかな。器具も不足しているし。だから早く帰れるんだけど」

 食事中に仕事の話をするのは気が進まないが、俺はそう言った。

「無理してないみたいで私もほっとしている」

 エリスは言って、オムライスにさらに口をつける。

「クランクハイトの研究、せめて寿命を延ばす手段、ちゃんと見つかったらいいのにね」

クランクハイト、今から十年前に突如として発生した謎の疾患。主に発症するのは、二十代以下の若年者。世間では感染症だというデマが広がっているが、発症原因すら不明だ。罹患した場合は、身体に異常な能力を得る。

 例えば、ある者は火を操り、ある者は氷の結晶を発生させる。

その代償として引き起こされるのが極度の短命化。特異な現象を引き起こす際の人体への負荷はすさまじく、罹患した場合、発症から十年程度で息絶える。現にこの疾患が発見された初期の患者はほぼ、死に絶えていた。三十代以降まで生き延びた罹患者はいない。

「私が言ったらおこがましいかもしれないけど」

「わかってるよ。俺だって早死にしたくない」

 俺は淡々と言ってのけて、オムライスを食べ続ける。エリスの表情が曇った。その青い瞳が、手元のオムライスではなくもっと下に向いている。

「エリス一人で暮らしていくのは、ちょっと心配だからな。料理がちゃんと作れるかとか」

 重苦しい空気になるのが嫌で、俺は軽口を叩いた。

「作れるよ。この間だってちゃんと目玉焼き焼けたでしょ」

「ちょっと焦げていたがな」

 クランクハイトについて話題になったとき、いつもこうやってやり過ごす。 お互いに他愛のない話で合わせて、過度に深刻な気持ちになるのを防ぐ。今の俺達に、落ち込んだり絶望したりする暇なんてないから。

 だが、何となくエリスに聞いてみたいことがあった。

「……エリスのほうは、症状らしいの、何もないんだな」

 久しぶりにこんな問いをぶつける。

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